
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.06.27社員のビジネス書紹介㉑
三浦のおすすめビジネス書
『ドイツ人のすごい働き方 日本の3倍休んで成果は1.5倍の秘密』西村栄基
当然のことながら、書名の「3倍休んで」は日本よりも休日日数が多く労働時間が少ないことを、「成果は1.5倍」は労働生産性や一人当たりのGDPの数値が日本よりも高いことを指している。具体的な数値は載っていなかったので別のデータをざっくりとあたったが、労働時間でいえば日本は年間1,610時間ほど、ドイツは1,340時間ほどだった。日本はここから残業などが発生すること、一方でドイツは原則残業をしないことを考えると、差はもっと広がるだろう。(日本は短時間労働者も多いようで、それがこの数値に関係しているらしい)。また、休日日数もドイツの方が多く、年間30日の有給をすべて使い、二、三週間の休暇を取ることもまったく珍しくないとあった。日本は有給の消化率が高くなく、およそ18日だというので、おおよそ1.5倍は確かにドイツの方が休んでいる。
こういったドイツ人の働き方について、まず文化としての「早起きの習慣」「整理整頓の習慣」、「プライベート(個人)の時間を確保する習慣」が根本にあるという。このうちの前者二つは身につまされつつ、実践はできそうにないので置いておく。最後の「個人の時間を確保する」というのが、労働生産性に直結するのだろう。17時終業の場合、17時にはオフィスを出る。そのために日中の効率をどれだけ上げられるか、である。
年始に一年の間のどこに休暇を入れるのかを考える、そして仕事の進め方にも見通しをつけておく、と紹介されていた。これに代表されるように、全体のマップのようなものを描いているのが一つ大きなポイントだろう。仕事終わりに翌日のタスクを洗い出しておき、翌日出勤時には朝の時間を使ってそのタスクを優先度順に分ける……ということも述べられていたが、「どう進めていくか」を考えることに時間を割くことで、後々の効率化を図るのは重要なことだ。トラブルへの対処ひとつとっても、ただ場当たり的にするのではなく、「後にも効果を発揮するように」と熟慮する時間を設けるともあった。ただ焦って対処するのではなく、落ち着いてトラブルの根幹を探り、原因を切り分ける。もっと見通しを立てて働けるように工夫しようと思わされた。
徳野のおすすめビジネス書
『アメーバ経営 ひとりひとりの社員が主役』稲盛和夫
「アメーバ経営」とは、大組織を独立採算で運営する集団に分けて、各チームに任命したリーダーと共同経営者のような関係を築いていく手法である。その一つあたり5人から10人で構成されるチームが「アメーバ」と呼ばれる。京セラおよびKDDIを創業した稲盛和夫が考案者であり、会社の財務状況を可能なかぎりきめ細やかに分析すると共に、各アメーバが独自に設定した目標の下で全ての社員が主体性を持って仕事に当たる組織を実現するために編み出された。
ちなみに私は今年の1月から3月にかけて受講した「AI経営講座」を通して本著を知った。講義では昨今のトレンドワードとも言える「人的資本経営」の関連項目として一言触れられただけで、それを聞いた時は「社員一人ひとりのスキルをどう扱っていくか」に主軸が置かれた内容を思い浮かべていた。
しかしながら、京セラを一代で大企業に成長させた稲盛氏の視座は、私の想像よりも遥かに高かった。新しいメソッドを導入するだけでは全アメーバのトップとしての役目を果たしたことにはならない。自立した複数の小集団が同時に活動するとなると、どうしても衝突が生じやすくなる。製造業であれば営業部と生産部の間の摩擦は日常茶飯事であり、京セラもその例外ではなかった。そこで重要になってくるのが、「人間として正しくあれ」という経営哲学である。ただ、稲盛氏は従業員たちの良心に訴えるだけでは不十分であり、利害の不一致で争っている部下たちの声に耳を傾けて公平な判断を下したり、彼らが所属集団の垣根を越えて協力し合える環境を整えたりすることが社長の使命だ、と強調する。
稲盛氏が仕掛けた「仕組み」の中で印象的だったのは報酬のあり方だ。京セラは欧米流の成果主義を導入していない。メンバー間の差が数値化されることへの抵抗感が強い日本人の気質を考慮してのことだが、何より月単位のインセンティブは短期間しか効果を発揮しないからだ。売上はうなぎ上りを続けるものではないという認識が無いまま成果主義を導入しても、業績が停滞した途端、同時に個々の従業員だけでなく集団全体の士気も下がっていく恐れがある。反対に、一人ひとりのモチベーションが維持されるようなアメーバでは、お金ではなく仲間からの賞賛が「報酬」となる。精神的な充足を重視する文化があれば、難局に直面しても自分と組織のために乗り越えようと努力する。
物理的なご褒美ありきで人を評価しない姿勢は、子育てにも通じる部分があると思う。どこかのネット記事で読んだ内容になるものの、「欲しい物を買ってあげるから頑張ろう」という親の声掛けは、「勉強はご褒美が無いとやる気が出ないほど嫌なもの」という刷り込みに繋がるから避けるべきとのことだ。稲盛氏はビジネスを通して、単なる「商人」ではなく、より本質的な「人格者」を育成してきた優れた教育者だったのだと実感させられる。
竹内のおすすめビジネス書
『世界は経営でできている』岩尾俊兵
「経営者」と聞けば孫正義や柳井正、イーロン・マスクなど、世界規模でお金を動かし、その動向が注目されるような人物が思い浮かぶ。不勉強なのでまだまだ彼らの著作を手に取ることができていないが、この3人だけを見ても共通しているのは、「世界を変えていく」という理念を掲げている点である。経営とは本来、自身も他者も幸せにする「価値創造」が目的である。その過程で必要な手段を見直したり、実現の障壁となる対立を解消したりしながら豊かな共同体を作り上げる。企業経営、学校経営、病院経営といった言葉は何となく馴染みがあり、「経営」=「お金儲け」というイメージが先行しがちだが、実際には利益は人々がその価値を認めたときに生まれるものであり、そして次の価値を創り出していくための手段に過ぎない。それなのに、今ある価値の取り分を大きくすることに心血を注いでしまうような誤った経営概念が流布している。
不合理をそのままにせず、それに関わる人々それぞれに利があるようにすること、それが経営である。その意味では、仕事はもちろんのこと、家庭や学校でのやり取りも当てはまる。授業中に早く問題を解き終わった生徒が他のことをするのを認めないのではなく、授業にみんなが参加することを目指すのであればまだできていない子に説明する役割を与えるというような形を模索していく必要がある。目的が何であるのかをその共同体で明らかにしていくことが、新しい道を切り開いていくきっかけになり得る。
余談だが、本書は15の章から成っており、各章の終わりに参考文献が示されている。論文から古典的な哲学書、比較的新しい大衆小説までもが挙げられており、その幅の広さに驚かされる。それに加えて、家庭や勉強に関する非目的的な事例は自分自身の体験の有無に関係なく、鮮明に思い浮かべられるものが多い。常々たとえ話の上手い人は物事の解像度が高く、話が面白いと考えていたが、それを裏付けるような一冊だった。
2025.06.20Vol.61 いつでも続きから(三浦)
この間、久しぶりに一日で映画を最後まで観た。90分程度、さほど長くもない映画なのに、それでも何度か途中で「続きは明日でもいいかな」と頭を過った。とんでもない集中力不足である。
集中力不足でもあるし、そもそもの性格として、「キリのいいところまで」というのがなかなか無い性分なのかもしれないと、最近になって思う。上で久しぶりにと書いたように、いつもAmazonプライムやレンタルDVDで借りてきた映画は、人と一緒に観るのでさえなければ、数日に小分けにして観ている。それもシーンごとに区切るとかでもなく、つまらなくなったからでもなく、ふとなんとなく、「今日はここまででいいか」と思った瞬間で途切れている。だから翌日に再生すると、シーンの最中どころか登場人物が話している台詞の真っ只中であることも珍しくはない。それでも話を忘れていることはないので、特に困ることはない。母に尋ねても同じようなタイプだったので、あるいは遺伝なのかもしれない。
ゲームも読書もそうだ。特にゲームに関しては、たとえばニンテンドーSwitchなどは途中でスリープモードにできることもあり、一週間ぶりに起動すると何かのアクションの真っ最中……ということもしばしばある。我ながらなんでこんなところでやめたんだろうとそのたびに過去の自分に疑問を投げかけつつ、でも、また同じような微妙なタイミングで区切ることになる。
そして上記のいずれも、なんなら「最後まで」観たり読んだりプレイしたり、というものはそれほど多くなかったりもする。入りの10分を観ただけ、序章を読んだだけ、序盤までプレイしただけ……そんなやりかけのものが、たくさんある。
その一方。勉強を時間で切り上げようとする生徒には「キリがいいところまでやりなよ」と声をかけるし、本に関しては読みかけで返そうとする生徒に、「最後まで読んでみなよ」とも話す。矛盾しているな、と思った。自分の行動を棚に上げて何を言っているんだ、とふと冷静になった。
しかし、と言い訳を探してみた。必死で思い返してみると、例えば腕立て伏せやスクワットなどの筋トレは、「〇〇回までやる」と決めたらそこまでは頑張ろうと決めるし、実際にやり通していた。そこで、「なんとなくここまででいいか」とはならない。三日坊主ゆえに日数は持たなくても、回数はきちんと守っていたのだ。インドアなので、運動は苦手だ。筋トレなんかは特に苦手で、体重を支えるだけで腕が震え始める。でも、だからこそ、「終わり」があることがひとつの救いになるのかもしれない。
弊塾で扱う読解問題、『トップクラス』で取り上げられている話題に移る。そこでは心理的時間と実際的時間というものについて、「興味のあることや頭を使うことは集中度合いが上がり、それゆえ心理的時間が短くなる。一方で苦手なものは時間が過ぎるのが遅く感じられる」という説明をした後に、勉強の方法のひとつとして、「好きな科目は分量で区切り、嫌いな科目は時間で区切る」ことを勧めている。これまで述べてきた、私の性質上の区切り方とは正反対である。おそらく嫌いな科目は基本的に集中できないものなので、分量ではなく「集中できる」時間で区切った方が良い、ということなのだろう。
私の感覚と反対だ。嫌いなものは時間を決められたところで、早く終わらないかが気になって集中できなくなりそうだし、だからこそせっかく気が乗ってきたところで区切りになったらつまらない。苦手なものは、再び気を乗らせるまでに労力がかかってしまう。本の読みかけは耐えられても、数学の解きかけは耐えられなさそうだ。
そう考えてみると、本にしろ映画にしろゲームにしろ、それは私にとって好きなものだからこそ、キリの悪いところでも気にならないのかもしれない。いつ再開してもそれ以前と同じ熱量で没入できるという安心感があるからこそ、いつでも手放せてしまう。
であれば、生徒への「キリのいいところまでやりなよ」、「最後まで読んでみなよ」は、次へのハードルを少し下げるという意味で、あながちずれた声掛けでもない。特に本の苦手な子にとっては開くまでが億劫だろうし、会話の途中で区切てしまったら、それまでのやり取りを思い出すのが大変な子もいるだろう。やりかけの状態でほうり出してしまわないこと、それもひとつの方法なのかもしれない。
さて、余談というか、本題というか。前回、高槻校の講師に『志同く』を書いてもらった。一気に読みながら、数年前に短歌にハマり、一日に一首は詠もうと日記代わりにしていたことを思い出した。愛犬が亡くなったことや、学校時代の記憶、それを31字に収めるためにこねくり回す過程で、それらと向き合ったことも思い出した。三日坊主ならぬ七日坊主くらいで終わってしまったが、また初めてもいいかもしれない。いつでも戻ってこられるものとして。
2025.06.13Vol.60 ひとさらい、とくちから(高槻校・有田)
意見作文の教材の中に、詩人・斎藤倫さんの著作からの出題がある。詩歌に興味のある私は図書館でこの本を手に取り、まず奥付を読んだ。すると、作者についての紹介文「また、『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』(PARCO出版)に編集委員として関わる。」が、目に飛び込んできたのだった。笹井さんだ!またこの名前に会うことができた。しかしその喜びには、常に、切ない気持ちが入り混じる。
笹井さんと私は直接の親交があった。とはいえ、対面したことも声を聞いたこともない。ネット上での短歌仲間として、主にメールでやり取りしていたのだ。彼の歌は、透明感と儚さ、平易なのに捉え切れない言葉遣いが際立っていた。本人は「自然と短歌を書いている」と述べていたが、その自然さが唯一無二なのである。ミュージシャンで言えば、スピッツの草野マサムネさんや、サカナクションの山口一郎さんの歌詞から受ける印象と通じるところがある。
第一歌集を出版するという連絡をもらったのは、彼が結社(=歌人としての公式な所属先)に入ってしばらく経った二〇〇七年の秋だった。詩歌を得意とする出版社ではなく、簡単なオンデマンドサービスを用いて出版することにしたという。個別の注文を受けてから、その都度、印刷・製本して発送するスタイルだ。つまり、在庫なしの受注生産。しかも、紙質や表紙絵も簡素なタイプにしておいたというのだから、知らされた私は意外だった。ビニール保護付きハードカバー製本とはいかなくても、もうちょっと自由にしてもいいんじゃないの、と不思議に思ったのだ。初めて世に出す自分の本なら、それをより良くデザインしたいという欲求が生じるのは当然だし、その過程であれこれ迷う経験は作者に与えられる特別な愉悦だからだ。ちなみに、いわゆる短歌集と呼ばれる本の装丁は、他者の講評を掲載した別紙を栞として挟んだり、歌人某氏の選んだ一首と短い評を並べた帯を付けたりするのが一般的である。しかしともかく、笹井さんは、それらを全てナシにしたらしい。かくして、翌年の一月二十五日に第一歌集は発行された。
その出来立ての『歌集 ひとさらい』を両手に持ってみた途端、私は先の憶測が単純すぎたことに気付かされた。これは笹井さんの素顔だ。白いつるんとした表紙に、ダークブラウンの歩きやすそうな紐靴のイラストが小さくプリントされた、軽やかなたたずまい。収められた短歌作品には今までの歌会に提出してくれたものも多かったので、読み進めると、同じ時間を過ごしてきた実感が伴ってきて、しみじみと嬉しかった。ご本人は、読了した仲間たちに対して、「ありがとう。初めての歌集を、読みたいと言ってくださるひとりひとりの方のためにだけ、送り出したかったんです。お店に置いて待つのではなく」という意味の返信を、メーリングリストに送ってくれた。
この歌集は話題を呼び、笹井さんは有名になっていった。依頼を受けて作歌活動をする機会も得た。十代前半から重い身体性障害を抱えていた彼は、学校に行くこともままならず、自宅療養を余儀なくされていた。だから、周囲のサポートがあったとはいえ、その手のやり取りには負荷を感じることもあっただろう。しかし彼は短歌を詠み続けた。また、かなり保守的な短歌の世界において、彼が相当に稀有な歓迎を受けていたことは事実だった。大物歌人と呼ばれる人や作家ら(特に川上未映子さん)も称賛していたし、彼に触発されて短歌を始める人も少なからずいた。
そうした大波の只中にあっても、笹井さんは私たちの歌会には時おり参加してくれていた。おそらく気楽な居場所のひとつには成り得ていたのだろう。今回のお題は難しかったとか、味の染みた高野豆腐が好物だとか、さりげなく添え書きしてあった。彼の囲み記事が新聞に掲載された九月の朝、同じページの短歌投稿欄に私の歌が入選していたこともあった。その内容から私が第二子を妊娠したと理解した彼は、その日のうちに、「あ、有田さんだ!って、自分の記事よりも先に見つけたんですよ。お身体ご自愛ください」とメールをくれた。つくづく欲のない人だと苦笑いしながら、「お互い元気でいましょうね」と、お礼と共に軽く返信をした記憶がある。
しかし、その四ヶ月後、訃報が駆け巡った。笹井さんは、ご病気のために突如この世を去ってしまったのだ。偶然にも歌集が発行されたちょうど一年後、真冬の早朝のことだった。享年二十六歳。単なるネット上の繋がりしか持たない私たちは、驚きと悲しみの中でそれぞれご冥福を祈り、彼の短歌を読み返すことしかできなかった。更にその時、私は出産予定日を十日後に控えていた。
彼の夭折は大きな衝撃を持って受け止められ、すぐに所属結社を主体とした新たな歌集が出版された。その反響を受けてテレビ番組が放送された。そして数年後には彼の名を冠した短歌賞も創設された。私は、そういった出来事に触れるたび、もう二度と彼の新たな言葉は生まれてこないのだと思い知らされた。
彼の歌を次に挙げる。二首とも、作者自身が本に収めると決めた歌である。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい 笹井宏之
からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ 同
(以上、『歌集 ひとさらい』より抜粋。著者・笹井宏之、2008年1月25日発行、企画・発売元BookPark)
一首目は、繰り返し音読するうちに、「えーえん、と口から」(泣き声が次々に出てくること)と、「永遠を解く力」との二つの音を重ね合わせてあるということが分かってくる。「永遠を解く」とは、限りある命しか持たない人間にはかなわないことが多い、ということを意味するらしい。この本の題名についても同様に、「ひととおり、おさらいする」という内省を促す言葉の裏に、「人を攫う」という暴力的な意味合いが隠されている。短歌の力で誰かに影響を与えることもできる、という彼の主張の表出ではないだろうか。
そして二首目は、私の特に好きな歌だ。人物の力量について「あの人は器が大きい」といった言い方をするが、この歌は容量よりも中身の質について述べており、「空虚な人と、満ち足りた人と、隙間を埋めようとしている人」という意味だと捉えている。以上は私的な解釈に過ぎず、的外れかもしれない。しかし私はほぼ常に隙間を埋めようとする人であり、「では今どうするべきか」を問い続ける勇気をもらっている。正解が変わり続ける世の中で、これからも生きていくのだから。
次女が小学校高学年になる頃に、初めて、笹井さんはあなたの存在を確かに知っていたのだと話した。すると次女は「大事な友達なんだね」と返してきた。そのとおりだ。アマゾンの年間書籍販売額の中で、短歌関連書籍の割合は0.5%弱だと知人から教わったことを思い出した。レアなジャンルを好む者同士で知り合えて良かった。
あの冬からもう十六年以上が過ぎた。笹井さんも、短歌という表現方法も、私にとって変わらない大事な友達である。
2025.06.06Vol.59 歴史を繋いでいくことの意味(徳野)
2011年3月11日14時46分、小学校卒業を間近に控えた私はクラスメイトたちと一緒に探究学習のレポート冊子を作成していた。賑やかな雰囲気の中で突然流れたのが、「東北地方で大きな地震があったので、皆さん速やかに下校してください」という校内放送だった。その後、今ひとつ状況が吞み込めないまま帰宅し、テレビ中継で遠く離れた土地の惨状に目を丸くしたのは言うまでもない。一緒にいた母親も言葉を失っていたが、私の習い事の予定時刻が迫ってくると「あんたはやることをやりなさいよ」と急かしてきたので、私も慌てておやつを食べてピアノのレッスンに向かったことを覚えている。私には私の生活があるのを忘れるな、ということだ。それから1か月も経たないうちに中学校入学の日を迎えた。式の最中に「東北の子たちには校舎すら無いんだ」と、ほんの一瞬だけ思いを馳せたものの、そこから深まってはいかなかった。ニュースで断片的に流れてくる現地の情報に対しても「大変そうだなぁ」という感想と共に通り過ぎてゆく。それが四国に住んでいた私と東日本大震災の距離感だった。
14年経った今年の5月9日、宮城県にある震災遺構「仙台市立荒浜小学校」を訪問した。とはいえそれだけを目的にわざわざ飛行機に乗るほど真面目な人間ではない。劇団四季の『キャッツ』を観劇しに行くついでだった。観光もするつもりだと講師室で休暇の予定を話したところ、他の社員講師が「震災遺構」の存在を教えてくれたのだ。実物を通して悲劇の記録に向き合う時間の重みは広島の平和記念資料館で実感していたので、すぐさま旅程に組み込んだ。
本題の前に仙台市への印象を述べると、「人口密度がちょうど良い都市」といったところだ。特に仙台駅周辺は娯楽がそれなりに充実しつつ、通勤ラッシュの時間帯でもストレス無く過ごせる状態に好感を持った。データを検索してみたところ、都道府県別の訪日観光客数ランキングで伸び率においては全国4位の一方で、数じたいは10位以内にも入っていなかった。実際、シンボル的な「伊達政宗公騎馬像」がある仙台城本丸跡にも外国人旅行者の姿は無かったと言っていい。代わりに歴史系のアニメキャラのぬいぐるみと共に記念撮影する日本人を見かけたものの、それもチラホラという程度だった。しかし、だからなのか、代表的な観光地の最寄り駅のほとんどがバス停なのに、良くて40分に1本しか来ない運行状況には愕然とした。(徳島市内でさえ10分に1本なのに!)荒浜小学校の場合は地下鉄東西線の荒井駅からバスで15分はかかるものの、駅からは1時間に1本だけだった。時刻表を前にしばし途方に暮れたものの、翌日の観劇に備えて体力をなるべく温存しておきたかったのと、ダイヤをろくに確認して来なかった自分に責任があると言い聞かせて仕方なくタクシーを利用することにした。
結果的には一人で郊外の町を歩くよりもずっと有益な時間を過ごせた。旅行先でタクシーの運転手から教えてもらうおすすめの店やお出かけスポットに外れは無い、という話をたまに聞くが、口下手な私にとっては夢物語のようなものだった。また、去年の春に遊びに行った京都で腰痛に耐え切れず乗り込んだタクシーに良い思い出が無かったのも少なからず影響していた。河原町から京セラ美術館まで運んでほしいとお願いしたところ、ドライバーさんからはやや不満げな反応が返ってきた。その直後に10分ほどの道のりを無言で飛ばしていたところを見るに、さほど運賃がかからない近距離に時間を取られることが嬉しくなかったのではないだろうか。1日にさばくべき数が他の都道府県とは桁違いのはずだろうから彼の気持ちは分からなくもなかったが、「タクシーはむやみに使ってはいけないんだな」という後ろめたさに近い気持ちが私の中に残った。そして、肝心の仙台市のタクシー運転手は、私がこれまで出会ったことの無いタイプの人たちだった。当日は東北大キャンパスから仙台城跡に向かう際にも違う会社のドライバーさんにお世話になったのだが、ふたり共に「短い乗車時間でもお客に有益な情報を提供しよう」という心遣いを感じたので、そういう土地柄である可能性が高い。降りる際に「お金が勿体無いね」と笑いながらバスの時刻を教えてくれるくらいだ。仕事における「ゆとり」の適切なあり方だと思う。
さて、荒浜小学校までの道のりに話を戻す。出発後5分ほどは住宅街を進んだ。何も考えずにぼんやり座っていると、「ここら一帯は被害規模が比較的小さかったので、復興住宅が集中しているんですよ。荒浜地区で被災した方々が住まれています。」と教えてくれた。改めて見てみたところ、確かに築年数が浅い綺麗な一軒家が多い。風景の「意味」が立ち上がってきた瞬間だった。しばらくして整然とした家々の横を通り過ぎると今度は田園地帯に入った。2011年当時は「畑の塩害と瓦礫のせいで農業どころじゃなかった」ものの、綿の栽培を通して1年かけて地力を回復させたらしい。ちなみに後で調べて知ったことだが、その過程で育った綿の茎は「東北コットンCoC」という紙の原料にもなるので、打撃を受けた農家の収入源確保に向けた取り組みでもあるのだ。解説に相槌を打ちながら窓の外を眺めていると「ここから過去の津波浸水区間」の標識が視界に飛び込んできた。その時になって初めて、自分が被災地にいるのだと実感して思わずどきりとした。さらに追い打ちをかけるかのように、車のフロントガラスの遠く向こうには松の木(かつては防災林だった)がまばらに並んでいた。報道映像で繰り返し目にしてきた光景だ。思わず「そう、あれ!」と声を上げてしまった。原爆ドームを前にした時と同じような、歴史上の重要な1ページがめくられた現場に足を踏み入れたことへの感慨が湧いてきたからだ。感動すら覚えていたと言ってもいい。未曾有の出来事に対して部外者だからこそ抱ける場違いな感情だ。
そうこうしているうちに目的地に到着した。海岸から約700メートル地点に位置しているそこは資料館としての役割も担っている。あの日、4階建ての小学校には2階まで海水が押し寄せてきたが、全校生徒と教職員、そして地元住民の合わせて320名は屋上で難を逃れることができた。館内で上映されていた、元校長の川村孝男氏と近所で暮らしていた町内会長の方へのインタビュー映像によると、川村氏が2011年以前から独自に行っていた避難訓練の見直しが功を奏したとのことだった。当時の公立校では地震を想定して障害物が少ないグラウンドに出てから耐震性に優れた体育館に移動するという「二段階方式」が一般的だったが、度々津波に襲われてきた過去を語り継いできた高齢者からの意見を取り入れ、屋上に直行するルートに変更しておいたのだ。東日本大震災より前に現地で大規模な天災があったのは明治期である。大半の住民が津波に対して現実的なイメージを抱けなくなっていたであろう中で通例主義に陥らなかった、当時55歳の川村氏の英断には尊敬するしかない。小学校からさらに200メートルほど進んだところには「荒浜地区住宅基礎」という震災遺構もある。先述のドライバーさんから「絶対に見に行ってください」と念押しされていたのもあり、潮風に吹かれながらえっちらおっちら足を運んでみた。そこには津波の直撃により土台が一部しか残らなかった住居の無残な姿があった。敷地を一周しているうちに「南海トラフ巨大地震なんてどうせ来ないでしょ」と決めつけている自分が徐々に浮かび上がってきた。2018年の大阪北部地震で少しばかり不便を被った程度の経験しか無い私は楽観的すぎるのではないか。防災に関しては見聞を自身の生活に落とし込みやすいのだから行動するしかないと心に決めた。
1999年に「2011年3月に大震災が起こる」と予見していた漫画が注目を集めている。それによると今年の7月5日に再び天災が訪れるらしい。作者は神からの預言を綴ったとのことなので、科学的根拠のへったくれもないオカルト作品ではあるものの、来るべき日に備える上での個人的な「期限」として捉えて物資を集め始めたのが最近の変化である。