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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2025.09.05Vol.69 師匠の奥義(西北校・土屋)

 私の記憶に残る作文の師匠は、ある全国紙で社会部デスクをしていたF氏である。他にも数人携わってくれた人はいたが、「師匠」と呼べるのは彼が唯一無二で、心の原風景に存在している。
 もう30年も前の事、新聞社を目指して就活していた私は、大学生活と併行して、マスコミ志望者向けの予備校に通っていた。入社試験では特に論作文の配点が高く、F氏はそこで“アルバイト講師”をしていた。全国紙のデスクという本職とそのような副業を兼務してよかったのかどうか、今でも定かではないのだが、F氏には枠に囚われない大らかさがあり、それだけに夢を持つ若者たちの面倒見もよかった。授業の後には決まって、希望する学生たちを引き連れて、近くの喫茶店で「講評茶会」を開いてくれた。一つのテーマで各々が書いたものを、学生同士で交換して読み合い、感想を語り合う機会を与えてくれたのだが、同じお題でもこんなにも異なる切り口があるのかと興味津々になったのを覚えている。何よりも一人ひとりに、時に冗談を交えながら、それでいて適切なアドバイスをしてくれるのが、楽しく、有難かった。
 勿論私はこの会の常連で、F氏の出来るだけ近くに座を占め、一言一句漏らさぬように耳を傾けていた。先生は大抵私の書いたものを面白がり、次の頑張りに繋がるような声掛けをしてくれた。しかしある日の小論文では、渋い表情だった。確か「男女雇用機会均等法」をテーマに、「これからの社会に求められることを述べよ」というような設問だった。私は女性の社会進出が進んでいくことへの期待や喜びを綴り、「だからこそ、女性であることに甘え、全体を乱してはならない。そのようなことがあれば次世代の女性たちの行く手を阻んでしまう」といったような事柄を述べた記憶がある。
 何ともレトロで全体主義的な論調である。性にせよ人種にせよ、あらたな属性が加わるということは、これまで通りとはいかず、構造的なイノベーションを必要とする。大きな困難を伴うが、それを超えて行く中で人々の意識は徐々に変化し、組織として新たな展望も生まれる。様々な特性を持った人が生きやすく、活かしやすくなる、といった事である。上の作文は旧来の枠に自らの性を押し込め、まるで古めかしい男性の仮面を被っているようである。
 だが無理もなかったのかも知れない。この法律が施行されてからまだ5年未満の頃で、育児休業法は審議の途中、出産・育児などを理由とした不利益取り扱い(出産で休暇を取った後、その人の座がなくなっていたなどといったこと)も「禁止項目」にはなっておらず、「努力義務」だった。新聞社のセミナー後の懇親会でも、「成績が優秀なのは断然女子。でも(採用しても)子供を産むからな…」というような呟きを耳にしたこともあった。そんな時代に、男性が大多数の組織に所属し夢を叶え続ける事を、勢いばかりが有り余った未熟な頭で、懸命に考えた末に辿り着いた解答だった。
 F氏は磊落な大声のいつもとは異なり、低く重みのある口調で、次のような助言をしてくれた。「君は女性なんだから、もっと女性に寄り添った物の見方をせんとあかんで。これなら男の論理で男が書いた文章と変わらん。女性の視点が入ってない」。銀縁眼鏡の奥の、細く鋭い目に見据えられた。
 しかし当時の私には、その言葉の意味が理解できなかった。それどころか、「女性なんだから」「女性の視点で」との言い回しが、ジェンダーに境界線を引くようでF氏らしくないと、浅はかにも、言葉尻だけを捉えて少々気分を損ねていた。しかし彼の言葉に込められたメッセージを、私はその後、身をもって体験することになったのだった。
 社会へ飛び出し、念願叶って地方にある新聞社に入社した。本社から離れた或る地域へ、“その支社初の女性記者”として赴任することになった。
 着任から1カ月足らずの間に、難題が次々と降りかかってきた。最も困難に感じていたのは、私の指導役の先輩(一定の地位にあるオジサン)が、「女は嫌だ」と受け入れ姿勢を示してくれない事だった。事件や事故を告げる「緊急」の呼び出しに、駆け付けると何もなく、深夜に何軒も飲みに連れ回されることが度々あった。途中で断ると「男と同等じゃないな。お前の原稿は見ないからな」が決まり文句だった。要は「セクハラ」と「パワハラ」がセットになって飛んできたのだが、前者は定義がまだ曖昧で、後者は用語さえなく(提唱されていなかった)、この身に伸し掛かる不本意な諸々が何なのか分からず苦しんだ。言葉がないという事は恐ろしい。
 その先輩と2人で詰める初の夜勤の前日に、上のような状況に対処して貰いたくて、上役に相談した。仕事をきちんと覚えたかったのだった。返答はすぐだった。「明日は会社を休んでくれないかい。腹痛とかで」。周囲は一様に無表情で、業務を進めていた。見て見ぬふりという風だった。そんな状況が何年か続き、私は社内で自分の考え、つまり「声」を出さなくなった。出せなくなった、のだった。
 F氏の事は折に触れ脳裏を掠めたが、彼の言葉の意味が分かるようになるのには、実はそれから更に数十年を要した。巻き返しを図ろうとその後、同業他社へ入社し直し、結婚、出産、慌ただしい保育園の送迎、頼みの綱の実母の病気、退職、子育て、晩年の母の介護、そして看取り。一つひとつを経験し、少しずつ身に染みてきた。そしてある時、記憶の襞に潜んでいた、助言の続きが蘇った。
 「色んな声を拾わないと。大きい声は自然に耳に入ってくるけど、それだけ聞いてても、問題の本質は見えへんで。君は少数派として社会へ出て行くんだから、小さな声を拾わんと、何も変わらんよ。誰がするの?」。
 「志高塾」にご縁を頂き、勤務して6年以上が経つ。F氏の言葉は、今では座右の銘となっている。
 「君、複眼を持って物事を見ているか?傾聴してるか?」。
 生徒たちの意見作文などの添削をしている時、それは蘇り、私の中に生きている。

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