
2026.02.24Vol.724 報告ときどき相談
志高塾の教育とは何の関係もない映画鑑賞会開催の告知からです。これまでの中では間違いなく、そしてこれからの中でもおそらく最も訳の分からない企画です。以下、その内容です。
映画タイトル;前編『教場 Reunion』
日時;3月8日(日)午前9時30分上映開始(9時から教室を開けます)
場所;西宮北口校
募集人数;10名(生徒一人と私が既に決まっておりますので残り8名となります)
対象者;このブログを読んでいただいた方全員
参加方法;電話でもメールでもどのような手段でも良いので、興味のある方は事前に私にご連絡ください
先週の金曜日、高2の女の子が「先生聞いてー、どうしよー」と私のところにやってきた。「好きな人できてんけどどうすれば良い?」というのが相談の主旨。鑑賞会の告知とともに、ブログでこのことに触れるのは本人の了承を得ている。話を聞いている限りうまく行きそうな感じがしたので「この場で誘い」とアドバイスしたがスマホを持って来ていなかったので、「じゃあ、家帰ってすぐやな」ということで落ち着いた。最初は私と2人だったのだが、そこに勤務を終えた中学生と高校生の2人の息子を持つ女性の社会人講師も加わり「青春やなぁ」としばし盛り上がっていた。デートプランを考えている中で、その生徒がボーリングを得意にしていることが分かり、「おっ、ええやん」となった。ストライクやスペアを取ればハイタッチをするだろうし、ほど良い距離で2人で楽しめるからだ。「自分から誘って失敗したらどうしよ」と漏らすので、「失敗したい人なんておらんし、動けばうまく行かない可能性はあるけど、アクションを起こさずに後から『ああしとけば良かった』となる方が後悔するで」ということを伝えた。会話の中で、唯一教育者っぽい発言だったような気がする。元々お願いしていたこともあり、帰宅後すぐにその彼に送ったメッセージのスクショが送られてきて、私も少しだけドキドキしながら彼からの返信を待っていた。それが失敗に終わったところで私にとっては痛くも痒くもないのだが、「大丈夫、うまく行くから」と背中を押した責任をほんの少しだけ感じていたからだ。結果的に彼からの提案で木村拓哉主演の後編『教場 Requiem』を見に行くことになった。元々はテレビドラマシリーズらしく、それを全て見返すのは大変なのでせめて前編は見た方が良いと勧めたのだが、家庭の方針でそれを唯一見られるネットフリックスには入っていないとのことだったので、「よし、じゃあ、WBCを見るために入会しようか考えていたから俺が入ったるわ。去年の夏に一度豊中校で映画鑑賞会をして、そのためにプロジェクターを買ったけど、その1回しか使ってないから西北で2回目やろか」というところに落ち着いた。いつまで上映されているかも分からないので、学年末試験が終わってからできるだけ早い日に設定した。折角なので壁に映すのではなくスクリーンがあった方が良いかな、ということで手ごろなものを探している最中である。参加者が集まるか自体定かではないが、12時ぐらいに終了するのでピザでも頼んでお昼を食べてから解散にするか、ということなども考えたりしている。もちろん、映画の参加だけでも構いません。
経緯の説明が随分と長くなった。昨日の時点でここまで書き上げていたので、彼女には「こんな感じで行くから」と事前に文章を送って確認はしてもらっている。ここからは、先生としての仕事も一応しています、という自己弁護を少々。理系である彼女の志望大学、学部は決まっている。共通テストと2次テストの点数の割合はほぼ同じで、レベルもさほど変わらない。共通テストでかなりの高得点を取る必要があるので、恋愛の相談を受けるちょうど1週間前に、まずは7月ぐらいまでに数学と国語をある程度のところまで持って行って、その上で夏休みをどのように戦うかを決める必要がある、といったような話をしていた。英語は計算ができるので、それに加えて数学と国語の目処が立てば、後は理科と社会のことをどうするか、という話になる。1週間前のことがあるので、「先生聞いてー、どうしよー」と来たときに、「勉強、それ以外、どっちの話?」と確認したぐらいである。普通の塾の先生であれば、「恋愛なんてしている場合じゃない!」と叱るのだろうが、私はそうではない。そうではないのが分かっているから私のところに話を持ってくるのだろう。受験のことを考えれば、勉強だけに集中した方が良いのは誰が考えても明らかであり、本人もそのことは百も承知である。その上で、話をしに来ているので、私が果たすべき役割は勉強と恋愛を両立させるための方法になる。
最後にもう1つ先生っぽい話を紹介して終わりにする。先日収録し、2か月後ぐらいにはアップされる予定の動画の中で私は例のごとく軽口を叩いている。小2の頃から通い続けている高3の女の子のお母様が昨年の秋の面談の際に「先生との面談がもうこれで終わりだと思うと寂しいです」とおっしゃるので、「おいしいご飯に連れて行っていただければいつでも話せますよ~」というやり取りがあったことを撮影の中で話している。10年以上の付き合いになるので、20回ほど面談をしているのだ。さて、その高3の女の子、合格発表が終わっていない大学もあるのだが、浪人することがほぼ決まった。滑り止めの大学には合格したのが、そこには行きたくないのでもう1年頑張ることにしたのだ。高2の女の子の恋愛の話を聞く直前に、私はその子の話を聞いていた。その子は中学受験のときはとにかく勉強が嫌いで成績も悪く行ける学校があるのだろうか、というような感じであった。すぐにばれるような意味不明な嘘もたくさんついて当然のごとく怒られ倒すので、私のことが間違いなく大嫌いであった。私が声を掛けるだけで顔をしかめていたぐらいである。当時、お母様には「この子は勉強で勝負できる子ではない」ということを伝えていた。ただ諦めましょうということではなく、「少しでも上の学校に行けるようにするために表面的な勉強をさせるのではなく、勉強を通して、将来に役立つ力を付けることに重きをおきましょう」という思いを込めてのメッセージであった。それは何も彼女に限ったことではなく、私が常に大事にしていることである。私のことが大嫌いだった彼女が、浪人することになりそうだということ、浪人しても志高塾に通い続けたいということなどをわざわざ私に話に来てくれたのだ、その際に、私は主に次の2つのことを伝えた。高校時代に通っていた予備校にそのまま行こうとしていたので、まずはいろいろなところに体験に行くなり、説明会に行くなりしなさい、ということ。もう1つが、将来したいこと、そのためにどこの大学のどこの学部に行きたいかを絞ってしまっているので、「受験に限らず目標を何か1つに決めて、それに最もらしい理由を付けることは難しいことではない。たとえば、人の命を救いたいから医者になります、というのは何も考えてなくても言えてしまうが、人の命を救うにしても実際には様々な道がある。だから、まずはいろいろな学部を調べて、そこで何を学べるか、そうしたら将来どういう楽しいことができそうか、というのを少なくとも5つ挙げなさい」ということ。その学部を調べることに関しては、志高塾の授業内でそのような時間を設けて作文にしても良いと考えていることも伝えた。という訳で、そのお母様との面談は少なくとも後2回はできそうである。私立受験を直前に控えた1月末に、彼女が電話で日程のことなどを報告してきたので15分ほど話した。その際、願書を出したところをできるだけ多く受ければ合格率が高まるわけではないので、何個かの試験は捨てて勉強に当てた方がいいことなどをアドバイスした。教室での話の最後に、その電話の内容を親友がすべて聞いていたこと、私のことをめっちゃ良い先生やん、と言ってくれていたことを教えてくれた。ただ普通に話していることをそのように評価されるのは嬉しいことである。
上映会を開催するに至った経緯を説明したせいでいつもより1,000字ほど多くなってしまった。話のジャンルを問わず、生徒が私のところに話に来る場合、そのほとんどが報告である。誰かに話したくて、その相手に私を選ぶのであればよほどのことが無い限り耳を傾ける。話すことで気分が良くなったり、話しながら頭や心の整理が付いたりするのであれば私が聴くことには意味がある。そして、時々具体的なアドバイスをする。「あの人に話してみようかな」と思われる人でありたい。
2026.02.17Vol.723 きちんとした言葉を紡ぐことで人は少しずつ練られて行く
これまでにも何度か、短縮形を好まないことを述べて来た。自分でもその理由がよく分かっていないのだが、たとえば「セブンイレブン」は「セブンイレブン」であって、「セブン」や「セブイレ」ではないのだ。高校時代、唯一と言っていいぐらいよく使っていたのは「なるはや」である。それに関しても、なぜなのかは不明なのだが、縮めることで「なるべく早く感」が出るからのような気がしている。たとえば、クラブの練習終了後に着替えのロッカーが別の友達に、「なるはやでコンビニ待ち合せな」といったような感じで使用していた。数日前に、ネットニュースで「ビジュ」というのを見て、言葉ってただ縮めれば良いものなのだろうか、という疑問が湧いてきた。それに関しては、生徒が使うので知ってはいた。昔は、ほとんどが名前に限られていたのではないだろうか。あだ名もその一つである。愛着が込められていることもあれば、否定的な意味合いを帯びている場合もある。最近で言えば、「中道改革連合」が最も分かりやすいかもしれない。当人たちは親しみを込めて「中道」と呼んでもらうことを望んだものの、選挙前から「中革連」と馬鹿にする人も少なくなかった。よくよく考えてみると、「東大」、「京大」、「阪大」などは当たり前のように使っている。それは私がその言葉を知ったときが既にそうだったからである。未だに慣れないものの1つが、「中学受験」を省略した「中受(ちゅうじゅ)」である。それを耳にするようになったのはこの5年ぐらいであろう。
SNSの広がりとともに、文字を打ち込む時間を短くするために短縮形が次々と生み出され、今後さらに拍車が掛かるのは火を見るよりも明らかである。それに対して肯定、否定のどちらの感情もないのだが、果たして人間の頭の回転はそれに追いついて行っているのだろうか。少し脱線するが、何年か前に読んで、「なるほど」と感心したことを紹介する。タブレットを使っての学習が広がり始めたときに、ある専門家が「人間は長らく紙に書くということをして来て、その際のペンと紙の摩擦の感覚がDNAレベルで刷り込まれているので、タブレットの画面にタッチペンでさらさらと書いても頭に入らないのだ」というようなことを語っていた。そこに科学的根拠は何も示されていなかったので、真偽のほどは全くもって定かではないのだが、その説明がすごく心地良くて、それを信じてみたくなった。だからと言って、生徒たちに「タブレットではなくノートに書きなさい。それは人間のDNAにはな」というような話をするわけではない。話を戻す。言葉を発する場合、用意された原稿を読み上げるのではなく、話しながら考えるわけで、短縮形を使うということはその時間が短くなってしまうことを意味している。それは受け手も同様である。双方で考える時間を削りながらやり取りをするので、自ずと内容は頭を使わなくても済むものになって行ってしまう。
短縮形について考えていると次のようなニュースを目にした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0a16718f567e260d967bbf6c057357199ad5db5a
「ガンダしてファイナルコールで乗れました」ということをSNSで投稿し、それが炎上したという内容なのだが、「ガンガンダッシュ」を短縮して「ガンダ」という言葉を使ったのに謝罪で時間を取られたら本末転倒ではないだろうか、という気がしたのだ。私は彼女のことを知らないし、たまたまそのようなことがあっただけ、日頃は時間を短縮することで何かを生み出せているのかもしれない。こういうときに思い出すのはリンカンのことである。南北戦争の折、北軍の将軍がミスを犯したことで勝利の機会を逃し、それを叱責する手紙を書いたものの、一晩置いて、冷静になれたことで送ることを思い留まったという有名な逸話である。SNSで頻繁に情報発信する人がそのような時間を置くということをするはずもないのだが。
昨日、中学2年生の女の子が面白いことを言っていた。彼女は中学受験の勉強をしていたものの、結果的には公立の小学校からインターナショナルスクールに通うことになった。中1の12月に入塾したので1年と少し経ったところである。『コボちゃん』から始まり、これまで要約作文の教材を進めて来て、少し前から読解問題に入った。その問題集は小学5年生ぐらいが取り組むものであって、決して難しくないこともあり「簡単すぎるんやったら言ってや」と伝えると、「難しくはないのですが、正しい日本語を思い出すのにちょうど良いです」というような返答があった。インターナショナルスクールであっても、日本人が多く、授業以外では日本語でやり取りをする。彼女曰く、そこで交わされるのは上で述べたような短縮形含め、今時の言葉で埋められているので、きちんとした日本語を基礎から復習する機会としてちょうど良いとのことであった。その受け答えを聞いて、「ああ、自分なりに志高塾での学習することの意味をよく考えてるんだな」というのが実感できて少し嬉しかった。
同じ時代を若者として生きていないので、もし、自分が同じ年ごろならどうしていただろうか、というのはよく分からない。ただ一つ言えるのは、今も昔もきちんとした言葉を紡ぐことで人は少しずつ練られて行くということであり、今、日常からその機会が失われつつあるということである。生徒たちの未来を明るくするために、志高塾ではその機会をただ提供するだけではなく、その時間がより濃密になるようにしていってあげたい。
2026.02.10Vol.722 ブログを続ける理由
「だから何なんだ、でもどうしてなんだ」という、ものすごく個人的で些細な話から。1年ぐらい前からだろうか、気づけば靴紐を右足から結ぶようになっていた。「あれっ!?珍しい」が「また、今回もや」になり、最近では常に右からなのだ。おそらく靴紐を履き始めたのが、小学校1年生からなので、約40年間続いた左から結ぶという習慣がいつの間にか変わっていたのだ。原因として思い当たることが1つだけである。5年ほど前に、サッカーのプレイ中に右手首を骨折し、しばらく右手が使えず箸を左で使っていたのだが、「折角骨折したんだから、何か得ないと」ということで、今なお、左手で持ち続けていることぐらいである。これに関する話をもう少し。中国のスポーツ用品大手のアンタがプーマの筆頭株主になるということが1月末に発表された。アンタというメーカー自体聞いたことがなかったのだが、その2社の売り上げを合わせると3位になるものの、それでも2位のアディダスには大きく差を開けられているとのこと。兄弟で靴工房を創業したのは良いがけんか別れをして、兄がプーマ、弟がアディダスを設立したというのは有名な話である。その買収のニュースを聞いたときに、おそらく初めての紐靴がアディダスであったことを思い出していた。「Vol.719 息子との2人の時間~長男編~」の中で、10年以上前に2人で泊まった部屋に関して、「きっと、どのような部屋でしたか、どのようなお風呂でしたか、とそれぞれ4枚と言わず10枚ぐらいの写真を与えられても正解を選べる自信がある。」と述べた。40年以上前のことなのに、その靴がどんなものであったか、やはり私は当てられるはずである。近所のお兄ちゃんが、かなりきれいな状態のお古の水色のアディダスのスニーカーを譲ってくれたのだ。それまでのものとは違い、底が分厚くて、クッション性に優れていることに感動し、ものすごく大事にしていたことを記憶している。それ以前にどんな靴を履いていたかのまったく覚えていない。200字程度で終えるはずが、既に800字を超えてしまった。「私にも似たような変化がある」という方からのお便りをお待ちしております。
本題とは関係の無い話をもう1つ。年末に、中学受験が終わったタイミングで卒業になった、現在中2の双子のお母様から、ショートメールを使ってロングメールが送られてきた。中1のときも同じように、中学入学後のことなどの近況報告をしてくださった。一点、気掛かりなのは私の返信がちゃんと届いているかな、ということ。スマホを替えたので、それが原因で伝わってなかったらどうしよう、ということが少しだけ気になっている。なぜ、それをここに話題にするかと言えば、1つはそうやって連絡をくださることが、そして、もう1つはこのブログを今でも欠かさず、それもアップする火曜に読んでいただいているということがとても嬉しかったから。ふとした瞬間に、このブログを続けることに意味はあるのだろうか、という疑問が浮かんでくることがある。週に1回、2,000字程度書くというのは、過剰な負担ではないものの、私にとっては鼻歌交じりでできるほど楽なことではないからだ。書き上げた直後というと大げさだが、木曜か金曜ぐらいには次のテーマを何にするか、いつから手を付け始めるかなについて週末や週明けの予定を踏まえて考え始めている。翌日の水曜だけはブログから解放されて、木曜には再び頭の片隅に現れて、火曜に近づくにつれて真ん中の方に移動してくるようなイメージである。湧き上がって来た疑問に対して、「楽じゃないにしても、たかだか週1回ぐらいのことやんけ」、「自分で毎週火曜に書くと決めたのであれば、つべこべ言わずにどんなことがあっても続けろ」というある種の叱咤のようなものを自分自身に投げ掛ける。生徒や息子たちに、「一度目標を決めたからといって、それを変えたらいけないわけではない」というようなことを話すことがある。グレードアップするする分には何も問題が無いし、逆にダウンする場合でも、説得力のある根拠を示せれば良いのだ。自分のことなので考えようによってはどう思われようと良いのだが、人に論理的に説明できないときは、大抵自分でも納得できていない場合が多い。中には、理解してもらえず、結果を残すまでは批判に耐えなければいけないということもあるだろうが、目の前のことから逃げるための言い訳をしていることが少なくない。心の修行を一番の目的として書いているわけではないので、あの手この手で自分を駆り立てようとしてもそれだけでは続けられない。先のお母様のように読んでくれる人がいるから頑張れるし、「前より面白くなくなった」と思われるのだけは心底嫌だから、どうにかしてアイデアをひねり出しているような状況である。それ以外には、毎週コンスタントに考えているおかげで、親御様から相談を受けたときや生徒の意見作文の添削をするときに、瞬間的に自分なりの考えを伝えることができる。その「自分なりの考え」が世間一般で正しいものなのかどうかは分からないが、1週間置こうがほぼ同じことを言う。細かい部分の修正を加えることはあっても、「あのとき全然おかしなこと言ってしまったな」となることはまずない。それは、その場で考えているのではなく、何度も何度も考えて、それにテーマに対して既に出ている自分の意見を引っ張り出して伝えているだけだからだ。その意見なるものは固定されたものではなく、経験を重ねたり知識を得たり、それらを元に再考を繰り返す中で少しずつ少しずつブラッシュアップされて行っている。まとめると、読んでくれる人がいること、一度決めたことでありその代わりになるものを見つけられていないこと、相談や添削の際に役に立っていること、それに加えて、もっといろいろなことを知らなアカンという気持ちにさせてくれることがブログを続けている理由である。
2段落目を「本題とは関係の無い話をもう1つ」という一文で始めた。元は「AIが、いつか変化に気づき尋ねてくれる日はやって来るのだろうか」というタイトルにしていて、それについて書く予定にしていたからだ。この癖も続いている。
2026.02.03Vol.721 AIが賄えること満たせないもの
国際ジャーナリストのモーリー・ロバートソンが1月29日に63歳で亡くなった。闘病中であることを知らなかった。テレビやラジオで彼の話を聴くたびに、「できることなら自分もこんな話、話し方ができる人になりたい」という思いを抱いていた。とにかく思考が柔軟で、自分の考えはしっかりと持っているのだが、それでいて語り口が穏やかなのだ。「モーリーさんのハーバード大時代、キャンベル氏が回想『自由でカッコいい奇才的青年でした』」という記事が、彼という人物をよく表している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/609b581f8378504382b249ee717ffb03fc4a43d6
土曜日の時点で、「次回はモーリー・ロバートソンについて書こう」とほぼ決めていたのだが、その後に、国際ジャーナリストで作家の落合信彦が84歳で老衰のため2月1日に死去という報道を目にした。今の若者にとっては、息子の落合陽一の方が身近であろう。事実を元にした彼のスパイ小説を読むことで、CIAはもちろんこと、イギリスのMI6、イスラエルのモサド、ソ連のKGBなどに少し詳しくなった。今もサスペンスが好きなのは彼の影響かもしれない。大学生の頃に過去の作品をほぼ読み尽くし、それからは新刊を楽しみにするようになっていたのだが、いつの頃からか面白くなくなってしまった。そのときに感じたのは「新しい情報が入ってないな」ということ。過去のものを焼き増しして使い回しているような印象を受けた。私の個人的な感覚なので実際のところは定かではない。裏を返せば、それ以前は海外の諜報機関内に、もしくはそれにかなり近いところに友人なり知り合いがいて、生の情報が得られていたということである。私にとって、アフターはどうでも良くて、私をのめり込ませてくれたビフォーがあったことこそが大事なのだ。
前回も取り上げた石黒浩教授が、講演の中で、万博で活躍していた彼のアンドロイドについて、「お客さんからの質問に答えるのを初めは隣で聞いていただけだったが、非常に勉強になるので途中から慌ててメモを取り始めた」というようなことを書くジェスチャー交じりで面白おかしく語っていた。その瞬間、会場はドッカーンである。当分の間は鉄板ネタとして使われ続けるのだろう。要は、そのロボットは石黒教授の過去の論文をすべて頭に入れた上で、インターネット上から様々な情報を取ってきて、それらを掛け合わせて話すので、当の本人の考えに沿った上で、新たなものが付け加えられる可能性を秘めているのだ。前の一文で、何気なく「過去の論文をすべて頭に入れた上で」としたのだが、ロボットに対して「頭」という表現は適切なのだろうか。
志高塾では現在、いろいろと手を入れに行っている、もしくは入れる準備をしているところなのだが、その一つにHPの改変がある。たとえば、「よくある質問」というのを加えようとしている。隠すようなことでも無いのでその目的を明らかにすると、ずばりSEO対策である。HPの検索順位を上げたいのだ。これまで設けてこなかった理由は、あるHPを訪問したときに、そのようなものを見て「参考になる」となった経験が私にほぼ無いからである。それにも関わらずやるのであれば、読んでいただいた方に、最低限「面白い」と感じていただけるようなものにしなければならない。先週の時点では、石黒教授の話に着想を得て、過去の『志高く』、内部配布用(月1回生徒の親御様向けに書いているもの)とブログをすべて読み込ませた上でAIに答えさせようとしていたのだが、この文章を書きながら両論併記にしよう、ということを思い付いた。お題と字数だけを決めて、私もそれについて考えてAIのものと並べて掲載するのだ。その際、私は書き上げる前にAIのものを見ないようにしなければならない。それに引っ張られたり、逆に差別化しようとしたりして自然体でなくなってしまうからだ。
石黒教授がプロデューサーを務めた大阪・関西万博シグネチャーパビリオン「いのちの未来」では、孫の女の子が「大好きなあばあちゃんのアンドロイドを残してほしい」と懇願し、それに祖母が思い悩み、結論を出さないまま終わる、という展示がされていたとのこと。AIの進歩のおかげで、故人であってもまるで生きているかのようにやり取りができる時代が来る。もし、私が何かしらの悩みを抱えたときに、お釈迦さん(ゴータマ・シッダールタ)ならどのように答えるかをAIに尋ねれば、「なるほど」となる答えが得られる気がする。特に私の場合は基本的に人に悩み相談をしないので、そのような意味でもうってつけかもしれない。冒頭のニュースに触れ、モーリー・ロバートソンの本を読んだことが無かったことに気づき、最新刊の『日本、ヤバい。「いいね」と「コスパ」を捨てる新しい生き方のススメ』を注文した。もし叶うのであれば、「最短の遠回り。」というキャッチコピーに関する彼の感想を聞いてみたかった。どれだけ彼の考えを踏まえたものであっても、AIの出したものに私が満足することは無いであろう。それであれば、「こんな風に答えてくれるんじゃないかな?」と想像している方がきっと満足できる。ここで挙げたお釈迦さんとモーリー・ロバートソンの違いは何なのだろうか。それは、生前をリアルタイムに知っているかどうかである。志高塾のキャッチコピーへの意見を直接尋ねることは非現実的だが、今世の中で起こっていることに対する彼の生の感想を知りたいのだ。そんなことを考えていたこの数日間であった。








