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2025.08.26Vol.700 新たな船出

 区切りの700号ゆえ、2, 3週間前からテーマを何にするかを考えていた。日曜の晩までは約半年前に書いてそのままになっていた「Vol.678 子育て方針大転換(前編)」の後編に手を付ける予定でいた。
https://www.shiko-juku.com/date/2025/03/11?post_type=kokorozashi-takaku
大学生の講師が以下のラインを送ってくれたことで、急遽方針転換をすることにした。本人の許可を取った上で掲載する。イニシャルにしたこと以外はそのままである。

お疲れ様です。Kです。
志高塾のYoutube一本目の動画、拝見いたしました。とても興味深く面白い内容でした。
そして今回のLINEの本題は、もうすでに検討されたかもしれませんが「Youtubeに体験授業の様子をUPしてみませんか」という提案になります。
一本目の動画では志高塾への入塾を検討している方に強くアピールできていると視聴者目線でも感じております。これからの動画でさらに志高塾への興味を持ってもらえる動画を展開していければ今志高塾が求めている新規層へのリーチにも繋がるのではないでしょうか。
私としては志高塾の良さは生徒の素を引き出すコミュニケーションと、生徒への積極的な働きかけにあると思っており、それらをより子供目線で伝えるために体験授業の形式をとるべきだと考えました。
動画のフォーマットなどもこちらで少し案がございますので、ご興味おありでしたらその旨ご返信ください。
あと採用してもらえるならお小遣いください。

 現在大学1回生のK君は、春に行った『十人十色』でも卒業生として話をしてくれた。率直に言って、とても癖は強い。ただ、それだけに面白い存在である。彼は、以前にも「今後YouTubeを始めるなら、これは見ておいた方良いです」とチャンネルを教えてくれたことがあった。何度か立ち話程度で動画の話はしたことがあり、その制作に携わりたい、ということは聞いていたのだが、いついつまでに具体案を出して欲しい、と伝えていたわけではない。まずは、彼のアイデアを聞いた上で、今後のどのように進めるかを詰めて行くことになる。
 ここでも何度か話題にした株式会社エックスラボの藤さんとのやり取りも最終局面に入っている。3月から始めて約半年が過ぎた。8月末で、サポート期間は一旦終了となる。今、具体的なアクションプランについての落とし込み作業を行っている最中なのだが、私は正直そういうことが得意ではない。船に例えるなら、目的地を含めて航路を決めるだけで、船長であるにも関わらず舵すら自分ではまったく取らない。それゆえ、いろいろと手助けしてくれる人が必要になる。豪華客船『志高塾号』の船長と言いたいところなのだが、実際のところは中小型レベルの『志高塾丸』のそれである。規模が規模だけに至れり尽くせりとはいかないが、乗船客に事前に約束したサービスを提供することはもちろんのこと、他では味わえないような心地良さを感じていただけるような船旅を経験していただけるようにするのが私の役割である。乗船客は、生徒と親御様である。まったく別の船の例えをすると、生徒一人一人が漕ぎ進める彼ら自身のボートをきちんとそれぞれの目的地にたどり着けるように導くのも私含め、我々講師の役割である。皆に同じ一つのゴール目指させ少しでも早くたどり着けるようにするのではない。そうすれば、進みの遅い子を切り捨てていかなければならない。中には景色を楽しみながらのんびりと進みたい子がいれば、誰も行ったことのないようなところに行きたい子もいる。途中で目的地を変更する必要がある子もいる。漕ぐのは彼ら自身なのでそれを手伝うことはないものの、どうしたら持っている力をうまく活用できるか、その子にはどういう行先が適しているか、など、ここぞというときに適切な手助けができるように手の届く距離で彼らを見守り続けたい。
 船に例えたら、ことのほか筆が乗ったので予定していた航路から大きく外れてしまった。舵すら取らない私の元に、ベストなタイミングで登場してくれたのが元学生講師のYさんである。数か月前に復帰して、週1回だけ授業に入ってくれることになったのだが、一講師としてだけではなく、今後本格的に力を入れていくオンライン授業の質を上げていくための改善策の提案と、それを形にするところまでやって欲しいということを少し前に伝えていた。ただ、それだけでは彼女の能力を生かしきれないので、今回新たに、藤さんと進めて来たことを形にする上での実務役も任せることになった。その手始めとして、これまで2人で行っていたオンラインミーティングに先週参加してもらい、今週はそこにK君も加わる。
 これまで長らくいくつかの島を定期巡航していたが、そこにオンライン島への便が加わり、今後さらなる増便を予定している。新たに読み聞かせ島への就航も確定した。そして、それと同時並行でその魅力を知ってもらうために動画を作成し、新たにインスタグラムなどでアピールをしていく。乗船客数を増やすことを目指しはするものの、「一人一人の乗船客の満足度を上げたうえで」という条件付きである。
 船員も充実しつつある。天候は移ろいやすいので油断禁物だが、視界良好である。

2025.08.19Vol.699 人生ビンゴゲームのルールブック

 1週間前か2週間前ぐらいにも「このまま何もやり遂げないままに人生終わってしまうのかなぁ」となっていた。そういう類の考えが去来することは私にとって珍しいことではない。自分の頭の中でのことなので全否定になっているだけで、誰かに向かってそのことを伝えるのであれば、「大したこともできないままに」ぐらいには表現を弱めるのであろう。そうでもしなければ、受け手にいらぬ気を遣わせて「そんなことないですよ」と無理やり言わせることになってしまうからだ。今誰かに、「じゃあ、何をやり遂げれば満足するのですか?」と問われても、そのことについて深く考えたことがないから答えられないし、結局は挑戦しようとしていない自分、目標を持って、それに向かって真剣に取り組もうとしていない自分、に納得が行っていないのだろう。1, 2か月前に、孫正義が若い頃に語った「脳みそがちぎれるほど考えろ」という言葉に久々に触れ、「俺、そんなに頭使ってないよなぁ」となったのも、このタイミングで冒頭の自問をするきっかけになったのかもしれない。
 「このまま人生終わるかも」となっている割には、若い頃に比べて焦る度合いが弱まっていることに気づいた。歳を重ねたことでそういうことに関するセンサーが鈍くなっていることが原因かな、とも考えたのだが、それは違うような気がするし、だからと言って他の答えも思い浮かばないので、そのまま放っておいた。すると、ふとした瞬間に「あっ、そういうことか」となった。私の場合、閃くのは大抵歩いているときである。20代の頃に抱いていた焦燥感は、可能性が減って行くことに対してものだったのだ。子どもが生まれると、親は「この子は将来、勉強、スポーツ、音楽のどの世界で活躍するのだろうか」というような淡い希望を抱く。そして、成長するにつれて一つずつ選択肢が消えていく。プロスポーツ選手にさせたい親であれば、「野球、サッカー、ゴルフのどのスポーツでさせようか」などとなるのかもしれない。それらは親の勝手な願望であり、本人がそのようなことと向き合い始めるのは10代である。そんなことをぐちゃぐちゃと考えていて、たどり着いたのがビンゴである。この夏に祭りに行ったわけではなく、テレビでビンゴ大会の様子を目にしたわけでもない。
 物心がついたときには手元にあった5×5の自分だけのビンゴカード。まずは指示された通り真ん中のところを下に押す。それは、自分の個性なのかもしれない。効率良く、真ん中を通る縦、横の1列か斜めの2列のどこかが揃うことを願いつつゲームはスタートする。ここで断っておきたいのは通常のビンゴのルールとの2つの大きな違いについて。1つ目は、1列揃ったら景品と交換にカードが回収されるわけでは無く、生きている限り保持し続けられ、2列目、3列目を狙うことができること。また、早ければ早いほど良いものがもらえるわけではなく、その列が揃ったときに何が手に入るかは当の本人には事前にある程度明らかになっていること。
 ここからは私が握りしめているカードの話を中心に展開していく。20歳ぐらいまでは順調に番号が呼ばれていた。そうそう、ここでもう一つ伝えておかなければいけないのは、人が箱の中からボールを取り出すようなアナログ式ではなくデジタル式になっていて、一部の例外を除きほとんどの人が30歳までに揃うことがないよう裏で操作されているということ。さて、マイカード。それが20歳なのか、22歳なのか、それとも25歳なのか、どこかのタイミングで、「その数字はないなぁ」、「あれっ、またない」、「おかしい、今度もや」と一気に減速した。そのことにイライラする一方で、「やったリーチや」という声が耳に入る。振り向くと、私のカードは真ん中以外で10個以上も開いているのに、その人のものはパッと見たところたったの5つか6つぐらい。これがビンゴゲームの面白いところである。穴の多寡ではなく、ラインが揃ったかどうかで勝敗が決まるからだ。
 人生ビンゴゲーム。30歳になるとまだ残っているすべての数字は削り取られる。もう番号は関係なくなるのだ。その時点で終わりかと言えばそうではない。代わりに、自力でこじ開ける権利が与えられるからだ。自分が揃えたい列を見定め、そのままになっている残りの所をどうしたら開けられるのか自分なりに想像して、手を打っていく。すぐにうまく行くわけではない。その時に粘り強く継続するか、それとも別の策を講じるか。
 欲張りな性格だからなのか、いろいろなことができる人でありたい気持ちが強いからなのか。未だに少しでも早く1列揃えることよりも、できる限り多くの列でリーチが掛かることを望んでいるような気がする。少し話は変わるが、ビンゴになるのは意外と真ん中を通らないパターンの方が多いのかもしれない。真ん中は自分が個性、長所と思い込んでいるだけで、世の中で通用するのはそれとは別の自分かもしれないからだ。
 構想段階ではもっとうまくまとまるはずだったのだが。私がイメージしていることのせめて8割ぐらいは伝わっていることを願うのみである。

2025.08.12Vol.698  YouTubeページ作りました

 ようやく1本目の動画をYouTubeにアップできました。お時間のあるときに少しでもご覧いただき、チャンネル登録までしていただけると幸いです。

 汗顔の至り。自分が話している姿を見るときの心境を表すものとしてこれ以上のものはない。撮影を終えてからテロップの確認、修正を行う必要があったのだが、自分では10分も見ていられないので事務を担当している者にすべて任せた。
 1回目の撮影が失敗に終わったことをつらつらと述べた「Vol.692 苦手脱出失敗」を読んだあるお母様が、「小林秀雄は話すのが苦手だったので、それを克服するために落語を聞いたそうです。『小林秀雄講演集』というCDがあり、めちゃくちゃ面白いのでもし興味があれば」というショートメールを送ってくださった。それを受け取ったのが車を運転しているときだったのだが、信号で停まったときにAmazonで確認するとあまりにも値段が高かったのと、YouTubeにいくつかあがっていたこともあり、その後走りながら1時間ほど聴いていた。私は何か聞きながらしか寝られず、そのほとんどは漫才かコントで時々ニュースや英語なのだが、その晩は桂三枝(現在の桂文枝)の落語が初めて子守唄となった。このような感じで人のアドバイスをすんなりと受け入れることに対して、最近、人から「素直ですね」と言われることが何度かあった。私のことをそれなりに知っている人の中では、私と「素直」は結びつくことがないどころか、その対極に位置付けられているはずであり、それに私が異論を挟む余地はない。随分と不思議な感じがするため、それについて少し考えてみた。最初に思い付いたのが、世の中には私より人の話に全然耳を傾けない人がたくさんいて、相対的に私がそういう評価を得るに至っているということ。次に思い浮かび、きっとこれが一番の理由だな、となったのは、このブログなどを通して私がどういうことに興味があるかを明確に発信していて、それを踏まえた上で提案してもらえているから、というもの。要は、有益な情報を提供してもらっているから聞き入れているに過ぎないということである。この1か月間ぐらいのことになるが、本郷和人著『東大生に教える日本史』を読んだのも、レスリー・チャン主演の『さらば、わが愛/覇王別姫』いう昔の映画を観たのも、『非常の常展』、『日本美術の鉱脈展』に行ったのも、すべて勧めてもらってのものである。しかも、CD、本、映画、美術館はそれぞれ別の人からの推薦なのだ。『さらば、わが愛』は偶然、その数週間後に聴いたポッドキャスト番組『COTEN RADIO』の「項羽と劉邦」シリーズの中でも紹介されていた。逆に、本郷和人の話は数年前に、ポッドキャスト番組『a scope~リベラルアーツで世界を視る目が変わる~』で耳にしていた。誰の落語にしようかと考えたときに迷わず三枝を選んだのは、その数日前にサウナで知らない人が「三枝の落語を生で聞いたけどすごかったっすわ」というのを話しているのを盗み聞きしながら「そうなんや」と思ったからである。小林秀雄の名前は読解問題で時々目にするのだが、私自身彼について全然知らないのでずっと引っ掛かっていた。まだ講演を少しかじっただけなので、これを機に本を読んでみよう、とたった今Amazonで調べ、一番とっつきやすそうな『ゴッホの手紙』を選んだ。ちなみに、先々週末、1日(金)『非常の常展』@国立国際美術館、2日(土)『ゴッホ展』@大阪市立美術館、3日(日)『日本美術の鉱脈展』@大阪中之島美術館、と、旅行のとき以外で初めて3日連続で美術館を訪れた。
 例のごとく余談が長くなり過ぎてしまったのでそろそろ本題へ。1回目の動画撮影で思い切りずっこけて、いろいろとその原因を探っていてたどり着いたのが、藤さんの意見を素直に聞きすぎたな、ということ。以前にもここで紹介した株式会社エックスラボの社長である。プレゼンテーション作りも多くの部分を任せていたことが良くなかった。そこは自分でやるべきだったのだ。HPに「卒業生の声」を載せられたのは藤さんのおかげである。「合格体験談」を勧められたものの、受験専門塾ではないのでそれはやりたくない、となり、行き着いたのが、「じゃあ、大学生以上に書いてもらおう」というものであった。「顔出し名前出しの方が良い」ということを強く言われていなければ、そのようにしていなかっただろう。最近、HPを訪れると彼らの顔写真がパッと目に入ってくるので、私自身がなんだか幸せな気分になれる。また、9月から始める読み聞かせクラスも、「読書習慣が中々付かない子はどうしたら良いんですか?」と打ち合わせで質問されたのがきっかけだ。まだ4年生なのに進学塾の宿題に追われて、精神的余裕がないせいで本を読むようにならない子も確かにいるので、それであれば時間が取りやすい就学前に我々自身で読書が身近になるようにしよう、となれた。信頼してお任せするところと、責任を持って自分でやるべきところの判断を完全に誤っていたのだ。それに気づき、パワーポイントには全面的に手を入れた。
 その他、1回目の撮影後からYouTubeでプレゼンの方法に関するものを結構見た。一人でカメラに向かって話すときの方法論などを学べたのだが、それ以上に役に立ったことがある。それは、こんな人、こんな内容でも良いのか、ということ。それで随分と精神的に楽になった。私は勤勉なわけではなく、何かしら崇高な目標を持っているわけでもないのだが、日頃は自分よりできる人にしか目が行かない。「できる」というのは、あることに対して自分より詳しい、と言い換えることもできる。できないことだらけ、知らないことだらけなので、常に、もっと勉強して成長しないと、という状態に置かれている。下を見ようとしたわけではないのだが、結果的には、「こんなんでも良いんやったら、もっと自信持ってやろ」となれた。
 最後に、少しでも良い評価を得るためにすごくずるいことを言葉にすると、初めての、一度撮り直しになったので正確には2回目の撮影になるのだが、台本無しで、練習もしなかった割にはうまく話せているのではないだろうか。今後、どのように進めて行くかは定かではないが、いろいろなテーマに対して撮って行く予定にしている。

2025.08.05Vol.697 (仮)読み聞かせクラスの紹介文

 授業に関しては、基本的に元生徒のお母様に任せることになっている読み聞かせクラス。紹介文に関しても、そのお母様にお願いする方が論理的で、かつ滑らかで柔らかなものになることは分かっていたのだが、HPの他の部分とのトーンがずれてしまうことや、せめてそれぐらいはやらなければという最低限の責任感から、「文章は私が書きます」と宣言した。結果的に、自ら設定した7月18日から2週間以上遅れて、ようやく9割方の完成にこぎつけた。明後日、打ち合わせを行い、文章の修正を含め、具体的なことを詰めて行くことになる。
 そのお母様とは、実際に顔を合わせるのはもちろんのこと、電話やメールでもやり取りをさせてもらっているのだが、毎度、私の頭は活性化され、アイデアも浮かんでくる。以下の紹介文は、一人称で書いているため、あたかも自分一人で考えたようなイメージを与えるが、そのほとんどはそのお母様から教えてもらったことや、会話の中で生まれてきたもので占められている。
 志高塾を始めたとき、テキストや方法論の完成度で言えば8割ぐらいだったような気がする。しかし、やりたいことは明確で、子供たちにこんな力を付けさせたい、という気持ちだけはしっかり持っていた。そのときよりも充実してはいるが、詰め切れていない部分が残った状態で始めることにはなる。だが、それは決してネガティブなことではない。その穴をどうにかして埋めようと、1回の1回の授業で試行錯誤をすることになり、それは子供たちにとってプラスに働くはずだからだ。
 そもそも生徒を集まるのか、来てくれた子供たちがどのような反応を示し、どのように成長して行ってくれるのか。予測できないことだらけであるからこそのワクワクを今、私自身が感じている。では、どうぞ。

 2007年の開塾以来、生徒たちが本に親しめる環境づくりに力を注いでいます。西宮北口、豊中、高槻の各校には絵本を含めそれぞれ1,000冊以上の本が棚に並んでいます。本好きでなかった子が、「読書って意外と楽しいかも」となれる、そんな本への扉を開いてくれるものや、読書家の子が、自分では手に取らないような読み応えのあるものなどを揃えることを目標に選書を行ってきました。これまでのそのような取り組みに加え、子供たちの読書に、より直接的に関わるべく、未就学児を対象とした「読み聞かせクラス」を開講する運びとなりました。
 「読み聞かせクラス」を始めてみようかな、というアイデアが浮かんだ後に疑問が湧いてきました。それは、幼稚園や保育園で、もしくは家庭で日常的に読み聞かせをしてもらっている子供たちに、志高塾にわざわざ来てもらう必要はあるのだろうか、というものでした。それについて考えたのが次のことです。まず、日常のその他のことと切り離された、ただただ言葉と向き合う豊かな時間の中に、子供たちに身を置いてほしいということです。帰る前の時間を利用して先生に読んでもらうわけではなく、寝る前の少しの時間を使ってお父さんやお母さんに読んでもらうわけでもありません。もちろん、そのような時間を作るだけであれば、他の教育機関でもできることです。こだわるのはその手法です。まるで劇を見ているかのように、登場人物の数だけ声音を変えて読むようなことはしません。そのようにすれば、すべての子供たちの中に固定化されたイメージを植え付けることになってしまうからです。そうではなく、できる限り静かに、でも確実に子供たちの心に言葉が届くような、そんな読み方を実践します。それによって、それぞれの子供たちの中で、それぞれの形ができ上っていきます。「ただただ言葉と向き合う豊かな時間」と述べましたが、正確には言葉と、だけではありません。絵をじっくりと見つめる時間も同様に大切です。言葉と絵、言葉だけ、絵だけ、その3種類を組み合わせることで、子供たちの想像力を育むのです。
 初めから終わりまで澱みなく読み進めるのが読正当なやり方だと言われることがありますが、それが私には腑に落ちませんでした。それゆえ、我が子に読み聞かせをしていた10年ほど前、一時中断を繰り返しては、いろいろと質問をしていました。そのようにすることで、息子たちは興味を持ち続けながら耳を傾けていました。それはあくまでも個人的に、我流で進めていたことですので、志高塾ではもっと体系だったやり方で進めて行きます。
 最後に、家庭において、デジタル機器と距離を置く子育てをしていたとしても、小学校に入学するなりタブレッが配られ、否が応にもそれは身近なものになります。もちろん、それは決して悪いことではありません。大事なことは、デジタルの大波に飲まれるのではなく、それにうまく乗れるような準備をしておくことです。そのために、アナログだからこその心地良さを、読み聞かせを通して思う存分経験して欲しいと考えています。

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