
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.12.19社員のビジネス書紹介㉗
徳野のおすすめビジネス書
矢野耕平『ネオ・ネグレクトー外注される子どもたち』 祥伝社新書
「ネオ・ネグレクト」とは、子どもが衣食住が満ち足りた環境にいても、保護者から十分な関心を向けられていない状態を指す。貧困問題と結びつけられやすい一般的な意味の「育児放棄」と区別するために著者が生み出した言葉であり、本作が発表されたタイミングで様々なネット記事に取り上げられた。しかし、そこに寄せられた感想からは、言葉が一人歩きしている印象を受けた。都内のタワーマンションに住む共働き世帯が、具体例として頻繁に紹介されるのも仇となっている。夫婦揃って激務で、しかも自分たちの両親を頼れないとなると、子どもの安全のためにも放課後に習い事の掛け持ちをさせざるをえなくなる、という事情は何も珍しい話ではない。だが、メディアでそこだけを切り取られると、コメント欄では「金にあかせて予定を詰め込まれる子どもが可哀想」という「同情の声」が上がり、さらにそれに対して「フルタイムで働くしかない夫婦の大変さも理解するべきだ」という批判が集まるのがお決まりの流れだ。いつの間にか、話題の中心が、習い事を沢山やらせることへの是非に変わってしまっている。私はその表層的な受容のされ方にもやもやする。だから、書籍を実際に手に取ることにした。
本作で取り上げられるのは、自身のキャリアや趣味を充実させる上で子の存在を煩わしく感じて、何の方針も立てずに自習室付きの塾や全寮制の学校に責任を丸投げしようとする保護者だ。問題視するべきはそういう自己本位で、親子間のコミュニケーションを厭う大人である。彼らに振り回された子どもは対人関係において困難を抱えたまま成長する傾向が強い。そして、都内の中学受験専門塾の経営者として数多くの親子と接してきた筆者だからこそ、物質的な豊かさの陰で孤独に苛まれる子どもとその家庭にスポットライトを当てたい、という動機が生まれた。傍目からは見えにくい精神面の貧しさの実態を探るべく、いわゆる「バリキャリ」の子持ち女性だけでなく、教育虐待を経験した女性、我が子と離れて暮らす会社経営者など様々な背景を持つ人々にインタビューを行い、時には著者自身の認識の甘さや思考バイアスを客観視しながら「ネオ・ネグレクト」への解像度を高めていくような構成となっている。
さて、著者は新書という形で問題提起を行ったが、だからといって社会という大きなものに責任を求め、子どもを公的な支援に繋げることが目的ではないという。繰り返しになるが、「ネオ・ネグレクト」とは家計には余裕があることが前提であるがゆえに、外側からの把握は勿論のこと、まずは当事者が自覚するのも難しい。つまり、非常に「個人的」な問題であると言える。だからこそ、著者はあえてレッテル貼りとも取られかねない造語を世に放つことで、子育て中の人と周辺の大人が立ち止まって「では自分はあの子にきちんと向き合えているだろうか」と内省するきっかけを作ろうとしている。
私自身は、客観的に見れば、「週に1、2回通っている塾の講師」に過ぎないかもしれない。だが、一人ひとりの生徒の人となりに興味を持ち、授業に関係しない会話をしていることの意義は大きいのだと再認識した。
三浦のおすすめビジネス書
高田貴久『ロジカル・プレゼンテーション――自分の考えを効果的に伝える 戦略コンサルタントの「提案の技術」』 英治出版
前回、コンサル向けのビジネス書を読んだときにも、そして日々の生活の中でも強く感じるのは、「相手に納得してもらえる」ように話すことは難しいということだ。生徒に話している時は、時には何段階か噛み砕く工程を経て、互いに納得のいく説明に落ち着くことも珍しくない。しかしビジネスではそんな悠長なコミュニケーションではなく、的確に伝える必要がある。
「相手がどこまで理解できているかを意識する」とは以前にも読んだが、本書ではより詳細に、納得のいく提案をどうするかについて述べている。まず、「目的・論点を確かめる」ことで相手の疑問を明らかにし、「仮説・検証」の工程を経て、相手に「示唆」を与えることで疑問に答える、という一連の流れに分解している。提案の際は論理的に説明することも必要だが、そもそもの前提である「論点」を理解しているかが重要であるということだ。それはアナログ的な空気感によって判断する、というのは、デジタルだけでは推し量れない血の通ったコミュニケーションだからこそだろう。
また、提案である以上決定権は相手にあり、相手が理解できるかがすべてであるというのも、当然のことながら言葉にされると改めて腑に落ちた。相手に理解されなかったのなら、非はこちらにあるということだ。
そして提案の中身だけでなく、プレゼンテーションの資料において気に掛けるべきことなど、提案の方法についても本書では触れている。「一目で理解でき、誤解されない」ためには、不要な要素を出来得る限り削る必要がある。それはビジュアル的なことでもあり、そしてここで行っているような、言い換えのスキルの話でもあった。
特徴的だったのは、本書の項目にあわせて、メーカーとコンサルタントが協力して困難に立ち向かっていくストーリーが展開される点だ。実際の会議やプレゼンテーションに似た場面は、現場の雰囲気をよりリアルに感じ、あまりこういった場に立ち会ったことのない自分でも、何が必要で何が課題なのかを想像しやすくしてくれていた。
竹内のおすすめビジネス書
今井むつみ『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』 日経BP
そもそも私たちは自分を取り囲む世界をどのように認識しているのか。この「そもそも」に目を向けていくのが認知心理学という学問である。「賢くなりたい」とか「美味しいもの食べたい」などと漠然と願っていたとして、その「賢い」や「美味しいもの」とはどのようなことを指すのか。このような定義づけを行うことが世界を見るための前提となる。
無論、この定義自体が一様に定められるものではない。その時の文脈によって変わるし、人によっても大きく異なる。そして、この人による違いは「人間の記憶のあいまいさ」や「自分の経験をベースにしたバイアス」によって生じ、避けることはできない。これらは人間の弱みといえるものだが、だからこそ他の動物にはなし得ないような高度なコミュニケーションによって連携を取ることができるのも事実である。
筆者は生成AIの出力する文章は身体感覚や経験と結びついていないものだとし、「意味を理解していない記号」を「意味を理解していない別の記号」に置き換える作業でしかないと主張している。志高塾では作文において言い換えを重視しているため、この内容にはどきっとさせられる。似た意味のものをとにかく当て、文脈を踏まえなかったり、自分自身の感覚と照らし合わせたりすることがすっぽ抜けるということは人間にも起こりうる。意味付けをするということが私たち人間だからこそできることなのであれば、それを手放すわけにはいかない。
2025.12.12Vol.79 「機械的」になる五分間(三浦)
ルーティーンが驚くほど身につかない。
些細なストレッチや短い日記のように大した手間でもないものほど、毎日行うというのがどうしても続かず、たいていのことは三日坊主で終わってしまう。よく聞くのは、風呂上がりや食後などのように行うタイミングを決めることで習慣の一部にするというものだが、それも四日目にはすっかり忘れてしまっていることが大半だ。
いや、忘れるというのは言い訳に過ぎない。「三日も続いたし、もうやらなくていいかも」という思いがなぜかふと浮かんで、それに負けてしまう。これが正確なところだ。飽き性なのか何なのか。褒められたことではない。
そういった悩みに対して、このあいだ、そもそも「『やる』『やらない』の二択にしてしまうのがよくない」という旨の投稿を見かけた。確かにその通りだ。「やろうかな、やめておこうかな、どうしようかな」という迷いが浮かんだ時点で、私の場合は何かと理由をつけて「やめておこうか」に傾いてしまう。決めたことを実行するだけの意思が弱いと言われればそれまでだ。前回の作文で取り上げた武者小路実篤の「いいと思ったことはどんな小さいことでもするがいい。」という言葉はいつもその度に背を押してくれている、押してくれてはいるのだが、実行に移せるのはせいぜい半分程度である。意思というのはすぐに強くなるものではない。
自分の意思はとうに信用できない。だから、意思に頼らないシステムを作らなくてはならない。
と、思ったところでふと、よく聞く「決断」の話を思い出した。一日の決断の回数を減らすために服や昼食をあらかじめ決めておくという話。そういえば、あれもルーティーンの一種だとようやく気づいた。これまで気づかなかったのは、私が想定している「ルーティーン」がストレッチや暗記のように、生活に新たに加えるものだったからだろう。
思い返せば、「考えないで行っている」こと自体は私にもいくつかある。しょうもないことではあるのだが、小食なこともあり、ラーメンを一杯食べきるために食べ方を自分用に最適化した。麺やスープに先に手を付けてしまうとすぐに満腹感が襲ってくるので、先に具材を完食する。そして麺、そしてスープ、という順序に決めており、行き慣れた店になるとメニューすら何一つ悩むことはない(何で満腹になるかがわかるので)。これによる利点として、食べきれるようになるのはもちろんのこと、他のことを考える余裕が生まれる。私にとって考え事に最適なのは、ひとつには散歩の時間、その次点はそうやってラーメンを食べる時間といっても過言ではない。
少し脱線した。上記のような「考えないことによって、他のことを考える」というのは今求めているものではない。それは動作中の話であって、動作に取り掛かるまでの話ではないからだ。しかし、ここからあえて何かを見出すとするのなら、「常に何かを考えようとしている」という点だろうか。言葉の割に、そんなに高尚なことではもちろんないのだけど。
そんな私が、「やる・やらない」の二択に持ち込まずにいるためにはどうするべきか。習慣化の方法論などはいくらでも本で紹介されているし、もちろん私も読んだことがあるが、いまの私に何より必要なことは、迷わないことだろう。
朝、ぎりぎりの時間まで眠った時、家を出るまでの行動は無意識のうちに最適化されている。服を選ぶなどという工程も省き、決まった荷物を持ち、機械的に身支度を済ませる。それがルーティーンとしては理想かもしれない。そう思うと、時間的余裕はない方がいい。
ここまで書いてようやくひとつ浮かんだのは、ストレッチを「風呂上がり」とアバウトなタイミングの設定にするのではなく、「風呂上がりの5分以内に始める」とより制限することだった。あまり変化はないように思えるが、だらだらする時間は減ると信じたいし、時間が減れば迷う時間も減るだろう。はたして些細な変化でどれくらい効果があるのか。
仮に、授業で生徒が上記のようなことを書いていたら、「じゃあ、実際にどうなったか今度聞くわ」と声をかける。作文して終わりではなく、それ以降に活かしてこそだからだ。つまりは習慣化を身に着けるもう一つの方法とは、「誰かに宣言する」ことだろう。この場を借りて宣言させてもらい、一カ月後、自問自答することにする。ひと月何かが続いたとしたら、それは自分にとってかなりの快挙であるし、ようやく生徒に「毎日やったら?」と自信を持って声をかけられるというものである。
2025.12.05Vol.78 内省は流れゆく時の方向を変える(豊中校・高野)
私の出身は大阪だが、一年間ある事情で週に 3 回ほど京都に赴いていた時期があった。当時は単位もほとんど取り終えて暇だったので、用が済んだら一日中周辺を探検することもあった。京都は町全体に遺産が存在し、五重塔やら神殿が生活に溶け込んでいる。そして、夜になると木造建築が街灯に照らされて、怪しげな和風情緒のただよう別世界になる。そのような雰囲気にのまれすぎると、色々と失敗してしまうこともある。ある夏の日、私は日暮れまで歩いて疲れてしまったので、上加茂神社辺りの賀茂川沿いのベンチで少々休むことにした。その周辺は虫と川の流れの音だけが聞こえ、全く人の気配なく静かであった。そのため、夜空を見上げながらのんびりしていると、そのまま寝てしまった。その後、目が覚めると朝になっていた。山裾から輝く日の出のみ美しく、私の体は暑さと蚊のためにだるくてかゆい。特にこれといった被害はなかったことだけが幸いであった。小話はこの辺りにして、私は観光以上に興味を持っていることがある。それは自分のよく知っている街の 30~40 年前の映像を見ることである。例えば、1980 年代の京都を調べると、まず目につくのは、今では地下にある京阪電車が鴨川沿いを走っている風景である。あまり詳しいことはわからないが、東福寺駅から三条駅間が 1987 年に地下化され現在に至るようだ。都に流れる河川を眺めながら列車の中で過ごす時間を想像すれば、旅行の楽しみが一つ増えそうである。このように、当時の情景を推し量りその生活を偲ぶ時は、何か新鮮な気分になる。この意味で、昔を顧みることは私たちに充実した時間をもたらしてくれる。
しかし、これが内省に転ずれば、事態は切迫したものになる。物事がうまく進まなくて、同じ方法を繰り返していてどうにもならないとわかった時、立ち止まってどうするべきか考えることが道理である。その時、今までの自分を振り返らなければ、これからどうするべきなのか見えてくることはない。高校一年生の頃、私は好奇心から、センター試験(今の共通テスト)の問題を解いてみようと思い立ったことがある。その結果、一番頭を抱えることになった教科は国語であった。内容の難しさのために、どれだけ読んでも要点をつかむことができないのだ。そして、しばらくこの問題をどのように解決するべきか模索することになった。その時ちょうど、とある塾の体験授業を受けることになっていた。そこでは、「高校生でセンターの文章を20分そこらできっちり理解できる人はほとんどいないので、文章はざっと見通すだけでいいから、選択肢と傍線部付近を熟読すれば答えは導ける」といったことを教えていた。それを聞いた時、そんなやわなやり方でどうにかなるものだろうかと戸惑った。部活動での経験を振り返えると、よくあるアドバイスとして、「これだけやっていれば何とかなる」や「世間一般で勧められているこれはしなくてもいい」といった謳い文句は何度も聴いたことがあった。だが、実際は色々な方法を試さなければならない。あるやり方がダメなら別のものを考えなければならないし、この時点では効果がなくてもその先のレベルで初めて効いてくるものもある。そのため、主流とされている勉強法をせずに、楽な道だけを勧めるのはどうかと感じたのである。なお、その講師は古文でも活用を覚える必要はないと述べていた。そのため、そこに行くのは辞めた。一年生のころは肌感覚だけで疑問を持ったが、高校卒業した頃の私なら、心の中でこのように反論するだろう。読解問題は段落ごとにプラス・マイナスや因果関係、具体と抽象の関係などの構造を見極めることが大切なので、飛ばし読みをするとその把握に混乱が生じてしまう。このような方法は、選択肢の吟味の際には役立つかもしれないが、賭けに頼るところが大きい。
だが、問題はいまだ消えていない。まず、高校入試の評論文と何が原因でここまでレベルが異なっているのか考えてみることにした。第一印象は語彙が難しくなっていることだ。その時は何にも知らなかったので、「本を読むしかない」とおぼつかなくも覚悟した。当時はなぜ専門家はこんなにも難解な語を用いるのか疑問であったが、大学院生になった現在では何となくであるが答えることはできる。学問によって差はあるものの、その積み重ねは何百年何千年に及ぶ。そのため、専門家はそのような先行研究の足跡を意識しながら議論を展開しなければならない。そのなかで登場する専門用語は、それまでの研究の文脈を踏まえたものになっているので、普段絶対に使わない二字熟語が現れることがある。また時に目にすることはあっても特殊な意味を持って使用されている。したがって、そのような流れを知らない世間の人から見ると、アカデミックな文章は理解しがたいのである。大学の研究にもなると、文系理系に関わらず、答えのない複雑な対象を扱うことになる。その際、過去の研究者の足跡を辿りながら物事への理解を深め、自ら発信しなければならない。その準備段階として、大学受験ではより高度な言語理解の能力が求められるのである。もちろん、高校生にそのような事情がわかるわけがないが、いずれにせよ学問とその言葉の背景を知るために、解決法は本を読むしかないという結論にはなる。そうして、自分の読んできた本を振り返ることになった。棚には『怪談レストラン』や『ダレンシャン』、『NO.6』といった小学生の頃の懐かしの本、そして中学二年生の頃に読んだ『人間失格』だけしかなかった(あさのあつこ作の『NO.6』は今でもたまに読むので、おススメ本です)。そのため、評論にどこから手をつけるべきなのか見当もつかなかった。したがって、しばらくの間、本を手に取ることもなかった。だが、色々と読解問題をこなしているうちに、自分の興味のあるテーマは何となく見えてくる。何かの問題集を解いている時、中沢新一著の『雪片曲線論』という現代思想を取り扱った文章が出題された。その内容は、「東京を破壊するゴジラは、物質が結合する力を解放し莫大な自然のエネルギーを取り出す核兵器のメタファーと言える存在であるが、これは社会が作り出した形式を解体しそこから自由になった力を欲望として利用する資本主義と奇妙な類似を見せている。このような『モダンな主題』においては、知性は自然の力を恐れて封じようとするが、現在は人間が自然と対話する可能性を見つけつつある」というものである。ゴジラはよく知らなかったが、社会の構造を不気味なレトリックで語るこの文章に、発想の奇抜さを感じて興味を持った。そのため、苦労して探した結果、幸運にも近隣の図書館にその本は置かれてあった。こうして、私は奇妙な思想の世界に分け入ることになった。その甲斐あって、現代文も少しずつ読めるようになっていった。
私は、大学受験で本気を出せばいいという理由だけで、進学先を単位制高校にした。自由な時間だけは多く与えられていたので、自分について振り返る機会も増える。そして、色々なことにじっくり挑戦することもできた。そのため、自分で主体的に使うことができる時間というのは、人間にとって最も貴重なものであると私は思う。この先、AI等の技術が発達して、「可処分時間」が増えるのか、それとも仕事が奪われるだけに終わるのかはわからない。そのような時代に最も考慮するべきは、自分の成長のためによりよく時間を使えるような福祉制度の設計であろう。せっかく先人がここまで科学技術を発展させたのに、その結果、減り行く椅子を奪い合う競争が激化するだけでは、あまりにも夢がない。
2025.11.28Vol.77 それでも人生は続く(徳野)
Vol.74で言及した灰谷健次郎の『太陽の子』は豊中校にあった。当初のお目当てはそちらだったので、もちろん手に取って420ページを一気に読み終えた。だが、『兎の眼』から得られたような温かな感動はそこには無かった。むしろ、人生の虚しさを突きつけられたような感覚が強い。
私見だが、灰谷は本作の執筆にあたって、1974年発表の『兎の眼』との差別化を相当意識していたはずだ。両作品とも登場人物たちの大半は善人で、他者のために心を砕くことを厭わない。稀に周囲から孤立している人物もいるが、主人公との交流を経て居場所を見つけるに至る。小谷先生と鉄三たちの場合はそこで大団円を迎えた。しかし、1978年出版の『太陽の子』の結末はあまりにも悲しい。それに関して翻訳家の清水真砂子氏は、どこまでも明朗で健気なヒロインの「ふうちゃん」に父親の自死を経験させたところに、灰谷が持つ「人間に対する冷ややかなまなざし」が表れていると評している。個人的には清水氏の言葉そのものには厳しすぎる印象を受けた。ただ、『兎の眼』と比べて、「傷ついた者を導き、救う」行為を多面的に捉えようとする試みを文章の端々から感じ取ったのは確かだ。
例えば、ふうちゃんの小学校の担任教諭である梶山先生が、「ときちゃん」という女子生徒から、生徒との向き合い方について思いの丈をぶつけられる場面がある。ふうちゃんの「おとうさん」は精神科に通院しており、自身が神戸で経営している沖縄料理店「おきなわ亭」での仕事だけでなく、家族との会話も難しい状態にある。日がな部屋に塞ぎ込み、時には発作を起こすおとうさんを、ふうちゃんは元気づけようと奮闘する。そして、梶山先生はそんな彼女を常に気にかけている。「おかあさん」が一人で切り盛りすることになった「おきなわ亭」に幾度となく足を運んだり、おとうさんのルーツである戦時下の沖縄について学ぶふうちゃんと交換日記をしたりと、「親身になってくれる教師」像を体現したかのような男性だ。小谷先生を彷彿とさせる。しかし、ときちゃんは「わたしは先生はうそつきの人だと思います」と吐露する長い手紙を梶山先生に送った。「先生が、だれにでもやさしいとは、わたしも認めます。けれど、大峯さん(ふうちゃんのこと)にやさしくするときは、真剣で、わたしのときはそうでもないみたい。」、「先生はよく勉強ができない子に、じょうだんをいってリラックスさせるでしょう。わたしにじょうだんをいうときは、ついで、みたいです。」という風に、生徒に対する一種の不公平さを指摘する。また、先生がふうちゃんに熱意を注ぐのは、彼女が「溌剌とした才色兼備」で、しかも「家族のことで苦労している」という条件が揃っているからではないか、とも。ときちゃんだって母子家庭で必死に生きているだけでなく、ふうちゃんのおとうさんが自宅に不法侵入してきた夜には恐ろしい思いをしたのに。大人しいときちゃんは、「目立たない存在」に位置づけられていたからこそ、先生の中にある自己満足を見透かしていたのだ。しかしながら、梶山先生はやはり人格者である。ときちゃんが抱える孤独と劣等感を正面から受け止めていた。以降は「本気で教師になる」という決意を胸に、クラス全体を巻き込みながら生徒たち一人ひとりの知性と感性を刺激する授業設計をするようになった。灰谷が描く学びの風景はやはり魅力的だ。
梶山先生の「開眼」だけでなく、本作には光が満ちていくようなエピソードが沢山盛り込まれている。だが、ふうちゃんのおとうさんの最期は、彼を支えるべく奔走してきた登場人物たち(と読者)に生まれていた希望を打ち砕いた。おとうさんは戦争での体験からPTSDを発症しているのと同時に、故郷の自然への憧憬に駆られてもいた。その事実に辿り着いたふうちゃんとおかあさんは、沖縄への家族旅行を計画する。懐かしい土地で療養させれば、昔のお喋りで働き者のおとうさんに戻るかもしれない。里帰りに向けた買い出しの際も普段より安定した様子を見せていたのだし。なのに、その晩におとうさんは自ら命を絶った。決断に至るまでに彼の中でどのような心の動きがあったのかは全く描かれていない。遺された人たちは「おとうさんはなぜ死んだのか」「どうしてあげればよかったのか」と、自問を続けながら生きていくのだろう。
では、灰谷は「冷ややか」だからこんなに悲劇的な幕引きにしたのだろうか。作者として「どんなに親しい間柄でも相手の全てを知りえない」というメッセージを投げかけているとは思うし、そこから挫折感を読み取る人がいるのも理解できる。だが、私自身は「知りえないからこそ、対峙し続けなければならない」という方向で捉えている。それは、ふうちゃんが苦悩しつつも、おとうさんの最期を自分と死者たちの「これから」に繋げようとしているからだ。物語はふうちゃんが親友のキヨシと一緒に、家族でピクニックに出かけた思い出の場所でお弁当を広げながら、おとうさんを弔う場面で終わる。その際、「うち結婚したら子どもをふたり生むねん。ひとりはわたしのおとうさん。もうひとりはキヨシ君のお姉さん。」(キヨシの姉も若くして死を選んだ一人である)と、静かに宣言する。小学6年生のヒロインに語らせる死生観としては気色の悪い部分は否めない。ただ、出口の無い「なぜ」の深みにはまっていく以外の向き合い方があることも教えられた気がする。ふと、”Life goes on”という英語のフレーズを思い出した。
2025.11.21社員のビジネス書紹介㉖
三浦のおすすめビジネス書
中野崇 『マーケティングリサーチとデータ分析の基本』 すばる舎
昔から数字に弱い。数学どころか算数から苦手意識があり、データというものともうまくやれる気がしない。本書は「文系出身のどちらかと言えば数字が苦手な方や、主たる業務がリサーチやデータ分析ではないものの必要になってきた方」向けとあり、そういう私のような人間にもわかりやすく、専門的すぎない入門書として書かれている。
リサーチ分野では、まずそもそも「何のためにデータを集めるのか」という目的をはっきりとさせなければ、どのようなデータをどのような手法で収集するかを明確にできない、ということが述べられていた。確かにアンケート調査などにおいても、「消費者の何を知りたいか」は「どんな課題を解決したいのか」を考えなければ適切なものは浮かび上がってこない。そしてそのためにも重要なのは仮説を立てることで、上記の「どんな課題を解決したいか」でも、ある程度その課題の原因に対する仮説を立てなければ、アンケートの項目は不明瞭になってしまう。
また、データ分析に関しては実際の数字やグラフが用いられ、実践的に頭を働かせながら読み解く練習になった。まだ自分の出来としては不十分だが、その中で、データへの苦手意識は、数値を漠然と見てしまっていることに原因があると気づかされた。何と何を比較するべきなのか、まずは何に焦点を当てるべきなのか、どういったデータが信頼できるのか。例えば数社のブランドの認知度と好感度グラフが提示された場合、その好感度のグラフはブランドを認知している人の回答となる。つまり回答している母集団が違うので、ただ見比べるだけでは不十分だ、というようなことだ。言われてみれば当然のことでも、グラフを提示されたときにすぐに気づける自信はない。それを見極めようとすることは、いち消費者としてのデータリテラシーを培うためにも、良い勉強になった。
竹内のおすすめビジネス書
中原淳 『話し合いの作法』 PHPビジネス新書
学校での学級会、部活でのミーティング、職場での会議、これまでにあらゆる場で「話し合い」を経験してきたが、よくよく考えるとどのように進めていくのかという具体的方法を教わる機会はほとんどなかった。特に学校では、その話が果たして自分に関係あることなのかよく分からず、気付けば決められた答えがそこにあるということも決してゼロではなかった。自分自身がそこに参加しているという実感を持ち、出た結論を他のメンバーと共に背負っているという意識を育むためには、きちんと作法を身につけておかねばならない。
話し合いには「対話」と「決断」の2つのフェーズがある。各人が今はどちらの段階にあるのかを把握することがまず求められる。そして、前者において必要なのは、まだケリのついていない問題に対するお互いの認識を共有していくことである。それぞれの考えを提示すること、そこにどのようなずれがあるのかを確かめていくこと、そのような丁寧な作業は、「その中のどれかを答えとすればいい」ではなく、「新しい答えを見つけよう」という意識へと発展していく。この場でのファシリテーターの役割は重要で、問いを提示し、そして「間」ができることを恐れずに相手からボールが返ってくることを待つ必要があるのだ。
もちろん参加者はただその流れに身を任せれば良いわけではない。「決断」の先には「実践」が伴っていなければならい。導き出した結論に自分が関わっているという意識、自発的フォローを全員が行うということを共有し、組織として確かな土壌を作り上げる努力を、皆が自分と、仲間のためにするのだ。
徳野のおすすめビジネス書
大野栄一 『できるリーダーが「1人」のときにやっていること マネジメントの結果は「部下と接する前に決まっている」』 日経BP
ページをめくりながらまず思ったのは、「大人も子どもも本質はさほど変わらない」ということだ。本作は、部下が仕事にやりがいを感じるために上司自身はどうあるべきか、といういわゆるマネジメント論を扱っている。そして、リーダーとしての「指導」とは、チームのメンバーに「あなたはこれまで、あなた自身に何を教え込んできたのですか?」という問いを発することだ。その対極にあるのが、具体的な指示や助言である。(パワーハラスメントはまず論外。)「こうすれば良いんじゃない?」と教えるのは親身に見えて、あくまで自分にとっての「良い」を押し付ける行為だからだ。著者はそれをするのは、相手の成長に対して無責任であると断じる。
今更だが、志高塾の国語では正解が一つに絞られない作文をカリキュラムの中心に据えている。自分なりの答えを紡ぎ出さないといけない点において、移ろいゆく現代社会での仕事に通じるものがあると言える。また、「上司」を「講師」に、「部下」を「生徒」に置き換えると、相手の主体性を引き出せるタイプの前者の価値をイメージしやすい。そして、著者の定義する「優れた指導者」とは、何よりまず自発的に内省できる人物である。大小さまざまな困難に直面した際に小手先の解決法に飛びつくのではなく、一人静かな環境で問題の原因を探るのはもちろんのこと、「今の自分は何をどのように考えているか」という風に己に向き合う時間を確保する。客観視を通して内側に潜む「偏見」や「好き嫌い」などの自己中心的な部分の認識に至る。すると、他者のためにもなる言動を自ずと志向するようになるから、良いリーダーとしてのあり方が確立されるのだ。
本作においては、スティーブ・ジョブズの「Conenecting the dots(点と点をつなげる)」という言葉の引用も印象的だった。「今その時の関心や体験が、知らないうちに自分の未来に繋がっていく」。あくまで現時点での「将来の約に立ちそう」という実利的な基準だけで物事を判断せずに、とにかく興味を持ったことに取り組んだり、教養に触れる機会を作ったりした方が創造的な人生を歩める。そのための時間として読書はうってつけである。
2025.11.14Vol.76 人を信じる自分を信じてみる(三浦)
「いいと思ったことはどんな小さいことでもするがいい。早起がいいと思えば早起、勉強するがいいと思ったら勉強、仕事を忠実にしようと思ったら忠実に、怒るのをやめようと思ったら怒らないように、怠け心と戦う方がいいと思ったら戦え。」
「どんな小さいことでも少しずついいことをすることはその人の心を新鮮にし、元気にさせる。」
上記の引用は、武者小路実篤、『人生論・愛について』の「人生論」からだ。ちょうど読み進めている最中で、どこかに残しておきたくなったので、ここに残しておく。
かなり前の作文で、文学館を訪れるのが好きなことを書いたと思う。そしてその時に、それまで全く知らなかった武者小路実篤の色紙を見て感銘を受けたことも、おそらく書いていたはずだ。その色紙は素朴な野菜の絵の横に、「君は君、我は我也、されど仲良き」とつづられている。言葉はごくごくシンプルで、けれども他者の在り方と自分の在り方の違いをそれぞれ尊重し、その上で仲良くいられることを信じていることが伝わってきて、なんて素直な人なのだろうと感動したのだった。
はじめに引用した文章も、ごくごく当たり前のことを書いているに過ぎない。いいと思ったことはしたほうがいい、当然だ。誰だってそう思うし、誰だってそう言うだろう。私が引用したものを読んだだけでは「そりゃそうだね」「それができれば苦労しないよね」と流して終わりになっても仕方がない。
けれど、本を通して読んでいると、それがどれだけ本気なのかがわかる。美辞麗句はない。どこまでも実直に、「人が人らしく生きていくには、それぞれが本当にいいと思うことをして、人間全体を成長させていかなくてはいけない」と考え、そして「人間にはそれが出来るはずだ」、「出来る社会にしていけるはずだ」と信じ切っていることが伝わってくる。本当に信じていなければ書けない言葉だ、と感じさせる何かがあった。
人を信じることが難しい時代になってきている、と思う。時代と限定する必要もない。どこかの読解問題で「信用するというのは、それだけで諸々のコストを削減できる」と書いていたが、本当にその通りだ。荷物が盗まれる心配がなければすべての荷物は置き配でいいし、万引きの心配がなければ無人販売所もセルフレジももっと有効活用できるだろう。だが、それが難しいことを私たちは知っている。知ってしまっている。人の善性に頼るシステムは脆弱だ。数年前、近所の夏祭りに行ったときのことだ。大きなゴミ箱の横にいくらかゴミ袋が用意されており、「いっぱいになったら変えてください」と使用者に委ねる形になっていたが、明らかに溢れ返りそうになっていても無理やりゴミを突っ込んでいく人ばかりで、取り換えようとする人はいなかった。仕方なく私と友人で交換したのだが、しばらくした後にもう一度前を通りかかったら、その時には既にスタッフの人が待機するようになっていた。そんなものだろう。
私が初めて実篤の文章を読んだのは、『真理先生』という本だった。ちょうど志高塾に講師のおすすめ本としても紹介していたので、その紹介文を一部引用する。
「努力をすれば報われる。夢物語のようかもしれませんが、真剣という美徳を、そして人生を信じてみたくなるような、そんな一冊です。素朴に、ただただ素直に生きることって、どんな世の中でもきっと難しいものだと思います。けれどそうやって生きることこそが、自分の人生を、そして他人の人生を肯定できる最も善い方法ではないでしょうか。実践できるかどうかはさておいても、読み終わった後には少しでも晴れやかに、自分の道を見つめなおすことができれば幸いです。」
遡ってみれば、四年前の紹介文だったらしい。そこからゆっくり四年かけて、代表作である『お目出度き人』『友情』、そして『人生論・愛について』を読み進めてきたことになる。前者二作は、簡単に言えば特にアタックすらかけていない主人公が当然のごとく片思いの女性(少女)に失恋する物語だ。失恋といっても、「まあ、何もしてないし仕方ないよな」と思わされるので特別悲しくもないのが面白いところだ。
だが、やはり、どこまでも人間の可能性を信じ、人間ことを深く愛しているまなざしが表れているのは、他二作だろう。特別文章がうまいわけではない。書くだけであれば誰でもできる。だが、心から人を信じて、ずっと同じことを論じつづけられるのは、それは人柄の才能に他ならない。行動の面でも、実篤は互いを尊重して生きる共同体である「新しき村」を有志と作り、そして今もそれは受け継がれている。いつか訪れてみたい場所のひとつだ。
私自身も結構なひねくれものだが、人間を信じる心に覚えた感動を忘れず、同じように実直に生きることを目指してみたい。そのためにはやはり、「いいと思ったことはどんな小さいことでもする」と、そんな身近なところから始めるしかない。夏祭りのゴミ袋を取り換えるのだって、そのひとつだったのかもしれない。








