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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2025.01.31Vol.47 「クリエイティブ」を問い直す(徳野)

 10から20年後には日本の労働人口の約49%がAIやロボットに取って代わられる。その予測じたいはもはや「耳タコ」だ。2015年に野村総研とオックスフォード大学が共同で発表したレポートが出処だとはつい先ほど知ったのだが、それによると主にマニュアル化、パターン化が可能な職種が対象になる一方で、人間の心に関わるアートや対人コミュニケーションの領域はしばらく安泰とみなされていた。しかしながら、チャットボット型の生成AIの目覚ましい発達を鑑みると、クリエイターやカウンセラーの立場も危うくなってきた。それは学生との密なコミュニケーションを売りにしてきた個別指導の塾講師も同様だ。子どもに問題の正解をすぐに教えないよう設計された学習アプリはすでに登場しているし、他人の顔色が気になる性分の学生の中には、感情を持たないAI相手だからこそ肩の力を抜きながら勉強に集中できる子だって少なくないはずだ。今はまだ極端な話になるが、ほんの一握りの優秀なプログラマーと組織の意思決定に関わる重要人物以外は労働力として求められなくなる未来も現実味を帯びてきている。
 そして、機械音痴なくせに呑気に過ごしてきた私も、『資料読解』の改訂に役立つかと思って去年の3月末に某IT企業が開催していた「ChatGPT超入門」というオンラインセミナーに参加してみた。講師役の社員さんが「ChatGPTで何ができるか」という根本から上手く使うためのコツまで丁寧に解説してくださったおかげで、食わず嫌いしていた生成AIに触るようになったのだからけっして無意味ではなかった。とは言っても、GPT3.5の当時のスペックでは学習が追い付いていなかったマニアックな漫画家やミュージシャンの経歴を述べさせて鼻で笑う程度の遊びを2週間続けてだけで終わったのだが。
 しょうもない扱い方しか出来なかったのは、結局のところ私自身が自分の仕事には今後も深く関わらないだろうと決めつけていたせいだ。作文を通して生徒の考える力を養うことを目指す立場の人間が生成AIに頼るのは邪道だと考えていた節があったのだが、今年になって風向きがまた変わってきた。まず特筆すべきは、内部向けの「志高くVol.214」で紹介された「AI 経営講座 AI Business Insights 2025」を松蔭に求められる形で受講し始めたことだ。最先端の情報に触れながら他の講師や生徒のためになる提案に繋げるのはもちろんのこと、私個人が日進月歩のテクノロジーを使いこなせるようになることで仕事の能率を向上させるのが狙いである。現時点で初回のアーカイブ映像を視聴しただけではあるものの、最高学府の研究者である松尾教授だからこそのマクロな視点でセッションが展開されていたのが印象的だった。どうしても比較対象になってしまう先述のセミナーでは、開催企業が自社製品をPRしやすいよう話題を「日々の事務処理を効率化するには」という範囲に収めていた。そこの需要が世間的に増えてきているのは事実だろう。だが、ここからは松尾教授からの受け売りになるが、日本が世界デジタル競争ランキングにおいて順位を年々落として67か国中31位になっている背景には専門人材の不足の他に、DX化を進めるべき業務での労力をそもそも無駄と捉えない、もしくは多少の面倒ならアナログの力で乗り切ってしまう企業体質が大きく関わっている。(ちなみに、競争ランキングの1位はシンガポールで、我が国と同じ東アジアの韓国が6位、中国が14位である。)よって、目先の、というより手元の利便性を謳うだけでは訴求力が弱く、我が国でビジネス面ひいては技術面での成長を加速させるのは困難なままだろう。全体的な底上げのためには、AIが人間を含めた社会全体にもたらす変化、つまり将来的にどのような「価値」を生み出すかを探る過程が重要になる。
 もう9年も前になるが、オランダのマウリッツハイス美術館とレンブラントハイス美術館のチームが、17世紀に活躍した国民的画家レンブラントの画風を模倣した作品をAIに生成させた。
 https://wired.jp/2016/04/14/new-rembrandt-painting/
学芸員の知見を結集して「レンブラントらしさ」を巧みに視覚化させた興味深い研究プロジェクトであったのと同時に、そういった事例がニュース等で取り上げられる度に「イラストレーターはもう必要無いのではないか」という声が必ず上がる。「イラストレーター」の部分は「ライター」や「ミュージシャン」に置き換えられるので、「人間がクリエイティブな能力を身に付ける必要は無い」と主張しているようなものだ。事実、何かを形にするだけならコスト面では機械の方が断然優秀だろう。だが、不要論者の人たちに聞きたいのだが、生成AIが提示してきたアイデアや作品を本当の意味で「面白い」と感じたことがあるだろうか。例えば、フランス政府が開発支援した会話型の「ルーシー」は「牛の卵は健康に良い」などのハルシネーションを連発して話題になっている。そうやって意図せず生み出された珍回答は暇つぶしにはなる。一方で、そこでの「面白い」は「小馬鹿にできる」ということに過ぎないし、件の「ルーシー」も来年にはまともな挙動を安定させている可能性が高い。すると、国際的な知名度が高いChatGPTやGeminiのように最大公約数的なアウトプットを返してくるものしか残らなくなる。(裏を返せば、世間の常識を知る媒体としては見どころがあるとも言える。)個人的に、生徒たちにはそういった生成物を無批判に受け入れ「自分の意見」としてどこかに提出するのは止めてほしいと考えている。「楽をするのはずるいから」という根性論が理由ではない。「常識に囚われないこと」や「個性的であること」のように「その人ならではのもの」を打ち出せる人材が評価される傾向が強くなるであろう社会でより良く生き抜いてほしいからだ。自分の言葉を編み出し、単なる一般論を超えていく過程こそが「クリエイティブ」なのだと伝えていくのが、AIの時代を生きる我々講師の役割である。

2025.01.25社員のビジネス書紹介⑯~『リハビリの夜』感想文~

「志高く」Vol.666で予告されていた通り、今回は社員3人ともが『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著、医学書院)を読み、以下に感想を述べています。一冊の本に対して、共通するポイントもあればそれぞれ独自の視点もあり、読書会のような面白さがありました。三者三様に読みごたえたっぷりの感想文、ぜひじっくりとご覧ください。

【三浦の感想文】

 要約ではなく感想として、以下につらつらと書いていく。
 ふと思い出したのは、ピアニストに対してロボットを使ったトレーニングをするという記事だった。以下にURLを貼っている。正確には、「5本の指を独立かつ高速度に動かせる『外骨格ロボット』を用いて、自力では不可能な複雑で高速度な手指の動きを体験できるトレーニング」とのことだ。結果的に、ロボットを用いた手指だけでなく、トレーニングを行っていない反対の手指にも効果が表れたという。

【プレスリリース】ピアニストが自身の限界を超える技能を身体で覚える手法を発見


 どうしてこれを思い出したのかと言えば、本書で筆者が取り組んでいたリハビリが、模範とされる健常者の動きをなぞらせるものだったからだ。正解の動きを模倣する行為という点では上記のロボットと共通するような、しないような。
 それはさておき。いわゆる身体的多数派である私には実感としてイメージが湧きづらいかもしれない、と思って読み進めていたのだが、それは杞憂だった。とはいえ、共感したと言うべきでもないのだろう。いわば「追体験」だ。脳性まひにより常に緊張を強いられる肉体、肉体の緊張がほどけていく弛緩のプロセス、そこに介入する他者との触れ合い。それらは丁寧に描かれ、想像をするには十分だった。
 リハビリをする側であるトレーナーの意識は、される側であるトレーニーの意識と混ざり合っていくという。そして読者である自分は、トレーナーとトレーニー、どちらの視点の側にも立ちながら読み進めていく。本書では身体的な関係性を中心に述べられているが、きっとそれは身体に限らない。教える側になったとき、相手の思考を追いかけるようにと意識を巡らせることは少なくない。もちろん身体的なイメージほど明確に融和するわけではないが、それでも、相手に入り込もうとする意思はそこにある。
 その時、私は果たして、相手に「あそび」を許しているだろうか? この「あそび」とは本文の表現だったが、言い換えれば余白ともとれるだろう。一方的に相手の一挙手一投足を監視し、そのひとつひとつを一方的に強制しようとしていないだろうか? 筆者がリハビリの中で怯えを感じた場面である。相互に触れ合い、関係を作り出すことができなければ、怯えは緊張へと転じていく。強制的にではなく、互いにつながりを結んで初めて、意味のある関係性となるのではないだろうか。
 ピアニストをトレーニングしたロボットの話題に戻る。筆者のリハビリは見よう見まねで、見本に自分の身体を合わせようとしていく(そしてそれゆえに身体の強張りは増し、目的に到達できない)作業であった。ロボットの方は外部から、「合わせようとする」力が働く。そのロボットと指先の間に、どのような関係性が生まれるのだろうか。

【徳野の感想文】

 リハビリは誰のためのものかと問われて「トレイニー(訓練の受け手)」と答えない人はおそらくいないだろう。だが、著者が子どもの頃に接してきたトレイナーたちは、「トレイニーのためになる」とは「健常な動きができるように矯正してあげること」という傲慢とも言える認識の下で施術を行っていた。脳性まひと共に生きてきた著者と多数派の身体を持つトレイナーでは運動が起こるまでの過程つまり「仕組み」が全く異なっている事実が無視されていた環境で、指導者からの苛立ちの目にさらされる著者の精神は余裕を失い、関節はますますこわばっていく。まさに悪循環。
 他者に身を委ねたくても自分と調和した動きをしてくれる存在を見つけるのは難しい。だからこそ、著者は主体的生活をする力を養うべく大学進学を機に一人暮らしを始めた。必要に迫られれば介助を受けたり、自宅のバリアフリー化を進めたりするのだが、恥ずかしながら私にとっては、重いハンディキャップ(この表現が適切なのかすら自信が無い)を抱える人が自活できるようになること自体が驚きだった。著者が下宿先のきわめて一般的な形のトイレに初めて「挑んだ」ときの緊迫感と無力感、そして後始末に費やしたであろう労力は文字を追うだけでも肩に圧し掛かってくるようだった。しかし、著者にとっては上手く行かないと分かった時の脱力感は「官能」になる。そこから住環境や屋外と「融和」していくための改善点を発見し、弦楽器のチューニングに喩えられるアップデートを繰り返すきっかけになるからだ。その失敗への前向きな姿勢も「自分で問題を解決していける」という自己肯定感があってこそなのだ。
 同時に、他者からの支えが必要なのに変わりは無い著者は、補助者に助けを求めることの重要性にも言及している。自分の状況を把握し相手に要望を明確に伝えることも立派な能動性とみなせる。また、補助者がどう振る舞うべきか戸惑うこと自体はけっして悪いことではない。少数者に受動性を押し付ける権威的なトレイナーとは違い、自分とは全く異なる他者のペースを理解しようというまなざしがあるからだ。この著者の見解には、講師として少しだけ救われたような気持ちになった。
 そして、コミュニケーション能力について気になっていることがある。本作の著者は知性溢れる繊細かつ濃密な筆致で脳性まひと共に進んできた自身の半生を振り返っている。だが、全ての少数者が著者のように言葉を扱えるわけではないのも事実だ。そういう人びとがどのようにして他者と能動的な信頼関係を築いているのか。まだまだ知らなければならないことばかりだ。

【竹内の感想文】

 歩くという動作一つにおいて、股関節、ひざ、足首といった各部位がスムーズに連動してそれを可能にしている。このことからは、一つひとつに脳からの信号が送られる「縦の関係」だけではなく、筋肉同士が互いに作用しあっている「横の連携」があるといえる。この連携のことを「身体内協応構造」と呼ぶ。脳性まひである筆者の場合はそれが過剰であることが身体の不自由さに繋がっていた。ある動作を行うときの筋肉の動きには、ほとんどの人が無意識である。だからこそ過剰な緊張が体に走ると、意識的な運動が上手くできなくなってしまう。そのようなこわばりをゆるめることのできる介助が彼には必要だった。
 幼少期からの数々のリハビリ経験を通じて、トレイニーである筆者はトレイナーである人間はもちろん、自分自身との身体、そして周囲に存在するモノにまで目を向け、「協応構造」を作ってきた。自分自身に対して他者がどのような反応を示すのか、自分がモノに対してどのように接地しているのか、その確認、すり合わせを何度も何度も行っていくことで自分に自由がもたらされていく。できることが生まれる。トレイナーの強引な指導でもトレイニー自身の努力でもなく、両者が一体化したり、離れたりする柔軟な関係性が障害を負った者の自立を促す。ここで注目したいのは、このような関係はおそらく双方が同時に歩み寄って確立されていくわけではないということだ。どちらか一方が先により深く相手を観察し、対応し、場を整えるからこそもう一方が応えやすくなる。そしてその先んじた動きが押しつけがましくないことがコミュニケーションを円滑にする。大人と子ども、トレイナーとトレイニー、講師と生徒のような関係性において、前者は後者をよく見ることが求められる。相手をほぐしていくためにまなざしを向けることは当然だ。しかしその時、後者も同じように前者を見ている。そのことを忘れてはいけない。親御様と面談などで話していると、子どもたちが教室での出来事を持ち帰っていることがよく分かる。自分との直接的な会話だけでなく、他の生徒や、さらには講師同士のやり取りなんかもよく聞いているし、そこから「どのような人物か」を汲み取っている。「今日はやり取りが充実したなあ」というときは、その手応えを喜ぶと共に、生徒が受け入れる姿勢を持てていたということも押さえておきたい。筆者は街中で介助を求める時、相手の目を見つめた際にその人が瞬時に見せる姿勢の変化から、その人が助けてくれるのかどうかをなんとなく推察することができる。そして実際に助けを受ける際には決してなされるがままではなく、介助者の心情をなぞりながら、どのようにしてほしいのか導いていく。
 教えたり、助けたりする役割を担うと、自分が引っ張る側であるという意識が強くなる。しかし実際には相手の意思が存在し、同意も反発も起こりえる。それすらも言葉や態度にはっきりと表されないことだってある。見る者であると同時に見られる者であるという自覚によって、相手との協応構造が結ばれていくのであろう。

2025.01.17Vol.46 馬車馬のように、野馬のように(三浦)

 「馬車馬のように働く」、という言葉を時折思い出す。
 なんとなく、馬車を引く馬なのだから滅茶苦茶に働いているのだろうな、(馬にそんな目にあってほしくないけど)ボロボロになるまで働くみたいな意味なのかな、と想像していたのだが、この機に調べてみると違うらしい。一生懸命というのは間違いではないようだが、それよりも「わき目をふらずに」一生懸命働く、という方がポイントらしい。馬車を引く馬はよそ見をしないように覆いを被せられることから来ているそうだ。
 正しい意味すら知らないような言葉をなぜ時折思い出すのかというと、小学生の記憶まで遡る。今のように意味を勘違いしているまま、どこで聞いたかも覚えていないまま「馬車馬のように働かされてるなあ」と友達に話し、「何それ?」と普通に聞き返された思い出だ。これの何が印象的だったか。「自分にとって当たり前の表現が、人に伝わるとは限らない」という当たり前のことが、初めて身に染みたことだ。もちろん幼少なりの優越感のようなものも当時はあったのだろうが、書き言葉と話し言葉の違いや、一般的に使う語句への意識など、折に触れて思い出す事柄である。
 聞いたことがあったり、見たことがあったりするレベルの言葉をとにかく使ってみる。これについては前にも何かで書いた記憶もあるのだが、使う言葉を増やすのに一番必要な工程だと思う。そのためにはまず、「知らない言葉」に出会わなければいけない。ここではやはり読書を推したいところだが、別に読書である必要性はない。自分のことを振り返れば、それなりに本を読んでいた小学生時代だったが、そうやって本を読み始める前に、映画なり漫画なり周囲の大人との会話なりで、最低限の下地が出来ていた気がする。大人との会話でいえば、母に「子どもだからって簡単な言葉を使おうとはしなかった」と私を育てたときのことを教えてもらったこともある。子どもだから、と言葉の難度を下げすぎるのは、それは子どものためにならないのかもしれない。
 とはいえ、昔に観た映画も読んだ本も、ほとんど内容は忘れてしまっている。この間、中学生の頃につけていたらしい読書ノートを発掘した。日記も三日坊主なら読書ノートも三冊坊主、ほんの数冊しか載っていなかったのだが、「こんなの読んだっけ?」「そんなシーンあったっけ?」の連続だった。中学生でそうなのだから、小学生の頃に手にした本などなおさらだろう。図書室の片隅で読んでいる自分の姿は思い出せるのに、何度も読み返したファンタジーでさえ、内容はワンシーンごとに微かに浮かんでくるばかりだ。
 しかし、もちろんのこと、「忘れるようなら読まなくていい」とはならない。いろいろな効用はあるのだが、先の話と絡めるのであれば、やはり色々な言葉に触れる経験として無くてはならないものだった。そして付け加えるのであれば、「わからない言葉をなんとなく読む」経験は必要不可欠だった。昔に読んだ記憶のあるナルニア国物語、『朝びらき丸 東の海へ』が教室にちょうどあったので、適当なページを開いてみる。「そのうちだれのだろう? 短剣の上に、みとむべき印はない」「また、われら、どのように仇をとげるべきでしょう?」という会話があった。「みとむべき」や「仇をとげる」、恐らく当時の私の知る言葉ではないし、今も使う語彙かといえばそうとも限らない。けれど、当時の私は間違いなく読み切ったのだ。なんとなくの力で。本を返す際に「わからないから面白くない」「ここの表現がわからないから読めない」という感想を耳にすることが多いが、正直なところ、100%わかるはずだと思って本に取り掛かるものではない。わからないところはわからないところとして割り切ったり、なんとなくで推測したりすることが必要だ。「わかるもの」だけ追い求めるのは、近道ばかり求めることと似ている。
 冒頭の話に戻る。受験真っただ中の時期だからこそか、馬車馬のように勉強に打ち込むことの必要性を痛感すると同時に、同じくらい「馬車馬」であり続けるだけではいけないよな、と思わされる。がむしゃらに一直線に走ることももちろん必要だが、よそ見をするからこそ得られるものも世の中には多い。先の知らない言葉なんかはまさにそうで、気にしていないと引っかかりもしない。あれやこれやと目的から外れたものに手を出して、そこからアイデアを得ることもしばしばあるだろう。よそ見をしないようにと馬につける「覆い」を自分で付けたり外したりできるのが、馬とは違って馬車を引く必要のない私たちのひとつの利点なのではないだろうか。
 一方でこう書いている私は、よそ見もわき見もしまくって色々と中途半端になってしまう自分を顧みて、今年はもう少し「馬車馬のように」頑張る時間を確保しようと思う。例えば、買うばかりで積み上がっている本を読み崩すとか。他の娯楽が見えないように覆いをつけて。今年の抱負だ。

2025.01.10vol.45 ○妙の境目(竹内)

 2025年最初の「志同く」。本年もよろしくお願いいたします。
 高2の生徒が意見作文に取り組んでいた際に、「嫌いであることの理由は言語化できるが、好きであるものの方がそれをするのは難しい」といったことを述べていた。この「嫌い」はやりたくないとか、できないとか、もう少し意味を広げられる。そういうことがあった時にはそれを正当化するための言い訳をぽんぽん出してしまいがちである。もちろん様々な事情でやれない、できないことというのは存在するが、そのような場合には理由を求められることが多い。好悪は感情の一つだからこそ、「嫌だから」で済ませるのでなく何かしら相手を納得させうるものが必要ということなのかもしれない。それに比べると、確かに「なぜ好きなのか」を明らかにしなければいけないことは少ない。そんなあまり考えていなかったことに目を向けさせるために、意見作文を通じてしっかり言語化させるところまでが、我々にできることである。
 講師向けの第2回のワークショップを昨年の11月末に行った。夏の第1回目は読解問題を題材としており、今回は意見作文について扱った。授業で実際に使用しているテーマに対して各自作文し、文章そのものやその際に考えたことを共有することで指導する際の切り口を増やしてもらうことが狙いである。取り組んでもらったのは「自身の名前」についてで、生徒たちよりも長い人生経験のある講師たちの書き上げたものには「自分とどう向き合ってきたのか」が表れており、どれも読みごたえがあった。一人一人の講師がそのテーマをどのように解釈しているかを示していくことも、生徒とのやり取りをより活発なものにしていくためには欠かせない要素である。
さて、その名前に関していえば、「親から一字もらう」という付け方がある。父親が「康高」なら「康介」とか「康一」のように名付けるといったものだ。同じ文字を共有しているのは家族としての結びつきが感じられて素敵である。一方、竹内家は4人きょうだいなのだが、誰一人親からの漢字を譲り受けていない。さらにいえばきょうだい同士でも一文字も共通していない。顔も性格も「似ている」と言われることがあまりないのは、この名前も影響しているのかもしれない。ただ、全然違う、時には理解不能な存在が身近にいたことは私の物事の受け入れ能力をかなり高めてくれた。
 末っ子長男の弟は今年度に30歳になる「大谷世代」であり、紛うことなき大人である。しかし、その大谷も実家に帰ればきっと一人のかわいい息子であるように(そうであってほしい)、彼と同い年である我が弟も家族からすれば変わらず心配ばかりが頭をよぎる存在である。中でも母にとっては、一人だけの息子のことが常に気がかりだった。弟は就職してすぐは関西に勤務していたものの、全国転勤の可能性がある職場だったので今は静岡で一人暮らしをしている。物理的にもそうだし、まめに連絡をよこすタイプではないので精神的にも距離ができてしまっており、特に去年一年は状況がよく掴めなかった。そんな中、母方の祖父が体調を崩したのだが、その連絡がなかなかタイムリーに進まない。温度差のあるやり取りは母を苦しめた。その時により強い怒りを抱いていたのは私の方だった。何なら怒りをぶつけない母にまで腹が立ったくらいである。しかし、それが母親というものなのだとも思った。
 それから4か月ほど過ぎて、前回の文章で取り上げた『ぼくが生きてる、ふたつの世界』に出会った。前にも述べたが、聴覚障害のある両親のもとで生まれ育った一人の少年の苦しみや親への思いが描かれた作品である。著者自身が年を重ね、親元を離れ、仕事をし、新しい出会いをたくさん経たことで、親に対する理解の深まりや認識の変化が生まれていったという。こんなの、弟には絶対に触れさせたい。考えさせたい。著者が猛烈にそう思ったのと同じように、自分はアホやったと気付かせたい。めちゃくちゃにそう思った。でもきっと、映画なり小説なりの情報を送りつけたとて、きっと弟は見ないし読まない。そういうときにこっちの魂胆はすっけすけになっているのだろう。子どもに読ませたい本が必ずしも受けないのは、「こうなってほしい」が先行してしまっているのもあるはずだ。だから、自分で辿り着いてもらわないといけない。生徒に対しても、本選びをする際に明らかに「このレベルを読めるようになってほしい」ということを伝える場合もあれば、そこまで深い意図を持たずに進めることもあるし、何ならあえて手助けせずに何を手に取るかを見守る時もある。ある程度導いてあげる必要はもちろんあるが、意識的にそうしていると良いタイミングでいつもよりも挑戦的なものをチョイスできていることをよく目撃してきた。微妙な塩梅だけれども、絶妙に気をつけている。
 年末になって、弟が実家に帰ってきて家のことをいろいろやってくれた。大みそかには久しぶりに長電話をした。もしかしたら作品に出合ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 親御様に有益な情報を提供することが「志同く」の一つの目的であるとき、それができているのかというのを疑いながらいつも書き上げている。幸いなことに私の周りは家族をはじめ色々な人にあふれている。そんな彼らとのかかわりを通じて、私を伝えていきたい。

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