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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2025.08.15Vol.67 記録の終わり(三浦)

 以前、あまりの情報収集の面倒くささに、パソコンの買い替えをめちゃくちゃ渋っていることをここに書いた覚えがある。その後、買い替えたことは書いたかどうか記憶にないのだが、どうにかこうにか思い立って実行し、実は新しいものを迎えてもう数カ月が経っている。今までの一体型と違ってデスクトップなのでかなりの存在感があり、まだそれが堂々と鎮座している部屋の風景に慣れない。つい最近も店舗に出向いてキーボードを新調した際、今のパソコンのブラックではなく、以前のカラーであるホワイトに無意識に合わせてしまい、ちょっとちぐはぐな光景がデスクに広がっている。
 さて、パソコンを移行するにあたって、データに関してはUSBを使って移動させることにしていた。大容量のものを持っていなかったこともあり、家に散らばっていたUSBをかき集め、数個に渡ってデータを移し変えた。その作業もきちんと終わらせたと思って一安心していた矢先、つい数週間前に、ふと10年分くらいのデータが失われていることに気が付いた。
 それだけ気付かなかったのは、すぐに使うようなものではなかったからだ。それは例えば大学時代に提出した論文や、数日分残していた日記、友人とのやり取りなどで、必要になることはめったになく、なんとなく「見返したいな」と思い立たなければ開くことはない。だから気づくのが遅れてしまい、そして、困るような目には遭ってもいない。けれども、私はこういうのはなるべく残しておきたいたちだ。時折抜けているところはあれど、高校時代のスマホの写真のデータもきっと残っているし、遡れば、小学生時代のパソコンのデータだって、メールの履歴だってある(はず)。だから今回のデータ紛失は結構なショックだった。旧パソコンからUSBにデータを移したことは覚えているので、そのUSBを見つけさえすればいいのだが、見当のつくところは一通り探し終えてしまい、あとはふとしたときに現れてくれるのを祈るばかりである。
 クラウドに保存しておけばよかったのではとも思ったが、私はクラウドをいまいち信用しきれていない。そのクラウドサービスが終了すれば跡形もなく消え失せるし、そうでなくとも誤作動で消えてしまうかもしれない。勝手に同期して勝手に消えたりなんかしたらきっと許せないので、すべてのデータはオフラインで管理することにしている。やはりUSBのような、物理的なデバイスが安心できる。
 USBの話で、ふと濱口秀司氏のことを思い出した。とても簡潔にいうと、濱口氏はUSBが開発された際のコンセプトデザインにおいて、とにかく「すべてがネット上で完結する方向に向かうだろう」という当時の感覚とあえて逆行し、物質的な感覚こそが必要になるのではと、今のような記録媒体を生み出した。その結果、こうして世界的に受け入れられる保存メディアが生まれたというわけだ。ここで濱口氏のアイデアの出し方について舵を切ってもいいのだが、ここはまだ記録媒体の話をしようと思う。
 物理的なメディアはやはり安心感がある。しかし、私のように紛失しなければずっと残り続けるのかというと、そうでもない。以前インターネットで見かけて気になっていたのだが、DVDが普及して数十年、経年劣化が進んで見られなくなっているDVDもそれなりにあるらしい。中のデータは無事だったとしても、外側のディスクが「物」である以上、どうしても熱などによる劣化は避けられない。そのため、知らず知らずのうちに動作の限界を迎えているということもあるようだ。「物」である以上、といった手前USBも調べてみたところ、これもやはり数年~十年ほどの使用期間で見ておいたほうがいいらしい。デジタルからは離れるものの、物理的な保存媒体といえばやはり「本」で、そう考えると上記のものよりも長持ちはするものの、やはり永遠に残り続けるものでもない。
 インターネット上でも、ホームページの期限が切れたりリンクが切れたりして、見れなくなったページは多くある。デジタルでも物理媒体でも、どんな手段にせよ、何かをずっと保存し続けることは難しいのかもしれない。そんなふうに考えて自分を慰めつつ、やはり、寂しいものは寂しい。

2025.08.08Vol.66 やめられないのは誰のせい(西北校・伊藤)

 スマホが気になり、ついつい手が伸びてしまう。通知が来れば反射的に画面を開き、SNSを覗く。面白い投稿があるわけでもなく、何かを探しているわけでもなく、ただ無意識に指を上下に動かしている。ただ、「あなたへのおすすめ」を使えば、自分の好みに合致したコンテンツが次々と流れてくる。
 最初にこの機能を発見した時、その素晴らしさに感心したと同時に、自分の脳内が見知らぬ第三者に見透かされ、監視されているような気がして少し恐怖感を覚えた。その感覚はあながち間違いではなく、便利さの裏で実際に莫大な情報が集められ、それらは推薦システムに使われている。私はこの仕組みに興味を持ち、現在、大学院で推薦システムについて研究している。
 最近は「スマホ依存症」に加えて「スマホ認知症」といった言葉も耳にするようになった。脳が情報過多になることで、記憶を取り出す作業ができなくなり、名前が出てこなかったり、約束を忘れてしまうという、認知症と同様の症状があるそうだ。
 「Tiktok見てたら1時間経ってた」のような時間の浪費は自覚し、後悔することができるが、私たちの思考や行動がどのように変化させられていたかまでは気づいていない。無意識にネットで買った好みの服も、実際は自分の意思ではなく、デザインされた、仕組まれたものだったのかもしれない。ただ、そうなるのも当然で、それを促すことがGoogleなどの世界的テック企業のビジネスモデルであり、私たちの注意資源(どれくらいの時間、どのコンテンツを見たか)こそが彼らの利益の源となっている。
 私が以前視聴した『監視資本主義』というNetflixドキュメンタリーの中で登場したエンジニアは、皮肉なことに、「昼間は人々の注意を搾取する仕組みを設計し、夜は自分が作ったアプリに時間を奪われている」と語っていた。動画サイトやSNSは、私が好きそうなものを延々と表示する。まるでスロットマシーンのように設計されているため、新しい投稿を求めてスクロールする指が止まらない。脳はドーパミン中毒になり、常に何か刺激を求め続けてしまう。
 カフェで友人とスマホを操作しながら会話していたとき、隣のマダムが「最近の子って、ずっとスマホ見てるよね」と話していた。しかし、電車の中では、若者だけでなく、幼い子供もサラリーマンも皆ずっと同じ姿勢で覗き込んでいる。(むしろ一番見ていないのは大声で喋っているサークル終わりの大学生集団である。)彼女らが揶揄できるのは、使わなくても生活に支障が無い環境にいるからであり、一度手に取ってしまえば同じようになるぞ、と私は依然として画面を凝視しながら心の中で呟いた。
 若者のスマホ依存とよく一緒に触れられる話題に、倍速視聴がある。高校時代に通っていた予備校では、映像授業は基本的に1.5倍速で見るよう指示されていた。既習事項や得意分野は1.5倍速に設定し、苦手な分野は所々止めながら学習するなど、習熟度に応じてスピードを変えられるという点では、合理的で効果的だった。
 ただ、映画でさえもNetflixで早送りする人がいるというのは衝撃的だった。臨場感や没入感を味わえるのが醍醐味の一つだが、それさえも、「ただの情報源」の一つになってしまうのだろうか。
 関連して、デジタルが普及しているからこそ、私の中では「ライブ」の特別感が上がっている。決して安くはないお金を払い、会場まで足を運び、アーティストの生演奏・生パフォーマンスを全身に浴びるのは、「効率化」や「タイパ主義」から逃れた贅沢なひとときである。Official髭男dismの『ペンディング・マシーン』には「Wi-Fi環境がないどこかへ行きたい 熱くなったこの額 冷ますタイムを下さい」と言うフレーズがある。娯楽さえも効率化され、常に大量の処理を求められる現代社会において、私たちは自然に休む場所を求めているのかもしれない。このような状況を踏まえると、若者でさえ認知症になるのは無理もない。
 ネットコンテンツの質にも触れたい。映画やゲームには年齢制限があるが、ネットは無法地帯である。過激な動画、フェイクニュース、誹謗中傷…。最近ではAI生成物も普及している。愉快で新奇なものの裏に、少なからず被害者がいるということを忘れてはならないが、これを子どもたちは意識できているだろうか。全てが記録されるネット上では「失敗してから学ぶ」ことは危険なため、幼い頃からネットリテラシーを高めることは必須である。
 例えば、AIの言うことを鵜呑みにしないことが挙げられる。塾の教材の1つに、社会問題に対してグラフや表を活用しながら意見を述べる『資料読解』があるが、タブレットを使って何か調べ物をする際、AIの要約をそのまま作文にコピー&ペーストしてしまう生徒は多い。その度に口酸っぱく、出典や根拠を調べるよう言っている。
 私は「ゆとり」と「Z世代」の過渡期で育った。幼少期は時折パソコンに触れ、スマホは思春期と共にあった。ネットの便利さに夢中になりながらも、次第に生活が支配されていく違和感を覚えたが、それが今の進路を決定するきっかけとなったことも事実である。だからこそわかる視点や肌感覚で、生徒に寄り添いながら、今後とも情報社会との向き合い方について共に対話していきたい。

2025.08.01Vol.65 あえての駄作(徳野)

 数年前に「ファスト映画」が話題になっていた。動画の違法性はさることながら、人気の背景にある、コンテンツ過多の環境に生きるZ世代の過剰な「タイパ(タイムパフォーマンス)」意識が物議を醸した。そして、以前と比べてメディアに直接取り上げられる機会は減ったと体感しているものの、YouTubeでファスト映画を投稿するチャンネルじたいはまだまだ健在である。しかも、取り上げられている題材の傾向から推測するに、映画鑑賞をそれなりに好む中高年層でないと再生しないであろうものも少なくないので、世代など関係ないのだ。作品に興味はあるけれど、もし内容が気に入らなかったら視聴に費やした時間が無駄になってしまう。だから、口コミよりも詳しい紹介動画でほど良く手軽に済ませて、2時間付き合うだけの価値があると感じればサブスクリプションで検索する。娯楽にまで効率性が持ち込まれる時代になった、とつくづく思う。
 だが、出来や相性が悪いコンテンツと距離を取りやすい昨今においてもなお、私には「実際に観てみないと分からない」経験ができる場がある。兵庫県内に拠点を置く某歌劇団だ。現時点ですでに大半の人が組織名を察しているだろうが、念のため伏せておく。当塾のホームページを熱心に閲覧してくださっている方々の中にファンがいると知りながら名指しで批判する勇気が無いからだ。本題に戻る。観劇は「生もの」なのだから、観に行くことに意味があるのは当たり前ではないか、と思うかもしれない。だが、先述のような断りを入れておくほど、某歌劇団のオリジナル作品は独特である。率直に言ってしまえば、凡作と駄作の割合が他の著名な劇団や劇場での演目と比べて多い。ストーリー性が薄いショーの方はまだ素直に楽しめるものの、ミュージカルとなると時折、頭だけでなくなぜか眼球にまで疼痛を感じるくらいである。その感覚を初めて味わったときは、内容にどうしても入り込めない際の反応が「睡魔に襲われる」だけではない事実に驚愕した。以降、客席で開演を待つ間は期待と「今日は大丈夫だろうか」という不安が入り混じった気分を味わうようになった。団員たちの名誉のためにも述べておくと、登場人物たちのビジュアルと舞台装置はこの上なく美麗で、かつ演者たちはパフォーマンスにも真摯に向き合っている。それなのに、この3年間だけでも「目を閉じたいのに閉じられなく」なる演目が1つや2つで済んでいないのだから、構造的な問題があると言わざるをえない。
 某歌劇団は往年の人気作の再演は何年かおきにするものの、英米のプロダクションが目指すような1年を越えるロングラン公演は滅多に行わない。それだけなら日本の演劇界全体に当てはまる傾向だが、某歌劇団の特徴はオリジナルの新作をほぼ毎月発表する体制を100年は続けてきた点にある。さらにその背景には、「スターシステム」に基づいたキャスティング方法がある。短いスパンで作品が世に放たれる度に、ファンは各組の人気スターの動向に敏感になる。特にトップスター候補とされる若手団員の配役はリピーターの固定化に繋がる重要な情報であり、熱心なファンにとっても有望な新人の成長を長い目で見守るのは「推し活」の醍醐味だ。人事が劇団最大のビジネスコンテンツと言える。一方で、「新作主義」によって演目の質が犠牲にならざるをえないのは容易に想像が付く。2,500席規模の大劇場向けの作品を製作できる座付きの演出家は常に不足しているし、企画立案から舞台本番までの時間も限られている。上演スケジュールと各演出家の登板頻度から察するに、90分のミュージカルを半年で完成させるよう求められる場合もあるのだろう。『オペラ座の怪人』や『キャッツ』の作曲で知られる巨匠のアンドリュー・ロイド・ウェバーだって、紆余曲折を経験しながら2、3年かけて納得のいく仕上がりにするらしいので、いくら豊かな才能があっても半年やそこらで脚本や音楽を十分に練るのは至難の業だ。
 ちなみに、一つの演目に複数回足を運ぶような熱心なリピーター層であっても、質に期待しすぎないのを前提にファンを何十年と続けている人は少なくない。彼らは自身のブログで「こんなものに出演させられる団員が気の毒」とこき下ろしつつも、翌週には当の駄作をS席で再見する猛者である。特別応援しているスターの存在が度量を広げている面は間違いなくあるだろうが、それだけで全ての「組」の公演を網羅する気力は湧かないだろう。それに何より「推し」がいない私自身、リーピーターの境地には至らずともチケットが取れれば劇場に向かっている。一体何に心を捕らえられているのだろうか。
 大学生の頃、劇作家の平田オリザ氏による講義を受けていた。平田氏は、演劇に限らず子どもには名作だけを与えるべきだと力説していた。大人が理屈で価値を判断する一方で、子どもは感覚でしか物事を捉えない。だから、精神的に成熟する前に優れた芸術に接しておけばセンスは自然と研ぎ澄まされ、成人後に付け焼き刃で身に着けた人のそれとは雲泥の差がある、とのことだ。「優れた」の基準は非常に曖昧ではあるものの、子育てにおいて感性を育むことを大事にしている人たちは、知識を増やしたり考察したりして初めて意義を感じ取れるような作品に積極的に触れさせているのは確かだ。子どもがその時その場できちんと理解できなくても別に構わない。そういう下地作りが「能動的な受け取り手」を生む。そして、個人的には、いわゆるB級モノの愛好家は娯楽鑑賞に対してかなり能動的な層だと考えている。漫然と視聴するだけでは心が折れてしまうような作品でも愛すべきポイントを拾いあげ、その一筋縄ではいかない魅力を発信するべく試行錯誤する、つまり「面白くない」を「面白い」に変える人の言葉にはやはり惹きつけられる。もしかしたら、それに近いことを私は某歌劇団の演目でやりたがっているのかもしれない。例えば、駄作の印象を受けたものに対しては、「どの要素が足を引っ張っているのか」、そして「どのような改善をする余地があるか」を探りながら観劇している。いくつか挙げてみると、トップコンビ以外のスターたちにも見せ場を作ろうとして散漫かつご都合主義な脚本になるのは仕方ないのだろうが、悪役の人物造形がワンパターンなのはいただけない。あと、たまに取り入れられる映像投影も無くした方が良い。どんなに美人でもあの濃厚な舞台メイクを施した顔がスクリーン上に大写しにされると違和感が勝るからだ。
 また、良作になかなか巡り合えないからこそ、予想よりも内容を楽しめた際の喜びはひとしおである。「意外に良いじゃないか」という感情のために毎度賭けに臨んでいるようなものなので、傍目には不毛な遊びをしているように見えるだろう。だが、少し真面目な話をすると、某歌劇団は新作を生み出し続けることの大変さを教えてくれる貴重な場でもある。厳選された海外の人気ミュージカルを安定的に高いクオリティで提供する劇団四季や東宝の公演だけを享受していたら、作り手が置かれている環境に目を向けていなかっただろう。コンテンツに恵まれすぎているのも考えものである。

2025.07.25社員のビジネス書紹介㉒

竹内のおすすめビジネス書
東浩紀 『訂正する力』 朝日新書

 SNSはもちろん、対面形式の議論でも「相手の意見に屈しない」ことが重要視されてしまっているような局面が多々ある。本来、議論には議題があり、その結果を踏まえて今後の方針が決まっていく。また、他者と意見を共有することで自分の考えを客観視することもアップデートすることも可能になる。その過程を経て態度が変わることは「負け」でもなんでもなく、「訂正する力」を発揮した前向きな選択に過ぎない。形あるものを創り出すに限らず、自己を見つめ直すなど、「その先」へと発展するもののない議論というのは本来空論でしかない。
 訂正とは、単に意見をころころ変えることを指すのではなく、社会の動きや、自分以外の認識を受け入れて柔軟に対応することである。その姿勢で臨まない議論では、お互いが主張を改めることがないため、新しいものは生まれなくなってしまう。しかしこのような話し合いの硬直は決して珍しくない。その要因として筆者が指摘するのが「訂正できない土壌」が社会に存在している点である。対話によって信頼関係を築く訓練がなされておらず、これまでと異なる意見を提示するとそれまでは支持を示していた周囲から攻撃される可能性への不安がつきまとうのだ。
 人間というものは必ず間違える。テストでもない限り正解は決まっていないから。社会は移ろっていくものだから。だから訂正できなければならない。そのために必要なのは、物事を部分的に見るのではなく、それまでに積み重なってきたものと結び付けて捉え「実はこうだったのだ」と理解することだ。「あの時の注意は、実は怒りではなく思いやりだったのだ」のようなことだろうか。こういう考え方を自分自身が持つのはもちろんのこと、同じような考えの人たちが集まる組織を作っていくことで、「訂正する力」は適切に用いられることになる。それまでの見方を変えるような声を上げることは批判を浴びやすい。だが、すでに一般的に浸透していることに異を唱えれば反対が多数あるのはごく自然なことなのだ。それが「間違ってないよ」と初めから認めてもらえるとは保証されていない。しかし、だからこそその声を上げることの価値は大きい。訂正は自分一人では行えないのだ。

三浦のおすすめビジネス書
大石哲之 『コンサル一年目が学ぶこと』 ディスカヴァー・トゥエンティワン

 いろいろと世間一般のビジネス書を読んでいると、なんだか世間とは違うな、あんまりうちとは関係ないな、と思うことも少なくない。もちろんしっかりとエッセンスを汲み取れば仕事の上での共通点というものはあるのだが、どうしても距離を感じることもある。特に、「コンサル」という響きともなれば、ほとんど知らない世界のようだった。
 ただ冒頭で述べられているように、本書はコンサルタントとしてではなく、様々な業種にも通じる「普遍的な仕事力」について取り上げている(コンサルだからこそ、色々な業種を知っているともいえる)。だから内容としては、チームとしてどうあるべきかなど、他のビジネス書で既に見かけたものもしばしばあり、けれど、こうして繰り返されるほど実践が難しいのだとも思う。その中で、ここ最近の個人的な課題である「相手に伝わるための説明」については参考になる部分が多かった。結論から話す、何も知らない相手に伝えるつもりで「そもそも」から話す、相手がどこまで理解しているかを仕草から読み取る。当たり前といえば当たり前だが、この「そもそも」から話すというのはなかなか難しく、本書にあるように「簡単すぎて失礼なのではないか」という意識が働くことも少なくない。けれど事前知識を共有しなければ、相手がどのくらいのレベルなのかもわからない。それを肝に銘じる。
また、「コンサル流思考術」と銘打たれた章では、どのように物事を解決に導いていくかという思考法が紹介されていた。そこでは「考え方を考える」として、どのように作業を進めていくかを考える時間をまず設けるべきだ、としていた。焦るとどうしてもまずはと手を動かしてしまいがちだが、それでは時間を浪費することにもなるし、間違ったやり方をしたときにリカバーができない。それを読んで、生徒に教えるときにも手当たり次第に解いても意味がないと注意していることを思い出した。「考える」ことを人に念押しする前に、自分もよく立ち止まらなければいけないと、授業を思い返しながら腑に落ちた。

徳野のおすすめビジネス書
アンデシュ・ハンセン 『多動脳 ADHDの事実』 新潮社

 本著が発表された2017年のアメリカでは、全人口の約15%が注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断が下されている。感染症や生活習慣病でもないのにたった15年間で5倍になったというのだから、なかなか異様な状況である。しかし、そもそも「ADHDか否か」という線引きじたいが無意味である。誰にだって集中を保てなくなる場面はあるし、集団内で「異常」とみなされる基準も時代と環境によって変化するものだからだ。現役の医師である著者によると、医療的ケアが本当に必要な人の割合は国内人口の5パーセント程度であり、たとえその層にいたとしても、副作用のリスクを踏まえると投薬治療には慎重になるべきである。大切なのは、ADHDだからこその「強み」と「弱み」の両方を把握した上で熱中できる物事を探していくことだ。
 恒常的な注意欠陥が起こるのは、遺伝的要因から脳内に分泌される快楽物質が上手く機能していないからだ。その特質がある人ほどADHDの傾向が強くなり、刺激を求めて周囲の些細な動きにも過度に敏感になる。そして、本能が強い刺激を渇望しているがゆえに、アルコールや薬物、スマホに依存しやすくなる。こう書くとネガティヴ面にばかり目が向くかもしれないが、好奇心旺盛でエネルギーに溢れ、斬新なアイデアを次々と生み出すのに長けた人物が多い事実も忘れてはならない。そういった特長は、とりわけ先史時代では人類の生存に多大な貢献をしていたものの、現代における学校の集団授業や事務系の仕事と相性が悪いというだけの話だ。
 作中にて次のような実験が紹介されている。子ども3人で構成された2つのグループに複雑な思考が求められる課題を与えたところ、ADHDの傾向が顕著な子どもが含まれるグループの方が議論が活発になり、課題解決まで辿り着けた。ADHDの子が発想力の面で大きな役割を果たしたことに違いはないが、思いつきを完成形まで持っていくのは苦手としていた。実際のところ、止めどなく出されるアイデアが他のメンバーに良い刺激を与え、各々が得意な領域を担う協力体制が出来上がっていたからこその成功だった。
 自身の性質を客観視した上で目的を共有する仲間と「弱み」を補い合う柔軟性は、人生を充実させる「鍵」となる。だからこそ、学齢期の子どもには他者と積極的に交流させるべきなのだ。

2025.07.18Vol.64 マニュアル作成のマニュアル(三浦)

 口下手もあいまって、説明することがいつまでも上手くならない。これまで一度で伝わった試しがなく、二度三度、質問してもらってようやく7割程度の伝達、といったところだろうか。一から十まで説明したつもりで三くらいなのかもしれないし、かえって十二くらいになってわかりづらいのかもしれない。「一度の指示で出来るとは思わないように」とはよく言うが、ここまで伝わりにくいのだとしたら、間違いなくこちらに非があるのではなかろうか。昔からそんなことを思いながらも、ずっとどうするべきかを放っておいてきた。しかし、そろそろそんなことを言っている場合ではなくなってきた。
 以前にビジネス書で見かけた内容として、属人化を防ぐためだろうか、「自分の仕事を細かく手順ごとに分ける」とあった。今ぱらぱらと捲ったところ該当の内容が見つからなかったのだが、「自分にしか出来ない仕事と思っていても、実はそうではない。どのような仕事なのかを細かく分けて明文化しておくことで、誰にでも引き継ぐことができるし、誰が突然プロジェクトに配属されても即戦力になれる」というようなことだった気がする。もちろん私は、説明が苦手であれば、引継ぎもとても苦手である。
 少し、なぜ苦手なのかというより下手なのかを考えてみる。まず、相手にとってどの順序で情報を伝えるのが最適かを考慮しきれていないのがひとつあるだろう。口頭では、文章のように急に段落の順序を変えることはできない。元々順番を組み立てて話すことが苦手なのだが、それがかなり悪影響を及ぼしているかもしれない。もうひとつ、「相手にはどのレベルの情報がすでに共有されているのか」がわかっていないこと。だから一から十二まで話すことになったり、一から三くらいになってしまったりして説明不足になるのだろう。
 考えれば考えるほど難しい。例えば何かの作業について頼むとする。そのとき、目的から話すべきか、手順から話すべきか、そして手順の例外についてはどのレベルまで言うべきか、世の人々は毎回きちんと考えてから伝えているのだろうか? それとも、そのうちに自然にできてくるのだろうか。話しながら考えて、後からあれこれ足りなかったとテンパってしまう身としては、尊敬しきりである。
 ここで少し前の話に戻るが、苦手だなあどうしようかなあと考えていたところ、先のビジネス書を思い出し、「マニュアル」を作るのが良い練習になるのではないかと思いついたのが、この話の発端だ。簡単な印刷などの業務を例に試しに作ってみようとしたのだが、案の定苦戦している。紙に手順を書き出した時には出来ている気がしたのだが、それをワードに起こしていると、「ここの説明は足りていないんじゃないか?」「初めて見た人がこれで完全にわかるか?」が増えていって、どんどん煩雑になっていく。必要最低限に絞ればいいのかそうではないのか、そこから悩んで止まらない。しかし、こうやって可視化すると、いかに自分が自分の中だけで確立していたやり方に頼っていたのか、それを痛感する。自分ひとりの暗黙の了解は人に通じるはずがない。その当たり前を、よく見落としてしまう。
 さて。そういうことで、この夏はいろいろなことを一度マニュアル化することで練習していこうと思っているのだが、とはいえ、例えば志高塾での指導の仕方や生徒との関わり方をマニュアル化するとなると、やはりそれはなんだか違う気もする。いや、違うと断言できる。実際、私は他の講師に指導についてお願いするときに、「生徒によって違うんですけど」と口癖のように言う。もし私のこの指導のせいでワンパターンになってしまったらどうしようと思うからだ。人には杓子定規で対応するべきではない。それぞれ色々なところに課題があり、魅力がある。それは言葉にはしきれない部分にもしっかりとある。
 そもそも、教育とは属人的な要素が強くて当然だ。誰に教わったかで考え方も学びの質も、あるいはもしかすると生き方すらも変わってしまうかもしれない。学生生活を思い返しても、思い出深い先生は授業内容ではなく細かな態度や所作、言動のほうが覚えているし、それが後々に影響を与えている。ああいった先生方には、やはりマニュアルなどはないのだろう。言葉にできないものをどう伝えるべきか、それもまたひとつの課題かもしれない。

2025.07.11Vol.63 必要十分(西北校・山下)

 『あんぱん』(2025年3月末より放送開始の連続テレビ小説)を楽しみに見ている。特に朝ドラ信者というわけではない。直近で最終話まで熱意が続いたのは『半分青い』だし、それ以前となると14年前の『カーネーション』になってしまう。毎朝の視聴が板についている人は見逃すことはないらしいのだが、こんな調子なので、気づけば定刻を過ぎてしまっていることも多い。そうしたものぐさな付き合い方ではあるが、『アンパンマン』の生みの親であるやなせたかし氏をモデルとした柳井崇が、ドラマ初回の冒頭シーンで語ったこの言葉が私の印象に残った。「正義は逆転する。信じられないことだけど、正義は簡単にひっくり返ってしまうことがある。じゃあ、決してひっくり返らない正義ってなんだろう。」…物語の舞台になっているのは第二次世界大戦前後の、イデオロギーが二転三転する時代である。
 話は変わるが、「悪夢のようなシチュエーション」と聞くとどんな状況を連想するだろうか?私の場合、その一つはこのようなものだ。意図せずおこなった何気ない言動が誰かの気に障り、その人が周りのみんなに触れて回る。ある朝学校へ行くと、これまで仲が良かった人たちが誰も返事をしてくれない…学生時代まで遡っても、具体的にこういったトラウマがあるわけではない。それでも「女子あるある」にカテゴライズされるであろうこの場面は、じゅうぶんに恐ろしいものとして深層心理に刻み込まれている。一瞬で世界が裏返ることの恐ろしさだ。
 なぜこの話をしたかというと、私の想像上のこのシーンには続きがあって、絶望的な心境でいるところにふと現れた男子が、昨日と変わらない会話を交わしてくれるのだ。(特にかっこいいというわけではない)そんな男子のイメージだなと思うのが志高塾の塾長松蔭である。この文章を書くにあたって、私から見た松蔭の人となりを紹介しようというのが一つあった。そこで浮かんだのがこの例えである。何を書こうかと考えるうち、冒頭の『あんぱん』中の一節から着想を得たのだ。先にこういうことを伝えると、なんだか聖人君子のようにとらえていると事実誤認される恐れがあるため断っておくと、普段の彼のコミュニケーション法は煽りを基調とした、個々に寄り添わないものだし、勤務スタイルだって「19時台になってもまだ先生がいたら時間の感覚が狂う」などと生徒に言われてしまうようなありさまなのだ。それでも、である。
 もう少し詳しく彼の生態に迫ってみよう。最近はいけばなに熱を入れている。ある日のこと、教室の玄関に生けるための菖蒲と青もみじが入った花袋を携えて現れた。実に似つかわしくない姿である。それまでにも折々の季節の草花を飾ってくれていたので、ドアを開けて新しいいけばな作品が目に入ると気分が和らいでいたものだったが、実際に花器に挿すところにその時初めて出くわした。華道を嗜むご子息の指南に従って、菖蒲の向きにもこだわっているのだと嬉しそうに話すのを聞くうち、ある人の姿が重なった。
 高校で茶道部に在籍していた時の話だ。顧問はかなりのおじいちゃん先生だったのだが、月に一度のお茶会の際に供される生菓子に「五島」という地元福岡の名店のものを用いてくれていた。その中で私がとりわけ好んでいたのが、細やかに刻まれた水色と紫の寒天をまとった宝石のような紫陽花のお菓子だ。高校生の部活だからとリーズナブルなもので済ませるのではなく、老舗の逸品を与えてくれたのも指導の一環だったのだろうか。その美しさが今も鮮明に思い起こされる。
 話が飛躍してしまったので現実に戻って…世は「令和の米騒動」などと言われ、あっという間に米価がひところの倍近くまで跳ね上がる事態となった。まさに「食うにも事欠く」状況だ。床の間に花を添えたり、四季の風物を象ったお菓子を楽しんだりすることは、食うことが安定した後に初めて、手を付ける余裕が生まれるたぐいのことであろう。自分自身の毎日を振り返っても、時折他の事をするついでに手軽に求めた切り花を一輪挿しに放り込むのがせいぜいだ。それでも幾多の時代の困難を経てなお、それらは今日まで絶えることなく受け継がれている。志高塾での学びも、それに似たところがあると感じている。
 景気も長く低迷する中、限られた財源の中から子供のために何を授けるのか。中高生であれば、普通はまず取り急ぎ対策を講じなければならない数学や英語の補習を…となるであろう。米を買うお金がないのに、花を買ってはいられないのだ。(誤解を避けるために言い添えれば、「必要か、十分か」という話だ)そのような時代背景ははっきり言って志高塾にとってはかなり不利である。けれどもそんな受難の時にも願わくば細々と種を植え、水をやり続けていたい。
 授業で扱う教材の一つに『資料読解』というものがある。様々な社会問題に関しての資料を分析し、自分の考えをまとめていく。生徒と共に考察を深めるうち、「解決できそうもないな、世の中腐ってしまってるな」と正直思わないではない。その時に浮かぶのがMrs.GREEN APPLEの『Attitude』の中にある「この世は腐ってなんかは居ない」という歌詞だ。私の解釈によれば、本当に「この世は腐ってなんかは居ない」と思っているというよりは、そう信じたい、信じさせて、というような魂の叫びに聞こえる。同じくMrs.の『Soranji』には「この世が終わるその日に 明日の予定を立てよう。そうやって生きて、生きてみよう。」というものもある。現状を知らない楽観論ではなく、深く理解した上で、それでも日々の中に美しさを見つけ、今日よりは明日がよくなっているように生きる。そんなふうにできたらいいし、子どもたちにもそうあってほしい。
 …と頭ではわかっていても、現実的には日々疲れるし悩むことだってある。エピソードが多すぎるきらいがあるが、最後にもう一つ。ある日私は駅前のコンビニで飲み物を買い、その前の空きスペースで立ったまま勤務前の一服をしていた。疲れていたのであろう、限りなくぼーっとして虚無状態であった私の視界に、ある生徒がいきなりフレームインしてきた。彼は満面の笑みを浮かべながら「この前そこのコンビニでお菓子を物色していたら、後ろから松蔭先生に頭しばかれた」という話を一方的にしてそそくさと店内へ消えていった。
 不思議なことにその後私は、なんだか元気が出ていた。そしてあろうことか「こんな人になれたらいいよな」と思ったのだ。先ほどの松蔭のキャラクターの件と同じく、この生徒も決して普段みんなからそんなふうに思われるような人物ではない。けれども、世界を悲観的に捉えそうになったとき、「いつも通りだよ」「美しいし、笑えることがあるよ」と思い出させることができる力があるのではないか。「悪夢のようなシチュエーション」のワンシーンのように、生きていれば気づかぬうちに人を傷つけたり不快にさせたりすることもあれば、逆に自分があずかり知らないところで人を救っているかもしれない。そう思うと少し心に明かりが灯った。
 そんな塾長や生徒たちに学びながら、今日も私にできることを精一杯おこなっている。

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