
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.07.25社員のビジネス書紹介㉒
竹内のおすすめビジネス書
東浩紀 『訂正する力』 朝日新書
SNSはもちろん、対面形式の議論でも「相手の意見に屈しない」ことが重要視されてしまっているような局面が多々ある。本来、議論には議題があり、その結果を踏まえて今後の方針が決まっていく。また、他者と意見を共有することで自分の考えを客観視することもアップデートすることも可能になる。その過程を経て態度が変わることは「負け」でもなんでもなく、「訂正する力」を発揮した前向きな選択に過ぎない。形あるものを創り出すに限らず、自己を見つめ直すなど、「その先」へと発展するもののない議論というのは本来空論でしかない。
訂正とは、単に意見をころころ変えることを指すのではなく、社会の動きや、自分以外の認識を受け入れて柔軟に対応することである。その姿勢で臨まない議論では、お互いが主張を改めることがないため、新しいものは生まれなくなってしまう。しかしこのような話し合いの硬直は決して珍しくない。その要因として筆者が指摘するのが「訂正できない土壌」が社会に存在している点である。対話によって信頼関係を築く訓練がなされておらず、これまでと異なる意見を提示するとそれまでは支持を示していた周囲から攻撃される可能性への不安がつきまとうのだ。
人間というものは必ず間違える。テストでもない限り正解は決まっていないから。社会は移ろっていくものだから。だから訂正できなければならない。そのために必要なのは、物事を部分的に見るのではなく、それまでに積み重なってきたものと結び付けて捉え「実はこうだったのだ」と理解することだ。「あの時の注意は、実は怒りではなく思いやりだったのだ」のようなことだろうか。こういう考え方を自分自身が持つのはもちろんのこと、同じような考えの人たちが集まる組織を作っていくことで、「訂正する力」は適切に用いられることになる。それまでの見方を変えるような声を上げることは批判を浴びやすい。だが、すでに一般的に浸透していることに異を唱えれば反対が多数あるのはごく自然なことなのだ。それが「間違ってないよ」と初めから認めてもらえるとは保証されていない。しかし、だからこそその声を上げることの価値は大きい。訂正は自分一人では行えないのだ。
三浦のおすすめビジネス書
大石哲之 『コンサル一年目が学ぶこと』 ディスカヴァー・トゥエンティワン
いろいろと世間一般のビジネス書を読んでいると、なんだか世間とは違うな、あんまりうちとは関係ないな、と思うことも少なくない。もちろんしっかりとエッセンスを汲み取れば仕事の上での共通点というものはあるのだが、どうしても距離を感じることもある。特に、「コンサル」という響きともなれば、ほとんど知らない世界のようだった。
ただ冒頭で述べられているように、本書はコンサルタントとしてではなく、様々な業種にも通じる「普遍的な仕事力」について取り上げている(コンサルだからこそ、色々な業種を知っているともいえる)。だから内容としては、チームとしてどうあるべきかなど、他のビジネス書で既に見かけたものもしばしばあり、けれど、こうして繰り返されるほど実践が難しいのだとも思う。その中で、ここ最近の個人的な課題である「相手に伝わるための説明」については参考になる部分が多かった。結論から話す、何も知らない相手に伝えるつもりで「そもそも」から話す、相手がどこまで理解しているかを仕草から読み取る。当たり前といえば当たり前だが、この「そもそも」から話すというのはなかなか難しく、本書にあるように「簡単すぎて失礼なのではないか」という意識が働くことも少なくない。けれど事前知識を共有しなければ、相手がどのくらいのレベルなのかもわからない。それを肝に銘じる。
また、「コンサル流思考術」と銘打たれた章では、どのように物事を解決に導いていくかという思考法が紹介されていた。そこでは「考え方を考える」として、どのように作業を進めていくかを考える時間をまず設けるべきだ、としていた。焦るとどうしてもまずはと手を動かしてしまいがちだが、それでは時間を浪費することにもなるし、間違ったやり方をしたときにリカバーができない。それを読んで、生徒に教えるときにも手当たり次第に解いても意味がないと注意していることを思い出した。「考える」ことを人に念押しする前に、自分もよく立ち止まらなければいけないと、授業を思い返しながら腑に落ちた。
徳野のおすすめビジネス書
アンデシュ・ハンセン 『多動脳 ADHDの事実』 新潮社
本著が発表された2017年のアメリカでは、全人口の約15%が注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断が下されている。感染症や生活習慣病でもないのにたった15年間で5倍になったというのだから、なかなか異様な状況である。しかし、そもそも「ADHDか否か」という線引きじたいが無意味である。誰にだって集中を保てなくなる場面はあるし、集団内で「異常」とみなされる基準も時代と環境によって変化するものだからだ。現役の医師である著者によると、医療的ケアが本当に必要な人の割合は国内人口の5パーセント程度であり、たとえその層にいたとしても、副作用のリスクを踏まえると投薬治療には慎重になるべきである。大切なのは、ADHDだからこその「強み」と「弱み」の両方を把握した上で熱中できる物事を探していくことだ。
恒常的な注意欠陥が起こるのは、遺伝的要因から脳内に分泌される快楽物質が上手く機能していないからだ。その特質がある人ほどADHDの傾向が強くなり、刺激を求めて周囲の些細な動きにも過度に敏感になる。そして、本能が強い刺激を渇望しているがゆえに、アルコールや薬物、スマホに依存しやすくなる。こう書くとネガティヴ面にばかり目が向くかもしれないが、好奇心旺盛でエネルギーに溢れ、斬新なアイデアを次々と生み出すのに長けた人物が多い事実も忘れてはならない。そういった特長は、とりわけ先史時代では人類の生存に多大な貢献をしていたものの、現代における学校の集団授業や事務系の仕事と相性が悪いというだけの話だ。
作中にて次のような実験が紹介されている。子ども3人で構成された2つのグループに複雑な思考が求められる課題を与えたところ、ADHDの傾向が顕著な子どもが含まれるグループの方が議論が活発になり、課題解決まで辿り着けた。ADHDの子が発想力の面で大きな役割を果たしたことに違いはないが、思いつきを完成形まで持っていくのは苦手としていた。実際のところ、止めどなく出されるアイデアが他のメンバーに良い刺激を与え、各々が得意な領域を担う協力体制が出来上がっていたからこその成功だった。
自身の性質を客観視した上で目的を共有する仲間と「弱み」を補い合う柔軟性は、人生を充実させる「鍵」となる。だからこそ、学齢期の子どもには他者と積極的に交流させるべきなのだ。
2025.07.18Vol.64 マニュアル作成のマニュアル(三浦)
口下手もあいまって、説明することがいつまでも上手くならない。これまで一度で伝わった試しがなく、二度三度、質問してもらってようやく7割程度の伝達、といったところだろうか。一から十まで説明したつもりで三くらいなのかもしれないし、かえって十二くらいになってわかりづらいのかもしれない。「一度の指示で出来るとは思わないように」とはよく言うが、ここまで伝わりにくいのだとしたら、間違いなくこちらに非があるのではなかろうか。昔からそんなことを思いながらも、ずっとどうするべきかを放っておいてきた。しかし、そろそろそんなことを言っている場合ではなくなってきた。
以前にビジネス書で見かけた内容として、属人化を防ぐためだろうか、「自分の仕事を細かく手順ごとに分ける」とあった。今ぱらぱらと捲ったところ該当の内容が見つからなかったのだが、「自分にしか出来ない仕事と思っていても、実はそうではない。どのような仕事なのかを細かく分けて明文化しておくことで、誰にでも引き継ぐことができるし、誰が突然プロジェクトに配属されても即戦力になれる」というようなことだった気がする。もちろん私は、説明が苦手であれば、引継ぎもとても苦手である。
少し、なぜ苦手なのかというより下手なのかを考えてみる。まず、相手にとってどの順序で情報を伝えるのが最適かを考慮しきれていないのがひとつあるだろう。口頭では、文章のように急に段落の順序を変えることはできない。元々順番を組み立てて話すことが苦手なのだが、それがかなり悪影響を及ぼしているかもしれない。もうひとつ、「相手にはどのレベルの情報がすでに共有されているのか」がわかっていないこと。だから一から十二まで話すことになったり、一から三くらいになってしまったりして説明不足になるのだろう。
考えれば考えるほど難しい。例えば何かの作業について頼むとする。そのとき、目的から話すべきか、手順から話すべきか、そして手順の例外についてはどのレベルまで言うべきか、世の人々は毎回きちんと考えてから伝えているのだろうか? それとも、そのうちに自然にできてくるのだろうか。話しながら考えて、後からあれこれ足りなかったとテンパってしまう身としては、尊敬しきりである。
ここで少し前の話に戻るが、苦手だなあどうしようかなあと考えていたところ、先のビジネス書を思い出し、「マニュアル」を作るのが良い練習になるのではないかと思いついたのが、この話の発端だ。簡単な印刷などの業務を例に試しに作ってみようとしたのだが、案の定苦戦している。紙に手順を書き出した時には出来ている気がしたのだが、それをワードに起こしていると、「ここの説明は足りていないんじゃないか?」「初めて見た人がこれで完全にわかるか?」が増えていって、どんどん煩雑になっていく。必要最低限に絞ればいいのかそうではないのか、そこから悩んで止まらない。しかし、こうやって可視化すると、いかに自分が自分の中だけで確立していたやり方に頼っていたのか、それを痛感する。自分ひとりの暗黙の了解は人に通じるはずがない。その当たり前を、よく見落としてしまう。
さて。そういうことで、この夏はいろいろなことを一度マニュアル化することで練習していこうと思っているのだが、とはいえ、例えば志高塾での指導の仕方や生徒との関わり方をマニュアル化するとなると、やはりそれはなんだか違う気もする。いや、違うと断言できる。実際、私は他の講師に指導についてお願いするときに、「生徒によって違うんですけど」と口癖のように言う。もし私のこの指導のせいでワンパターンになってしまったらどうしようと思うからだ。人には杓子定規で対応するべきではない。それぞれ色々なところに課題があり、魅力がある。それは言葉にはしきれない部分にもしっかりとある。
そもそも、教育とは属人的な要素が強くて当然だ。誰に教わったかで考え方も学びの質も、あるいはもしかすると生き方すらも変わってしまうかもしれない。学生生活を思い返しても、思い出深い先生は授業内容ではなく細かな態度や所作、言動のほうが覚えているし、それが後々に影響を与えている。ああいった先生方には、やはりマニュアルなどはないのだろう。言葉にできないものをどう伝えるべきか、それもまたひとつの課題かもしれない。
2025.07.11Vol.63 必要十分(西北校・山下)
『あんぱん』(2025年3月末より放送開始の連続テレビ小説)を楽しみに見ている。特に朝ドラ信者というわけではない。直近で最終話まで熱意が続いたのは『半分青い』だし、それ以前となると14年前の『カーネーション』になってしまう。毎朝の視聴が板についている人は見逃すことはないらしいのだが、こんな調子なので、気づけば定刻を過ぎてしまっていることも多い。そうしたものぐさな付き合い方ではあるが、『アンパンマン』の生みの親であるやなせたかし氏をモデルとした柳井崇が、ドラマ初回の冒頭シーンで語ったこの言葉が私の印象に残った。「正義は逆転する。信じられないことだけど、正義は簡単にひっくり返ってしまうことがある。じゃあ、決してひっくり返らない正義ってなんだろう。」…物語の舞台になっているのは第二次世界大戦前後の、イデオロギーが二転三転する時代である。
話は変わるが、「悪夢のようなシチュエーション」と聞くとどんな状況を連想するだろうか?私の場合、その一つはこのようなものだ。意図せずおこなった何気ない言動が誰かの気に障り、その人が周りのみんなに触れて回る。ある朝学校へ行くと、これまで仲が良かった人たちが誰も返事をしてくれない…学生時代まで遡っても、具体的にこういったトラウマがあるわけではない。それでも「女子あるある」にカテゴライズされるであろうこの場面は、じゅうぶんに恐ろしいものとして深層心理に刻み込まれている。一瞬で世界が裏返ることの恐ろしさだ。
なぜこの話をしたかというと、私の想像上のこのシーンには続きがあって、絶望的な心境でいるところにふと現れた男子が、昨日と変わらない会話を交わしてくれるのだ。(特にかっこいいというわけではない)そんな男子のイメージだなと思うのが志高塾の塾長松蔭である。この文章を書くにあたって、私から見た松蔭の人となりを紹介しようというのが一つあった。そこで浮かんだのがこの例えである。何を書こうかと考えるうち、冒頭の『あんぱん』中の一節から着想を得たのだ。先にこういうことを伝えると、なんだか聖人君子のようにとらえていると事実誤認される恐れがあるため断っておくと、普段の彼のコミュニケーション法は煽りを基調とした、個々に寄り添わないものだし、勤務スタイルだって「19時台になってもまだ先生がいたら時間の感覚が狂う」などと生徒に言われてしまうようなありさまなのだ。それでも、である。
もう少し詳しく彼の生態に迫ってみよう。最近はいけばなに熱を入れている。ある日のこと、教室の玄関に生けるための菖蒲と青もみじが入った花袋を携えて現れた。実に似つかわしくない姿である。それまでにも折々の季節の草花を飾ってくれていたので、ドアを開けて新しいいけばな作品が目に入ると気分が和らいでいたものだったが、実際に花器に挿すところにその時初めて出くわした。華道を嗜むご子息の指南に従って、菖蒲の向きにもこだわっているのだと嬉しそうに話すのを聞くうち、ある人の姿が重なった。
高校で茶道部に在籍していた時の話だ。顧問はかなりのおじいちゃん先生だったのだが、月に一度のお茶会の際に供される生菓子に「五島」という地元福岡の名店のものを用いてくれていた。その中で私がとりわけ好んでいたのが、細やかに刻まれた水色と紫の寒天をまとった宝石のような紫陽花のお菓子だ。高校生の部活だからとリーズナブルなもので済ませるのではなく、老舗の逸品を与えてくれたのも指導の一環だったのだろうか。その美しさが今も鮮明に思い起こされる。
話が飛躍してしまったので現実に戻って…世は「令和の米騒動」などと言われ、あっという間に米価がひところの倍近くまで跳ね上がる事態となった。まさに「食うにも事欠く」状況だ。床の間に花を添えたり、四季の風物を象ったお菓子を楽しんだりすることは、食うことが安定した後に初めて、手を付ける余裕が生まれるたぐいのことであろう。自分自身の毎日を振り返っても、時折他の事をするついでに手軽に求めた切り花を一輪挿しに放り込むのがせいぜいだ。それでも幾多の時代の困難を経てなお、それらは今日まで絶えることなく受け継がれている。志高塾での学びも、それに似たところがあると感じている。
景気も長く低迷する中、限られた財源の中から子供のために何を授けるのか。中高生であれば、普通はまず取り急ぎ対策を講じなければならない数学や英語の補習を…となるであろう。米を買うお金がないのに、花を買ってはいられないのだ。(誤解を避けるために言い添えれば、「必要か、十分か」という話だ)そのような時代背景ははっきり言って志高塾にとってはかなり不利である。けれどもそんな受難の時にも願わくば細々と種を植え、水をやり続けていたい。
授業で扱う教材の一つに『資料読解』というものがある。様々な社会問題に関しての資料を分析し、自分の考えをまとめていく。生徒と共に考察を深めるうち、「解決できそうもないな、世の中腐ってしまってるな」と正直思わないではない。その時に浮かぶのがMrs.GREEN APPLEの『Attitude』の中にある「この世は腐ってなんかは居ない」という歌詞だ。私の解釈によれば、本当に「この世は腐ってなんかは居ない」と思っているというよりは、そう信じたい、信じさせて、というような魂の叫びに聞こえる。同じくMrs.の『Soranji』には「この世が終わるその日に 明日の予定を立てよう。そうやって生きて、生きてみよう。」というものもある。現状を知らない楽観論ではなく、深く理解した上で、それでも日々の中に美しさを見つけ、今日よりは明日がよくなっているように生きる。そんなふうにできたらいいし、子どもたちにもそうあってほしい。
…と頭ではわかっていても、現実的には日々疲れるし悩むことだってある。エピソードが多すぎるきらいがあるが、最後にもう一つ。ある日私は駅前のコンビニで飲み物を買い、その前の空きスペースで立ったまま勤務前の一服をしていた。疲れていたのであろう、限りなくぼーっとして虚無状態であった私の視界に、ある生徒がいきなりフレームインしてきた。彼は満面の笑みを浮かべながら「この前そこのコンビニでお菓子を物色していたら、後ろから松蔭先生に頭しばかれた」という話を一方的にしてそそくさと店内へ消えていった。
不思議なことにその後私は、なんだか元気が出ていた。そしてあろうことか「こんな人になれたらいいよな」と思ったのだ。先ほどの松蔭のキャラクターの件と同じく、この生徒も決して普段みんなからそんなふうに思われるような人物ではない。けれども、世界を悲観的に捉えそうになったとき、「いつも通りだよ」「美しいし、笑えることがあるよ」と思い出させることができる力があるのではないか。「悪夢のようなシチュエーション」のワンシーンのように、生きていれば気づかぬうちに人を傷つけたり不快にさせたりすることもあれば、逆に自分があずかり知らないところで人を救っているかもしれない。そう思うと少し心に明かりが灯った。
そんな塾長や生徒たちに学びながら、今日も私にできることを精一杯おこなっている。
2025.07.04Vol.62 オープンとクローズドの塩梅(徳野)
私が通っていた県立高校は国から「スーパーグローバルハイスクール」なるものに指定されていた。加えて人文系のコースに3年間いたのもあり、「国際的に活躍できる人材の育成」という教育目標の下、英語でのディベートに参加する機会が他クラスの生徒より多かった。(とはいえ英語は上達しなかったし、論理的思考が研ぎ澄まされたわけではない。)ちなみに当時の教師たちが想定していた「国際的に活躍できる人材」とは「日本の地位を向上させられる人材」だったように思う。欧米や中国といった大国に引けを取らないために語学力を磨き、自国にとって有利に事を進められるトークスキルを身につけなくてはならない、というメッセージを肌で感じていた。そういった攻撃的な価値観には個人的に辟易していたものの、とにかく負けないことを討論のゴールに据える認識はしっかり刷り込まれた。
だから、大学の教職課程にて、准教授が「日本では猫も杓子もディベートをやらせるけど、それは時代遅れだ」と力説した時は衝撃を受けた。また、今回の文章を書くにあたりディベートの意義や起源を改めて調べてみたところ、日本には戦国時代にイエズス会の宣教師によって持ち込まれたという説があるらしい。はるばる極東までやって来た彼らは日本語を習得し、仏教諸派の教えを分析しながら僧侶たちと論戦を繰り広げていたというのだから、異文化研究の機会として確かに優れていたと言える。だが、宣教師たちの使命はあくまで布教だ。異教徒の論理が抱える矛盾と誤謬を指摘してカトリックの教義の普遍性を証明するための手段が討論だったのだ。現代のグローバルスタンダードが「多様性の尊重」である点を踏まえると確かに時代錯誤な面がある。
そして、大学を卒業して4年。我が国の学校はディベートの導入に対して相変わらず積極的だ。その傾向じたいを否定する気は無いし、教員の方々も物事の多面性に目を向けさせる方向に重きを置き始めているのだろう。問題は、意見を出し合うことの目的を子どもたちに伝え切れていないところにある。
例えば、ある高校3年の生徒のクラスでは、古典の授業の一環で「性善説と性悪説のどちらを支持するか」というテーマで討論会が実施された。そして、当日までの宿題として各人に準備シートが配布されており、私は微力ながらアイデア出しの手伝いをした。ただ、教科担当の先生には失礼を承知で述べると、議題設定の仕方には首をかしげてしまった。高校生になれば人間の性分が白か黒か決められるほど単純ではないとは分かるし、その上で決着を付けさせようとすれば紛糾が起こるだろう。案の定、終了後のクラスの雰囲気は殺伐としていたらしい。もしかしたら、あえて対立構造を作り出すことで「善と悪は一人の人間の中で両立するものである」という気づきを与えたかったのかもしれないが、だとしたらあまりにも回りくどい。しかも先生は「誰の意見が一番良かったか」のアンケートを取り、得票数が多かった生徒の評定に反映させる仕組みまで設けていた。真剣に取り組ませたい教師心は理解できるが、それこそ性悪説に依りすぎて生徒の柔軟性を封じてしまった印象を受けた。では、どうすれば良かったのだろうか。さんざん文句を言ってしまったので、自分なりに提案してみないといけない。
繰り返しになるが、自分の立場や意見を変えないことが前提の議論は現代社会に即していない。折れない引かないことが功を奏する場面は外交くらいのはずだ。実際、北欧やフィリピンの小中学校におけるアクティブラーニングといえばディベートではなく、一つのテーマに対して各人が考えたり感じたりしたことを列挙させていくいわゆるオープンエンド型の進め方が主流らしい。そのままでは高校生に取り組ませるには少し易しすぎる気がするので、「性善説」と「性悪説」を扱うのであれば、それぞれの概念が当てはまる事例を集めてきて、その方法や仕組みの是非をグループワークで問い直してみる形で良かったと思う。例を挙げると、アップル社の故スティーブ・ジョブズの思想の根本には楽観論が流れており、技術革新によって何かしらの弊害が起こったとしても知恵と善意で乗り越えられると彼は主張していた。人間の進歩の可能性を信じて(信じようとして)いたからこそ画期的なデバイスを次々と発表できたし、テクノロジーがもたらす恩恵を大衆に向けて魅力的に宣伝できた。そこを踏まえると「性善説」は創造性を後押ししてくれる概念だと言える。一方で、スマホ中毒や電力負荷の増大といった負の側面を覆い隠し、世の人々が事態の深刻さを認識する頃には対処が困難になっていることも少なくない事実も頭に置いておく必要がある。他にも、「性悪説」を唱えた荀子は、人間の意欲を上手くコントロールする上での金銭的もしくは物理的恩賞の重要性を強調している。それは欧米型の成果報酬システムや、子どもへの「ご褒美」のあり方にも通じる。特に後者に関しては高校生にとっては比較的身近なはずだから、幼少期を振り返りながら実際の効用を確かめてみても良いだろう。個人的には、前回のビジネス書の紹介文でも触れたが、子どもをお小遣いやお菓子で釣ることには反対である。短期的には効果を発揮したとしても、本質的ではない方向に転んでいくのが目に見えているからだ。もし与えるのであれば、それがご褒美だと悟られない規模と方法を考えた方が良い。こういう風に色々と見ていく中で「善か悪か」を決めるよりは、時と場合によって使い分ける判断能力の方が肝になってくると感じ取れる。何より授業で取り上げた漢文を読み込みながら身の回りの物事とリンクさせられれば、古典を学ぶ意味をより分かりやすく伝えられる。
何かしら「オチ」がある授業構成は型としては整っているので、勝敗を決める競技ディベートが好まれるのだろう。だからといって、今の日本で教育に携わっている者が「論破王」もしくは「論破女王」を育てたがっているはずはない。論破をしたがる子どもと若者にまず手を焼くのは教師か親だからだ。また、これは私の目標になるが、もう少し柔軟性があるタイプの子たちに対しても、他者と膝を突き合わせることを億劫に感じないように持っていってあげたい。皆で一緒に多彩な視点を出し合った方が物事の解像度が上がり、納得感のある結論にたどり着ける。それも綺麗すぎるきらいはあるものの、指導者と子どもたちの間、そして子供たち同士の間で「ゴール」を共有してから話し合った方が生産的だ。その形であれば、今後の教育現場で討論という手法を残していく意味はあると考えている。