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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2025.11.07Vol.75 熱の行く末(豊中校・小川)

 先日日本シリーズが終幕した。阪神タイガースは初戦こそ勝利したものの、その後4連敗してしまい屈辱の敗退となった。私は特に第1戦、大敗した2戦目は福岡に観戦しに行っていただけに悔しさが大きい。その観戦もチケットのために2時間スマホとパソコンにへばりつき、また語学の授業を休んで強行したものである。それも相まって余計に後味が悪い。2回9失点の時点で帰りたいほどの喪失感を味わった。その不満をぶつけるところが今のところないのでここに書き記しておく。
 ここまでの内容からわかる通り私はそれなりに熱狂的な阪神ファンである。とはいえ本格的にファンになったのは今年からである。しかし、見ているうちに選手一人一人にドラマがあること、緊迫感がある試合とそれに勝敗が伴うこと、そして各選手がチームプレイに徹し協力し合うその在り方に惚れ込み気がつけばもう沼から抜け出せなくなっていた。これほど物事に熱中しているのは、一時大阪で公演していた劇団四季の『オペラ座の怪人』以来であろうか。久々に何かに熱中できていることを我ながら喜ばしく思うと共に、いつこの熱狂が覚めてしまうのか、今これほどに好きだと思えているものから心が離れてしまうかもれしれないと考えてしまい少々憂鬱な気分にもなる。
 私がこのような心配をしてしまうのは、昔から性格が熱しやすく冷めやすいからだ。私は何かに熱中してみることは多い一方、気がつけば何も感じなくなってしまう癖がある。先述の『オペラ座の怪人』に関しては高校の芸術鑑賞会で心を奪われ、終幕までに7回も足を運んだ。もとより演劇部に所属していただけに、単なる一つのストーリーとして以上に役者ごとの表現の違いや感情の機微、演出などの細かい部分まで余すことまで味わい尽くしたくなったからだ。料金は一席12,000円と高校生にとっては決して安くはない。それでも私は貯めていた小遣いを切り崩し、その目減りを気に留めることなく楽しめていた。しかし、その熱量もあまり長くは続かなかった。当時の意欲のままならば現在行われている福岡の公演の予約可能期間初日に席を予約していたであろうが、今はそんなことをする気にはならない。年明けにそれを観に福岡へ行く予定はあるが、その予約も母が何度も行かないのかと尋ねてきた末にようやくといった塩梅だ。両親曰く、過去にいくつか私が趣味としていたものはあるそうだが私にその感覚はない。ストレスなく満喫できていた当時の記憶が薄れてしまうこと、かつてと同じ気持ちになれないことは寂しい。部屋の隅に押し込められたその趣味に関する道具を見た時などなおさらである。また、そういったものに対する熱狂を心地良く感じることが分かっているだけに、己の性格をもったいなくも思う。
 ただこの性格がもったいない、では済まずに直接的に災いしてしまったこともある。大学受験だ。私は浪人までしたものの志望校には行けなかった。受験生当時は己の中で努力をしていたつもりではあったし、今振り返っても何かを怠っていたわけではないと思う。しかし、自分が行きたい大学の合格に足るだけの努力を、集中をすることができなかった。その原因を全て性格のせいにはできないが、それでも大学に行きたいという熱が続きにくく眼前の辛さに打ち負けて挫けてしまったことは否定できない。理性ではあまりの集中力のなさと自身の不甲斐なさに危機感を感じているのだが、なかなか改善につながらない、というより改善に向けて動き出せない。
 振り返ると、私が好むものは総じて始まりと終わりがはっきりしている。落語の出囃子、ミュージカルの劇場の暗転、そして野球の応援歌。その全てが「はじまったな」と感じさせ、胸の内側から沸々と湧き上がる高揚感のスイッチになっている。現在の趣味である野球ならば、1番打者の応援歌が耳に入った瞬間私は全身に血が駆け巡るような感覚になる。歌詞にも「切り拓け」という語が含まれておりまさに物事を始めて突き進んでいくかのような雰囲気がある。声に揺れるスタンド、期待に満ちた観客の目、体に響く鳴り物の音。それらの全てが私の心を揺らす。人は何かに感動した時、衝撃を受けた時に「鳥肌が立つ」と表現するが、まさに言い得て妙であろう。私はこのゾワッとする感覚が堪らなく好きなのだ。
 つまりは刹那的な快感に身を焼かれていると言えるわけであるが、あまり長続きしないのも我ながら考えものである。実はこの文章を推敲するにあたって、初めに提出したものでは「要はドーパミン中毒だからしかたないよね!」といった問題を問題のままにした形で書いていた。しかし、高校生の身分、つまり自力で得た金銭でないにも関わらずそれを浪費し、そのことを何とも思わなかった内容、現状の自分を手放しに肯定し思考放棄に至っている点に厳しい指摘を受けた。特段それらの点に問題は感じていなかった。しかし、その指摘以降考え直したところ、生徒に己の内面と向き合い成長することを求める立場であるにもかかわらず当の本人がその歩みを止めてしまうのは大問題であると思い至った。何よりも問題なのはその責任感の不足である。現状維持に満足をした講師から「成長しろ」と言われたとしてその言葉は響くだろうか。響くわけがない。その意識、自覚が私には不足していた。これもまた熱の持続性のなさにつながるものであろう。現状の趣味や熱を貫き通そうという意志の弱さと、趣味は趣味に過ぎないと軽んじて体験の浪費癖がついていることが今の私の問題である。そのスタンスはこの志高塾で仕事をするにあたっては致命的な在り方である。ゆえに今の私に必要なのはあらゆる体験を自己への投資と捉え使い捨てにしないことと、それを実行することではないか。つまり、講師という立場ではあるものの“講”の意識で現場に入るのではない。むしろ生徒の反応や彼らの気づきに耳を傾け、さらには私がどう伝えるべきか考え工夫することなど、それらから地道に自身の精神的成熟の礎にしていく。“学”師ともいえる立場で過ごすことである。さすれば必然的に結果を見るまでは持続していくことになる。そして、得た成長や知見を生徒に還元していく。生徒の成長を促し、その成長した姿から私も学ぶ。このサイクルを作り出すことが第一の目標である。
 今回己を見つめ直す機会を貰え、自己認識の深化と成長の方向性が得られた。あまりにも不透明で抽象的な解決策にとどまってしまっており、その不安と不確実性を拭うには至っていない。ただ良い見通しもあり、まず『オペラ座の怪人』とは異なり大学受験の失敗を通して自己の内面が過去から変化していること。浪人期間及び現在の大学生活を経ての内面の見直しは、己の能力の正確な把握と現状を把握し、解決に導く癖をつけるきっかけになった。また野球は年を重ねていくごとにチームが大きく変化し新たな要素が加わっていく、つまり新たな刺激が加えられ続けることである。これらの要因、そして新たに芽生えた自覚と問題点をもとに自分も生まれ変わることで今ある熱が冷めずこれから持続していくのかどうか自分ごとながら期待してしまう。未熟な身ではあるが、また私がここに何かを書く日が来るはずだ。その時はまた私の何が変化したのか、何に気づいたのかを示したいと考えているし、そのためにもあらゆる物事を糧に成長をしていくつもりである。

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