
2025.11.04Vol.709 文脈についての考察(ぜんぺん)
 文脈という言葉を理解したのは、志高塾を始める前後、つまり30歳前後であったような気がする。辞書的な意味は最低限知っていた気がするが、そのレベルなので会話で用いることは無かった、できなかったはずである。それはまるで、ライティング試験において選択肢の一つとして出てこれば、答えに当てはまるかどうかの判断ぐらいはしかできない英単語のようなものである。ここ最近、さらにその理解が深まった気がするのでテーマとして取り扱うことにした。きっかけはオンライン英会話である。
 そんな私が、今では読解問題に取り組む小学生に対して「前後の文脈を踏まえて答えなアカンで」と伝えるようになった。もちろん、それだけでは乱暴すぎるので、「文脈というのは流れのことやけど」というような補足をした上でのことである。
 少し脱線する。特に入りたての講師は、子供たちが理解できない言葉を使ってしまいがちである。日頃、基本的には大人としか会話をしないからだ。そのことに対して、「もっと分かりやすい言葉で説明してあげて」という指摘は絶対にしない。そうではなく、「もし難しい言葉が口からついて出たら、その言葉の意味が分かるかを確認してください」とお願いしている。言葉を覚えたての子に対しても「ぶーぶ」という必要はなく、初めから「くるま」と教えてあげれば良いのと同じである。言葉の幅を広げるために、言葉の感覚を磨くためにどうすれば良いのかを考えてあげないといけないのだ。大事なことは、自覚的に言葉の選択をすることだ。それは何も教えるときに限ったことではない。コミュニケーションにおいては常にそれが求められるのだが、それが分かっていない人は、誰に対しても同じような言葉を使う。少しややこしい表現を用いれば、無自覚に自覚的に言葉を選べるようになることが一つの理想である。「無自覚に自覚的」とはまるで考えてないかのように瞬間的にできることを指している。私は、子供たちに教えるという経験を重ねて来たからそれができるようになってきただけの話であり、何も威張るようなことではないのだが、ただ一つ言えるのは自覚的に言葉を選ぶことを繰り返さないことにはそのようにはならないということである。このことに限らず、生徒にヒントを出すときも、その子がどこまでなら理解できるかを踏まえて、そのわずかに上、つまり少しだけ難しいものをぶつけるようにしている。考える余地を残すためである。それゆえ、生徒から「質問の意味が分かりません」と言われることが少なくない。「質問の仕方が下手なんじゃなくて、俺はあえてぼかしてるねん。だから考えろ」と返す。実際、たとえば、中学受験生の6年生何人かに同じ問いをすると、何人かはそのようになるものの、ある生徒は答えらえるということが往々にしてある。そういうときには、「ほらな、分かる人がいるってことは質問が理解できてないことが問題やねん」と畳みかけるようにしている。それは何も私が正しいことを知らしめたいわけではない。私の質問に対して頭を止めるな、ということを理解して欲しいのだ。その対象は何も私だけではない。もちろん、何が言いたいのかが分からない人は世の中にはたくさんいる。一方で、自分の理解力が足りないことが原因のときもある。それにも関わらず思考停止に陥っていては折角の考えるチャンスを失ってしまう。きちんと頭を動かし続けていたら、すべての原因を相手側に押し付けるのではなく、相手と自分のどちら側にあるかの判別も付くようになる。「少し脱線する」がいつも通り少しではなかったのだが、結果的には文脈と関係のある話をしている。私の質問に答えられる子は私の文脈を理解した上で答えをはじいているのだ。「松蔭先生が質問をするときはあえて分かりづらく聞いてくる」、「聞いてくることは大体こういうようなパターンが多い」、「じゃあ、今回であればこれが答えなんじゃないか」といったようなプロセスを踏んでいるはずなのだ。
 この1週間ほど文脈について考えていたこともあり、直近で網に引っかかったものが二つあった。一つは、「小林鷹之政調会長、一部メディアの記事”文脈“を即否定「そうした文脈でも話しておりません」という見出しのニュースである。こういうときによく使われる「切り取り」という言葉は、正確には「文脈からの切り取り」となる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ce6a2c413995acbe5892b23ef2e5a8a07ab5124
記事は文字化されているのでまだ気付きやすいのだが、もう一つはポッドキャストにおいてのものであった。昨日、仕事からの帰り道、最寄り駅から自転車をこぎながら「COTEN RADIO」のリンカン編の第2話を聴いていたら、大して集中していないにも関わらず「コンテクストを共有する」という言葉を私の耳が、頭が捉えた。ノイズキャンセラ機能が付いていないイヤホンを片耳に着けていただけなのに、である。カラーバス効果のなせる業である。ここでも何度か紹介しているはずだがおさらいを。
「カラーバス効果とは、特定の物事を意識し始めると、それに関連する情報が自然と目につきやすくなる心理現象です。例えば、赤い車を探そうと決めた途端に、街中で赤い車を多く見かけるようになるような現象です。これは脳が、意識した情報に関連するものだけを優先的に拾う性質があるためで、色に限らず言葉やイメージ、物事にも当てはまります。」
今回のようにカラーバス効果が発揮されたとき、私は喜びを覚える。自分がそのことについてそれなりに頭を働かせていたことを実感するからだ。余談になるが、以前は「リンカーン」と表記されていたものが、最近では英語での発音に近い「リンカン」が増えているとのこと。きっとそのうちに完全に置き換わるのだろう。
 文章を締める時間がやって来てしまった。英会話を通してなぜ文脈について考えるようになったのか、私が30歳になるまでその言葉を本当の意味で知らなかった理由は何のか、それを知ったことで私がどのように変わったのか、などについて語る予定がそこまで行けず仕舞いであった。今回は、どちらの「ぜんぺん」となるのであろうか。








