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2025.11.25Vol.712 インスタグラムの「卒業生レポート」と絡めて

 毎週火曜にインスタグラムに掲載している「卒業生レポート」。今日で8回目になる。期間を半年と設定したはずなので計24回になる予定だ。原稿を日曜日までに送ってもらうように伝えていて、必要であれば修正をお願いしている。今日アップされるものは一発でぎりぎり合格だったものの、以下のようなメールを送っている。インスタグラムも一緒に楽しんでいただければ幸いです。なお、彼の文章は次の一文で始まっている。「今回私が受けた講義では日常生活から社会制度、さらにはデータビジネスまで、さまざまな場面に潜む「公正(フェアネス)」の問題が取り上げられていた。」

T君

OKです。説得力を増すためには1つではなく2つ以上具体例が入っていた方が良いことを頭に入れておいてください。1つだけだと、「とりあえず入れたんやろうな」と読み手に取られかねません。このフェアネスに関しては、立場によって2つの考え方をする必要があると私は考えます。

決める側のときは、完全に誰にとっても公平なものなどないことを踏まえつつも、それでもできる限りのフェアネスを求めるということです。志高塾の場合で言えば、時給を決める際、実力によって最初から差を付けることを考えないこともないのですが、一律1,500円スタートにしています。差を付ける場合、学歴を元にするのか、面接時のテストの点数を元にするのか、もしくはその両方か、などが考えられますが、それはしていません。その代わりに、良い仕事をする講師が授業により入ることを求めた場合はその人を優先する、という調整の仕方などをしています。

逆に決められたものに従う場合、そのことにつべこべ言ってもしょうがないので、たとえば、今回のT君のクループワークを例に取れば、それに関わった分だけ自分は成長している、と思うようにしています。別の言い方をすれば、それに時間を割いた分だけ、もしくはそれ以上に成長しよう、と考えて行動しています。大学生の頃に美術館に関するレポートを書くというものが出題されました。それはフェアネスとは直接関係しないのですが、同級生の多くはネットや本で調べたことをまとめていましたが、私は折角なので、

いくつかを実際に訪れました。その1つができたばかりの島根県立美術館でした。先週の木曜から土曜の三日間、私用で博多にいたので、太宰府天満宮に行きました。そのすぐそばにあった九州国立博物館を訪れたのですが、それは島根県立美術館と同じ建築家が設計していたから、ということと無関係ではありませんでした。もちろん、大学生の頃に未来で何かしらのつながりが生まれるかも、などと当然ながら考えていたわけではないですし、この段落の冒頭にあるように「そのことにつべこべ言ってもしょうがない」などとは正直今でも考えられていませんが、今回の九州国立博物館のことのように、何らかの形で自分に返ってくるということは意外と少なくないような気がしています。

こんなに長くなくても良いので、シリーズものなので、ずっと読んでいる人に、T君ってこんな人なんだな、ということがもっと伝わるようなものになることを期待しています。

「逆に決められたものに従う場合」から始まる3段落目の途中、変なところで改行をしている。ミスではない。日曜の晩にT君へのメールを作成していたのだが、その時点で今日のブログをひと文字も書いていないどころかテーマすら決められていなかった。それゆえ、「あっ、これ使お」となったのが、「私は折角なので」ぐらいのところなのだ。
 昨日、面談を行ったお父様から、「情熱的ですね」というような言葉をいただいた。そのようなことは少なくない。そのお父様と顔を合わせるのは2度目だったのが、その回数が増えてくると、「あっ、この人に情熱なんてないな」というのがちゃんとばれる。ばれるも何も、そもそも隠していない。実際、昨日も「情熱なんて無いです」と返答した。暑苦しい顔をしているので、心までそうなってしまうと、生徒も親御様もたまったものではない。ただ、最低限の責任感は持っている。これまで何度も書いてはずだが、この文章にしても、読むのに掛かるのがたとえ5分であっても、読んでくださった方が何も得られないようなものをまき散らしてはいけない、ということは肝に銘じている。もちろん、技量が足りなかったり、時に準備不足で合ったりするせいで結果的に中身のないものになってしまうことが無いわけではない。相手が子供であろうが大人であろうが、それがプライベートであろうが仕事であろうが、人との基本的な向き合い方に大差はない。ただ、その対象が未来のある若者となると、プラスαの責任感は乗ってくる。それはプレッシャーではなくやりがいである。
 それ以外には意味のないことをするのが嫌というのもあるかもしれない。だからと言って、何かをするときに意味があるかないかを考慮しているわけではない。楽しいかどうかを基準にしていることの方が断然多い。T君のレポートに関しても、夏に4か月ぶりぐらいに会って、お母様と3人でお酒を飲みながらランチをしているときにとっさに思い付いたアイデアである。きっかけはそのようなものであって、週に1回レポートを書いているだけでは意味が無いから、T君が少しでも成長できるように先のメールを送ったり、似たようなセミナーばかり受けているので、「次回はかなり毛色が違うものを見ようとしてください」というようなラインをしたりしているのだ。
 そう言えば、太宰府天満宮は124年ぶりに大改修をしているとのことで、仮殿になっていたのだが、デザインが優れていたので嬉しそうに写真をいっぱい撮った。それを昨日高校生に見せながら、調べてみるとあの大屋根リングの藤本壮介の設計だったのだ。絵にしても建物にしても大抵は知識を入れてから先入観を持って見るのだが、今回は純粋に「仮殿やのにえらいかっこ良いやん」が先だったので、なんだか随分と気持ちが良い。もちろん、受験生のことはお祈りしておいた。「合格しますように」は嫌なので、「皆が無事に受験の日を迎えられますように」と。合格は自分で勝ち取るものであり、生徒たちがより良い形でそれを手にできるようにするのが我々の役割である。そのとき必要なのは情熱ではなく、彼らの人生に関われる者が当然持っておくべき責任感である。

2025.11.18Vol.711 最近のニュースに触れて考えたあれやこれや

 まずはあれから。クマのニュースが世間をにぎわせている。そして考えた。社会学と似てるな、と。社会学について、Geminiの回答は以下の通りであった。「社会学とは、社会の仕組み、人間関係、集団のあり方などを研究する学問です。社会現象を統計やデータで分析し、個人と社会の関わり方を解明します。研究対象は家族や地域社会から国家、さらにはグローバルな問題まで幅広く、様々なアプローチで社会を多角的に探求します。」。社会学というのは、実際に起こっている現象を元に、「こういうことが原因として考えられる」、「この先こういうことが起こるかもしれない」といったように考えるので推測の領域が科学的な学問に比べて広いのだ。最近、専門家が出てきてクマについて解説するのを聞くたびに、去年まで語られていたことは何だったのか、となる。生き物なので明らかになっていないことがあるのは理解できるが、それにしても、今年になって一気に新しい話が出てきている気がする。「肉食のクマが増えている」、「クマは一度覚えた味に執着する傾向がある」、「クマの記憶力はものすごく良い」などなど。今年、クマが大量に出没するようになり、それに理由を後付けしている気がしてならない。その中で個人的になるほど、となったのは、ぶななどのドングリの実が豊作のときは子供をたくさん産む、凶作のときは餌を求めて人里に降りてくるという話だ。しかも、縄張り争いに負けた親子がやって来る。と言うことは、人間が駆除したとしても、山奥にいる強いクマの遺伝子は引き継がれていくのだ。去年は豊作で個体数が増えたらしいのだが、もし3年ぐらい豊作が続いたら、人間は油断し、久しぶりに訪れた凶作の年に大量のクマがやって来て大変な騒ぎになるのだろうか。そして、そのときにまた専門家がメディアに多数出演し、新たな説が生まれるのだろうか。
 次にこれ。「殺傷能力ある武器、輸出拡大へ 自維、年内にも与党協議会を設置」というタイトルの朝日新聞の記事の冒頭の段落をそのまま紹介する。「日本から輸出できる武器を『救難・輸送・警戒・監視・掃海』の五つの目的に限定する『5類型』の撤廃に向け、自民、日本維新の会の両党は年内にも与党協議会を設置し、議論を本格化させる方向で検討に入った。『5類型』撤廃が実現すれば、殺傷能力のある武器の輸出が大幅に拡大することになる。政府・与党は来年中の実現を目指す意向だ。」これに対しては、それなりに批判が起こることは容易に想像できる。そして考えた。開塾当初の中学受験前と似てるな、と。当時、年明けに朝から教室を開けることを私はよしとしなかった。学校なんて休まなくても普通に合格して欲しかったからだ。その期間に休むことを助長したくなかったのだ。結果、どうなったか。我々が教室を開けなければ、生徒たちは進学塾に行って自習をするだけの話だったのだ。5年目ぐらいからだろうか、冬休みから引き続き3学期が始まっても朝から授業を行うようになった。先のニュースに関して、いろいろな専門家の話を聞いたわけではないのだが、日本が輸出しなければ、代わりに他国から粗悪品が入る可能性が高いらしいのだ。9月にベトナムのホーチミンで戦争証跡博物館を訪れた際に、たくさんの目を背けたくなるような写真を前にしておそらく人生で初めて考えたことがある。それは、戦争が良くないのはもちろんのことなのだが、その被害が戦後も続くことは避けなければいけない、ということ。枯葉剤のことを言っているのだ。3代後ぐらいまで障害が出る可能性があるということが説明されていた気がする。どのような武器が輸出の対象になっているのかは分かっていないのだが、もし、それが爆弾であった場合、不発弾が多ければ多いほど、戦争が終わった後も生活は脅かされ続けることになる。
 クマを駆除することをかわいそうだと反対する人がいる。防衛予算を増やすことを、経済的な理由からではなく平和的な視点から反対する人がいる。人それぞれ考えが違うのは良い。自らの立場を決める前にやるべきことは、それに関して具体的にイメージするということである。家の前に実際にクマが現れてもそのようなことが言えるのだろうか。南沙諸島に人工島を作り、軍事施設を建設している中国は本当に話し合いができる国なのだろうか。
 先日、ゴルフをしているとバンカーの中をシカがのんびりと歩いていた。シカが出ることはそこまで珍しいことではないのだが、ほのぼのとした光景にひかれて思わず写真を撮った。その近くの畑作農家の人も同じように感じるのだろうか。意見作文に取り組んでいる生徒たちに対してやるべきことは教えている我々の考えに近づくように誘導することではない。そのテーマに関して、少しでも多くの材料を与えることである。単なる感情論ではなく、それらに基づいて生徒が論理的に出した意見であれば、それがたとえ我々の対極にあったとしても大いに評価すべきことである。

2025.11.11Vol.710 文脈についての考察(かんけつへん)

 「文脈」をテーマにするにあたり、30歳前後までその言葉の本当の意味を知らなかった理由、原因について考えてみた。正確には、先週の時点で考え終わっていた。一つには、国語という教科を通して、私に響くようにそのことの大切さを教えてくれる先生がいなかったから。これに関しては、人のせいにしたいのではなく、教える側になった現在、そのことの重要性をきちんと伝えてあげないといけない、という気持ちが強い。もう一つには、私自身が複数の意味に解釈できるような、誤解を生むような言葉遣いを幼少期からしてこなかったから。発信側のその姿勢は、基本的には今でも変わらない。ただ、昔のように誰彼構わず意見をストレートにぶつけるわけではなく、それを理解してもらえる人に対象を限定するようになったこと、昔同様にオブラートに包みはしないが、必要であればその言葉をきちんと受け取ってもらえるように、前置きの説明をするようになったことなどは昔より成長したところであろう。
 前回、「カラーバス効果」について述べた。その言葉を知らなかったとしても、「『文脈』について考えていたから、それに関連する事柄が目に入ってきた」とはなったであろう。では、ある事象に対して、より適した言葉を充てられることでどのような効果があるのであろうか。1つ目は、解像度がより鮮明になるということである。体験授業などで語彙の重要性について語るとき、私はエスキモーを例として挙げることが少なくない。「エスキモーは雪とともに暮らしているから、20以上もの表現があると言われている」というようなことをこれまで話してきたのだが、今、調べると「50」、「200」という数字が出て来た。「雪」とひとくくりにして表現するのとは受け止め方に差が出ることは感覚的に分かっていただけるはずである。もう1つ、怒りの感情を例に取る。何か嫌なことがあったとき、なんでもかんでも「むかつく」と表現すると、本当はそれほどまでではないときであれば、いらだちが増幅されてしまう。「心に波風が立つ」を知っていれば、「これぐらいのことはあるわな」と少し冷静になれるかもしれない。もっと些細なことであれば、「心にさざ波が立つ」と受け止めることで、「こんなことぐらいで心を乱されててどうすんねん」と前向きになれるかもしれない。2つ目は、冒頭で述べた「カラーバス効果」のパターンである。「あっ、これがあのカラーバス効果か」と単純に満足度が増す。それによって、その事柄がより印象に残る形で記憶される。
 さて、文脈。なぜそれをオンライン英会話で意識したのか。ネイティブキャンプでは、「デイリーニュース」、「旅行英会話」、「ビジネス英会話」などに加え、英検やTOEIC対策のものなどいろいろな教材が用意されている。もちろん、フリートークというのもできる。その中で、私は文法の初級から始めた。その理由は、中学校で習ったような簡単なことでさえ実際の会話の中で全然使えない、ということをこれまで幾度となく経験してきたからだ。最初の何回かは進め方が分からず、頓珍漢なリアクションをそれなりにしていた。たとえば、教材の中で交わされている2人の会話について質問されているのに自分に関することを答えてしまったり、音読するように指示されているのに黙読したり、といった感じであった。慣れてくると、チャプターごとで単語や文は違うものの流れ自体は分かってくる。すると、安心感と共に油断が生まれる。これまでのところ一度として同じ国籍の先生を選んだことがないので、当然のことながら毎回先生は違う。マニュアルがあるので基本的な進め方は同じなのだが、細かい部分は人によって異なる。通常はテキスト内で用意されている質問をされるので、私はそれに対する答えを頭の中で準備するのだが、一度、その日勉強していることと関係するもののそこにはない、想定外のことを尋ねられて、「もう一度言ってください」となった。
 前回からここまで随分と前置きが長くなったが、その不意を突かれた瞬間「文脈からずれた」ということを感じた。正確には、「文脈」ではく”context”の方をイメージしていたのだが。なぜ英語の方だったのか。正確には「text(教材)に載ってないことを聞かれたせいで答えられなかった」となったからだ。否定の”un”や繰り返しの”re”などの接頭辞はさすがに知識として頭に入っていたが、その日のレッスンが終わった後に、もしかして、と思って調べてみて、”con”には共有するという意味があることを初めて知った。先週、「『コンテクストを共有する』という言葉を私の耳が、頭が捉えた」と書いたが、それは違和感を覚えたからだ。「コンテクスト」が「テキストを共有する」という意味だと私自身は捉えているので、重複表現に感じられたのだ。
 先週の月曜から始まった面談も、西北は後4, 5人の親御様を残すのみである。長年通う生徒は、「先生、お母さんとまたどうせ勉強と関係のないことばっか話すんやろ」というようなことを言ってくるのだが、これまでそれに対して「半年に1回のこのタイミングで、ちょうど大きな悩み事を抱えているわけではないやろ。世間話をすることで、俺がどういう考え方をしているかを知ってもらうことが大事やねん。信頼できそうかな、ってなったら、何か問題が起きたときに相談しよう、ってなるかもしれへんやん」と返して来た。面談するに当たり、今回は次のように考えていた。「面談というのは、お互いの考え(テキスト)のすり合わせを行って、共有している部分(context)を明確にするための場なのだ」と。それによって話す内容に変化が生まれたわけではない。ただ、適切な言葉を見つけられたことで、少しだけ、満足感や充実感が増したと私自身は思っている。その思いも親御様と共有できていることを願っている。

2025.11.04Vol.709 文脈についての考察(ぜんぺん)

 文脈という言葉を理解したのは、志高塾を始める前後、つまり30歳前後であったような気がする。辞書的な意味は最低限知っていた気がするが、そのレベルなので会話で用いることは無かった、できなかったはずである。それはまるで、ライティング試験において選択肢の一つとして出てこれば、答えに当てはまるかどうかの判断ぐらいはしかできない英単語のようなものである。ここ最近、さらにその理解が深まった気がするのでテーマとして取り扱うことにした。きっかけはオンライン英会話である。
 そんな私が、今では読解問題に取り組む小学生に対して「前後の文脈を踏まえて答えなアカンで」と伝えるようになった。もちろん、それだけでは乱暴すぎるので、「文脈というのは流れのことやけど」というような補足をした上でのことである。
 少し脱線する。特に入りたての講師は、子供たちが理解できない言葉を使ってしまいがちである。日頃、基本的には大人としか会話をしないからだ。そのことに対して、「もっと分かりやすい言葉で説明してあげて」という指摘は絶対にしない。そうではなく、「もし難しい言葉が口からついて出たら、その言葉の意味が分かるかを確認してください」とお願いしている。言葉を覚えたての子に対しても「ぶーぶ」という必要はなく、初めから「くるま」と教えてあげれば良いのと同じである。言葉の幅を広げるために、言葉の感覚を磨くためにどうすれば良いのかを考えてあげないといけないのだ。大事なことは、自覚的に言葉の選択をすることだ。それは何も教えるときに限ったことではない。コミュニケーションにおいては常にそれが求められるのだが、それが分かっていない人は、誰に対しても同じような言葉を使う。少しややこしい表現を用いれば、無自覚に自覚的に言葉を選べるようになることが一つの理想である。「無自覚に自覚的」とはまるで考えてないかのように瞬間的にできることを指している。私は、子供たちに教えるという経験を重ねて来たからそれができるようになってきただけの話であり、何も威張るようなことではないのだが、ただ一つ言えるのは自覚的に言葉を選ぶことを繰り返さないことにはそのようにはならないということである。このことに限らず、生徒にヒントを出すときも、その子がどこまでなら理解できるかを踏まえて、そのわずかに上、つまり少しだけ難しいものをぶつけるようにしている。考える余地を残すためである。それゆえ、生徒から「質問の意味が分かりません」と言われることが少なくない。「質問の仕方が下手なんじゃなくて、俺はあえてぼかしてるねん。だから考えろ」と返す。実際、たとえば、中学受験生の6年生何人かに同じ問いをすると、何人かはそのようになるものの、ある生徒は答えらえるということが往々にしてある。そういうときには、「ほらな、分かる人がいるってことは質問が理解できてないことが問題やねん」と畳みかけるようにしている。それは何も私が正しいことを知らしめたいわけではない。私の質問に対して頭を止めるな、ということを理解して欲しいのだ。その対象は何も私だけではない。もちろん、何が言いたいのかが分からない人は世の中にはたくさんいる。一方で、自分の理解力が足りないことが原因のときもある。それにも関わらず思考停止に陥っていては折角の考えるチャンスを失ってしまう。きちんと頭を動かし続けていたら、すべての原因を相手側に押し付けるのではなく、相手と自分のどちら側にあるかの判別も付くようになる。「少し脱線する」がいつも通り少しではなかったのだが、結果的には文脈と関係のある話をしている。私の質問に答えられる子は私の文脈を理解した上で答えをはじいているのだ。「松蔭先生が質問をするときはあえて分かりづらく聞いてくる」、「聞いてくることは大体こういうようなパターンが多い」、「じゃあ、今回であればこれが答えなんじゃないか」といったようなプロセスを踏んでいるはずなのだ。
 この1週間ほど文脈について考えていたこともあり、直近で網に引っかかったものが二つあった。一つは、「小林鷹之政調会長、一部メディアの記事”文脈“を即否定「そうした文脈でも話しておりません」という見出しのニュースである。こういうときによく使われる「切り取り」という言葉は、正確には「文脈からの切り取り」となる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ce6a2c413995acbe5892b23ef2e5a8a07ab5124
記事は文字化されているのでまだ気付きやすいのだが、もう一つはポッドキャストにおいてのものであった。昨日、仕事からの帰り道、最寄り駅から自転車をこぎながら「COTEN RADIO」のリンカン編の第2話を聴いていたら、大して集中していないにも関わらず「コンテクストを共有する」という言葉を私の耳が、頭が捉えた。ノイズキャンセラ機能が付いていないイヤホンを片耳に着けていただけなのに、である。カラーバス効果のなせる業である。ここでも何度か紹介しているはずだがおさらいを。
「カラーバス効果とは、特定の物事を意識し始めると、それに関連する情報が自然と目につきやすくなる心理現象です。例えば、赤い車を探そうと決めた途端に、街中で赤い車を多く見かけるようになるような現象です。これは脳が、意識した情報に関連するものだけを優先的に拾う性質があるためで、色に限らず言葉やイメージ、物事にも当てはまります。」
今回のようにカラーバス効果が発揮されたとき、私は喜びを覚える。自分がそのことについてそれなりに頭を働かせていたことを実感するからだ。余談になるが、以前は「リンカーン」と表記されていたものが、最近では英語での発音に近い「リンカン」が増えているとのこと。きっとそのうちに完全に置き換わるのだろう。
 文章を締める時間がやって来てしまった。英会話を通してなぜ文脈について考えるようになったのか、私が30歳になるまでその言葉を本当の意味で知らなかった理由は何のか、それを知ったことで私がどのように変わったのか、などについて語る予定がそこまで行けず仕舞いであった。今回は、どちらの「ぜんぺん」となるのであろうか。

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