
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.07.11Vol.63 必要十分(西北校・山下)
『あんぱん』(2025年3月末より放送開始の連続テレビ小説)を楽しみに見ている。特に朝ドラ信者というわけではない。直近で最終話まで熱意が続いたのは『半分青い』だし、それ以前となると14年前の『カーネーション』になってしまう。毎朝の視聴が板についている人は見逃すことはないらしいのだが、こんな調子なので、気づけば定刻を過ぎてしまっていることも多い。そうしたものぐさな付き合い方ではあるが、『アンパンマン』の生みの親であるやなせたかし氏をモデルとした柳井崇が、ドラマ初回の冒頭シーンで語ったこの言葉が私の印象に残った。「正義は逆転する。信じられないことだけど、正義は簡単にひっくり返ってしまうことがある。じゃあ、決してひっくり返らない正義ってなんだろう。」…物語の舞台になっているのは第二次世界大戦前後の、イデオロギーが二転三転する時代である。
話は変わるが、「悪夢のようなシチュエーション」と聞くとどんな状況を連想するだろうか?私の場合、その一つはこのようなものだ。意図せずおこなった何気ない言動が誰かの気に障り、その人が周りのみんなに触れて回る。ある朝学校へ行くと、これまで仲が良かった人たちが誰も返事をしてくれない…学生時代まで遡っても、具体的にこういったトラウマがあるわけではない。それでも「女子あるある」にカテゴライズされるであろうこの場面は、じゅうぶんに恐ろしいものとして深層心理に刻み込まれている。一瞬で世界が裏返ることの恐ろしさだ。
なぜこの話をしたかというと、私の想像上のこのシーンには続きがあって、絶望的な心境でいるところにふと現れた男子が、昨日と変わらない会話を交わしてくれるのだ。(特にかっこいいというわけではない)そんな男子のイメージだなと思うのが志高塾の塾長松蔭である。この文章を書くにあたって、私から見た松蔭の人となりを紹介しようというのが一つあった。そこで浮かんだのがこの例えである。何を書こうかと考えるうち、冒頭の『あんぱん』中の一節から着想を得たのだ。先にこういうことを伝えると、なんだか聖人君子のようにとらえていると事実誤認される恐れがあるため断っておくと、普段の彼のコミュニケーション法は煽りを基調とした、個々に寄り添わないものだし、勤務スタイルだって「19時台になってもまだ先生がいたら時間の感覚が狂う」などと生徒に言われてしまうようなありさまなのだ。それでも、である。
もう少し詳しく彼の生態に迫ってみよう。最近はいけばなに熱を入れている。ある日のこと、教室の玄関に生けるための菖蒲と青もみじが入った花袋を携えて現れた。実に似つかわしくない姿である。それまでにも折々の季節の草花を飾ってくれていたので、ドアを開けて新しいいけばな作品が目に入ると気分が和らいでいたものだったが、実際に花器に挿すところにその時初めて出くわした。華道を嗜むご子息の指南に従って、菖蒲の向きにもこだわっているのだと嬉しそうに話すのを聞くうち、ある人の姿が重なった。
高校で茶道部に在籍していた時の話だ。顧問はかなりのおじいちゃん先生だったのだが、月に一度のお茶会の際に供される生菓子に「五島」という地元福岡の名店のものを用いてくれていた。その中で私がとりわけ好んでいたのが、細やかに刻まれた水色と紫の寒天をまとった宝石のような紫陽花のお菓子だ。高校生の部活だからとリーズナブルなもので済ませるのではなく、老舗の逸品を与えてくれたのも指導の一環だったのだろうか。その美しさが今も鮮明に思い起こされる。
話が飛躍してしまったので現実に戻って…世は「令和の米騒動」などと言われ、あっという間に米価がひところの倍近くまで跳ね上がる事態となった。まさに「食うにも事欠く」状況だ。床の間に花を添えたり、四季の風物を象ったお菓子を楽しんだりすることは、食うことが安定した後に初めて、手を付ける余裕が生まれるたぐいのことであろう。自分自身の毎日を振り返っても、時折他の事をするついでに手軽に求めた切り花を一輪挿しに放り込むのがせいぜいだ。それでも幾多の時代の困難を経てなお、それらは今日まで絶えることなく受け継がれている。志高塾での学びも、それに似たところがあると感じている。
景気も長く低迷する中、限られた財源の中から子供のために何を授けるのか。中高生であれば、普通はまず取り急ぎ対策を講じなければならない数学や英語の補習を…となるであろう。米を買うお金がないのに、花を買ってはいられないのだ。(誤解を避けるために言い添えれば、「必要か、十分か」という話だ)そのような時代背景ははっきり言って志高塾にとってはかなり不利である。けれどもそんな受難の時にも願わくば細々と種を植え、水をやり続けていたい。
授業で扱う教材の一つに『資料読解』というものがある。様々な社会問題に関しての資料を分析し、自分の考えをまとめていく。生徒と共に考察を深めるうち、「解決できそうもないな、世の中腐ってしまってるな」と正直思わないではない。その時に浮かぶのがMrs.GREEN APPLEの『Attitude』の中にある「この世は腐ってなんかは居ない」という歌詞だ。私の解釈によれば、本当に「この世は腐ってなんかは居ない」と思っているというよりは、そう信じたい、信じさせて、というような魂の叫びに聞こえる。同じくMrs.の『Soranji』には「この世が終わるその日に 明日の予定を立てよう。そうやって生きて、生きてみよう。」というものもある。現状を知らない楽観論ではなく、深く理解した上で、それでも日々の中に美しさを見つけ、今日よりは明日がよくなっているように生きる。そんなふうにできたらいいし、子どもたちにもそうあってほしい。
…と頭ではわかっていても、現実的には日々疲れるし悩むことだってある。エピソードが多すぎるきらいがあるが、最後にもう一つ。ある日私は駅前のコンビニで飲み物を買い、その前の空きスペースで立ったまま勤務前の一服をしていた。疲れていたのであろう、限りなくぼーっとして虚無状態であった私の視界に、ある生徒がいきなりフレームインしてきた。彼は満面の笑みを浮かべながら「この前そこのコンビニでお菓子を物色していたら、後ろから松蔭先生に頭しばかれた」という話を一方的にしてそそくさと店内へ消えていった。
不思議なことにその後私は、なんだか元気が出ていた。そしてあろうことか「こんな人になれたらいいよな」と思ったのだ。先ほどの松蔭のキャラクターの件と同じく、この生徒も決して普段みんなからそんなふうに思われるような人物ではない。けれども、世界を悲観的に捉えそうになったとき、「いつも通りだよ」「美しいし、笑えることがあるよ」と思い出させることができる力があるのではないか。「悪夢のようなシチュエーション」のワンシーンのように、生きていれば気づかぬうちに人を傷つけたり不快にさせたりすることもあれば、逆に自分があずかり知らないところで人を救っているかもしれない。そう思うと少し心に明かりが灯った。
そんな塾長や生徒たちに学びながら、今日も私にできることを精一杯おこなっている。