志高塾

志高塾について
志高塾の教え方
オンライン授業
読み聞かせクラス
卒業生の声
志高く
志同く
採用情報
お知らせ
お問い合わせ
志同く


 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2025.09.19社員のビジネス書紹介㉔

徳野のおすすめビジネス書
小鳥遊(たかなし)『ADHDの僕が苦手とされる事務にとことん向き合ってみた』大和書房 

 以前取り上げたアンデシュ・ハンセンの『多動脳』は、恒常的な注意散漫が起きる先天的な要因を解説した上で、ADHDの傾向が強い人が現代社会で幸福に生きていくための大きな指針を示すものだった。「幸福に」とは、苦手分野を補いつつ、本来持っている能力を発揮できている状態を指す。そして、今回取り上げる書籍は、自分の弱さと上手く付き合っていくための手引き書のような1冊だ。注意欠陥障害がある人は一般的に、事務系の仕事に向いていないとされる。ADHDの診断を下されている著者自身、深く考えないまま総務部や法務部に配属希望を出してしまい、「仕事の段取りが悪い」「納期を守れない」「相手に求められていることを理解できない」という失敗を繰り返した。そうやって周囲に迷惑をかける度に自己嫌悪に陥って心身に不調をきたし、二度の休職を経験している。だったら違う職種にしたら良いではないか、と思うかもしれないが、どんな仕事にも事務は欠かせないし、その全てを他の人にお任せできるわけではない。だから自己肯定感を下げないためにも、自身の特性を踏まえてミスを未然に防ぐ「仕組み」作りが重要になってくるのだ。
 その仕組みとは、一言でまとめてしまえばスケジューリングである。単に最終締め切り日を把握するだけでなく、業務を完結させるために必要な工程を可能なかぎり細分化し、一つひとつに期日と担当者を設定する方法だ。そうやって「日割り」にするメリットは、タスクを「可視化」できるのは勿論のこと、今集中する必要の無い事を「不-可視化」できる点にもある。ADHDの傾向が強い脳では報酬系の神経が機能不全を起こしており、ゴールまでの道のりが遠い(成果報酬を即座に得られない)と感じると意欲が急降下してしまう。よって、あえて、その日に取り組むべきタスクにだけ意識が向くようなデザインの計画表を使用するのだ。また、その方が出来た事を少しずつ積み重ねている達成感が生まれやすい。
 本作のコンセプトとの関係上、今回の紹介文には「ADHD」という言葉が何度も登場している。だが、たとえ診断を下されていなくとも、効率性が求められる単純作業や、アイデアを実行するための地道な業務に苦手意識を抱く人は世の中に沢山存在する。私自身、まさしくそれに当てはまる。そして、要領良くこなせない己を責めるばかりで悪循環にはまっている人も少なくない。しかしながら、それは本当の意味での「反省」とは言えない。上手く行かないなら具体的に何をするか、些細な工夫でも何かしら着手してみる姿勢が大事なのだと教えてくれる1冊だ。

三浦のおすすめビジネス書
増子裕介、増村岳史『ハイパフォーマー思考 高い成果を出し続ける人に共通する7つの思考・行動様式』ディスカヴァー・トゥエンティワン

 ハイパフォーマーを分析し、その「スキル」ではなく「思考・行動様式」をエッセンスとして抜き出し、あらゆる業種に共通しているポイントについて解説しているのが本書である。本書ではコンピューターにたとえ、スキルをアプリ、思考・行動様式をOSと称し、後付けで身に着けられるスキルではなくその根っこになる部分について見習う方が根本的なパフォーマンスの上昇に繋がると述べている。実例として、電通インドネシア拠点でのエピソードが挙げられており、そこでのハイパフォーマーの特徴であった「他部門にも積極的にかかわる」「賞を狙うよりも顧客を最優先にする」というポイントを評価制度に組み込んだところ、クライアントの投票で決まる広告企業としてのグランプリにおいて、二位以下が発表されないほどダントツの一位になったそうだ。
 その組織特有のエッセンスもあれば、共通するエッセンスもある。この共通を本書では7つのポイントでまとめているのだが、わかりやすいのは自主的に行動する「プレイヤー」であれ、ということだろう。プレイするためには何が必要かを進みながら振り返り、身に着け、時には俯瞰する。ただの労働者ではなく、楽しみながら取り組むことがあらゆるハイパフォーマーに共通していたそうだ。具体例として、コールセンターで解決できなかったクレームに対して訪問して解決するカスタマーセンターの方の話が載っていたが、顧客の怒りを受け止めつつも相手や周囲を観察し、最終的には円満に解決することに楽しみを見出していた。向き不向きはもちろんあり、それを見極めることも重要だろうが、物事は見方や取り組み方次第でいくらでも楽しくなるのだということがよくわかる。
 また、この「分析」の手法も興味深かった。90分のインタビューの後、文字起こしした原稿から人力でエッセンスを抽出し、複数人のそれを並べてグループ分けしていくそうだ。いずれもAIではまったくの力不足だったと語っている。「何が重要か」を見極めるのは、まだ人にしかできないらしい。そしてたとえば、90分のインタビュー時間を与えられ、私は果たしてしっかり相手を掘り下げられるだろうか。そう考えると、インタビュー記事などを見て学んだ方がいい気もした。

竹内のおすすめビジネス書
レンタルなんもしない人『<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。スペックゼロでお金と人間関係をめぐって考えたこと』河出書房

 まだXがツイッターだった頃から、「レンタルなんもしない人」は活動していた。フォローはしていないが、おすすめ欄に時々流れてくる投稿を通してその存在は知っていた。入りにくい店についてきてほしい、場所取りをしてほしい、といった1人分の存在が必要な場面でそれを提供するというサービスだ。それゆえに自身から積極的に会話をすることはなく、簡単な受け答えしかしない。そんなの流行るのか、と思われるかもしれないが、今日の時点でXフォロワー数は41万人を越えている。
 依頼内容を大きく分類すると一緒に店に行く「同行」や、相手の話を聞く「同席」、相手の作業の傍らで待機する「見守り」の3種類になるのだが、例えば相手の希望する時間に指定された文言をメールで送信することは「見守り」に近いものの「リマインド」の意味を持っている。ある程度のことはしているので「なんもしない」の定義はやや曖昧ではあるのだが、能動的な働きかけを行わないというのが根底にある。筆者自身がこの活動を続けてきた中で予想外だったことの一つは、「なにもしない」ということが相手に影響を及ぼしているということである。「長年散らかしてしまった部屋を掃除するので見ていてほしい」という依頼では、「人が家に来るから」という理由で、筆者が到着する前にあらかた片付いていることもしばしばあるという。アドバイスをされずとも、聞き役がいるだけで心の整理がつくことは想像に難くない。また、SNSならではの話だが、「一般参賀に同行してほしい」という依頼が集中したものの筆者自身の都合で断らざるを得なかったということを発信すると、結果その依頼者同士で向かうことになった、ということもある。このようなことから筆者は自身の存在の役割を「触媒」と表現している。関わらなくてもいつかは当人たちがその行動を起こしていたかもしれないけれど、少しだけその日を早めることに寄与しているのだ。
 仲の良い人だからこそ、こんなお願いはしにくい、こんな話はできない、というものはある。困らせたくないとか、心配をかけたくないとか、こんな自分は見せられないとか。人間の距離感は難しい。友人知人には言えないけれど、電車でたまたま隣になった人なら良いのかと言えばそれももちろん違う。他人だけれど、一瞬だけ自分の重荷を一緒に持ってくれる、そういう相手でなければ成立しえない。距離を無理に近づけることよりも、「自分がどのような人間なのか」を見せることの方が、よっぽど関係性の構築につながるようだ。

2025.09.12Vol.70 城の崎より(三浦)

 今回の作文は、城崎の旅行記のようなものだ。一人旅である。元来、どちらかといえば、一人で何処かに出かけることを厭うタイプではない。ひとり焼肉、ひとりカラオケ、ひとり城崎。ひとりテーマパークはまだ機会がないが、そのうち達成してしまうかもしれない。東京に出かけた際も、現地の友人の都合がつかないときは日がな一日土地勘のない都会をあてどなく徘徊しまくっていたこともあるので、気ままな一人旅は嫌いではない。
 城崎といえば、真っ先に浮かぶのは志賀直哉の「城の崎にて」だった。今回のタイトルも少しそれに倣っている。教科書に載っていたこともあって幾度か読んでいるはずだが、子どもが鼠をいたずらに死なせる場面の印象が強すぎて、それ以外の記憶はおぼろげであった。それでもまあ天下の志賀直哉だし、そして案の定城崎文芸館もあるし、と、今回の一泊二日の旅行に踏み切った。
 文芸館の休館日だけ調べて、素泊まりの宿と電車の切符だけを買ってのこのこと出かけて行ったのは八月末だ。大阪から城崎温泉までは特急電車で三時間弱、姫路を過ぎたあたりからは時折普通列車かと勘違いするほどの速度での走行もあり、見渡す限りの自然の中をのんびりと進んでいく。なんというか、そういったところにも旅情があった。夏はシーズン外なこともあってかそれほど人は多くなかった。外国人観光客もさぞ多いだろうと踏んでいたのだが、実際には現地でも時折見かけるくらいだった。ただ、宿泊した宿では海外の人が働いており、その割合も多いような気がした。働き手不足の影響もあるのかもしれない。素泊まりのできる宿が増えたのも、飲食と宿を別にすることで宿泊客を多く受け入れることができるというのがあるらしい。
 さて、話を戻す。まずは城崎といえば城崎温泉、外湯巡りだろう。個人的に大衆風呂というものに苦手意識があったため、宿を取れば入り放題のパスがついてくる、とあっても巡る気はさらさらなかったのだが、特にやることもないので思いつきで足を運んでみることにした。結果的にはものすごく楽しくて、七つの外湯のうち、定休日の関係で難しかったものだけを除いて、結果的には六つは回った。そのうち一つは雨宿りも兼ねて二回、一つは朝一番に向かったので、なかなかのハマり具合だったかもしれない。
 私は視力が弱いので、眼鏡を外すと何もかもがぼやける。その状態で温泉に入るのだが、驚くほど何も見えず、かえってすべてが新鮮なのだ。近づかないと掲示されている字が読めないので片っ端から近づいていく。人の顔もよく見えないので、人を意識することもなく、そして意識されているとも思わない。それが個人的にとても気楽な距離感だった。先ほど「雨宿り」と書いたが、突発的な雨の多い時期だったので、露天風呂で30分ほどぼんやりと時間を潰したことがあった。露天風呂の端、屋根のある下に皆が静かに並んで湯に浸かり、雨の打ち付ける水面を眺める。時折雨をものともしない人がふらりと中心まで出ていく。雨の影響で少し温度の下がった湯も含め、その時間と経験がとても印象深く、城崎のことを思い出そうとするとまずそれが浮かんでくるし、これからしばらくはそうなのだろう。あと、温泉は問答無用でスマホなどの機械に触れないので、そういう意味でもデジタルデトックスになった。温泉にはそういった効用もある。
 もう一つの目的である文芸館は、志賀直哉や志賀に勧められて訪れた彼の友人に関する展示がほとんどだろうと思っていたが、「城崎を訪れ、作品に残した文芸人」という枠組みではかなりの人数についてのパネルがあり、温泉街というものの強みを感じた。実際、街中にも吉田兼好や松尾芭蕉、島崎藤村などの文学碑が多く点在している。もちろんそういった展示も面白かったのだが、特に興味を惹かれたのは約百年前、北但大震災によって城崎が火災に見舞われたこと、そこからの復興の足跡だった。当時の状況はひどく、山に逃げてもそこまで火の手が回り助からなかったともあった。だが、温泉があれば復興できると立ち上がり、まずは教育を軸にと子供を集めて学校を真っ先に開いたり、人々が自身の土地を譲ることで道路を広くしたり(道がふさがったことで救助が遅れていた)、建物は景観のためにも木造主体での再建をしたりと、多くのことを乗り越えたのだそうだ。当時の城崎を訪れた島崎藤村の作品が記されており、至る所に足場がかかっていることや、それでも温泉街として既に機能していることなどが書かれていた。後から調べたところ、『山陰土産』という作品らしい。今年のGWにも城崎では火災が発生していたが、八月末には一見してわかるような名残はなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、そう思わせない穏やかな活気の方が勝っていた。これは百年前もそうだったのだろう、きっと。
 文芸館でありのままに書く旅行記というものに憧れ、帰路の電車からゆっくりと書き進め始めたはずが、気づけば数週間経っていた。城崎は文学の町として、湊かなえや万城目学の「城崎限定」短編小説を発売している。まだ読んでいないそれが手元にあるのだが、タオル生地でできた特別製の表紙を撫でつつ、いまだに温泉に思いを馳せている。

2025.09.05Vol.69 師匠の奥義(西北校・土屋)

 私の記憶に残る作文の師匠は、ある全国紙で社会部デスクをしていたF氏である。他にも数人携わってくれた人はいたが、「師匠」と呼べるのは彼が唯一無二で、心の原風景に存在している。
 もう30年も前の事、新聞社を目指して就活していた私は、大学生活と併行して、マスコミ志望者向けの予備校に通っていた。入社試験では特に論作文の配点が高く、F氏はそこで“アルバイト講師”をしていた。全国紙のデスクという本職とそのような副業を兼務してよかったのかどうか、今でも定かではないのだが、F氏には枠に囚われない大らかさがあり、それだけに夢を持つ若者たちの面倒見もよかった。授業の後には決まって、希望する学生たちを引き連れて、近くの喫茶店で「講評茶会」を開いてくれた。一つのテーマで各々が書いたものを、学生同士で交換して読み合い、感想を語り合う機会を与えてくれたのだが、同じお題でもこんなにも異なる切り口があるのかと興味津々になったのを覚えている。何よりも一人ひとりに、時に冗談を交えながら、それでいて適切なアドバイスをしてくれるのが、楽しく、有難かった。
 勿論私はこの会の常連で、F氏の出来るだけ近くに座を占め、一言一句漏らさぬように耳を傾けていた。先生は大抵私の書いたものを面白がり、次の頑張りに繋がるような声掛けをしてくれた。しかしある日の小論文では、渋い表情だった。確か「男女雇用機会均等法」をテーマに、「これからの社会に求められることを述べよ」というような設問だった。私は女性の社会進出が進んでいくことへの期待や喜びを綴り、「だからこそ、女性であることに甘え、全体を乱してはならない。そのようなことがあれば次世代の女性たちの行く手を阻んでしまう」といったような事柄を述べた記憶がある。
 何ともレトロで全体主義的な論調である。性にせよ人種にせよ、あらたな属性が加わるということは、これまで通りとはいかず、構造的なイノベーションを必要とする。大きな困難を伴うが、それを超えて行く中で人々の意識は徐々に変化し、組織として新たな展望も生まれる。様々な特性を持った人が生きやすく、活かしやすくなる、といった事である。上の作文は旧来の枠に自らの性を押し込め、まるで古めかしい男性の仮面を被っているようである。
 だが無理もなかったのかも知れない。この法律が施行されてからまだ5年未満の頃で、育児休業法は審議の途中、出産・育児などを理由とした不利益取り扱い(出産で休暇を取った後、その人の座がなくなっていたなどといったこと)も「禁止項目」にはなっておらず、「努力義務」だった。新聞社のセミナー後の懇親会でも、「成績が優秀なのは断然女子。でも(採用しても)子供を産むからな…」というような呟きを耳にしたこともあった。そんな時代に、男性が大多数の組織に所属し夢を叶え続ける事を、勢いばかりが有り余った未熟な頭で、懸命に考えた末に辿り着いた解答だった。
 F氏は磊落な大声のいつもとは異なり、低く重みのある口調で、次のような助言をしてくれた。「君は女性なんだから、もっと女性に寄り添った物の見方をせんとあかんで。これなら男の論理で男が書いた文章と変わらん。女性の視点が入ってない」。銀縁眼鏡の奥の、細く鋭い目に見据えられた。
 しかし当時の私には、その言葉の意味が理解できなかった。それどころか、「女性なんだから」「女性の視点で」との言い回しが、ジェンダーに境界線を引くようでF氏らしくないと、浅はかにも、言葉尻だけを捉えて少々気分を損ねていた。しかし彼の言葉に込められたメッセージを、私はその後、身をもって体験することになったのだった。
 社会へ飛び出し、念願叶って地方にある新聞社に入社した。本社から離れた或る地域へ、“その支社初の女性記者”として赴任することになった。
 着任から1カ月足らずの間に、難題が次々と降りかかってきた。最も困難に感じていたのは、私の指導役の先輩(一定の地位にあるオジサン)が、「女は嫌だ」と受け入れ姿勢を示してくれない事だった。事件や事故を告げる「緊急」の呼び出しに、駆け付けると何もなく、深夜に何軒も飲みに連れ回されることが度々あった。途中で断ると「男と同等じゃないな。お前の原稿は見ないからな」が決まり文句だった。要は「セクハラ」と「パワハラ」がセットになって飛んできたのだが、前者は定義がまだ曖昧で、後者は用語さえなく(提唱されていなかった)、この身に伸し掛かる不本意な諸々が何なのか分からず苦しんだ。言葉がないという事は恐ろしい。
 その先輩と2人で詰める初の夜勤の前日に、上のような状況に対処して貰いたくて、上役に相談した。仕事をきちんと覚えたかったのだった。返答はすぐだった。「明日は会社を休んでくれないかい。腹痛とかで」。周囲は一様に無表情で、業務を進めていた。見て見ぬふりという風だった。そんな状況が何年か続き、私は社内で自分の考え、つまり「声」を出さなくなった。出せなくなった、のだった。
 F氏の事は折に触れ脳裏を掠めたが、彼の言葉の意味が分かるようになるのには、実はそれから更に数十年を要した。巻き返しを図ろうとその後、同業他社へ入社し直し、結婚、出産、慌ただしい保育園の送迎、頼みの綱の実母の病気、退職、子育て、晩年の母の介護、そして看取り。一つひとつを経験し、少しずつ身に染みてきた。そしてある時、記憶の襞に潜んでいた、助言の続きが蘇った。
 「色んな声を拾わないと。大きい声は自然に耳に入ってくるけど、それだけ聞いてても、問題の本質は見えへんで。君は少数派として社会へ出て行くんだから、小さな声を拾わんと、何も変わらんよ。誰がするの?」。
 「志高塾」にご縁を頂き、勤務して6年以上が経つ。F氏の言葉は、今では座右の銘となっている。
 「君、複眼を持って物事を見ているか?傾聴してるか?」。
 生徒たちの意見作文などの添削をしている時、それは蘇り、私の中に生きている。

PAGE TOP