
2025.04.29Vol.684 質問や意見にお答えいたします
「殻を破る」について書こう書こうと思いながら、来週は教室が1週間お休みになるのでブログもそれに倣うため、さらに先延ばしになることが決まっている。これまで「教室が1週間休みになるためブログもお休みです」というような表現をして来た。日頃、「間違えてへんけど、同じ表現はいつでも使えるから繰り返すんではなく別のものを考えなアカンで」と教えている手前、引っ掛かりを覚えながらも代替案が思い浮かばずそこに落ち着いて来た。また、生徒たちには、「頑張って言い換えたのは良いけど、それによって分かりづらくなったら意味が無いからな」ということも伝えるので、それと照らしたときにどうなのか、という疑問は残るものの、小さな一歩を踏み出したということにしておこう。
さて、一昨日の日曜に行った受験の体験談を親御様に語っていただく『十人十色』においていくつかの変更を行った。1点目は、スピーカーの対象を中学だけではなく、高校、大学受験まで広げたこと。これに関しては、中学受験生が少なかったためそのようにせざるを得なかったというのが実際のところである。3~5年以内を目処に、「中学受験」と「高校・大学受験」の2つに分けて開催できるようにしたい。特に大学受験に関しては、生徒本人に話してもらうのが良さそうである。実際、去年、今年とそれぞれ一人ずつにお願いしたのだが、見事にその大役を果たしてくれた。子供としての率直な意見を述べてくれたからだ。2点目が会場の変更である。西北にしか教室が無かった頃の名残で、長年甲東園駅直結の会議室で行って来たのだが、希望する日程での空きがなかったこともあり、十三駅から徒歩10分のところにある区民会館を初めて利用した。駅から少し離れているという不便さはあるものの、西北校、豊中校、高槻校のいずれからもある程度等しい距離にあるため、今後もそこを第一候補とする予定である。3点目は質疑応答の方法である。これまでは挙手していただく形式を取って来たのだが、多くても3人ぐらいで終わってしまうため、事前に紙と鉛筆をお配りして、気になることなどを随時記してもらいながら、すべての話が終わった後に改めて5分ほどの時間を取り、それを回収してそれに応えていく形を取った。嬉しい想定外であったのは、かなりびっしりと書いていただけたことである。そのすべてに対応することはおろか、1割も満たせなかったのでこの場を利用することにした。その残りの9割の中から無作為に選んで私の意見を述べて行く。
Q
(高校生の親御様より)学校の三者面談で毎回言われる言葉にもやもやします。大学で何を学びたいのか、何をしたいのかではなく、「文系なので学部なんてどこも一緒です。大学を出た後の就職先の企業を見据えた大学選びをしましょう」と。何なんでしょうか。
A
あの場で、私は次のような話をした。
「1年ほど前に、1年生の頃から中学受験まで志高塾に通ってくれていた生徒のお母様と電話でお話をする機会がありました。10番前後で灘に合格したこともあり、東大か京大の医学部にでも進んだのかと私自身も勝手に思い込んでいたのですが、実際は京大の工学部情報学科でした。灘では、『医学部には進むな』ということをしきりに言われた、とのことでした。医者の息子が多いこと、偏差値の高いところに合格できるか、というゲーム感覚で医学部を選択すること、のいずれか理由で選ぶ生徒が多いから、というのがその理由です。」
私は生徒が何を選ぶかについて基本的に口出しすることはない。その代わりに、どれだけの学部を調べたのか、ということを確認する。結果的に、東大医学部に進んだ生徒には、高2の頃に、東大理Ⅱ出身で、元日テレアナウンサーの桝太一の『理系アナ桝太一の 生物部な毎日』という本を私も読んだ上で与え、「あそこで書かれてたフィールドワーク楽しそうやな」というような話をしたことなどを今も覚えている。また、調べる対象は文系の学部まで広げていた。彼に限らず、特に医学部を志望する生徒には1分の1で選ぶな、ということをよく伝える。分子の「1」は医学部を指している。分母が3、5、10と増えることによって、「世の中には面白いことがいろいろとあるけど、その中でも一番なのが医者の道」となれば、良い医者になる可能性が高くなるからだ。よく「人助けをしたい」ということを志望理由にするが、それは医者に限ったことではない。たとえば、ビル・ゲイツは『ビル&メリンダ・ゲイツ財団』を通して、世界の貧困や病気撲滅のための支援を行っている。また、建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した坂茂は、これまで世界の被災地に軽くて丈夫で安価な紙管で作ったシェルターを供給し続けて来た。また、志高塾や私にできることは限られているが、作文を通して生徒を、将来社会に出て活躍する、心のある、高い志を持った人に育てることに少しでも貢献できたのであれば、間接的に「人助け」に関わっていることになる。
文系の学部に話を戻すと、今の私なら「文化人類学」を選ぶ。参与観察というフィールドワークに興味があるからだ。数か月から時には数年に渡って対象の民族と生活を共にし、外から第三者としてではなくそこに入り込んで体験を通して研究をするのだ。文系に進む生徒たちには、『視点という教養(リベラルアーツ) 世界の見方が変わる7つの対話』という本を勧めることが多い。この1冊を読むだけでも、世の中には自分が知らないだけで面白い分野がたくさん転がっていることを知れるからだ。中途半端に大学でAIを学んだ奴よりも、文系の学部でも真剣に研究をした学生の方が間違いなく就職試験では高い評価を受けられる。もし、ある企業の人事部がその見極めすらできないのであれば、そんな企業に勤める価値はない。
前置きが長過ぎたせいで、一つの問いに答えただけで終わってしまった。次回もこの続きになりそうである。「殻を破る」はいつになることやら。GWは御前崎に釣りに行くことを諦めて、三男と二人で淡路島の「禅坊 靖寧(ぜんぼう せいねい)」で一泊することになった。設計は坂茂である。
2025.04.22Vol.683 安藤忠雄との過去から現在
先週、グラングリーン大阪で開催されている安藤忠雄展に行って来た。図面や建物に関する記事は本や建築雑誌にも載っているので、模型や動画を集中的に見て回った。モダンアートなどの動画系の作品が無い限りはしんと静まり返っていることが多い美術館とは異なり、会場内には鳥のさえずりや風など自然の音が静かに流れていた。後で分かったことなのだが、会場奥に原寸大で再現された「水の教会」の空間から漏れて来ていたのだ。十字架を囲むように両サイドと奥の三方に現地で撮影されたそれぞれの季節の映像が少しずつ変化をしながら流れる仕組みになっていた。1年は5分ぐらいだったのだろうか。結果的に3年分ぐらいそこにいたはずである。私にしては珍しく無に近い状態になり、その空間に没入していた。心地良かったのだ。現地を訪れたことがあれば、どれだけ忠実に再現されていてもそこまで入り込むことは無かったであろう。その「水の教会」は星野リゾートトマムの敷地内にある。調べてみると、教室が1週間休みになるシルバーウィークの平日を利用すれば料金はスキーシーズンのほぼ半額で、運が良ければ雲海を見ることもできる。今年の9月はきっとそこにいる気がする。
タイトル、初めに頭に思い浮かんだのは『私と安藤忠雄との過去から現在』だったのだが、あまりにも大げさな感じがするので「私と」を省いた。「自分の家を自分で設計できれば良い」という安直な考えで選んだ建築学科。建築を学んだおかげで狭すぎた視野は広がった。それに関しては心底良かったと今でも思う。一方、入学後かなり早い段階で建築家は向いていないということをはっきりと自覚していた。それでも、自分で選んだ道なのでただ諦めるのではなく、その先に道が無くても何かアクションを起こさなければ、という気持ちが強かった。あがいていた、もがいていた、どちらが適切だろうか考えたとき、「もがき苦しむ」というレベルまで自分を追い込んでいたわけではなく、「悪あがき」というお遊び程度に過ぎなかったので、前者に軍配が上がる。今回、会場を回る中で頭の片隅に追いやられていた記憶が甦って来た。何の帰りだったかは覚えていないが、両親と神戸の方に車で行った際に六甲の山の手にある集合住宅に連れて行ってもらい、2人を待たせて私は建物をいろいろな角度から眺めていた。また、なぜそんな選択をしたのかも定かではないが、真冬に南港にあるサントリーミュージアムに行き、寒空の下震えながら建物のスケッチをしていた。2004年に57歳で父を亡くしたのだが、四十九日が明けてから、50代前半を過ごした岡山でお世話になった人への挨拶と父の思い出の地巡りも兼ねて母と兄の3人で旅をしたのだが、その際に直島の安藤忠雄設計のホテルでも一泊した。3人の子供ができてからも一度そこで宿泊している。2年ほど前に三男と淡路島に釣りに行った際に前泊するところとして選んだのは「TOTOシーウィンド淡路」であった。去年、スイスのバーゼルにある「ヴィトラ・キャンパス」を訪れたときも、コンクリート打ちっ放しの会議棟の周りを一回りして、写真もたくさん撮って帰って来た。ちなみに、大学生の頃、家から車で10分のぐらいのところにある「光の教会」にドライブがてら友達と遊びに行き、夜に騒いでいて、隣接した敷地に居を構えている牧師さんに怒られたという思い出もある。
社会人になり建築とは別の世界に進んだが、道後温泉を訪ねた際に「坂の上の雲ミュージアム」に寄るなど、思い起こせば時期ごとの濃淡の差はあるものの常に安藤忠雄が自分の中にはあった気がする。そんな実在する多くの建物を押しのけて私が一番好きなのは、1988年に発表された、中之島にある大阪市中央公会堂の再生案『アーバンエッグ構想』かもしれない。コンペがあったり依頼を受けたりした訳でも無いのに自ら提案を行ったのだ。外部には手に入れず、内部にコンクリートの卵型ホールを挿入するというものであった。大学生の頃、発想力よりもその行動力に驚かされたことを覚えている。2021年にパリ中心部に「ブルス・ドゥ・コメルス」という美術館がオープンした。商品取引所として使われていた18世紀の建物の中に円筒形のコンクリートを差し込んだのだ。この2つのアイデアは密接につながっていると勝手に思い込んでいる。来年、予定通りパリに行くことができれば良いのだが。
大学生の頃との違いはあるものの、このまま人生が終わってしまうような焦燥感が強くなりつつある。現状から抜け出すべく、受験がひと段落した2月ぐらいからセミナーに参加するようになった。そのほとんどはオンラインなのだが、唯一リアルで行われた安藤忠雄特別講演『夢かけて走れ』に出席したことがきっかけで、主催者の株式会社エックスラボの社長の藤さんと出会うことができ、今、志高塾の質を上げるために力を借りているところである。あれから20年以上の歳月を経た今であればきちんとあがけるような気がしている。結果を出すための、甘い自分との戦いは始まったばかりである。
2025.04.15Vol.682 旅でも醍醐味
ここでも何度か述べているが、大学生の頃は年に一度、二週間ほど、建築を見たり美術館を訪れたりするためにヨーロッパを中心に旅していた。少し英語でコミュニケーションが取れるようになって来たところで帰国の途に就くことになり、「次回こそは事前に英語をもう少し勉強してから来よう」となるものの結局同じことを繰り返していた。
さて、予定通り訪れた佐渡、一寸法師気分を味わえることを期待していたたらい舟は、動物園での小さい子向けの乗馬体験のように、内海をぐるっと一周して終わり、といった感じで、ものの5分から10分ぐらいであっけなく終了した。それはさておき、世界遺産の金山には「道遊の割戸(どうゆうのわりと)」という看板が立てられている山をバックにした撮影スポットがあり、そこに大学生ぐらいの男の子が3人いたので、「お互い撮り合いましょう」と声を掛けた。お礼を言って別れを告げたそのすぐ後に、山が2つに割けているのを見ながら彼らが「何であんな風になってるんやろ?」、「ほんま不思議やなぁ」というやり取りをしていたのが聞こえて来たので、「あそこ(近くの説明書きを指しながら)に書かれているように、露天掘りで、山を頂上の方から鉱石を削って、そこから金を採取していたためですよ」と教えた後に、彼らに聞こえるように、ふざけて「あんなんにならんように今の内からちゃんと勉強せなアカンぞ」と三男に伝えると、そのうちの一人が乗り良く「ほんまやぞ。ちゃんと勉強しいや」と返して来たので、「おお、説得力半端ないな」と突っ込んで楽しくお別れした。「露天掘り」というのは、中学か高校の社会で確かオーストラリアかどこかの炭鉱の名前とセットにして覚えた言葉だが、目にしたのは初めてであった。「学校の勉強に何の意味があるのか?」という問いがあるが、今回の露天掘りのように、後からなるほど、ということもそれなりにあるはずである。
6泊7日の旅の6泊目を岐阜のサウナ付きホテルに決めたのはその日の夕方であった。学生時代の海外旅行でも最終決定がぎりぎりになることはそれなりにあったのだが、それ以前に複数の可能性を探っているので、決断した時点でどこも埋まっていて身動きが取れないというようなことはこれまでに一度もない。実際、そのホテルにも昼過ぎに一度電話をして気になることをいくつか確認していた。その日は、岐阜に寄った際に訪れるようにしているイタリアンの店で晩御飯を食べた後に、そのまま帰宅するということも考えていた。その翌々日に4時起きで淡路島に三男と釣りに行く可能性があり、それであれば体を休めるために一日早く帰った方が良かったからだ。結果的に乗りたかった船はメンバーが集まらずに出船しないことが分かったため岐阜でゆっくりすることにした。できて半年のそのホテルにして大正解であった。バーで一時間の飲み放題が付いていたのだが、喫煙できるため20歳未満の三男は部屋で待たせざるを得なかった。15室という小規模のホテルであったこともあり、私が行ったときは貸し切り状態であった。1年前までJ2で5年ほどプロサッカー選手をやっていた28歳のホテルの従業員の男の子にお酒を作ってもらいながらサッカー談議に花を咲かせていたのだが、途中から私より10歳若い37歳のオーナーがやってきて、ホテルの感想などを尋ねて来た。彼は元々名古屋で不動産業をやっていて、そちらの方である程度成功を収めて、今回初めてホテル業に手を出したということであった。その物件をいくらで買って改装費にいくらかけたのか、ということも教えてくれた。私の予想をはるかに下回る金額であったのだが、コスト削減だけを目的にしたわけではなく、サウナルームのひのきは、明るく見えるように黒ずんだ部分を全部切り落としたせいで必要な部材がその分増え、かなり高くついたことなども説明してくれた。その他、まだ小さい娘を名古屋に残しているのだが、この半年はほとんど休みなく働き、1週間で数時間家に帰って顔を見るだけのトンボ帰りを繰り返していてホテルのサービス改善に努めていること、人手が足らなければ自らも部屋の掃除をしていること、一生懸命仕事をせずになまじっか成功してしまうと仕事をなめてしまうことなど、仕事への真摯な向き合い方についても語ってくれ非常に勉強になった。身につまされた、と表現する方が適切かもしれない。話に熱中し過ぎたため、私は1時間を過ぎてもただ酒をいただき続け、一向に部屋に戻らない私にしびれを切らした三男が「まだ終わらないの?」と迎えに来たほどであった。GWの教室の1週間の休みを利用して今回果たせなかった静岡の御前崎に三男と二人で釣りに行く予定にしている。今サイトで確認したところまだ空きはあるようなので、またそのホテルに寄るのも良いかもしれない。もちろん、イタリアンもセットである。
冒頭での海外旅行の話、これまで英語の勉強という観点からしか捉えていなかったのだが、今回新たな発見があった。旅行中はそれだけ現地の人と会話をしているということなのだ。佐渡では、半日だけレンタカーを借りたので、返した後に旅館に向かうタクシーで運転手のおじさんから、もうすぐ羽田空港と佐渡空港を結ぶ路線が試験的に就航すること、佐渡は女性がグループでハイキングに来ることが多く、それはイノシシやクマがいないので安全であることが理由であるとことなども教えてもらった。また、旅館のおかみさんからは昔大阪の天王寺に住んでいたことや新潟までフェリーで出た後東京に新幹線で出るより大阪に飛行機で飛ぶ方が便利で、ファンである“Bump of Chicken”のチケットも取りやすいのでコンサートの度に大阪に来ることなどを聞いた。
今、いろいろと自分の仕事の仕方を見直している。その一環として教室の玄関に花を生けることを再開した。以前のように毎週ではなく、月に一度や二度でも良いから続けていく予定にしている。その花に関しても、私が気に入っている花屋が車で30分ほどのところにあり、教室とは反対方向なのだが、わざわざ買いに行くと私と同じぐらい強面の社長のおじさんがお勧めの組み合わせをアドバイスしてくれ、また、社長の手が空いていないときはおばちゃんたちとどれにすれば良いかとかどれが長持ちするか、などとやり取りをする。
日常、非日常を問わず、会話なんだな、と。予定では「旅の醍醐味」であったタイトル、内容に合わせて少し手を加えた。久しぶりに長くなってしまった。
2025.04.08Vol.681 カーナミ
2週間前にブログをアップした時点で、「殻を破る」というテーマで近々書こう、ということが頭の中にあった。私のことなので延期になるかもしれないが、来週の予定にしている。ところで、皆様はその言葉を聞いたとき、どういう「殻」をイメージするでしょうか。少し考えてみてください。少なくとも、シャボン玉のように簡単に割れてしまうようなものではないはずです。
前回、最後の段落に「皆様も是非、今日から次回のブログまでいろいろと自分のことを褒めてみてください」という一文を入れた。このメッセージは自分に向けたものでもあった。性格にもよるだろうが、自分を褒める、というのは案外難しい。私の場合で言えば、何かしらの成果に対して瞬間的に満足感や達成感のようなものが芽生えても、「まあ、これぐらいできたところで大したことないな」となり、すぐにしぼんでしまう。
教室の春休みを利用して、小学校を卒業した三男と二人で6泊7日の車の旅を楽しんで来た。宿泊した市町村を順番に並べると、妙高市、佐渡市、新潟市(いずれも新潟県)、前橋市(群馬県)、秩父市(埼玉県)、岐阜市となる。出発前に予約していたのは4泊目の前橋の宿までで、それ以降の予定は立てていなかった。7泊8日か8泊9日になる可能性もあったのだが、若干早まったのは次のような理由からである。静岡県の御前崎港から出る船に乗り、魚種が豊富で大物が釣れる駿河湾の金州(きんす)に釣りに行く予定を、波が高い状態が続き出船できそうになかったため諦めざるを得なかったからだ。その最終判断をしたのが前橋のホテルを出る5日目の朝で、そのタイミングでその晩は秩父に泊まることにした。6日目はそこから南下して、前から行きたかった山中湖周辺の富士山が望めるサウナを訪れたかったのだが、悪天候で視界が悪そうだったので急遽山梨県北杜(ほくと)市にある清春芸術村(きよはるげいじゅつむら)を目指し西進した。埼玉と山梨の間には日本三大峠の一つである標高2,082メートルの雁坂峠(かりさかとうげ)があり、4月になっていたにも関わらず大雪が降っていた。途中寄ったパーキングエリアで、三男が雪だるま作りを楽しめるほどであった。大漁を期して車に積み込んでいた大きなクーラーボックスは文字通りお荷物になってしまったが、釣り用の長靴は雪遊びには大いに役立った。いろいろ調べる中で清春芸術村を偶然知った。そこには私の好きな画家ジョルジュ・ルオーが制作したステンドグラスを飾る教会や安藤忠雄の光の美術館などがあり、敷地は広くないものの有名建築家が設計した建物がぽつりぽつりと余裕を持った状態で点在していた。元々桜がきれいという理由で選ばれた場所なので、その季節の、しかも晴れの日に来れば本当に心地良い空間なのだろう、という印象を抱いた。新潟に近いこともあり、2週間ほど早かったのであろう。
タイトルの「カーナミ」は「カーナビ並み」をもじったものである。カーナビが渋滞情報などを元に最適ルートを提案するように、私は天候を含めていろいろな条件を踏まえた上で、より良い旅程を立てることにおいては自信がある。これは、胸を張って自分を褒められる数少ないことの一つである。そんなものを人と比較する機会が無いので、思う存分自己満足気分を味わえるのかもしれない。
今回の旅行で言えば、上で述べたように4日目までの宿と、3月28日(金)の朝一のフェリーで新潟港から佐渡島に渡り翌朝の第一便で戻ってくること、29日(土)に新潟、30日(日)に群馬でサッカーを見ること以外は何も確定させていなかった。三男は動物園や水族館が好きなので、どこに組み込むのが良いかなどを他の候補地と天秤に掛けながら、結果的には新潟港に帰ってきたその足で、車で10分ぐらいのところにある「マリンピア日本海」に、富岡製糸場の後に、これまたそこから車で10分ぐらいの「群馬サファリパーク」を訪れることにした。予定を立てるときに意識しているのは時間的な余裕を持たせることである。なお、水族館と動物園ではそれぞれ2~3時間、3~4時間の滞在時間を見込んでいた。昨日、三男と同じ学年の女の子の授業があったので、「春休み、何か楽しいことした?」と尋ねたところ、「沖縄に3泊4日で行って来た」と返って来たので、何をしたかを聞くと「美ら海水族館には行ったけど、それ以外は良いホテルだったので、そこで読書したり海を眺めたりしていた」ということであった。そのような滞在型の観光にはめっぽう弱いが、周遊型を好む人であれば、要望、予算などを聞いた上で、まずはラフな旅程を立て、その都度アップデートしながらかなり満足してもらえるプランをその日ごとに提供できる自信はある。運転手もしながらその道中、必要であればそれなりに面白い話もできるはずだ。試す機会がないのが残念である。そのような能力は元々備わっていたわけではなく、大学生の頃、毎年のように2週間ほど海外を訪れ、初めの二晩と終わりの一晩ぐらいしか宿を決めずに旅行をしていたからである。初めが一晩では無いのは、時差ボケを取ることを含め、体調をできる限り早く万全にするためである。当時はネットで予約などできなかったので、『地球の歩き方』などに掲載されている良さそうな宿を実際に訪ねて部屋の中を見せてもらって値段交渉をして、ということを繰り返していた。また、スケジュールも、当初は地図に行きたいところをドットし、それらをいかに効率よく回るかということを大事にしていたのだが、広場に面したカフェテラスでコーヒーを飲みながらゆっくりする時間が心地良いと気付いてからは、ゆとりを持ったものにできるようになった。
自分を褒めることに終始してしまった。よって、来週が今回の元のタイトルであった「旅の醍醐味」で、「殻を破る」はその次になりそうである。早くも予定変更。こういうところも「カーナミ」である。