
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.12.05Vol.78 内省は流れゆく時の方向を変える(豊中校・高野)
私の出身は大阪だが、一年間ある事情で週に 3 回ほど京都に赴いていた時期があった。当時は単位もほとんど取り終えて暇だったので、用が済んだら一日中周辺を探検することもあった。京都は町全体に遺産が存在し、五重塔やら神殿が生活に溶け込んでいる。そして、夜になると木造建築が街灯に照らされて、怪しげな和風情緒のただよう別世界になる。そのような雰囲気にのまれすぎると、色々と失敗してしまうこともある。ある夏の日、私は日暮れまで歩いて疲れてしまったので、上加茂神社辺りの賀茂川沿いのベンチで少々休むことにした。その周辺は虫と川の流れの音だけが聞こえ、全く人の気配なく静かであった。そのため、夜空を見上げながらのんびりしていると、そのまま寝てしまった。その後、目が覚めると朝になっていた。山裾から輝く日の出のみ美しく、私の体は暑さと蚊のためにだるくてかゆい。特にこれといった被害はなかったことだけが幸いであった。小話はこの辺りにして、私は観光以上に興味を持っていることがある。それは自分のよく知っている街の 30~40 年前の映像を見ることである。例えば、1980 年代の京都を調べると、まず目につくのは、今では地下にある京阪電車が鴨川沿いを走っている風景である。あまり詳しいことはわからないが、東福寺駅から三条駅間が 1987 年に地下化され現在に至るようだ。都に流れる河川を眺めながら列車の中で過ごす時間を想像すれば、旅行の楽しみが一つ増えそうである。このように、当時の情景を推し量りその生活を偲ぶ時は、何か新鮮な気分になる。この意味で、昔を顧みることは私たちに充実した時間をもたらしてくれる。
しかし、これが内省に転ずれば、事態は切迫したものになる。物事がうまく進まなくて、同じ方法を繰り返していてどうにもならないとわかった時、立ち止まってどうするべきか考えることが道理である。その時、今までの自分を振り返らなければ、これからどうするべきなのか見えてくることはない。高校一年生の頃、私は好奇心から、センター試験(今の共通テスト)の問題を解いてみようと思い立ったことがある。その結果、一番頭を抱えることになった教科は国語であった。内容の難しさのために、どれだけ読んでも要点をつかむことができないのだ。そして、しばらくこの問題をどのように解決するべきか模索することになった。その時ちょうど、とある塾の体験授業を受けることになっていた。そこでは、「高校生でセンターの文章を20分そこらできっちり理解できる人はほとんどいないので、文章はざっと見通すだけでいいから、選択肢と傍線部付近を熟読すれば答えは導ける」といったことを教えていた。それを聞いた時、そんなやわなやり方でどうにかなるものだろうかと戸惑った。部活動での経験を振り返えると、よくあるアドバイスとして、「これだけやっていれば何とかなる」や「世間一般で勧められているこれはしなくてもいい」といった謳い文句は何度も聴いたことがあった。だが、実際は色々な方法を試さなければならない。あるやり方がダメなら別のものを考えなければならないし、この時点では効果がなくてもその先のレベルで初めて効いてくるものもある。そのため、主流とされている勉強法をせずに、楽な道だけを勧めるのはどうかと感じたのである。なお、その講師は古文でも活用を覚える必要はないと述べていた。そのため、そこに行くのは辞めた。一年生のころは肌感覚だけで疑問を持ったが、高校卒業した頃の私なら、心の中でこのように反論するだろう。読解問題は段落ごとにプラス・マイナスや因果関係、具体と抽象の関係などの構造を見極めることが大切なので、飛ばし読みをするとその把握に混乱が生じてしまう。このような方法は、選択肢の吟味の際には役立つかもしれないが、賭けに頼るところが大きい。
だが、問題はいまだ消えていない。まず、高校入試の評論文と何が原因でここまでレベルが異なっているのか考えてみることにした。第一印象は語彙が難しくなっていることだ。その時は何にも知らなかったので、「本を読むしかない」とおぼつかなくも覚悟した。当時はなぜ専門家はこんなにも難解な語を用いるのか疑問であったが、大学院生になった現在では何となくであるが答えることはできる。学問によって差はあるものの、その積み重ねは何百年何千年に及ぶ。そのため、専門家はそのような先行研究の足跡を意識しながら議論を展開しなければならない。そのなかで登場する専門用語は、それまでの研究の文脈を踏まえたものになっているので、普段絶対に使わない二字熟語が現れることがある。また時に目にすることはあっても特殊な意味を持って使用されている。したがって、そのような流れを知らない世間の人から見ると、アカデミックな文章は理解しがたいのである。大学の研究にもなると、文系理系に関わらず、答えのない複雑な対象を扱うことになる。その際、過去の研究者の足跡を辿りながら物事への理解を深め、自ら発信しなければならない。その準備段階として、大学受験ではより高度な言語理解の能力が求められるのである。もちろん、高校生にそのような事情がわかるわけがないが、いずれにせよ学問とその言葉の背景を知るために、解決法は本を読むしかないという結論にはなる。そうして、自分の読んできた本を振り返ることになった。棚には『怪談レストラン』や『ダレンシャン』、『NO.6』といった小学生の頃の懐かしの本、そして中学二年生の頃に読んだ『人間失格』だけしかなかった(あさのあつこ作の『NO.6』は今でもたまに読むので、おススメ本です)。そのため、評論にどこから手をつけるべきなのか見当もつかなかった。したがって、しばらくの間、本を手に取ることもなかった。だが、色々と読解問題をこなしているうちに、自分の興味のあるテーマは何となく見えてくる。何かの問題集を解いている時、中沢新一著の『雪片曲線論』という現代思想を取り扱った文章が出題された。その内容は、「東京を破壊するゴジラは、物質が結合する力を解放し莫大な自然のエネルギーを取り出す核兵器のメタファーと言える存在であるが、これは社会が作り出した形式を解体しそこから自由になった力を欲望として利用する資本主義と奇妙な類似を見せている。このような『モダンな主題』においては、知性は自然の力を恐れて封じようとするが、現在は人間が自然と対話する可能性を見つけつつある」というものである。ゴジラはよく知らなかったが、社会の構造を不気味なレトリックで語るこの文章に、発想の奇抜さを感じて興味を持った。そのため、苦労して探した結果、幸運にも近隣の図書館にその本は置かれてあった。こうして、私は奇妙な思想の世界に分け入ることになった。その甲斐あって、現代文も少しずつ読めるようになっていった。
私は、大学受験で本気を出せばいいという理由だけで、進学先を単位制高校にした。自由な時間だけは多く与えられていたので、自分について振り返る機会も増える。そして、色々なことにじっくり挑戦することもできた。そのため、自分で主体的に使うことができる時間というのは、人間にとって最も貴重なものであると私は思う。この先、AI等の技術が発達して、「可処分時間」が増えるのか、それとも仕事が奪われるだけに終わるのかはわからない。そのような時代に最も考慮するべきは、自分の成長のためによりよく時間を使えるような福祉制度の設計であろう。せっかく先人がここまで科学技術を発展させたのに、その結果、減り行く椅子を奪い合う競争が激化するだけでは、あまりにも夢がない。








