志高塾

志高塾について
志高塾の教え方
オンライン授業
読み聞かせクラス
卒業生の声
受験結果
志高く
志同く
採用情報
よくあるご質問
お問い合わせ
体験授業申込 カレンダー
志高く

2026.03.24Vol.728 基準をずらすということ

 来週は教室が一週間休みになるため、それに伴いこのブログもお休みです。次回は4月7日になります。

 少し前に、ある生徒の答案を見ていて、ふと違和感を覚えた。決して出来が悪いわけではない。むしろ、これまでと比べれば安定して点数を取れている。ただ、その子の中で「これぐらいできていれば大丈夫だろう」というラインがどこかに設定されていて、それを超えようとする気配が感じられなかったのだ。もちろん、一定の水準に達することは大事である。そこに届かない状態であれば、まずはそこを目指さなければならない。ただ、一度そこに乗ってしまうと、人は無意識のうちにその位置を守ろうとする。下がらないようにすることが目的になり、上げようとする意識が薄れていく。
 似たようなことは、我々大人にも当てはまる。少し仕事がうまく回り始めたり、周りからそれなりの評価を受けたりすると、「これぐらいで良いか」とどこかで折り合いをつけてしまう。表向きは前に進んでいるように見えても、実際には同じ場所をぐるぐると回っているだけ、ということは珍しくない。
 では、どうすれば良いのか。単純な話で、自分の中にあるその基準を意図的にずらせば良いのだ。たとえば、これまでは「8割取れれば十分」と考えていたのであれば、それを「9割に届いて初めて合格」と置き直す。あるいは、「ミスを減らすこと」を目標にしていたのであれば、「ミスが出る前提で、その後どう立て直すか」を考える。ほんの少し見方を変えるだけで、同じ問題に取り組んでいても意識するポイントが変わってくる。ただし、ここで気を付けなければいけないのは、やみくもに高いところに設定すれば良いわけではない、ということだ。あまりにも現実とかけ離れた位置に置いてしまうと、最初から諦めが入り、かえって動きが鈍くなる。大事なのは、「少し頑張れば届きそうだが、今のままでは足りない」という場所にそれを移すことである。
 先日、ある中学生にこんな話をした。定期テストで毎回80点前後を取っているのだが、それ以上に伸びない。「ちゃんとやっているのに上がらない」と本人は言うのだが、答案を見ていると、解き直しの精度が甘い。丸が付いたかどうかで終わっていて、その中身に踏み込めていないのだ。その子のノートをめくると、途中式はきちんと書いてあるし、空欄も少ない。ただ、間違えた問題の横に小さく正しい答えを書き直しているだけで、「なぜ間違えたのか」「次に同じ問題が出たらどうするのか」が一切残っていない。私はそのページを指でトントンと叩きながら、「これ、もう一回出てきたら絶対また間違えるで」と伝えた。すると、少し不満そうな顔をしながらも「いや、次はできると思います」と返してきた。「じゃあ、その自信、どっから来てるん?」と聞くと、言葉に詰まる。そこで、「次からは、同じ問題で2回間違えたらアウトにしよう」と伝えた。1回目は仕方ない。ただ、2回目も同じところで引っかかるのであれば、それは理解できていないということだ、と。そして、「丸が付いたら終わり、じゃなくて、説明できるようになって初めて終わりにしよう」と付け加えた。その瞬間、彼の中でのものさしが少しだけ動いたのが分かった。大げさな変化ではない。ただ、「できたかどうか」から「どうできたか」に視点が移った。それだけで、取り組み方は確実に変わる。
 こういうことを繰り返していると、一つ気づくことがある。基準というのは固定されたものではなく、その時々で動かしていくものだ、ということである。最初は低いところから始まり、少しずつ上げていく。そして、ある程度の高さに達したら、今度は横に広げたり、角度を変えたりする。以前、「質と量」の話を書いたが、それとも通じるものがある。量だけを増やしても意味は薄いし、質だけを追っても手数が足りなくなる。どこに軸を置くのか、そのバランスをどう取るのか。それを決めるのが、この基準の役割である。
 塾を運営していても同じである。生徒数を増やすのか、一人一人への関わりを深めるのか。短期的な結果を優先するのか、長い目で見た成長を重視するのか。どこに重きを置くかで、日々の判断は大きく変わる。だからこそ、定期的にそれを見直す必要がある。「今の自分は、どこを基準にして動いているのか」。それが適切であればそのままで良いし、違和感があれば少しだけずらす。その繰り返しでしか、より良い形には近づいていかない。
 冒頭の生徒の話に戻る。その後、同じように答案を見ていると、明らかに解き方が変わっていた。途中式の横に小さくメモが増え、「ここで符号を見落とした」「条件を読み飛ばした」といった自分なりの言葉が書き込まれている。点数自体は大きくは伸びていないが、取り組みの密度が上がっている。おそらく、この状態を続けていけば、あるところで一気に跳ねるはずである。結果だけを見れば、変化は小さいかもしれない。ただ、その裏で何が変わっているのかを見極めること。それが、教える側に求められる役割であり、同時に自分自身にも向けなければならない視点なのだと思う。
 基準をずらすというのは、特別な技術ではない。ただ、意識していなければ動くことはない。だからこそ、時々立ち止まって、自分の立っている位置を確認する。その一手間が、その後の伸び方を大きく左右するのだろう。

 「マツカゲロイド(仮)」改め、「マツカゲ武者」のお味はいかがでしたでしょうか。なお、「マツカゲ武者」というネーミングは、インスタやYouTubeなどの広報全般を担当している山崎が考案したもので、私もかなり気に入っています。テーマの決定も山崎に丸投げしました。それと言うのも、AIに過去のブログをそのまま読み込ませるのではなく、時に生徒の文章を引用したりしているので、1つずつの文章を読み、手作業でそれらを細かくはじくなどしてくれているため、彼女の方がどういうテーマにしたら良いものになるかが分かるような気がしたからです。
 いつ出版依頼が来ても良いようにと書き溜めて来た文章がこんな形で活用される日が来るとは想像もしていませんでした。なお、2週間前に100個ぐらいの文章を読ませた時点で試しに書かせたものでは、文章のリズムが何となく似ているなど、ところどころに私っぽさは出ていたものの、全体としてのできはかなり低かったです。この2週間でさらに学習をさせたので、それなりに成長したという報告を山崎から受けました。私自身、このブログを読んで、初めて内容を知ることになるので、期待と不安が相半ばした状態でこの締めの2段落を準備しました。

2026.03.17Vol.727 正攻法が成功法

 正攻法が成功法。今回はこういうテーマで行こう、と文章の内容をイメージしたときにパッと浮かんだタイトル。かなりうまく言い表せているのだが、きっと「正攻法」と「成功法」をセットにしたフレーズというのは世の中にそれなりに存在するのだろう。ググっとみようかと思ったのだが、あまりにたくさん出てきても嫌なのでやめておいた。タイトルがこれほどスパッと決まることは中々無いので「他のものに変えよう」という気を起こしたくないからだ。知らぬが仏。
 高3の女の子が東大に現役合格した。その彼女の、入試を直前に控えた最後の月間報告で私は次のように書いた。
「入塾のタイミングから高校卒業まで、そのほとんどの添削や丸付けを私が行う生徒は最後になる気がしています。まずは東大に合格してからの話になりますが、その後、どのような道を歩んでいくのかが非常に楽しみです。」
まだ本人と話をしていないが、HPに掲載している「卒業生の声」にも文章を寄せてくれるものだと勝手に思い込んでいる。さて、その彼女、最後まで英語には明らかな課題を抱えていたし、それも含めてまったく持って余裕はなかった。そのような状況でも、高3になるタイミングで大学受験に向けて残り1年は読解問題に完全に切り替える予定にしていたので、作文も並行して進めるために1コマ増やして、2コマ連続で授業をすることを彼女自身が希望した。結果的には、2コマ分の180分ではなく、1.5コマ分の135分(90分読解問題、45分作文)にすることを提案した。ちなみに、小論文試験を受ける可能性はゼロだったので、純粋に「作文のための作文」をするための時間を、大事な時期に取ることを決断したのだ。さすがに受験が近づいた時点で作文は無しにして通常の週1コマに戻した。それが夏休み前だったような気がしたのだが、今調べてみると、9月末まではそれを継続していたのだ。もし、合格できずに、点数開示をしたときに数点差であったことが分かったのなら、本人はどう思っただろうか。期待したような結果が出なかったとき、人はあれやこれやと原因を考えるものである。その一つとして、「受験に直接関係のない作文ではなく、もっと他の教科を勉強しておけば良かった」ということもきっと脳裏をよぎるはずである。しかし、きっとそれをすぐに打ち消して、「もっと早くからきちんと勉強していなかった自分がいけなかったのだ」というようになったはずである。
 私は大抵、3冊ぐらいは並行して読み進める。少し前は、モーリー・ロバートソン著『日本、ヤバい。 ~「いいね」と「コスパ」を捨てる新しい生き方のススメ~』と椎名誠著『アイスランド 絶景と幸福の国へ』の2冊がその中に含まれていた。モーリー・ロバートソンは、2004年にイラク日本人人質事件を機に日本で急速に広まった「自己責任論」に否定的な見解を示していた。たとえば、正社員になれず、十分な仕事の経験を積むことなく50歳が近づいている就職氷河期世代に対し、自己責任論で片づけようとしている風潮に警鐘を鳴らしていた。一方で、椎名誠は「自己責任論」という考えが日本に生まれたことを歓迎していた。どのような文脈の中でそれを語っていたのかは忘れてしまったが、それは彼が紀行作家であり、危険と隣り合わせの中でそれだけの覚悟を持って旅をして来たからなのだろう。2人は正反対の立場を取っているようだが、実際はそうではない。モーリー・ロバートソンは、最近になってようやく重い腰を上げようしている政府がもっと早く手を打つべきだったのに、それを就職できなかった人たちの努力が足りないからだという自己責任論で済ませ、然るべきセーフティーネットを張り巡らすという自己責任を果たしてこなかった政府を批判しているのだ。思ったような結果が出なかったとき、それに関わったすべての者が自己責任だと捉えることが健全な姿である。誰かのせいにしないのは、その誰かのことを思いやってではなく、自らが成長して行くために必要な姿勢なのだ。そうすれば、その先で、今度こそはその誰かの、もしくは他の誰かの役に立てる人になれるかもしれない。
 冒頭でタイトルについて説明しながら「正攻法」についてきちんと触れずにここまで来た。何か一つの目標に向けて、その他すべてのことを犠牲しなければならないこともあるかもしれない。しかし、受験はそうでない。皆がよく言うように、受験は通過点なのだから。一体、通過点とは何なのか。それは、ここから一段、二段とギアを上げて加速しないといけないよ、ということを教えてくれる目印のようなものである。彼女は、志高塾で受験に直結しないが、将来役立つはずの作文に時間を費やし、学校の行事やそれをすることが決して効率的とは言えない学校の課題にも労を惜しむことなく取り組んできた。それこそが、私の考える正攻法である。「成功法」の成功とは、志望校に合格するというような陳腐なものではない。では、何を持って成功と言えるのだろうか。韻を踏むために「成功法」としたが、「成長法」とする方が正確なのかもしれない。浮き沈みはあるもののある期間で見ると少しずつではあっても確実に成長している。それこそが、成功の一つの形ではないだろうか。
 何かしらうまく行かなったときに人のせいにしないのと同様に、うまく行ったときに自分の手柄だと思わないことも同様に大事なことである。中学、高校、大学、どの受験であっても基本的に我々はその一端に関わっているに過ぎない。それゆえ、自分が、自分たちが合格させた、となることはない。ただ、その先も彼らが彼ららしさを失うくことなく紆余曲折を経ながら成長し続けられているとしたら、それは我々の手柄ではないしても、少なからず貢献できたかな、とは思いたい。それぐらいの我がままはきっと許してもらえるはずである。

2026.03.10Vol.726 掘り起こし作文

 2月20日に三重県の鳥羽沖で事故が起きた。以下は、それに関するネットニュースのタイトルとURLである。
「2人死亡の船衝突事故 貨物船の二等航海士 21歳女を逮捕 三重・鳥羽沖」
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2483072?display=1
偶然テレビを付けていて、このニュースが速報で入って来た。映像を見て、「えっ?」となった。「Vol.719 息子との2人の時間~長男編~」の中で、「今回の旅行の主な目的は鳥羽の少し南にある国崎(くざき)漁港から5時半に出る船に乗ってのヒラメ釣りであった。早朝4時45分に起きて、5時にはホテルを出発した。釣果は私が2匹、長男が1匹。」と書いたが、我々が乗っていた正にその船が事故にあっていたからだ。最初に頭をよぎったのは、船長といつも一緒に乗っている助手のおじさんは無事なのだろうか、ということ。その助手のおじさんは、長男がヒラメを釣ったときに「にいちゃん、良かったなぁ」とすごく喜んでくれた。これまで功成丸には10回近くお世話になっている。2人の方が亡くなられたが、その中に先の2人はいずれも含まれていなかった。それを確認して胸を撫でおろすとともに、2つのことが頭に思い浮かんだ。1つ目は、THE YELLOW MONKEYの『JAM』の歌詞。

外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」
「いませんでした」「いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう
僕は何て言えばいいんだろう

その人たちを私が知らないだけで2人は亡くなられているのだ。2つ目は、先の歌詞の中にも出て来たニュースキャスターに関するもの。何かしら痛ましい事件が起きると、いかにも沈痛な面持ちで語るものの、その次のニュースが打って変わっておめでたい話題であると、一瞬にして表情と声のトーンが明るくなる。一体あれは何なのだろうか。もし、被害者の親族がその何事もなかったかのように切り替わる場面を見ていたらどのように感じるのだろうか。事故直後のブログ、「Vol.724 報告ときどき相談」の冒頭でそのことを取り扱おうかと思ったのだが、恋愛がメインテーマだったので、たとえ文章といえどもさすがにはばかられた。海外のニュース番組を見ていると、時に出演者と口論になるなど司会者が自分の意見をはっきり言うことが少なくない。一方で、日本の場合は単なる進行役で、全然勉強していないのだろうな、と感じさせる人もそれなりにいる。最近で言えば、司会者ではないが、NHKの解説員長を務めていた70代の男性コメンテーターがとにかく気になる。仮に先の衆議院議員選挙の前に意見を求められたとしたら、「自民党が勝つのか、勝たないのか。また、勝つとしたらどれぐらいの議席数を確保するのか。選挙までの残り1週間、情勢を見守りましょう」というようなことを真顔で語るのだ。あくまでも「仮」の話なので、実際の彼の言葉ではないのだが、ほぼこんなどうでも良いレベルのことしか口にしない。一方で、私が聴いているポッドキャスト番組にもよく出演している峯村健司は、「私ははっきりと言わないと嫌なたちなので」というような発言をしていた。アメリカのイラン攻撃についても、そろそろありそうだ、というコメントを事前にしていた。今回のイラン攻撃に関しては、アメリカの空母「ジェラルド・フォード」が中東へ向かったことを受けて、彼以外にも同様の予測をしていた専門家は複数いた。ここで大事なのは、意見を明確にすることよりもその根拠を視聴者に示すことである。専門家だからこそ知りえた情報を言える範囲でオープンにしたり、それらも含めて得た情報から専門家なりの切り口を提示したりすべきなのだ。その「ジェラルド・フォード」は、その直前はカリブ海のベネズエラ沖にいて、その間にマドゥーロ大統領が拘束された。それらを踏まえて、せめて件のコメンテーターには、「次に『ジェラルド・フォード』がどこに向かうのかを注視することで、トランプ大統領が次に何をしかけるのかが見えてくるはずです」ぐらいの情報提供はして欲しいものである。
 次は、「Vol.716 本末どっち~英会話編~(後編)」の中で取り扱った、クリムト好きのベラルーシ人のケイトに話した内容を掘り起こす。「『“The Kiss”も良い。でも、名前は忘れちゃったけど、俺は“The Beethoven blah-blah-blah”が一番好き。日本の展示会で複製を初めて見て、どうしても本物を鑑賞したくてこの前実際に行ってきたらめっちゃ良かった』ということを伝えた。」。中学受験が落ち着いた2月にクリムト・アライブ展(https://klimtalive.jp/)を訪れた。実際の絵ではなく、デジタルで再現しているのが「アライブ展」である。入り口からすぐのところに、アンバサダーの藤井フミヤの写真とコメントが載せられたボードが吊られていた。「クリムトのどこが好きかと言われたら・・・全部が好きなので答えようがないのですが、あえて一言で言うならば、センスでしょうか。 好きな作品をひとつと言われたら・・・・『ベートーヴェン・フリーズ』という壁画で、最大の作品があります。 この作品は絶対にオーストリアから出ることがないので、何かで検索して是非ご覧になってください。クリムトのとんでもない独創性がわかります。」会場でこれを読んだ瞬間、「フミヤも『志高く』読んでて、俺の意見ぱくったんちゃうか?」となったのだが、その展示会は12月5日に始まり、私が文章にしたのはその後の12月23日なので、逆に私に盗作疑惑が掛けられる可能性が生まれてしまった。また、同じ「Vol.716 本末どっち~英会話編~(後編)」の中で、「春休みに二男と2人で2週間弱ロンドンとパリに行く予定にしているのだが」と述べたが、最終的にはイギリスとアイスランドを訪れることにした。パリには、オンライン授業を行っている兄弟の生徒がいるため、家にお邪魔して授業を行い、その様子を顔出しでインスタグラムにあげる許可もいただいていたのだが、旅程に入れ込むと慌ただしくなること、それであれば二男には大学生になったときにでもパリをじっくりと堪能して欲しいこと、また、その兄弟が3月頭に帰国して西北校で何度か授業を行えたこと、などの理由から予定を変更した。それに加えて、彼らのお父様、お母様と、この春にパリに旅行をするお母様の4名でランチ会を行い、そこでこの1年間の彼らのことやパリの様子などを聞けたことも一因である。この1か月間は、卒業する大学生講師たちの送別会、元生徒と現生徒とのフットサル、カラオケのおまけが付いた飲み会、私を含めて3名しか参加者がいなかった上映会など、いつにも増して授業外のことが忙しく、そして楽しい。

2026.03.03Vol.725 境界線の引きどころ

 似たようなタイトルで過去に文章を書いた気がしたので100号ぐらい遡ってみたが見つけられずに諦めた。ある意味において、私は自分というものを信じていない。一方で、自らの能力を信じている、正確には疑わないようにしている。うまく行かないことはたくさんあって、「もしかして能力がないからかも」と思い始めれば、すべてそれを理由にして何かをやり切る気力が湧いてこなくなってしまうからだ。生徒に対しても同様である。それゆえ、生徒が期待通りの結果を出せないときには、能力ではなく取り組み方を注意するように、と講師たちには伝えている。
 時々言葉にすることだが、間違いなく賄賂をもらうから政治家には絶対にならない。それは選挙に立候補しなければ防げるので話は簡単なのだが、中には不意に決断を迫られる立場に置かれることがある。もし何かしらの事故を起こしたら現場から立ち去らない、ということを運転しながら時々自分に言い聞かせている。有名人がひき逃げ事件を起こしてニュースになるが、それはパニック状態で判断をするからだ。そういう人に限って、人の過ちから学ばずに、「なんでそんなあほなことするんやろか」で済ませ、「自分も同じようなことをしてしまわないだろうか?」というチェックをしない。「対岸の火事」と混同されるものに「他山の石」という慣用句があるが、そういう人たちはこの言葉を知らないのだろうな、きっと。事前にそのような心構えをしていても、いざその状況に置かれたときに適切な行動をできるとは限らない。備えがあっても憂いがあるのだから、心の準備をしておかないということは私にとってはありえない。
 明文化していたわけではなかったため今となっては定かではないが、志高塾を始めるときに自分の中でのいくつかの決め事があった。当時は「公開テストの点数が取れなくて」というようなことが早い段階で問い合わせの電話口から漏れると他の塾を勧めていた。時間割に余裕があり、一人でも生徒を増やしたい状態であっても、である。もちろん、今でもそのような話になれば同じように対応する。また、あまりにもやる気のなかった生徒には、本人に何度も注意をし、親御様に報告をした上で改善が見られなければ退塾を迫り、実際にそのようにしていた。授業料をいただくことを良しとしなかったからだ。「これぐらいは良いか」を繰り返しているうちに基準がどんどん緩くなっていく気がしていたから、迷ったときは自分にとって厳しい方を選ぶようにしていた。言葉にするとかっこいいが、ただ単に自分が何を大事にして経営をしているかが見えなくなることが怖かっただけの話である。短期の生徒を受け付けない、というのもその1つであったのだが、最近では、特に大学入試の小論文試験の直前対策は基本的に受けるようになっている。これに関しては、意図的に境界線を引き直したのではなく、いつの間にか変わっていたといった感じである。1か月ほど前にそのことに気づき、「あれ、俺、なんでもかんでも受け入れようとしちゃってるのかな?」という疑問が湧いてきた。そんな折、体験授業を受けた小3の女の子のお母様より入塾の連絡をいただいた。土曜の朝一の枠が希望で、そこ以外は通えないとのことであった。その枠は埋まっていたこともあり、「それであれば振り替えもお取りできませんし、もう少し時間に余裕ができた時点でまだ興味を持っていただけているのであれば改めて連絡をしていただけないでしょうか」とお伝えした。枠が埋まっていることはそれなりにあるのだが、そのような場合は動いてもらえそうな生徒の親御様に連絡をして曜日や時間の変更をお願いする。ありがたいことに、協力していただけるのでほとんどの場合はどうにかなる。今回それをしなかったのには2つの理由がある。1つ目は、忙しくしているのは良いのだが、そのほとんどが勉強で埋められてしまっているからだ。スポーツ系や音楽系の習い事がその理由であれば、また違った応対をしたはずである。2つ目は、今の成績を考慮せずに志望校を高いところに設定しているのは良いのだが、この1年間で成績が下がり距離が広がっている状態なのだ。だからこそ、足を引っ張っている国語を立て直すために興味を持っていただけたのだが、私の感覚的には、志高塾での90分を生み出すために、その倍に当たる3時間分の何かしらの勉強を削るぐらいでないとただやることが増えただけでうまく行かないのだ。電話を切った後、「あっ、俺、ちゃんと判断できてるわ」となり、少し安心した。なぜ、大学試験の直前対策は受けるようになったのだろうか、と考えてみた。まずは、大学受験生は概して時間の融通が利くからである。平日であれば16時40分からのコマの生徒が一番多いのだが、その後はもちろんのこと、前の時間に来てもらうこともできるからだ。次に、大学入試は最後の入試とも言えるからだ。もし、中学入試の直前対策を依頼されたら、小手先のことに時間とお金を費やすのではなく、もっと先を見据えた勉強をした方が良いとなる。そして、最後に、いろいろな大学の対策に携わることは我々教える側の経験値を上げることにも役立つからだ。
 まずはできる限り自分の近いところに太い境界線を引き、大丈夫だとなれば少しずつ離し、細くして行く。そして、いつの間にかそれが消えている、というプロセスをじっくりと時間を掛けて踏んでいるのであろう。そして、線が無くなったときには自分なりの最適解を瞬時に導けるようになっているのだ。

PAGE TOP