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2025.12.09Vol.714 人それぞれの言葉の定義

 同じ年に生まれた、物心が付く前からの幼馴染がいる。その彼は私が志高塾を始めた日に、夫婦でお弁当を持ってお祝いに駆け付けてくれた。そのことは何度かここでも話題にしている。2007年のことなので、あれから18年も経った。
 「幼馴染」という言葉は人によって定義が異なる。私の場合、中学生になる前に、つまり小学生を卒業するまでに出会い、今も付き合いがあり、少なくとも年に1回ぐらいは会う友人をそのように分類している。それで行くと、冒頭の1人に加えて、小学校低学年から今も関係が続いている友人が2人いるので計3人と言うことになる。3人いるから何なんだ、と思われるかもしれないが、事実3人いて、それをありがいことだと感じている。ただ、「幼馴染」という言葉は今回のテーマとは直接関係していない。定義の仕方によって、行動が変わるものを対象としているからだ。たとえば、夢。5年ぐらい前であればサッカーの本田圭佑、最近ではもっぱら大谷翔平が取り上げられるが、彼らはいずれも人生の早い段階で、人が聞いたら「そんなん無理やん」と思うようなこと、まさしく夢物語のようなことを掲げて、それに向けて努力を重ねて実現させた。私はそんな大それたことを考えたこともない上に、「夢」と言う言葉を使った瞬間に、それは叶えられないものと決めつけてしまいそうなので、「目標」を昔から好んで用いて来た。そんな私なので、もっと若い頃は、「夢」と誰かが使った瞬間に否定的な感情を抱いたし、逆に「目標」であれば実現する気があるのだと肯定的に捉えて来た。「夢」と表現しようがそれを本気で追いかけていれば良いのだし、逆に「目標」という言葉を充てても、それを達成するための手を打っていなければ当然のことながら意味は無い。
 さて、最初に登場した彼は、私とは違い小学生の頃から懐が深かった。そんな私も、特に志高塾を始めてから、つまり18年間を掛けて掘り下げ続けて少しぐらいは深くなったはずなのだが、それでも彼と会う度に自分の底の浅さみたいなものを実感する。だからと言って落ち込むわけでもなく、むしろ心地良さのようなものを感じる。冒頭「同じ年に生まれた」と少々ややこしい表現を使った。彼が3月、私が6月生まれなので3か月しか違わないのだが、学年は1つ違う。時々思うことがある。もし、同学年だったらどのようになっていたのだろうか、と。さすがにこの歳になると少々の年齢の差などどうでも良くなるが、子供時代はそうではない。学年が違ったからこそ、変なライバル意識を持たずに、全然敵わないことを素直に受け入れられた。今なお私のだいぶ先を走っている。
 ここからは、HPの「卒業生の声」にも載っている中森君と先日2人でご飯を食べに行ったので、そこで話したことを紹介する。そのときの写真をインスタにあげることやブログで触れることの許可は得ている。今年の春にも会ったのだが、今回は年明けに『読売KODOMO新聞』に入れる折り込みチラシでも写真を使わせて欲しい、という連絡をしたことがきっかけとなった。まずは、一つ目。「最近、やりたいことができてなくて全然ダメなんですよ」と漏らし、その次に「医者の勉強しかできていないんです」と続いた。「今年5回生になってから勉強はめちゃくちゃやってるんですけど、ほんとそれだけなんです」と。4回生でクラブを引退したことをきっかけにして、AIについて学ぶためインターンを始め、決められた週25時間労働をどうにかクリアしていたものの、当初は在宅でも良いとのことだったのだが、オフィスに来る時間を増やすように言われたために3か月で辞めざるを得なくなった。「やりたいこと」というのは、大学以外での勉強を指しているのだ。そして、二つ目。「若い頃は意味があることをしようと力んでたけど、最近はそうではなく、意味が無いことはせんとこうと思うようになった」という話をしたら、「先生、似たようなことを最近後輩に話しました」と返って来た。「この歳になると、昔やったことが思いもよらない形で役立ったりすることを経験的に知ることがあるけど、その歳で中々そんな考え持たれへんで。」と率直な感想を伝えた。若い頃は10ある中からベストワンを選ぼうとしていたものの、今は明らかに役立ちそうにないものだけをはじくといった感じである。それでも残るのは多くて2つか3つだろうし、場合によっては1つだけかもしれない。結果的に同じ1つを選ぶことになっても、その考え方の違いというのはそのことだけではなく、その他の部分に影響してくるはずである。
 ここで、「夢」の次に俎上に載せるのが「尊敬」。人生で初めて「尊敬する人」を尋ねられたのはいつなのだろうか。小学生の高学年ぐらいの気がする。決まって「両親です」もしくは「父親です」と答えていたのだが、模範解答を口にしていたに過ぎない。今尋ねられても、答えに窮してしまう。私にとって大事なことは「見習う」こと。3か月先に生まれた幼馴染はもちろんのこと、卒業生の中森君にも「見習う」べきところはある。もっと言えば、小学生の生徒でさえ、「おっ、すごいな。自分はそんなことできへんかったな」となることは普通にある。尊敬できるかどうかという基準で判断をすると、仮に「できない」となったときにその人から学ぶべきことを見失ってしまう気が私はするのだが、「見習う」であれば、全体ではなく部分に着目できるので、相手が誰であっても自分にない良い部分を吸収しようとなれる。もちろん、それも私自身が、自らが成長するために、「尊敬」と「見習う」という言葉を自分なりに定義しているに過ぎない。

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