
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.07.25社員のビジネス書紹介㉒
竹内のおすすめビジネス書
東浩紀 『訂正する力』 朝日新書
SNSはもちろん、対面形式の議論でも「相手の意見に屈しない」ことが重要視されてしまっているような局面が多々ある。本来、議論には議題があり、その結果を踏まえて今後の方針が決まっていく。また、他者と意見を共有することで自分の考えを客観視することもアップデートすることも可能になる。その過程を経て態度が変わることは「負け」でもなんでもなく、「訂正する力」を発揮した前向きな選択に過ぎない。形あるものを創り出すに限らず、自己を見つめ直すなど、「その先」へと発展するもののない議論というのは本来空論でしかない。
訂正とは、単に意見をころころ変えることを指すのではなく、社会の動きや、自分以外の認識を受け入れて柔軟に対応することである。その姿勢で臨まない議論では、お互いが主張を改めることがないため、新しいものは生まれなくなってしまう。しかしこのような話し合いの硬直は決して珍しくない。その要因として筆者が指摘するのが「訂正できない土壌」が社会に存在している点である。対話によって信頼関係を築く訓練がなされておらず、これまでと異なる意見を提示するとそれまでは支持を示していた周囲から攻撃される可能性への不安がつきまとうのだ。
人間というものは必ず間違える。テストでもない限り正解は決まっていないから。社会は移ろっていくものだから。だから訂正できなければならない。そのために必要なのは、物事を部分的に見るのではなく、それまでに積み重なってきたものと結び付けて捉え「実はこうだったのだ」と理解することだ。「あの時の注意は、実は怒りではなく思いやりだったのだ」のようなことだろうか。こういう考え方を自分自身が持つのはもちろんのこと、同じような考えの人たちが集まる組織を作っていくことで、「訂正する力」は適切に用いられることになる。それまでの見方を変えるような声を上げることは批判を浴びやすい。だが、すでに一般的に浸透していることに異を唱えれば反対が多数あるのはごく自然なことなのだ。それが「間違ってないよ」と初めから認めてもらえるとは保証されていない。しかし、だからこそその声を上げることの価値は大きい。訂正は自分一人では行えないのだ。
三浦のおすすめビジネス書
大石哲之 『コンサル一年目が学ぶこと』 ディスカヴァー・トゥエンティワン
いろいろと世間一般のビジネス書を読んでいると、なんだか世間とは違うな、あんまりうちとは関係ないな、と思うことも少なくない。もちろんしっかりとエッセンスを汲み取れば仕事の上での共通点というものはあるのだが、どうしても距離を感じることもある。特に、「コンサル」という響きともなれば、ほとんど知らない世界のようだった。
ただ冒頭で述べられているように、本書はコンサルタントとしてではなく、様々な業種にも通じる「普遍的な仕事力」について取り上げている(コンサルだからこそ、色々な業種を知っているともいえる)。だから内容としては、チームとしてどうあるべきかなど、他のビジネス書で既に見かけたものもしばしばあり、けれど、こうして繰り返されるほど実践が難しいのだとも思う。その中で、ここ最近の個人的な課題である「相手に伝わるための説明」については参考になる部分が多かった。結論から話す、何も知らない相手に伝えるつもりで「そもそも」から話す、相手がどこまで理解しているかを仕草から読み取る。当たり前といえば当たり前だが、この「そもそも」から話すというのはなかなか難しく、本書にあるように「簡単すぎて失礼なのではないか」という意識が働くことも少なくない。けれど事前知識を共有しなければ、相手がどのくらいのレベルなのかもわからない。それを肝に銘じる。
また、「コンサル流思考術」と銘打たれた章では、どのように物事を解決に導いていくかという思考法が紹介されていた。そこでは「考え方を考える」として、どのように作業を進めていくかを考える時間をまず設けるべきだ、としていた。焦るとどうしてもまずはと手を動かしてしまいがちだが、それでは時間を浪費することにもなるし、間違ったやり方をしたときにリカバーができない。それを読んで、生徒に教えるときにも手当たり次第に解いても意味がないと注意していることを思い出した。「考える」ことを人に念押しする前に、自分もよく立ち止まらなければいけないと、授業を思い返しながら腑に落ちた。
徳野のおすすめビジネス書
アンデシュ・ハンセン 『多動脳 ADHDの事実』 新潮社
本著が発表された2017年のアメリカでは、全人口の約15%が注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断が下されている。感染症や生活習慣病でもないのにたった15年間で5倍になったというのだから、なかなか異様な状況である。しかし、そもそも「ADHDか否か」という線引きじたいが無意味である。誰にだって集中を保てなくなる場面はあるし、集団内で「異常」とみなされる基準も時代と環境によって変化するものだからだ。現役の医師である著者によると、医療的ケアが本当に必要な人の割合は国内人口の5パーセント程度であり、たとえその層にいたとしても、副作用のリスクを踏まえると投薬治療には慎重になるべきである。大切なのは、ADHDだからこその「強み」と「弱み」の両方を把握した上で熱中できる物事を探していくことだ。
恒常的な注意欠陥が起こるのは、遺伝的要因から脳内に分泌される快楽物質が上手く機能していないからだ。その特質がある人ほどADHDの傾向が強くなり、刺激を求めて周囲の些細な動きにも過度に敏感になる。そして、本能が強い刺激を渇望しているがゆえに、アルコールや薬物、スマホに依存しやすくなる。こう書くとネガティヴ面にばかり目が向くかもしれないが、好奇心旺盛でエネルギーに溢れ、斬新なアイデアを次々と生み出すのに長けた人物が多い事実も忘れてはならない。そういった特長は、とりわけ先史時代では人類の生存に多大な貢献をしていたものの、現代における学校の集団授業や事務系の仕事と相性が悪いというだけの話だ。
作中にて次のような実験が紹介されている。子ども3人で構成された2つのグループに複雑な思考が求められる課題を与えたところ、ADHDの傾向が顕著な子どもが含まれるグループの方が議論が活発になり、課題解決まで辿り着けた。ADHDの子が発想力の面で大きな役割を果たしたことに違いはないが、思いつきを完成形まで持っていくのは苦手としていた。実際のところ、止めどなく出されるアイデアが他のメンバーに良い刺激を与え、各々が得意な領域を担う協力体制が出来上がっていたからこその成功だった。
自身の性質を客観視した上で目的を共有する仲間と「弱み」を補い合う柔軟性は、人生を充実させる「鍵」となる。だからこそ、学齢期の子どもには他者と積極的に交流させるべきなのだ。