志高塾

志高塾について
志高塾の教え方
オンライン授業
読み聞かせクラス
卒業生の声
志高く
志同く
採用情報
お知らせ
お問い合わせ
体験授業申込 カレンダー
志高く

2026.02.17Vol.723 きちんとした言葉を紡ぐことで人は少しずつ練られて行く

 これまでにも何度か、短縮形を好まないことを述べて来た。自分でもその理由がよく分かっていないのだが、たとえば「セブンイレブン」は「セブンイレブン」であって、「セブン」や「セブイレ」ではないのだ。高校時代、唯一と言っていいぐらいよく使っていたのは「なるはや」である。それに関しても、なぜなのかは不明なのだが、縮めることで「なるべく早く感」が出るからのような気がしている。たとえば、クラブの練習終了後に着替えのロッカーが別の友達に、「なるはやでコンビニ待ち合せな」といったような感じで使用していた。数日前に、ネットニュースで「ビジュ」というのを見て、言葉ってただ縮めれば良いものなのだろうか、という疑問が湧いてきた。それに関しては、生徒が使うので知ってはいた。昔は、ほとんどが名前に限られていたのではないだろうか。あだ名もその一つである。愛着が込められていることもあれば、否定的な意味合いを帯びている場合もある。最近で言えば、「中道改革連合」が最も分かりやすいかもしれない。当人たちは親しみを込めて「中道」と呼んでもらうことを望んだものの、選挙前から「中革連」と馬鹿にする人も少なくなかった。よくよく考えてみると、「東大」、「京大」、「阪大」などは当たり前のように使っている。それは私がその言葉を知ったときが既にそうだったからである。未だに慣れないものの1つが、「中学受験」を省略した「中受(ちゅうじゅ)」である。それを耳にするようになったのはこの5年ぐらいであろう。
 SNSの広がりとともに、文字を打ち込む時間を短くするために短縮形が次々と生み出され、今後さらに拍車が掛かるのは火を見るよりも明らかである。それに対して肯定、否定のどちらの感情もないのだが、果たして人間の頭の回転はそれに追いついて行っているのだろうか。少し脱線するが、何年か前に読んで、「なるほど」と感心したことを紹介する。タブレットを使っての学習が広がり始めたときに、ある専門家が「人間は長らく紙に書くということをして来て、その際のペンと紙の摩擦の感覚がDNAレベルで刷り込まれているので、タブレットの画面にタッチペンでさらさらと書いても頭に入らないのだ」というようなことを語っていた。そこに科学的根拠は何も示されていなかったので、真偽のほどは全くもって定かではないのだが、その説明がすごく心地良くて、それを信じてみたくなった。だからと言って、生徒たちに「タブレットではなくノートに書きなさい。それは人間のDNAにはな」というような話をするわけではない。話を戻す。言葉を発する場合、用意された原稿を読み上げるのではなく、話しながら考えるわけで、短縮形を使うということはその時間が短くなってしまうことを意味している。それは受け手も同様である。双方で考える時間を削りながらやり取りをするので、自ずと内容は頭を使わなくても済むものになって行ってしまう。
 短縮形について考えていると次のようなニュースを目にした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0a16718f567e260d967bbf6c057357199ad5db5a
「ガンダしてファイナルコールで乗れました」ということをSNSで投稿し、それが炎上したという内容なのだが、「ガンガンダッシュ」を短縮して「ガンダ」という言葉を使ったのに謝罪で時間を取られたら本末転倒ではないだろうか、という気がしたのだ。私は彼女のことを知らないし、たまたまそのようなことがあっただけ、日頃は時間を短縮することで何かを生み出せているのかもしれない。こういうときに思い出すのはリンカンのことである。南北戦争の折、北軍の将軍がミスを犯したことで勝利の機会を逃し、それを叱責する手紙を書いたものの、一晩置いて、冷静になれたことで送ることを思い留まったという有名な逸話である。SNSで頻繁に情報発信する人がそのような時間を置くということをするはずもないのだが。
 昨日、中学2年生の女の子が面白いことを言っていた。彼女は中学受験の勉強をしていたものの、結果的には公立の小学校からインターナショナルスクールに通うことになった。中1の12月に入塾したので1年と少し経ったところである。『コボちゃん』から始まり、これまで要約作文の教材を進めて来て、少し前から読解問題に入った。その問題集は小学5年生ぐらいが取り組むものであって、決して難しくないこともあり「簡単すぎるんやったら言ってや」と伝えると、「難しくはないのですが、正しい日本語を思い出すのにちょうど良いです」というような返答があった。インターナショナルスクールであっても、日本人が多く、授業以外では日本語でやり取りをする。彼女曰く、そこで交わされるのは上で述べたような短縮形含め、今時の言葉で埋められているので、きちんとした日本語を基礎から復習する機会としてちょうど良いとのことであった。その受け答えを聞いて、「ああ、自分なりに志高塾での学習することの意味をよく考えてるんだな」というのが実感できて少し嬉しかった。
 同じ時代を若者として生きていないので、もし、自分が同じ年ごろならどうしていただろうか、というのはよく分からない。ただ一つ言えるのは、今も昔もきちんとした言葉を紡ぐことで人は少しずつ練られて行くということであり、今、日常からその機会が失われつつあるということである。生徒たちの未来を明るくするために、志高塾ではその機会をただ提供するだけではなく、その時間がより濃密になるようにしていってあげたい。

PAGE TOP