
2025.10.28Vol.708 日本シリーズ観戦にまつわるエトセトラ
新大阪から博多に向かっている。日曜日の15時を少し回ったところである。大阪-東京間の2時間強ですら耐えられないのに、2時間半を超えるこの区間で新幹線移動をしている。昨日、つまり土曜の朝に、「よしっ、ペイペイドームで見よう」と最終決断し、そこから転売サイトで試合のチケットを購入し、新幹線とホテルを予約した。その時点では残念ながら希望する時間帯の飛行機は埋まってしまっていたのだ。突然の思い付きというわけではない。それゆえ、上で「最終決断」と少々大げさな表現を使った。その2日前ぐらいから、甲子園での観戦の可能性を探っていたのだが、チケットの値段が高騰しすぎていたためにその気が失せてしまったのだ。甲子園の外野席のチケット代より、ペイペイドームの内野席のチケット代、往復の新幹線代、宿泊費の合計の方が安くつくのだ。それであれば、ナイターの後にもつ鍋でも食べて、月曜の昼にラーメン屋に寄ってから夕方の授業に間に会うように帰って来た方がよほど幸せな気分を味わえるな、となった。しかも、行きと帰りの移動時間を利用してこのように文章を書けば、仕事もはかどるので良いことづくめである。そう、お金のことよりもっと大事な判断材料があった。日曜は教室自体が休みだから良いのだが、甲子園で開催されるのは火曜から木曜の3日間なので、私は可愛い生徒たちを置いて球場に足を運ばないといけなくなるのだ。それは私にとっては辛すぎる。そういうことを話すと、生徒たちから、「先生、そんなこと絶対思ってへんやん」、「私たちのことなんて完全に忘れてめっちゃ楽しんでるわ」などとべたな突っ込みがちゃんと入る。ついでに、久しぶりにミステリーを読もうと、今週金曜、10月31日から劇場公開される『爆弾』を旅のお供に連れて来た。読みかけの辻村深月の『この夏の星を見る』と『人生後半の戦略書~ハーバード大学教授が教える人生とキャリアを再構築する方法~』にはお留守番をさせることにした。『人生後半の戦略書』は中々面白い本なのでそのうちにここで紹介しようかとも考えているのだが、例のごとく計画倒れになる可能性が高いので少しだけ触れておく。「はじめに」に次のような一文があった。「本書を手に取っているということは、あなたはおそらく成功していて、そのために懸命に働き、たくさんのものを犠牲にし、妥協せずに力を磨いてきたのでしょう(正直に言えば、少なくない幸運にも恵まれてきたはずです)。」。その時点で早くもリタイアしかけたが、現状、6合目ぐらいまで来た。自虐的なことを述べる気は無いが、自分とは全然違う人生を歩んでいる人たちのことが書かれている。傍から見れば成功者であっても、人生の後半で精神的な幸福を得ることはとても難しいらしい。それまでどのように歩んできたかによらず、50歳前後でその後自分がどのようなことを追い求めて行くのか、について立ち止まって考えることはとても重要なことなのだろう。
日本シリーズの現地観戦は人生で2度目である。1度目は小学6年生のときの近鉄と巨人の第1戦である。もう36年も前の話になる。その時も一人であった。電車に乗り慣れていたわけではないので、最寄りの千里中央駅から大阪の南にある藤井寺球場まで無事にたどり着けるか、それなりに不安を抱えながら、乗換駅を書いたメモを握りしめていたのであろう。我がバッファローズがジャイアンツを見事に破り、行きとは打って変わって意気揚々と家路に着いたはずである。1塁側のそれなりにグラウンドに近い席だったのだが、インスタントカメラでズーム機能も無かったため、一生懸命に興奮しながら撮った写真の中の選手はどれも豆粒みたいで、現像したときに随分とがっくりしたのを覚えている。それも良い思い出である。今であれば、スマホ一つで経路も簡単に調べられ、写真もその場で確かめてすぐに削除することもできる。昔は良かったなどという気は無いが、自分が子供の頃に経験したあれやこれやのみずみずしいワクワク感を息子たちは何で代替しているのだろうか、と考えることがある。私が知らないだけで、時代と共に形が変わるだけで無くなることはないのであろう。
調べると、その第1戦は1989年10月21日(土)に行われていた。その日、受験生であった私は塾をさぼった。私自身何一つ迷うことは無く、親が塾に行かなくても良いのか、ということを聞いてくることもなかったし、「~すれば行かせてやる」という条件を付けられることもなかった。その日に限らず、私が所属していたチームの野球の試合があれば、当然のごとく休んでいた。親子揃ってそんな向き合い方だったので、私の両親は教室長から、「このままじゃ、お子さんは二流のままで終わりますよ」というようなことまで言われていた。それを私が親から伝え聞いたのは、中学生になってからだったような気がする。その言葉を耳にした時、「なんで三流にそんなこと言われなアカンねん」と腹を立てたことを鮮明に覚えている。まったく尊敬できない人だったからだ。そのような自らの経験があるからこそ、子供たちが耳を傾けたくなる人になろうということを常に意識している。
さて、福岡まで行ったにもかかわらず、2回終了時点で1対9、最終的に1対10で負けてしまった。精神的な幸福を得るために、今週の土曜に博多を再訪するか迷っている。もちろん、第6戦までもつれこめば、の話である。
最後にお知らせを。今日、インスタに真面目に撮影した、教育とはまったく関係のないふざけた動画をアップします。とてもくだらない内容なのですが、だからこそ個人的には気に入っています。あまりにもやることがないときにでも覗いてあげてください。よろしくお願いいたします。
そう言えば、井上陽水も福岡出身であった。
2025.10.21Vol.707 それはね、とは答えられないけれど
一度、撮り直しをしたので正確には二度、の動画の撮影以来、先週の金曜に久しぶりに収録をした。二度とも、このブログでも何度か紹介した株式会社エックスラボに出向いてのものだったのだが、今回の現場は西北校であった。しかも、私の相手をしてくれたのは社長の藤さんではなく大学1回生の講師のK君。場所と人、2つの条件が違ったため随分と気楽であった。そのK君、志高塾でこれからYouTubeを本格的に始めるということを知り、夏休み前に「僕にやらせてください」と立候補してきてくれた。数か月空いたのは、特別急ぐ理由が無かったことに加えて、どのような形で進めて行くかを話し合ったり、機材を揃えなければいけなかったりしたからだ。購入をお願いされたものの1つにiPhone17がある。素人が中途半端なビデオカメラを使うぐらいであれば、iPhoneの方がきれいに撮れるらしいのだ。ヘビーユーザーではないため、これまでスマホの機種にこだわったことなどないので、人生で初めて高機能のものを手にしたことになる。
1回目ということで、2人で横に並ぶようにしてK君と画面に収まる対談形式にしてみたり、私一人だけが映る状態で外から発せられたK君の質問に答える形にしてみたりと1時間半ぐらいでいろいろ試した。「次は質問形式にしてみましょう」と言うので、「オッケー、じゃあ何か聞いてみて」と促すと、最初に飛んできたのが、「松蔭先生はなんでそんなに頭が良いのですか」というものであった。その瞬間思い浮かんだのが次のやり取りである。
赤ずきん:「おばあちゃん、おばあちゃんの耳はどうしてそんなに大きいの?」
おおかみ:「それはね、おまえの言うことをよく聞くためだよ。」
赤ずきん:「おばあちゃんの目はどうしてそんなに大きいの?」
おおかみ:「それはね、おまえをよく見るためだよ。」
赤ずきん:「おばあちゃんの口はどうしてそんなに大きいの?」
おおかみ:「それはね、おまえを食べるためだよ!」
厚顔無恥な私であっても、さすがに「それはね」と切り返さなかった。一度録画を停止してもらって、「ところで、なんでそう思うん?」と聞いたところ、「エピソードトークが上手」というのがその一番の理由であった。Geminiに「エピソードトーク」について尋ねると次のように返ってきた。
「エピソードトーク」とは、過去の出来事や体験談を、自分の感情を交えて面白く、あるいは印象的に話すことです。単に事実を伝えるだけでなく、「フリ」と「オチ」を意識することで、聞き手の心をつかむ効果があります。面接や日常会話などで、自己PRや親しみやすい雰囲気作りの手段として有効です。
いつの頃から始まったことなのかは覚えてはいないのだが、かなり早い段階で、おそらく既に中学生の頃ぐらいから、たとえば、道を歩いていて面白い人を見つけると「なんでやねん」と心の中で突っ込んで、それを誰かに話して笑いを取るためにどういう順番で伝えれば良いのか、ということを頭の中でシュミレーションするということを繰り返して来た。先週一番面白かったのはコンビニのレジのおばちゃんの話で、それも練習がてら撮り収めた。勉強とはまったく関係のないことなので、それをYouTubeにあげるかどうかは分からないが、私の人となりの一端をお伝えするには悪くないものになっているはずである。一つ確かなのは、それで志高塾の生徒が増えることはないどころか、せっかく興味を持ってくださった方が逃げて行く可能性もそれなりにあるということ。
先のエピソードトークとも関係のあることなのだが、自分の中に入ってきた情報をある程度きちんと整理した状態で頭の中に保存しておきたいというのが自分の中にある。真面目なわけでないので、少しでも早くより正確な答えを出すために積極的にいろいろと調べるということは基本的にしないのだが、すっきりするまで頭のどこかに置き続けてはいる。そう言えば、ネイティブキャンプのアフリカ人のある先生が、食べ物の話題になったときに、乾燥させた状態で保存しているものが多かったり肉も硬かったりするから、彼の国では長時間煮込む料理が多いという話をしてくれた。私も頭の中でそうやって答えの出ていない問いをグツグツと時間を掛けてほぐして行っている感じである。
また、結果が出てからそれについて評論家のようにそれっぽい理由を付けるのではなく、未来を予測する習慣が付いていることも多くの人とは違うところかもしれない。予測の精度を上げるためには、現状分析のために手に入れる情報の質と量を上げる必要がある。仕事に関することで言えば、子供をよく見ることがそれに当たる。もちろん、我々がすべきなのは、単に予測をすることではなく、子供たちをより良く導くことである。道から大きく外れそうなのであれば何かしら手を加える必要があるのだが、よく言われるように長所と短所は表裏一体なので、問題と思われるところに手を入れてその子らしさまで失われてしまっては元も子も無い。小学生であれば直近の中学受験で結果を出すことは一つの目標になるが、苦戦している子には志望校の合格に向かって猪突猛進させるだけはなく、そこで潰れないように気を配ってあげなければいけない。HPの「卒業生の声」に載っている生徒とは、多かれ少なかれ今でも付き合いがある。幸いにして、少なくない数の生徒の、小学生の頃から大学生、そして、社会人になってからも成長の様子を見届けるチャンスがあることは、情報収集という面でも非常に恵まれている。小学生の頃に抱えていた課題を克服したことでうまく行っている子もいれば、それはそのままに充実した日々を送っている子もいる。その反対に、昔輝いていた部分が、雲に隠れた太陽のようになってしまっている子もいる。求められれば、その子には太陽がどこかに行ってしまったわけではないことを伝え、雲をどこかにやるために何をすべきかをアドバイスすることになる。
ビデオが回っていないところで同じ質問をされても、「それはね」とすることは間違いなく無かった。ただ、ここまで述べてきたように、どこかで聞きかじったことを我が物顔で話すのではなく、自分の頭で考えて続けて来たことで、そこらへんの人よりは生きた情報を持っているはずである。また、生徒たちの未来を明るくするために、一人一人の子供たちをきちんと見つめ、その都度有効だと思われる手を打ちながら彼らの成長を見守って来た。当然のことをして来ただけの話ではあるが、教育者として最低限の責務を果たし続けてきたという自負はある。
2025.10.14Vol.706 ベトナム旅行記(ぞくへん)
「こうへん」で留まらずに「ぞくへん」に突入。このまま行けば、「ぞくへん2」まで行きそうな勢いではある。と言いつつも、今回はおそらくベトナムのこと自体に触れることは無さそうである。
この数日間、不純な動機、という言葉が頭のそれなりの部分を占めていた。「不純」と聞くとマイナスのイメージを抱くが、「純粋ではない」、つまり「プラスではない」と取れば±0ぐらいか、というようなことをぐちゃぐちゃと考えていた。そこから中々抜け出せなかったのだが、納得できるところに着地した。本筋とずれているから不純なわけだが、その不純なるものに価値があれば良いのではないだろうか、というのがそれである。以前、あるITジャーナリストが、横にスワイプしていたらマッチングアプリをやっている可能性が高く、縦だとインスタなどのSNS、というようなことを話していた。最近、私がすきま時間にやっている楽しみと言えば、スマホをいじりながら魅力的な人を見つけることである。ただ、指は横ではなく縦に動いている。
長男が年長の頃に、これからは3人の子供たちを連れて城巡りをしようと決めた。それだけでは子供たちもつまらないだろうと、手始めに100名城のスタンプ帳を3人分購入した。それに加えて、城内の土産物屋でキーホルダーを買い、帰宅後、リビングの壁に貼った日本地図の訪れたところに押しピンを刺し、それをぶらさげて行った。スタンプ帳や地図が埋まって行くことで達成感を覚えさせ、また行きたい、とさせるための仕掛けであった。一番多く訪れた長男が95城ぐらいで止まっているものの首都圏を残すのみなので、親としては大学生になってからでも自ら行ってくれることを願っている。城巡りをする前から分かっていたことではあるが、3人ともほとんど記憶に残っていないはずである。写真を見て、あそこにもここにも行った、というのを思い出すだけであろう。旅行の際には、全国各地のかなりの数の動物園や水族館も訪れたが、それらも同様であろう。それで良いのだ。その場で、その道中で、親子で交わした多くの会話にこそ意味があるからだ。要は、それらは話題提供のための装置としてかなり重要な働きをしてくれたことには疑いの余地が無い。
10月1日からネイティブキャンプでオンライン英会話を始めた。ネイティブキャンプの良さは、何と言っても税込7,480円で授業が受け放題のことである。ただし、ノンネイティブの講師に限られている。ネイティブを選ぶためには、さらにその上の税込9,800円のプランにアップグレードする必要はあるのだが、それでも1万円弱で無制限に受講できるのだ。「10月1日から始めよう」と決めてから、その日までに2, 3日はあったので、どのようにすれば続けられるのかについて考えていた。最終的に決めたことは、毎日やること、そのために最初から飛ばし過ぎずに1日1コマ(25分)だけにすること、の2つであった。若い頃であれば、勢いに任せて飛び出し、すぐに失速してリタイア、となっていたのであろうが、英語に限らずフィットネスなどでもそのような失敗を繰り返してきたので、さすがに抑え目にした方が良いことだけは学んだ。このタイミングでオンライン英会話を始めることは、ベトナムに行く前には頭になかった。9月16日にアップした「Vol.703長男との週末記」で紹介した、パパ友が8月末に東洋経済新報社から出版した『英語挫折を繰り返した! 陰キャなのにリクルート営業マンになってしまった人の英会話術』を向こうで読んだことがきっかけである。それゆえに、ベトナムの話題に触れていないにも関わらず「ぞくへん」となっているのだ。
その10月1日、朝からバタバタしていたこともあり、アプリすらダウンロードしていない状態で夜を迎えた。「別に明日からにしても良いんじゃないか?」という悪魔の囁きに屈しそうになりながらも、どうにかして初めの一歩を踏み出した。最初の講師に選んだのはスーダン人である。フィリピン人が圧倒的に多く、その次がアメリカ人になるだろうか。なぜスーダン人だったのか。それはアフリカ人だったからである。この夏、大学一回生の講師の女の子が、ルワンダに2週間弱ボランティアに行っていた。興味深かったので出国前に、毎日1枚の写真と簡単なコメントをラインで送って欲しいとお願いしていた。ちなみに、その内容が面白かったため、日にちは未定だが、11月か12月にでもオンラインイベントで彼女にそれについての報告をしてもらう予定にしている。スーダンを皮切りに、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ナミビア、ボツワナといったように毎回違う国の先生を選んでいる。エキスポのコモンズ館で初めて知ったセーシェルという国の先生ともレッスンをした。そして、おそらく早くも2日の時点で“Countries Been”というアプリをダウンロードして、授業終えた先生の国をチェックすることにした。それに関しては、後ほどスクショしたものをインスタにあげる予定にしている。
パパ友の本でオンライン英会話を始めようとなり、ルワンダの話を聞いていたからアフリカ人の先生ばかりを選び、城巡りのときにしていたように地図に印を付けて行く。私は初めて会った人にどこの出身かを聞くことが好きなのだが、他の人はあまりそのような質問をしないということに最近気づいた。そんな私にとって、名前すら知らなかったような国の人に彼らのことについて教えてもらうのは楽しくてしょうがない。たとえば、セーシェルというのは島国で、アフリカの中でとても裕福であり、人口は10万人前後なのだが1年で海外から訪れる観光客はそれ以上であること。また、ココナッツから作られたロープが特産品で、その他高級家具を輸出していることなども教えてもらった。レソトという国が、南アフリカ共和国の中に、まるでローマに位置するバチカン市国のように存在するということも知ることができた。
空いている時間を利用して、ネイティブキャンプのアプリを開き、どんな国の人がいるかをこまめにチェックしている。この不純な動機が、日常生活で英語を使わない私を英会話に向かわせるモチベーションになっている。昨日は、初めてバハマとモーリシャスの先生を見つけて喜んでいた。ある程度アフリカを制覇した時点で、中東を通りながら少しずつ北東に進路を取る予定にしている。毎日違う国の先生を選択し続けられるのは、おそらく後1か月半ぐらいであろう。そのときには今よりも純粋に会話を楽しめるようになっているはずである。ここで終わる予定にしていたのだが、今「人口52万人のカーボベルデ、W杯初出場が決定! 本大会史上2番目の小国に…カメルーンを抑えて快挙」というニュースを見つけた。当然のことながら、私はその国がどこにあるかを知っている、2, 3日前から。
2025.10.07Vol.705 ベトナム旅行記(こうへん)
天邪鬼なのだろう。わざわざ「ぜんぺん」としたのだから、まったく別の話題にすれば良いものを、こんなときに限って続きを書きたくなってしまう。
今回は「リープフロッグ現象」について。GPTに具体例を交えて100字での説明を求めると、「リープフロッグ現象とは、後発国が先進国の旧技術を飛び越え最新技術を導入すること。例:固定電話を経ずに携帯電話が普及したアフリカ。(64字)」と返ってきた。続いて「インフラ以外で」の指示には、「教育分野では、発展途上国が紙教材を飛ばしてオンライン学習を導入する例がある。これもリープフロッグ現象の一種である。」、さらに「デジタル以外で」には「農業分野では、発展途上国が化学肥料中心の段階を飛ばし、有機農法や持続可能な農業技術を直接採用する例があり、これもリープフロッグ現象である。」と返ってきた。細かい話にはなるが、「これもリープフロッグ現象の一種である」と「これもリープフロッグ現象である」は余計だと感じている。
ポッドキャスト番組『Coten Radio』では、今、二コラ・テスラのシリーズが放送されている。1回40分前後で現在8回まで来ていて、おそらく10回ほどで終わるはずである。恥ずかしながら、その名前すら「初めまして」だったので、イーロン・マスクのテスラ社の社名がそこから来ていることも、ロゴが彼の開発した交流モータの断面に由来していることも当然のごとく知らなかった。
二コラ・テスラは、憧れのエジソンの元で働いていた当時、エジソンが推し進めていた直流方式は広範囲への送電が難しいこともあり、交流方式を提案したものの受け入れられず、それがきっかけとなりエジソンの元を去り、結果的に「電流戦争」でエジソンに勝利することとなる。数日前に、その番組の中で「エジソンが、直流による発送電事業を進めていなかったら交流方式を受け入れただろう」というようなことが語られていた。要は、エジソンは交流方式が優位であることは理解していたものの、引くに引けなかったのだ。このことに関してググルと、「ドイツやイギリスなども、実験的な直流配電を経ずに20世紀初頭に交流高電圧送電網を直接構築」と出て来た。これもリープフロッグ現象の一種である。実は、この段落の冒頭の一文、「二コラ・テスラは、憧れのエジソンの元で働いていた当時」から始まる一文を書く前に、「二コラ・テスラに関して100字程度で説明して」とGPTを利用することが頭を一瞬よぎったのだがやめた。何となくそれは良くない気がした、という感覚的な理由なのだが、その判断は間違っていなかったように思う。文章に限らずアウトプットされた成果物だけに目が行きがちなのだが、大抵の場合、その1つ1つはその作り手の成長の過程の一部でしかない。意見作文に取り組んでいる生徒たちに、「あのさ、学校の課題なら中にはただ提出すれば良い、というものもあるかもしれへんけど、わざわざここに来て作文をしてんねんから、どうでも良いことを書こうとせずに、ああでもないこうでもないと頭を使いや。それが後々につながっていくから」といったような声を掛けることがある。今回の私の場合でいうと、いろいろと調べながら自分でどうにかまとめたことで、ほんの少しではあるものの文章力を鍛える訓練になり、大なり小なり苦労したことで二コラ・テスラに関する情報が少し整理された状態で頭に収まり、それに加えて、改めて作文の大切さを実感できた。大学生がすべてのレポートに全力を注ぐことは難しい。だから、AIを活用してうまく手抜きをすれば良い。だが、一事が万事タイパでは自らの未来に暗雲を引っ張り込むようなものである。時間を掛けるべき大事なことのために、時間を節約する。それこそが、あるべきタイパの考え方である。ここで述べたようなことを頭で理解できるのはもちろんのこと、楽をしようとする心と葛藤した上で折り合いを付けられるのも国語力のなせる業である。三男の小学校時代のサッカーのチームメイトが、セレクションで合格を勝ち取り、強豪のクラブチームに入団したものの、あまりにも勉強をやらない子が多く、「勉強なんてせんでええやん」というような感じで、彼らとの会話が成立しないらしい。それを踏まえて、高校は勉強もある程度ちゃんとやらせるところに行かせないとダメだ、という話をパパ友がしていた。
国語はすべての教科の基本だと言われる。その一例として、算数の文章題が挙げられるが、国語が全然できないのに算数がめちゃくちゃできる子の説明が付かないから、それは事実とは異なる。しかし、人生の基本であることは間違いない。人生でリープフロッグ現象は起きない。一足飛びには行かないのだ。そういうことが理解できる本物の国語力を、作文と読解問題を通して身に付けさせてあげたい。








