
2025.07.29Vol.696 3年越しの謝罪
以下、浪人1年目の元生徒から先週の水曜に届いた謝罪のラインを本人の許可を取った上で、ほぼそのまま掲載する。名前をイニシャルにしたのと、行の間のスペースを取り除いた以外は手を加えていない。
松蔭先生
ご無沙汰しております。T.S.です。
本日は先生に、どうしてもお伝えしたいことがあり、ご連絡させていただきました。
中3の頃、ずっとお世話になっていた松蔭先生との間で確執が生じてしまい、疎遠になってしまったことが高2、高3あたりから心のどこかで引っかかっておりました。当時の僕は中学3年生で、精神的にも未熟で、大人に素直に屈することに強い抵抗を持っていました。その結果、先生に対して明らかに失礼な態度を取ってしまい、その後に諌められても自分の主張に固執してすぐに謝ることができず本当に申し訳ありませんでした。今から考えると、僕のとっていた態度は教わるものの姿勢として明白に不適切であり、大変申し訳なく思っています。
謝らなければならないと分かっていながらも、なかなか言い出せず、今日まで時間が空いてしまったことを深くお詫びいたします。
そして今回、慶應義塾大学SFCの受験に挑戦するにあたり、小論文の面でぜひ先生のお力をお借りしたいと思い、意を決してご連絡差し上げました。もしお時間をいただけるようでしたら、改めて直接お会いして、きちんとお詫びとお願いをお伝えさせていただきたいと考えております。
お忙しいところ大変恐縮ですが、もし少しでもお時間をいただけるようでしたら、ご都合をお知らせいただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
ちなみに、事が起こったのは、正確には中3ではなく高1の頃ことなので、約3年ぶりに私に連絡をして来たことになる。彼との付き合いは小6の頃からなので、そのときまでに4年の月日を経ていた。おそらく、生徒の中で一番私にラインをして来ていたのは彼だし、それも含めて一番私と話していたのは彼である。それにも関わらず、ある日の授業で急に私に反抗的な態度を取ったことで、その関係は突如終わりを迎えた。その具体的な内容に関してはここでは割愛する。
そのとき、少々頭に血は上っていたものの冷静さを失っていたわけではない。お母様を通して、その後数日間やり取りを繰り返した。私が伝えたのは、「自らの非を認めた上できちんと謝罪をしろ」ということであった。本人が書いているように、彼の年齢や性格を考えると、それがそんなに簡単なことではないことはもちろん分かっていた。結果的に、彼の態度は軟化せずに、先週の水曜までの約3年間、没交渉であった。
たとえば、このブログ。読んでくださった誰かの役に立ち、しかもそれが、私が書いたものであるということが明確に認識されれば、それほど嬉しいことはない。しかし、私が書いたものと認識してもらえるかどうかは本来どうでもいい話であって、そんなものは私の自己満足に過ぎない。数か月後、数年後に、私の文章が誰かの助けになれば、その誰かの中で「あれは、いつどこで読んだんもんやったっけ?」となってもまったく問題が無いのだ。一方で、読んだ人が、私の文章にものすごく引っかかりを覚えて、「あいつのあの考え方はおかしい」となっても、それをきっかけにしてその人の思考が進んだのであれば、それにもやっぱり価値はある。好きの反対が無関心と言われるように、読者が「ふーん」となるだけで終わるのが一番問題なのだ。
話を戻す。直接関わりながら影響を与え続けられるに越したことはなかったのだが、彼との関係が元に戻らないことを前提として、当時私が願っていたことが2つある。1つ目は、人間関係があのような終わり方を迎えたことを今後に生かしてほしいということ。そのためにも、彼の中で私の存在が大きければ良いな、ということ。それが2つ目。どうでも良い存在であれば、そこから学ぶことが少なくなってしまうからだ。「今後に生かす」というのは、言葉を発する前に一呼吸置くことや、それでも失言をしてしまったのであれば素直に謝るということである。
ちなみに、彼のラインに対する私の返事の一文目は「ようやく謝れたな」であり、昨日、教室の玄関で出迎えた時の第一声は「そこでまず土下座しとくか?」というものであった。その他、慶応のSFCに関しては、過去志高塾から受験した生徒は2人しかいないのだが2人とも合格しているため、合格率を下げるなよ、ということは伝えておいた。また、彼は将来映画製作に関わる仕事をしたいとのことだったので、「俺に迷惑を掛けた分、当然のことながら志高塾の動画を永久に無料で撮ってくれるんやんな?」ということは念のために確認しておいた。
謝罪文を読みながら、彼がまだ中1か中2だった頃、お母様が「志高塾に通わせている成果が一番感じられるのは、学校で書かされる反省文がめっちゃ上手なことなんですよ」と話されていたことを思い出していた。
2025.07.22Vol.695 大人の夏休み日記
朝食のビュッフェに、手作りのオムレツがあると無性に嬉しくなる。どんな具材があるかを確かめることもなく、「全部入れてください」とお願いする。それ以外に私を喜ばせてくれるのは、シャンパンなどの酒類を見つけたときである。これは日本のホテルではほとんど見た記憶が無い。
3年ぐらい前に、ソロキャンプにはまっていた幼馴染とキャンプをしたときに、彼が朝、ホットサンドを作ってくれた。冬に自然の中で焚火をしながら食べた、という状況がさらにおいしさを感じさせてくれたというのもがあるのだろうが、「これは良い」となり、早速ホットサンドメーカーを手に入れて、その後1年ぐらいは毎朝それを使っていた。それ以前の数年間は、ガーデンズで翌朝の菓子パンを毎日のように買っていた。その2つから言えることは、私は朝食を適当には済ませないこと、一度始めると一定期間継続するということである。現在のマイブームはオムレツづくりである。そう言えば、最近「マイブーム」という言葉をあまり聞かなくなったような気がする。
まずは、ある程度小さく切った鶏肉をオリーブオイルで炒めて取り出してフライパンをキッチンペーパーで拭いた後に、今度は刻んだ玉ねぎとプチトマト2, 3個を4等分してバターで炒めた後に一度引き上げる。玉ねぎの代わりにマッシュルームを入れることもある。最後に、少しだけ油を引き、解きほぐした卵を広げ、青ネギとチーズを載せ、そこに一度火を入れた具材を戻す。このようにごくまれに料理に関して言及することがあるのだが、その度に、村上春樹であれば、たとえ私のものでもおしゃれに表現できるんだろうな、となる。少なくない時間、キッチンの一定のスペースを私が占拠することは、朝ごはんの用意や子供たちの弁当作りで忙しい妻にとってはきっと煩わしいのだろう。その気がないこともあり一向に手際が良くなる気配はないのだが、下ごしらえにおいては少しぐらい工夫するようになっている。毎朝鶏肉が冷蔵庫に入っているわけではないので予め1回分ごとに分けて10日間分ぐらい冷凍保存したり、玉ねぎを毎日その日の分だけ切るのは大変なので3日分ぐらいはまとめて刻むようにしていたり、といった感じである。こんなことを「工夫」と表現してしまうぐらいなので、私のレベルがいかに低いかがお分かりいただけるだろう。
2か月ほど前のことになるだろうか。元生徒から算数の講師になった大学1回生の男の子がいるのだが、初回の研修の際に、「俺がホワイトボードを使って説明を始めたら、生徒を教えながら聞くようにしてな」と伝えると、間髪入れずに「そんなの無理ですっ!」と返ってきた。そこにいた生徒たちは笑いながらそのやり取りを聞いていた。「そんなにきっぱりと否定するか」と思いつつも、私は、彼のそういう率直な物言いができるところを評価しているので、「それならしょうがないか」と納得はしたのだが、一方で、「それはそんなに難しいことなのか?」という疑問が湧いて来た。私は、ある生徒にホワイドボードに書いて説明しながら、私の背中越しに交わされている講師と生徒とのやり取りを聞いているので、時に「そんなしょうもないこと質問するな。もっと考えろ」、「それ、この前俺が説明したやつやん」などと前を向いたまま突っ込むので、言われた生徒が自分のことだと認識できないことがある。それについて考えてみると、小学生の時点でその萌芽があった。まだ3年生ぐらいのとき、くもんで顔を上げてプリントを見ずに数字を書いていて、「よくそんなことができるな」と不思議がられたことがある。よくて「器用だね」と言われる程度の価値しかない、「よそ見しながら書ける」という芸を身に付けたかったわけではなく、周りで行われている会話に入って行きたくてそうしていただけのことなのだろう。楽しい話が周りでされているのに、計算なんかに集中している場合ではなかったのだ。目隠しをされても5mぐらいであれば真っ直ぐ歩くことはそれほど難しいことではないが100mとなったら話は変わってくる。私は小さい頃から、とにかくいろいろなやり取りに口を挟んでいるうちに10m, 20mと他の人より距離を伸ばして行っただけではなく、軽く走れるぐらいまでになったのであろう。
そんな私なのだが、不思議なことに朝ごはんの用意をしているときは、ながら、ではなかったのだ。1回目と2回目と動画撮影の間にそのことに気づき、それからはユーチューブでプレゼンの仕方に関するものを結構見た。そのかいあってか、2回目はそれなりのものにすることができた。編集されたものが上がってきて、今それをチェックしている最中である。自分が話しているところなんて見たくはないが、今後のためにも目を背けてはいられない。次回は、そのことに関しては詳しく書く予定でいる。
2025.07.15Vol.694 三男のこと(後編)
ある程度定期的にこのブログを訪れてくれている人を10人もきちんと挙げられない気がする。以前に読んでくれていた人はそれなりに頭に入ってはいるが、継続しているかどうかは定かではないからだ。今、最も面白いと思う読者の一人は高2の長男の同級生である。半年ほど前に、我が家に一度泊まりに来たことがあり、そのときにデートプランを含め恋愛の相談に乗っていたら、私のことを気に入ってくれ、それがきっかけになったようなのだ。長男の話を聞く限り、かなり前のものまで遡っているようである。彼とはまた話をしたいのだが、教育熱心なお母さんから、大学受験が終わるまで外出禁止令が出てしまったので少なくとも一年半はお預けである。エアタグを持たされているため身動きが取れないのだ。
ブログの存在すら知らなかった三男が、ひょんなことから「Vol.693三男のこと(前編)」を読み、「パパ、『つづく』としたんだから、次もちゃんと書いてよ」と訴えて来た。生徒や息子たちが大人になって、壁にぶつかったときや子育てでうまく行かないことがあったときに、「ああそう言えば」と、頭の隅の方にあったこのブログの存在を思い出し、私の文章が彼らが再び前に進むきっかけになれば、毎週それなりに苦しみながら書き続けていることも報われるというものである。
前回「何をやっても持っている力を全然発揮できなかった三男が、公立中学の1学期の期末テストで悪くない成績を取ってきたのだ」という一文で締めた。もったいぶってもしょうがないので先に結果から。5教科の平均点が89点で、副教科を含めると84.5点であった。今回一番頑張ったのは、テスト勉強にとことん付き合った妻である。そのことは三男にも伝えた。そして、「その次にすごいのはお父さんちゃう?」と続けた。なぜなら、私が目標をそれぞれ88点と85点に設定していたからだ。実に絶妙である。それをクリアしたらご褒美があるわけでも、届かなかったら罰があるわけでもない。元々はそれぞれ90点と87点にしようとしていたのだが、中間テストの結果を踏まえるとさすがにそれは無理だと判断し、2点ずつ下げた。公立の中学校ということもあり順位は出ないのだが、10点刻みの分布表は配られる。90点以上が30人いて我が子が89点であれば31位。80~89点の40人いて85点であればその中の20位といった感じで見ていくと、平均して各教科8分の1ぐらいには入っていた。全教科にするとおそらく10分の1、トップ1割ぐらいのところにはいるのであろう。不思議なことに全教科の分布表はなかったためそこは推測の域を出ない。念のために断っておくと、公立中学で1割に入ること自体に私が特段の価値を見出しているわけではない。すべてのテストが返却されてから、「数学で後何点取れていればクリアできたのに」などと一人振り返っているのを見ながら、改めて目標を持つことの大事さを実感していた。それなしでは、それなりに頑張ることはできても、頑張りきることはできないし、中途半端な取り組みでは大した結果なんて期待できるはずもなく、「悪くなかったな」程度の感想を抱いて、次につながるものを何も得られずに終わるのが関の山である。上で述べたように、初めて副教科が入るということもあり、妻には予め「勉強のやり方が分かってへんからかなり付きっ切りでやってあげて」と私の方からお願いしていたのだが、2学期の中間、期末と少しずつ手を放して行き、2年からは完全に独り立ちさせる。
過程と結果のどちらが大事か、ということはしばしば議論の対象になる。「過程が大事」と私が言うと、「結果が出なくても良い」と勘違いする人がいるがそうではない。よほど大それた目標を持たない限り、過程さえきちんとしていれば結果なんて自ずと付いてくるからだ。そのきちんとした過程と言うのは、先で役立つ実力を磨いてくれる。力もないのに小手先でどうにかしようとするからおかしなことになるのだ。周りのことはどうでも良いので批判することが目的ではないが、そこらへんの塾が定期テストの過去問を生徒たちにやらせているのは私からするとまったく理解できない。我が家で言えば、二学年上の二男が同じ公立中学に通っているわけであるが、仮に担当の先生が同じであったとしてもそれを三男にやらせることなんて考えもしない。授業の中で先生の話を聞いていれば、どのような問題が出るかは予想ができる。年度1回目のテストではそこに少々のずれがあったとしても悪くない点数は取れるし、2回目からは微調整をすれば良いだけの話である。ちなみに、三男が所属しているサッカーチームのコーチも正攻法を追い求める。試合終盤、勝っているときに時間稼ぎをすることをすごく嫌うのだ。それにも2種類あって、ファウルをされた後、すぐにリスタートをしてセーフティなところでパス回しをするというのが1つ。もう1つが、痛いふりをして中々立ち上がらない、というもの。後者に関しては、もっと上のレベルに行ったときに身に付ければ良いのだ。ワールドカップで勝ち抜くにはそういうことは不可欠なのだが、中学生や高校生の地元の大会でそんなことをしていてどうするんだ、という話である。パスがうまく回せずに点を取られたのであれが、技術や体力、チームの連携などどこかに問題を抱えているのだ。
締めに入る。前回の「三男のあまりの体たらくぶりに子育ての基本的な方針を間違えていたのだろうか、と自らの信念が揺らぎかけたぐらいである」にあった「体たらく」の意味を三男は分かっていなかった。この夏休み、サッカーチームの練習は夕方からなので、毎朝西北に連れて行き、午前中は教室で勉強をするように伝えている。長男や二男と違って中学受験をしていないため、そのようなことも経験していないからだ。スマホは家において行かせるので、少なくとも帰りの電車では本を読むことになる。1つ迷っているのは、私自身の通勤手段である。三男が言葉を含めもっといろいろなことに興味を持つためには、車ではなく、自転車で一緒に駅まで行き、往復読書させるのが良いのだが、朝から汗をかくのも嫌だしな、ということでまだ決めかねている。
2025.07.08Vol.693 三男のこと(前編)
2回目の動画撮影が今週木曜に控えている。資料を大幅にいじらないと、と思いながら、まだ手を付けていない。撮影前後で大きく変わったのは、ユーチューブでプレゼン関連の動画を見るようになったことである。そこで語られる「これをした方が良い」はほとんどできていなかったし、一方「これをやってはいけない」には当てはまることが多かった。
この春、中1になった三男。彼について、ちょこちょこと触れることはあっても主人公として取り上げたことはなかったはずである。それには少なくとも2つの理由がある。1つ目は特筆すべき出来事がなかったこと。あれができていない、これができていない、はいくらでも挙げられたが、抱えている多くの課題に対して親としてどこから手を付けて、どのように対策をして行くかを考えあぐねていたため、話題にしたところで単なる愚痴に留まってしまうことは明らかであった。2つ目は、上の二人と比べると私より妻と過ごす時間が断然長かったこと。生まれた時からの習慣であった。妻にとっては末っ子なのでかわいいし、三男にとってもお父さんといるよりはお母さんといる方が良いだろうから、とずっとそのままにして来ていた。共有する時間が短い分、それに伴って題材も少なくなる。それでも、世の中の一般的な父子よりは2人で出掛ける回数、時間は圧倒的に多かったはずである。1年ぐらい前だったか、年齢を考慮しても三男があまりにも物事を論理的に考えられないことについて長男と話していると、「パパと話す時間が少なかったからじゃない」と返ってきた。これに関しては、妻がダメだと言うわけではなく、職業柄私の方がそれを得意にしているというだけのことである。その発言から長男が私との会話に価値を見出してくれていることが分かり嬉しかった。これについては、長男とそのやり取りをした翌週のブログで早速言及したはずである。
三男は上の2人と比べると習い事も続かなかった。スイミングに関しては、中学受験をした二男は6年生の夏ぐらいまでは通っていたが、三男は四泳法を終えた5年生ぐらいで忙しいわけでもないのにあっさりと辞めてしまった。書き方もアートスクールも早々の離脱であった。私自身の字が汚いのできれいに越したことはないことは身をもって知っている。ただ、本人がやりたいと言い出してもいないのにやらせるようなことではないというのが書き方に対する私のスタンスだったのだが、妻がどうしてもさせたがったので始めたものの、迎えに行った際にやっている姿を見ても楽しそうではないし、本人も嫌がるので確か1年前後お世話になっただけのはずである。三人の中で唯一習っていたにも関わらず、一番字が汚い。アートスクールの方は、幼稚園で描いてくる絵を見ても私同様にへたくそであったため反対はしたのだが、送り迎えの都合を優先して妻が二男と同じところに通わせた。それに関しては、送迎のほとんどの役割を妻が担っていたため、それ以上強く言うことはなかった。アートスクールに関しては、二男を含め、周りにいる上手な子と比べてしまうので辛かったのであろう。こちらは2, 3年ぐらいは続いた気がするが、私がストップした。勉強、スポーツ、アートを子育ての三本柱にしているため何もさせないという選択肢は無かったので、アートスクール以前から三男に通わせたかった陶芸の教室に体験授業に行かせた。絵の才能がない人にとって、二次元に三次元を再現するのは容易ではないのだが、陶芸は誰がやっても立体的にはなる。また、土に触れるということも良い経験である。通い始めて2年ぐらいは経っただろうか。本人が楽しんでやっていることもあり、この前、「ずっと続けえや」と声を掛けると、濁りのない「うん」が返ってきた。先生は個人でやられているのだが、自分の教室だけではなく出張授業にも行かれているみたいで、先日、三男の作品を見本として持って行ってくれたらしく、そのことを三男は誇らしそうに私に報告していた。1つ困っていることがある。食器が増えていくのは良いのだが、どの器も多くて2つぐらいなので重ねてしまいづらいのだ。5人家族なので6個をワンセットで作ってくれたら良いのに、というのが私の本音である。そんな家庭の事情よりも、三男が様々な形のいろいろな大きさのものを作ることに挑戦することが優先されるのではあるが。
上で、「抱えている多くの課題に対して親としてどこから手を付けて、どのように対策をして行くかを考えあぐねていた」と述べたが、原因は明らかであった。小さいころからずっと、何をするにしても、こうなりたい、というのが欠如していたのだ。サッカーであればレギュラーになりたい、フォワードとして何点入れたい、勉強であれば小学校での計算や漢字のテストぐらいは満点を取りたい、とかいうのが全くなかったのだ。自らの経験を踏まえて、人工的に圧力を掛けて負けず嫌いにするような子育てはしない、とそれこそ長男が生まれる前から決めていたのだが、三男のあまりの体たらくぶりに子育ての基本的な方針を間違えていたのだろうか、と自らの信念が揺らぎかけたぐらいである。何をやっても持っている力を全然発揮できなかった三男が、公立中学の1学期の期末テストで悪くない成績を取ってきたのだ。
つづく
2025.07.01Vol.692 苦手脱出失敗
もう10年ぐらい前のことになるだろうか。ある晩、教室から帰ってしばらくすると、妻から「何か良いことあったん?」と聞かれたので、「何もなかったで」というように返したはずである。内容はまったく覚えていないが、その日は仕事でそれなりに嫌なことがあり、それについて話をしないで済むようにあえて楽しそうに振る舞っていたのだ。仕事のことを家に持ち込むことの是非はしばしば議論の対象になる。夫や妻に話すことでストレスが軽減され、聞く側にとってもそれほどの苦労が伴わないのであれば何ら問題はない。一方、ただいらいらをまき散らすだけなのであれば家族にとっては迷惑以外の何物でもない。
話は変わる。15年ほど前のことになるが、奈良からわざわざ体験授業に来て、入塾した小学生の男の子がいた。まだ開校後2、3年だったということもあり、遠方から通ってくれることが志高塾の価値を表してくれているようで嬉しかった。志高塾を選んだ理由をお母様に尋ねると「ネットで評判が良かったから」とおっしゃるので、うきうきしながらエゴサーチをしてみた。すると、私の目に飛び込んできたのは、言われもないような批判的な内容であった。しかも、コピペされたものが3つ4つのサイトに貼り付けられていた。そのような経験がなかったこともあり、かなり凹んで3か月ぐらいはそのことについて誰にも話をしなかった。このことは少なくとも過去に一度は書いたはずである。
20代の頃までは納得が行かないことがあれば不機嫌を前面に出していたし、他人に気を遣わせようがお構いなしであった。当時と比べると随分とメンタルのコントロールができるようになった気はしている。それは周囲に気を配れるようになったからではなく、外に向かって発散してうやむやにするのではなく、内側にそのままの状態で溜め込んできちんとそのことに向き合わないと、という心境の変化があったからであろう。
さて、先週火曜の人生初の動画撮影。結論から先に言うと、大失敗に終わった。「超」をその前に付けたり、「大」をいくつか付け加えたりしてもいいぐらいの不出来であった。その日程を6月初旬に決めたのだが、いくつかの候補日を挙げてもらった中から24日を選んだ。その日が48歳の誕生日だったからだ。ここでも何度か述べているが、今年はいろいろと新しい取り組みを始めようとしている。この歳になると自分の誕生日なんてどうでも良いのだが、門出の日にするにはちょうど良いと考えたのだ。そして、いきなりずっこけた。その帰り道、何が良くなかったのかをいろいろと考えてみた。準備不足の一言で片づけることもできるのだが、もう少し細かく見ていく。カメラに向かって一人で話をするのだが、視線をそこにやっているだけで、その先に視聴者がいることをまったく意識できていなかった。あの日からユーチューブの、特に一人で語っているプレゼンに関する動画をいくつか見ているのだが、その中にカメラの上にぬいぐるみを置けば良い、というものがあった。さすがにそんなことはしないし、カメラの先に誰かに立ってもらうことなども考えたりしたが、そんなものに頼らずに、聞いてくれている人がいる、というイメージを持つことでこの問題は処理することにした。そして、2つ目の原因は、きちんと座って姿勢良くしようとしすぎたことである。私と面談をしたことがある方はご存知だろうが、日頃は腕を組んだり、ふんぞり返り気味に話をしたりするので、体の自由が制限されたことで口調も硬くなってしまったのだ。特に、いつもと違って手がまったく動いていなかったな、と。それは自分が話している映像を見なくても、その時の様子を思い返しただけでも明らかなことであった。そのようなことを踏まえて、次回はスタンディングでやることにした。それと絡んで、PCを直接クリックして次の画面に移るのではなく、リモコンを使うことにした。それ以外にもいろいろとあるのだが、撮影に入る前に、数分間カメラに向かって話す練習をしたのが、そのときに「えー」が多いですね、と注意されてしまった。本番ではそれを意識したせいでかなり減らせたのだが、そんなことにエネルギーを使っているようでは肝心要のメッセージを伝えるということがおろそかになって当然である。これに関しては、とにかく練習を重ねて、無意識に近い状態で滑らかに語れるようにする必要がある。
あまりにもひどかったのでその日のうちに撮り直しをお願いし、7月10日に決まった。どこまで問題を解決できたかは当日になってみないとわからないのだが、上で述べたようにどのような策を講じれば良いかは明確に掴めている。もし、そうなっていなければ今回の文章でそのことに触れずにもう少し一人で向き合っていたはずである、しばらくは、昨日送られてきた動画を何度も見返すという地獄の作業が待っている。
家でここまで書いて、教室まで車で移動してきた。助手席にPCを置いて動画を流しながらだったのだが、こんなおもろない話し方で誰が聞くねん、というレベルであった。新たな発見としては、丁寧にゆっくり話そうとし過ぎたせいでリズムが悪すぎた。気分はこの上なく重くなるが、自分が話しているのを見たり聞いたりするのはとても勉強にはなる。