
2026.09.08Vol.750 出る杭と非破壊検査
電気を通すプラスチックを開発し、ノーベル化学賞を受賞した白川筑波大学名誉教授が8月24日に亡くなられた。「『プラスチックは電気を通さない』という従来の常識を覆す『導電性ポリマー』の発見と開発を先導」と記事にあったが、恥ずかしながら、これを読むまで私の中ではその従来の常識は生きたままであった。このことを取り上げるきっかけになったのは、訃報を伝えるテレビニュースの中で、「出る杭」について語っている映像が流れたからだ。「白川教授 出る杭」でググルとAIの概要は次の通りであった。「ノーベル化学賞を受賞した白川英樹さんは、『出る杭は打たれる』ということわざに関して、変わり者(出る杭)を異端視せず大切に育てることで個性やオリジナリティ豊かな人間が生まれると語っています。」
話は変わるが、「夏休み中は」、正確には「夏休み中はいつにも増して」とした方が良いのかもしれないが、うまくまとまらないなぁ、と思いながらブログをアップしていた。読んでいただく方に対して失礼極まりない。夏休みが終わったタイミングで落ち着いて言い訳をしよう、と考えていて、それが今回というわけである。このようなエッセイに限ったことではないが、文章において大事なこととして、
①オリジナリティがあること
②文章として一つのまとまりがあること
の2つが挙げられる。②を満たしていないことが引っ掛かりながらも、①の方は一応クリアしているから良いか、と自分を甘やかしていた。これまた、いつにも増して、となる。この文章の構想を頭の中でぼんやりと練っている段階で、①で用いた「オリジナリティ」という言葉が思い浮かんでいたのだが、奇しくも上の概要の中で同じ言葉が使われていた。オリジナリティや個性というのは垂直ではなく水平の関係の中でとらえる必要がある。良いとか悪いではなく、よく言われるように人は生まれながらにしてとにかく違うのだ。私の場合の①も、アイデアが優れているかどうかは横に置いておいて、「少なくとも自分の頭で考えている」ということに対する自負はある。生徒の作文でも、思ってもいない、どこかで聞いたことがあるような綺麗ごとを書いていれば「つまらんこと書くな」と注意をし、一方、粗削りであってもそこに少しでもその子らしさが出ていれば、時に大げさに褒める。私は「褒めて伸ばす」という考え方が基本的に好きではない。「とりあえず褒めておけば伸びる」と考え、どうでも良いような、褒めるべきことでないことでもその対象とする人がいるからだ。私の「大げさ」というのは、たとえ小さな欠片のようなものであっても、そこにその子を感じられれば「えーやん、えーやん」と心に響くように少し強めの声を掛けるということである。生徒からしたら「こんなん“で”良いんや」となるかもしれないが、「こんなん“が”良いんや」ということを私は伝えたいのだ。それが繰り返されれば、遠慮がちであった小さな欠片は、我々が注意深く見ようとしなくても自然と認識できるような明確な形を持つようになっていく。先述した「どこかで聞いたことがあるような綺麗ごとを書いていれば」だが、それがその子の本心の場合はどうなるのか。そのときは、「もし、本当にそう思っていたとして、そう思っていない人も書きがちなことや、ということを認識した上、『他の人たちと違って、私は心からそう思っているんですよ』ということを読み手に理解してもらえるようにせなアカン」という説明をする。そのためには自分なりの体験談や、それこそオリジナリティのある理由を添える必要がある。そのようなものが無い場合はどうするのか。別のアイデアを出すしかない。
さて、2週前の「Vol.748 自己肯定感とか」で触れた塩田武士の本、4冊目の『崩壊』に入り、4分の1ほど読み終えたところである。その中に次のような一節があった。
商店街南端の交番横に露天神社、通称お初天神の鳥居があった。近松門左衛門の「曽根崎心中」ゆかりの神社だ。本宮は境内へ行くと傘をたたみ、財布から五円玉を出して賽銭箱に放り投げた。犯人逮捕と娘との仲直り、関節痛の緩和など一分ほどかけて厚かましい祈願を終えた。
優子は礼をすることも手を叩くこともせず、ただ佇んでいた。見るからにゲン担ぎなどしなさそうだ。本宮は古い人間に見られたようで何となく恥ずかしかった。
本宮はベテランの男性刑事で、優子は殺人事件の捜査のため県警から所轄に応援に来た若手の女性であり、この日初めて顔を合わせた2人がペアになって聞き込みなどをしているときの一場面であった。先週の「Vol.749 子育ての折り返し地点」で、「信心深くもないのに、都合の良いときだけ神様や仏様にお願いするのは厚かましいことこの上なく、また、受験の合格ぐらいは自らの力で勝ち取らないといけないからだ」と書いていたこともあり、「おっ」となった。「Vol.748 自己肯定感とか」の中で、「要は、兵庫出身の塩田武士自身が『阪神タイガース』と『松本清張』が好きということなのであろう」と述べた。登場人物の描写からそれが読み取れたからだ。もちろん、間違えているかもしれない。神社にいったときの塩田武士は本宮派なのだろうか、それとも優子派なのだろうか。
それにしても知らないというのは恐ろしい。電気を通すプラスチックもそうなのだが、お初天神の中を何度か通っているし、その近辺の地名が曽根崎であることも知っていて、国語のテストのために近松門左衛門『曽根崎心中』を暗記して、今なお頭に入っているのに、それらが結びついていなかったのだ。知らないことは恐ろしく、知ることは楽しい。
夏休み中であれば、既に2,300字も超えたし、そろそろ締めるか、となっているところたが、②の条件を満たせるようにもうひと踏ん張りする。ここでようやく冒頭の今回のテーマに戻る。白川教授は、「優秀な科学者を育てるには」ということを念頭に話をしていたはずである。「科学者」に限定してはいなかったにしても、「優秀な」は明確に意識していたはずである。私は、ここでもやはり垂直ではなく水平を意識する。その子がその子らしく生きて行くために、志高塾として何ができるかが重要なのだ。出る杭は打たない。そんなのは当たり前の話であって、我々の役割は、出る杭タイプのその子が将来に渡って打たれないようにする術を身に付けさせてあげないといけない。私がそうであったように思ったことをそのまま口にしていては衝突するばかりでだめなのだ。ごまをするわけでも妥協するわけでもなく、明確な目的を意識した上で、時に応じて押したり引いたりできないといけないのだ。また、ほとんどの子は出る杭ではない。そこで最初に思い浮かんだのが、私自身が年長か小1のときにおこなったタケノコ掘りのことである。少しだけ芽が出たタケノコを傷つけないように優しく周りの土を取り除いて行ってあげないといけないと教わった。タケノコは、たとえ少しであっても出てはいる。次が、カブトムシのさなぎである。息子たちと初めて育てたとき、幼虫がちゃんとさなぎになっているかを確かめたくて、子どもたちと一緒に土を掘り起こして手に取ってしまい、それが原因で死んでしまった。そのことを思い起こしていると、10年以上前に行った面談で、お母様から、だんな様が非破壊検査用の機器を製造している会社を経営しているという話を聞いたことを思い出した。医療に例えると、レントゲンやCTに当たる。土中に埋まったままでも立派な杭である。それを掘ることなく、どうにかしてどのような状態かを見極めなければいけない。地表に出てきても出てこなくても、少しずつでもその子らしい形を作り上げて行って欲しい。縁の下の力持ち、という言葉があるように、見えないところで役に立つ杭もたくさんある。むしろ、そちらの方が多いのかもしれない。②を満たそうとしたら3,000字を超えてしまった。これはこれで読む方には迷惑な話のような気がする。








