
2026.02.06Vol.84 レシーブ(竹内)
去年の6月から、この「志同く」に各教室の講師による文章を掲載してきた。もともとは私が担当していた回を、我こそはと名乗り出てもらったり声をかけさせてもらったりして先月までで8名に登場してもらった。松蔭のものはもちろん社員ブログも含め、これらは「志高塾で教えている講師」一人ひとりがどのような人物であるのかを、このページまで来てくださった皆さんに感じ取っていただく場である。普段勤務している教室の違いで日頃の関わりの濃さにはグラデーションがあるが、各人の姿を浮かべながら読むそれらからはその人らしさや意外な一面が感じられ、共感することも、問われることもあった。そして、このような場でやはり自分自身が書くことを積み重ね、このページを開いた方々に届けていかなければいけないということとも向き合った。
この期間の最後を飾る9人目は、今年度限りで卒業する豊中校の学生講師にお願いした。彼女をはじめ、文章を寄せてくれた講師たちから得た刺激を、これからに繋げていきたい。
志高塾での6年間を通して「どうして6年間続けられたのか」
6年と聞いて、長いと感じる人の方が多いのだろうか、短いと思う人もいるのだろうか。ひとによるだろうし、ものにもよるだろうが、私にとっては、ひとつの仕事を続けた年数としては「長い」と感じる。だが、今この期間を振り返って「長かったな」とは感じない。あっという間だった。気づいたらこんなにも続けていた、という感覚だ。心理学の授業で、つまらない時間は長く感じるが楽しい時間は一瞬で過ぎ去る、と聞いたことがある。6年が一瞬だと感じた私にとってここでの時間は「楽しい」ものだったのだろうか、それとも他にどんな感情があったのだろうか。
メールの履歴を遡ってみると2020年2月20日に選考結果のお知らせが届いていた。3月4日から勤務開始、ということだった。私はここの卒業生ではない。だから、ここに入る前から特別な愛着があったわけでも知り合いの先生がいたわけでもない。それでもなぜ、他の個別塾ではなくここを選んだかといえば、国語が得意だったからである。正確に言えば、国語が得意に「なったから」である。私はもともと国語が苦手だった。そうは言っても、学校のテストはそれなりに点数が取れていた。なぜか。丸暗記が可能だったからである。学校の中間試験や期末試験では必ず出題範囲が決められていた。授業で扱った教材について先生の主張していたポイントをおさらいしていればそれでOK。古文の単語や漢字の問題も直前に呪文のように唱えまくって寝れば、翌日のテストではほぼ満点を取れた。そういった意味では記憶力だけは良かったといえるかもしれない。こういう“得点源”で稼げていたから、結果的にそこまで心配するほどにはなっていなかったし、そこまで危機感も抱いていなかった。それでも私は国語が苦手だった。それが如実に現れたのは、実力テストだった。これが厄介なことに、さきほどの学校の試験と違って“得点源”が無いのである。事前に対策のしようがない。とても困った。仮に勉強しようと思っても、国語の点数を上げるために何を勉強するのか、私にはわからなかった。「国語力が無い」そのことにいつ頃気づいたか、あるいは気づいても気づかないふりをしていたかもしれない。だって、気づいたところでどうすればいいのかわからないのだから。
そんな私にも受験期が訪れた。否が応でも勉強するし、国語に関しては参考書や予想問題を解きまくった。最初の頃はやはり成績不振だった。記述問題では本当に伸び悩んだ。他でカバーするか、と思いつつそうできるほど他教科も余力は無かった。それでも、なんだかんだ勉強していたら、急にできるようになった。でもここに再現性はない。自分でも何をしたのかわかってないから。どうやって成績をあげたのか、と聞かれてもわからない。でも、得意になってから気づいたことならある。国語が伸びると、伸びるのは国語だけではない。どういうことかというと、英語ができるようになった。特に英作文が得意になった。知っている英単語が増えたからではない。知っている単語の範囲で書けるように要約・言い換えをする術を身につけたからである。「要は、何を伝えたいのか」を掴むことができるようになれば自分の英語で表現できる幅は意外と広かった。この「要点を掴んで言い換える」は何も日本語から英語に限られた話ではなく日本語から日本語、つまり国語の記述問題でも同じであった。限られた字数の範囲内で自分が何を伝えたいのかを考え、字数が足りなければ要点を残して簡単に要約あるいは言い換える。たったそれだけのこと、と思われるかもしれないが、私はそれを理解し習得するのに数年かかった。また、自分の伝えたいことを考えると、逆に相手が何を言いたいのかがわかるようになった。振り返ってみると、こうやって表現することと読解することとの行き来を繰り返して国語力をつけていったのかもしれない。中学生くらいまでは、それっぽいところを解答欄で継ぎ接ぎして字数に収めればそれでいいと思っていた。でも実際に必要だったのは、自分の伝えたいことを字数の範囲内でどのように盛り込むかを考えること、そのために、自分の言葉で言い換えることだった。それには語彙が必要だ。だから自然といろんな単語を使うようになった。この頃のコミュニケーションはとても楽しかった。自分の言いたいことを的確な単語で表現して伝えられることがこんなに素敵だとは思ってもみなかった。一方で、コロナ禍に入って驚いたのは、あれだけ自由に使えていた単語たちも一時期コミュニケーションが減って使わなくなっただけで、途端に自分から言葉として出てこなくなることである。継続的にこの部分の脳を使っていないと、すぐ使い方がわからなくなるのだ。
この塾にきて驚いたのは、私が受験期で学んだことを、教えていたということだ。どういうことが言いたいのかを考え、伝えたいことをどうやったら上手く相手に届くのかを考え、さらにそれを自分の言葉で言い換えて表現する場所。自分も受験までにこの塾に出会っていたら、国語はもう少しまともだったかもしれない。私がここで6年も働き続けた、その答えはここにあると思う。私は、ここでの生徒たちに過去の自分を投影していたのかもしれない。自分が学びたかったこと、やっておきたかったことがこの塾にはある。どう頑張ったって、昔の自分がここに通うことはできない。無駄、とは思っていないが、もっと早くここに出会っていればあんな苦しい時期を過ごさなくて済んだ、そう思うことがある。そう、きっと私はこの6年のあいだ、生徒たちを通して昔の自分を見ていたのだ。こうすればいいよと、自分を導く代わりに生徒たちにそれをしていたのだと思う。かつて、「言い換えって何の意味があるんですか」そう言った生徒がいた。私もその立場ならきっと同じことを考えた。何に役立つかわからないことに労力と時間を費やすのは酷だ。「自分の言葉で表現する」と言われても、解答欄は本文の内容を継ぎ接ぎして埋めればOK、と考えている自分(あるいは生徒)からすれば、わざわざ別の言葉に直す手間をかけるのは面倒だ。それでも、言い換えてみるように促していたのは、今の私が、いつかその力が必要になるとわかっていたからだ。私みたいに困らないように。それで過去の私が報われるわけではない。けれど、今、目の前にいる生徒に向き合うことは、今の私を救うことになっていた、のかもしれない。おそらく今ここに通っている子の大半は、何となく通っていると思う。考えるのは疲れるし、眠いし、他のことに時間を割きたくなる気持ちもわかる。わかっているようでわかっていない、今はそれでもいいだろう。今はその価値に気づいていなくてもいい。なんでこんなんやらなあかんねんと思っていてもいい。でも、いつか必要だと分かったときのために、今、頑張ってほしいと願う。
受験もコミュニケーションも、結局は国語力である、と、私は考える。もう少し早く出会えていたら、とは思う。でも、人生は必要なタイミングで必要なものと出会うらしい。出会えて良かったと心から思う。








