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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2025.07.04Vol.62 オープンとクローズドの塩梅(徳野)

 私が通っていた県立高校は国から「スーパーグローバルハイスクール」なるものに指定されていた。加えて人文系のコースに3年間いたのもあり、「国際的に活躍できる人材の育成」という教育目標の下、英語でのディベートに参加する機会が他クラスの生徒より多かった。(とはいえ英語は上達しなかったし、論理的思考が研ぎ澄まされたわけではない。)ちなみに当時の教師たちが想定していた「国際的に活躍できる人材」とは「日本の地位を向上させられる人材」だったように思う。欧米や中国といった大国に引けを取らないために語学力を磨き、自国にとって有利に事を進められるトークスキルを身につけなくてはならない、というメッセージを肌で感じていた。そういった攻撃的な価値観には個人的に辟易していたものの、とにかく負けないことを討論のゴールに据える認識はしっかり刷り込まれた。
 だから、大学の教職課程にて、准教授が「日本では猫も杓子もディベートをやらせるけど、それは時代遅れだ」と力説した時は衝撃を受けた。また、今回の文章を書くにあたりディベートの意義や起源を改めて調べてみたところ、日本には戦国時代にイエズス会の宣教師によって持ち込まれたという説があるらしい。はるばる極東までやって来た彼らは日本語を習得し、仏教諸派の教えを分析しながら僧侶たちと論戦を繰り広げていたというのだから、異文化研究の機会として確かに優れていたと言える。だが、宣教師たちの使命はあくまで布教だ。異教徒の論理が抱える矛盾と誤謬を指摘してカトリックの教義の普遍性を証明するための手段が討論だったのだ。現代のグローバルスタンダードが「多様性の尊重」である点を踏まえると確かに時代錯誤な面がある。
 そして、大学を卒業して4年。我が国の学校はディベートの導入に対して相変わらず積極的だ。その傾向じたいを否定する気は無いし、教員の方々も物事の多面性に目を向けさせる方向に重きを置き始めているのだろう。問題は、意見を出し合うことの目的を子どもたちに伝え切れていないところにある。
 例えば、ある高校3年の生徒のクラスでは、古典の授業の一環で「性善説と性悪説のどちらを支持するか」というテーマで討論会が実施された。そして、当日までの宿題として各人に準備シートが配布されており、私は微力ながらアイデア出しの手伝いをした。ただ、教科担当の先生には失礼を承知で述べると、議題設定の仕方には首をかしげてしまった。高校生になれば人間の性分が白か黒か決められるほど単純ではないとは分かるし、その上で決着を付けさせようとすれば紛糾が起こるだろう。案の定、終了後のクラスの雰囲気は殺伐としていたらしい。もしかしたら、あえて対立構造を作り出すことで「善と悪は一人の人間の中で両立するものである」という気づきを与えたかったのかもしれないが、だとしたらあまりにも回りくどい。しかも先生は「誰の意見が一番良かったか」のアンケートを取り、得票数が多かった生徒の評定に反映させる仕組みまで設けていた。真剣に取り組ませたい教師心は理解できるが、それこそ性悪説に依りすぎて生徒の柔軟性を封じてしまった印象を受けた。では、どうすれば良かったのだろうか。さんざん文句を言ってしまったので、自分なりに提案してみないといけない。
 繰り返しになるが、自分の立場や意見を変えないことが前提の議論は現代社会に即していない。折れない引かないことが功を奏する場面は外交くらいのはずだ。実際、北欧やフィリピンの小中学校におけるアクティブラーニングといえばディベートではなく、一つのテーマに対して各人が考えたり感じたりしたことを列挙させていくいわゆるオープンエンド型の進め方が主流らしい。そのままでは高校生に取り組ませるには少し易しすぎる気がするので、「性善説」と「性悪説」を扱うのであれば、それぞれの概念が当てはまる事例を集めてきて、その方法や仕組みの是非をグループワークで問い直してみる形で良かったと思う。例を挙げると、アップル社の故スティーブ・ジョブズの思想の根本には楽観論が流れており、技術革新によって何かしらの弊害が起こったとしても知恵と善意で乗り越えられると彼は主張していた。人間の進歩の可能性を信じて(信じようとして)いたからこそ画期的なデバイスを次々と発表できたし、テクノロジーがもたらす恩恵を大衆に向けて魅力的に宣伝できた。そこを踏まえると「性善説」は創造性を後押ししてくれる概念だと言える。一方で、スマホ中毒や電力負荷の増大といった負の側面を覆い隠し、世の人々が事態の深刻さを認識する頃には対処が困難になっていることも少なくない事実も頭に置いておく必要がある。他にも、「性悪説」を唱えた荀子は、人間の意欲を上手くコントロールする上での金銭的もしくは物理的恩賞の重要性を強調している。それは欧米型の成果報酬システムや、子どもへの「ご褒美」のあり方にも通じる。特に後者に関しては高校生にとっては比較的身近なはずだから、幼少期を振り返りながら実際の効用を確かめてみても良いだろう。個人的には、前回のビジネス書の紹介文でも触れたが、子どもをお小遣いやお菓子で釣ることには反対である。短期的には効果を発揮したとしても、本質的ではない方向に転んでいくのが目に見えているからだ。もし与えるのであれば、それがご褒美だと悟られない規模と方法を考えた方が良い。こういう風に色々と見ていく中で「善か悪か」を決めるよりは、時と場合によって使い分ける判断能力の方が肝になってくると感じ取れる。何より授業で取り上げた漢文を読み込みながら身の回りの物事とリンクさせられれば、古典を学ぶ意味をより分かりやすく伝えられる。
 何かしら「オチ」がある授業構成は型としては整っているので、勝敗を決める競技ディベートが好まれるのだろう。だからといって、今の日本で教育に携わっている者が「論破王」もしくは「論破女王」を育てたがっているはずはない。論破をしたがる子どもと若者にまず手を焼くのは教師か親だからだ。また、これは私の目標になるが、もう少し柔軟性があるタイプの子たちに対しても、他者と膝を突き合わせることを億劫に感じないように持っていってあげたい。皆で一緒に多彩な視点を出し合った方が物事の解像度が上がり、納得感のある結論にたどり着ける。それも綺麗すぎるきらいはあるものの、指導者と子どもたちの間、そして子供たち同士の間で「ゴール」を共有してから話し合った方が生産的だ。その形であれば、今後の教育現場で討論という手法を残していく意味はあると考えている。

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