
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.08.29Vol.68 嫌いなアイツと夏にちょっとだけ仲良くなるには(徳野)
夏期講習が終わった。毎年、親御様向けの案内を配布する時は「1か月もあるんだなぁ」と、果てしない道のりが広がっているような感覚を覚えるのに、いざ始まってみると「光陰矢の如し」である。精神面でもそうだが、特に公立校の夏休みは実際に短くなっている。丸々1か月は羽を伸ばせていた世代の私にとって8月31日といえば、自由研究や図工などのラスボス級の宿題を徹夜で完成させる地獄の一日だった。ところが、最近の小中学生はほとんどが学校で机に向かっているのだから未だに違和感が消えていない。
それでも容赦なく課されるのが作文系の課題である。とりわけ読書感想文にきちんと向き合うには10時間は必要だし、そこにかかる多大な心理的負担を大人なら誰しも身を持って知っているだろう。つい先日の高槻校でも、お子さんがいる社会人講師との会話で「お家でも塾でも面倒を見切れない子の場合はどうしているのでしょうか」という疑問が投げかけられた。私は(あくまで一般論として)「今どきはChatGPTにでも丸投げしていると思いますよ」と答えたのだが、ここ1か月で自分が生成AIに触る機会が減っていたのを思い出したのもあり、志高塾の課題図書でもある滝井幸代の『レンタルロボット』の感想文を書かせてみることにした。ChatGPTには小学3年生になりきるよう指示を与えた。そして、数十秒ほどで表示されたのが以下の文章である。
わたしは『レンタルロボット』を読んで、ロボットは便利だけれど少しこわいと思いました。ロボットに友だちのかわりをさせたり、いやなことを全部まかせたりすると、人は自分で努力したり気持ちを伝えたりすることを忘れてしまうと感じたからです。
たとえば、友だちとけんかして仲直りするとき、自分の言葉で話すから本当の気持ちが通じます。でもロボットがやってしまったら、その大切な練習ができません。
また、ロボットは命令されたことしかできないので、本当の思いやりはもっていません。だから、人と人との心のつながりはロボットでは作れないと思いました。
この本を読んで、めんどうでも自分でがんばったり、気持ちを伝えたりすることが人間らしさにつながるのだと気づきました。わたしもこれから友だちや家族との時間をたいせつにしていきたいです。
さすがは最新版のGPT-5だ。あざとい。自己評価もさせたところ「小学生らしく『気づき』や『自分の体験と結びつけた考え』も盛り込んでいて、提出しても十分に評価される内容です」とのことで、改善点としては「小学3年生としては少し大人びた表現が多い」と「本文の具体的な場面の引用やエピソードがもう少しあると、読んでいない人にもより伝わりやすくなる」を挙げていた。実に的確である。『レンタルロボット』に関するインターネット上の情報が少ないのもあり、作品の内容を探る手掛かりは題名くらいしか無かったのだから。つまり、AIはこの世に存在しない(であろう)物語を創作した上で、世の大人たちが納得しそうな教訓やら何やらを並べるというハルシネーションを起こしていたのだ。余談だが、先ほど登場した社会人講師から面白いエピソードを教えてもらった。作家の平野啓一郎氏は学生時代、本を読まずに自身の想像力だけを頼りに原稿用紙を埋めていたらしいのだ。ある意味で時代を先取りしている。しかも、高校の教員には一度も悟られなかったというのだから、小説家になる人物の「挑発力」は一味違うということだろうか。
話を戻すと、今回は「だから自分の力で書き上げることに意味がある」ということを伝えたいわけではない。保護者や生成AIによる代筆がまかり通る背景にある、教師、ひいては大人への「侮り」に近い感情が個人的には気になっている。いや、見くびられても仕方がないような状況が、私が知る限り二十年は続いている現実が気になる、とした方が正確だ。例えば、毎日新聞社が主催の全国読書感想文コンクールの課題図書に小中学校の先生方は目を通せているのだろうか。目の前の業務に必死な教育現場の様相をほんの少し窺うだけでも要らぬ心配を抱いてしまう。さらに、自由図書となると判断基準が「文章に破綻が無ければ大丈夫」程度になってしまうだろう。そして、フィードバックなど夢のまた夢だ。生徒に言葉を紡ぐことを求めているのに、喩えるならば、半ば強制的に投げさせたボールをただ受け止めてから黙ってどこかにしまい込むような真似をしていることになる。生徒にとっても、行方不明が決まっている作文に思い入れなど生まれない。だから「どうせ気づかれないし」と、抜け道を選ぶのだ。
でも、読んだり書いたりすることが元々好きな子には、大人がどうかだなんて関係ないのではないか、という声が飛んでくるかもしれない。しかし、どうやらそうではないらしい。今年の夏は人気の文筆家による読書感想文講座を謳ったネット記事にいくつか当たってみたのだが、むしろ、「書かせること」に対して最も冷ややかな目を向けているのは執筆業のプロだという事実を痛感した。皆、学校から課される感想文の存在意義を疑うところから始めていたからだ。少年少女の頃から様々なジャンルの作品に触れ、生身の人間が善悪を併せ持つ不甲斐ない生き物だと感性で学んできた人にとって、「内面の成長」という結論付けが暗黙の了解となっている宿題には反発心しか無い。中でも、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』や『「好き」を言語化する技術』が話題となった三宅香帆氏による記事(https://toyokeizai.net/articles/-/690496?display=b)は印象的だった。作文コンクールの方針に透けて見える「読書を通して道徳的な価値観を身に着け、豊かな人間性を育んでほしい」という思惑に疑問を呈しつつも、先生に褒められやすい文章に仕上げるテクニックを紹介しており、編集部からの要望にきちんと応えながら「どうせこう書けば満足なんでしょ」と、教育関係者への皮肉を効かせることも忘れない手腕には思わず舌を巻いてしまった。そのシニカルさは、「提出して十分に評価される内容」を実現させる型を無邪気に適用するChatGPTには出来ない芸当だ。
確かに、そもそも本を読む習慣が無い子どもに原稿用紙何枚分もの分量をやらせるのは逆効果だ。しかも「善いことを書かなくてはならない」という圧力がかかっているのだから尚更である。夏休みの宿題で作文をやらないといけないのであれば、漫画感想文や俳句(逆に難しいだろうが)に取り組むのでも良い。だが、ここまでの展開からして意外だろうが、私自身は読書感想文というものを無意味だとは捉えていない。それは教育関係者の端くれとして恵まれた環境にいるおかげだろう。生徒の反応を間近に見える教室で腰を据えてコミュニケーションを重ねられている。特に今年は、辻村深月の『かがみの孤城』を題材に選んだ生徒とやり取りする機会が多かったのだが、不登校を扱った本作に対する、一筋縄ではいかないリアルな声に触れることができたのは大きな収穫だった。作者が示した結末に納得できずとも、そこを出発点にして自分なりに道を模索していけば良いのだ。
読書感想文は、学生時代の「失望と軽蔑」、あえてパンク風にすると「クソったれなもの」の象徴になっているかもしれない。その風潮を知りつつ私が嫌いにならずに今まで来れたのは、自然体の自分を表出できる手段になりえると実感してきたからだ。本の作者を含めた大人の権威に同調したり感銘を受けたりしたのであればそれで良い。ただ、批判と分析だって立派な感想に昇華できる場が志高塾なのだと思う。むしろ、そういう心を失わずにいた方が、読み書きを素直に楽しめる大人になれる。