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2026.03.27Vol.89 開きかけている扉(徳野)

 前回の「志同くVol.88」を読んでいて興味深かったのは、映画とその原作小説の扱い方だ。私は三浦とは反対に、基になった文学作品を後から手に取ることが多いと自覚したからだ。とはいえ「観てから読むべきだ」という明確な意図があるわけではなく、気づけばそういう順序が定着していただけである。読み進めていただければ分かるように私の好みは古い映像作品に偏っているため、書店に行っても「映画化決定!」の帯が巻かれた本に目を留めることが滅多に無いのは大いに関係している。加えて「観てから読んだ方が二度美味しいな」と実感した経験を幾つかしてきたがゆえに、順序をわざわざ変えてみようと思うことも無かった。
 そういった経験の中でも特に印象に残っているのが、ジョナサン・デミ監督の≪羊たちの沈黙≫を鑑賞した時だ。映画にさほど興味が無くとも、アンソニー・ホプキンス演じる強烈な「レクター博士」が登場することは知っている、という人は多いだろう。公開から35年を経ても「歴史に残る傑作」という位置づけは揺らいでいないし、私もその評価じたいに異論は無い。この、奥歯に物が挟まったような書き方をした時点で悟られているだろうが、実は個人的には好きではないのだ。カメラワークや劇中音楽などの視聴覚効果に焦点を絞って捉えれば、本当に素晴らしいと思っている。だが、トマス・ハリスの原作小説に夢中になっていた身としては、映像化されたことで主人公のクラリスの内面描写がどこか淡白になっているような気がしてならなかった。小説版のクラリスもまだFBI訓練生なのが信じられないほど優秀な刑事であることに変わりは無いものの、理知的な態度を取りつつ、心の中は周囲の人々に対する皮肉や罵倒で埋め尽くされていることも少なくない。例えば、レクター博士が収監されている精神病院の好色な院長チルトンに、「FBIは色仕掛けでレクターに心を開かせるために若い美人を派遣したんだろ」という風にあからさまに侮られた際には、クラリスは表面上は受け流しながらも内心では「死ね、チルトン」としっかりと毒付いていた。私はそんな彼女に親近感を抱いているし、癖の強い男性陣と捜査上の困難に行き当たった際の彼女の心情を力強く、そして丁寧に書き込むハリスの筆力に惹き込まれている。当然ながら、尺の問題もあって映像でそこを表現するのは難しい。先に挙げた場面に関しては、映画だと「クラリスは閉口した様子を窺わせるに留めた」くらいの描かれ方になっている。彼女の冷静さが際立つシーンなのだが、どうしても小説版と比べてしまう私は「いや、クラリスはもっと俗っぽく怒らないと」という余計な突っ込みを入れることとなる。しかも作中ではそういう箇所が少なからずあるので、初めて鑑賞した時は物語の世界に入り込めないままエンドロールを迎えてしまったのだ。(だからといって、日本のテレビドラマのように、副音声で登場人物の本音を説明してほしいわけではないが。)今だに「映画を先に観ておけば…」と悔やむ瞬間がある。
 逆のパターンの体験もある。このブログを読んでくださっている皆さんは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の≪ベニスに死す≫をご存知だろうか。こちらは1971年公開。60代の人は「巨匠の代表作」と認知しているかもしれないが、いかんせん55年も前の作品なので、私と同世代でこの作品に触れたことがある人物に出会った記憶が無い。ちなみに、私自身は両親(66歳の父と54歳の母)から存在を教えてもらった。しかし、名作という前評判を受けていざ鑑賞した二人は肩透かしを食らったらしい。なぜなら、ストーリーにあまりにも単調すぎるからだ。バレるのを恐れるほどの「ネタ」も無いのであらすじをまとめると、「スランプに陥っている中年の作曲家であるアッシェンバッハが、バカンス先で遭遇した美少年タジオを追いかけているうちに、コレラにかかって死亡する」だけの話である。よって、両親から聞かされていた感想は「アッシェンバッハが汚い化粧をされて死ぬところしか覚えていない」と「タジオくん役のビョルン・アンドレセンは確かに綺麗な男の子やったけど、芝居がとにかく下手くそやった」という芳しくないものだった。だが、私はけっこう天邪鬼である。あれだけ退屈だと言われながらも傑作としての地位を保ち続けている本作に好奇心を掻き立てられ、大学1回生の帰省時にDVDをレンタルした。結果、思いがけず感動した。大げさでなく、映画が持つ力を認識させられた。我が国ではアンドレセンの容姿ばかりが取り上げられるが、≪ベニスに死す≫の魅力はアッシェンバッハ役のダーク・ボガードの演技力にある。作品全体を通してセリフ量は最低限しか無い(タジオなど二言しか発していなかったはず)のだが、ボガードは顔で語れる俳優であり、表情だけで憧憬や嫉妬といった感情を伝えてくる一方で、けっして大仰な印象は与えない。そんなボガードの姿を中心に構成されているため、「アッシェンバッハは今、何を感じているのだろうか」と考えながら画面に見入っていた。また、この、ストーリー以外の要素で観客の「読解力」を刺激するヴィスコンティ監督の手腕にも彼が「巨匠」と称される所以を感じ取った。言葉を介さない「読解力」が重要な役割を果たす本作だが、トーマス・マンというドイツの文豪による同名小説を基にしている。原作のアッシェンバッハの職業設定が音楽家ではなく文学者であること以外、筋書きじたいは映画版とほぼ同じ、正確には、映画版は原作に基本的には忠実に作られている。だが、≪羊たちの沈黙≫と同様に主人公の心理面の説明に多くの紙幅が割かれており、一つの作品から直接的に受け取れる情報量は静かな雰囲気の映画版より遥かに多い。特に、病に侵されるうちに現実と想像の区別が曖昧になっていくアッシェンバッハの目が映し出す情景の描写には迫力すら感じる。しかしながら、この文章の内容を練り始めてから気づいたが、≪ベニスに死す≫に関してはヴィスコンティ版との相違点をむしろ楽しめている。もし原作を先に読了していたなら、アッシェンバッハの心の動きをあらかじめ把握しているせいで、「この場面ではあの気持ちになっているはずだな」という風に答え合わせのような脳内作業をしながら画面を淡々と眺めてしまっていたかもしれない。さらには、ヴィスコンティの他の監督作品にまで手を伸ばしていなかったかもしれない。
 私には映像の持つ可能性を信じたいがゆえに「原作後追い派」になった節がある。だが、三浦の視点に触れたことで、長年続けてきた安全牌をあえて取らないことが何をもたらすのだろうか、という関心が生まれている。それなりに付き合いの長い他者を通して自分のそれとは異なる見解に触れることの醍醐味は、「私も試してみようかな」という風に己に引き寄せて捉えられることにある。作文は「ゴール」ではなく「スタート」でなくてはならない、という言葉が思い出される。
 最後に具体的な話をすると、今年公開の≪嵐が丘≫を週末に観に行こうと計画していた。エミリー・ブロンテによる原作小説は私が最も愛するフィクションの一つである。ところが、現時点でなぜか愛知県でしか上映していない事実(3月25日の段階では大阪でも流されていたのに)が判明したため、配信開始を待つ。

2026.03.20社員のビジネス書紹介㉚

徳野のおすすめビジネス書
宮口幸治/田中繁富 『「頑張れない」子をどう導くか 社会につながる学びのための見通し、目的、使命感』 ちくま新書

 大前提として、子どもが「頑張れていない」状態は、本人の能力不足や怠け癖から来るものではない。多くの大人は「勉強嫌いな子は、理解力が追いついていないせいで、難しい問題を解けた時の達成感が無いから努力ができないのだ」と捉えて、我が子や教え子を塾に通わせるなどして学習習慣を身に着けさせようとする。だが、それは「苦手なことでも我慢してやりなさい」という根性論の押しつけに他ならず逆効果にしかならない。児童精神科医の宮口氏によると、子どもの内にある学ぶ意欲は「➀見通し、➁目的(ゴール)、③使命感」という三つの軸に支えられて育っていくものである。そして、➀と➁に関しては後者のレベル設定が適切で無いと意味を為さない面があるので、特に小学生に対しては、学校の標準化されたカリキュラムを網羅させることに固執しない方が良い場合もある。大切なのは子どもが「意外と簡単だった」「他の事もやってみたら出来るかもしれない」という気楽さを知れるような体験を積み重ねていくことであり、さらにはその過程に大人が寄り添うことで安心感が増し、ゆくゆくは本人の自信に繋がっていく。
 「安心感」は本著において頻繁に登場するキーワードである。子どもは何より孤独を恐れる。例えば、家では机に向かわない子でも、学校の授業になると真面目に板書しながら積極的に発表するのは、周囲から取り残されることへの無意識の恐怖があるからだ。また、保護者に悩み事を打ち明ける際も、具体的な解決策よりも、苦しみを正面から受け止めてくれる相手の方を求めていることが多い。だから、そこを理解しないまま子どもを問いただしたり叱責したりすると、徐々に信頼を失っていき、最悪の場合、家族間のコミュニケーションが途絶えてしまうのだ。思い詰めている時ほど心の安定のために「話をただ聞いてほしい」と願う点は大人も同じだ、という点を忘れてはならない。
 最後に③の「使命感」について。現役の小学校教員である田中氏は、学びの最終的な目的を「周りの人と物事に関心を持ち、吸収した知識を元に他者と助け合えること」だと定めている。人との交流に充実感を覚える時こそ幸福なのだ、というメッセージを読んで、私は自分の中学生時代を思い出した。
 当時は美術の本を読み始めた頃で、西洋の有名な絵画に関する情報に触れるようになっていた。そんな折に部活の仲間たちと徳島県の大塚国際美術館に行く機会があり、同級生が展示品に対して漏らした疑問の幾つかに(今となっては赤面ものだが)答えたり、作品の背景知識を解説したりした。そんな私に心優しい仲間たちは感心してくれた。さらに嬉しかったのは、後日、皆が学校でも私が持っていた美術書に興味を示して回し読みするようになったことだ。その経験が大学の文学部を志望するきっかけになったことに違いは無いし、今の仕事にも繋がっていると考えている。

三浦のおすすめビジネス書
坪谷邦生 『図解 目標管理入門』 ディスカヴァー・トゥエンティワン

 MBO、KPIやOKR、そういった言葉をビジネス書でもよく見かける。そのたびに「そういうものなんだなあ」程度に漠然と思っていたが、目標意識を持たなければただぼんやりと日々を過ごしてしまうというのは、ビジネスにおいても実生活においてもその通りだ。
 ドラッカーが提唱したMBOというマネージャー哲学は、組織の中で「共通の目標」を設定し、それに個人が「自律的な貢献」を行うことで、「組織としての成果」が生まれる、というものだ。目標管理において特に重要なのはこの「自律的な貢献」で、自分はどのように組織や社会に貢献できるか、という自主性がなければ、ただ与えられたノルマに成り下がってしまう。実質的な目標を個人が立てるのであればマネージャーは何をするのか、それは目標の「方向づけ」だ。何のために行うのか、それがなければ目標は形骸化してしまうし、組織で考えればてんでばらばらな方向を向いてしまう。
 OKRは、その目標達成を具体的にどのようにするか、という実践手法のひとつだ。特に興味深かったのは、「100%達成できるもの、するべきもの」ではなく、達成率が7割程度になる目標を設定し、「失敗を恐れず、やってみる」という土壌を作るというものだ。やりきって然るべき目標と、少し背伸びをした目標。そういった切り分けをすることで、土台作りと挑戦が同時にできるのかと納得した。また、目標を設定する、つまり「集中するものを決めること」は「他を捨てること」ともあった。優先順位をつけるのではなくやらないことを明確にする、とはよく耳にしているのだが、確かに目標設定においても同様だ。それだけの覚悟(というと大げさかもしれない)を持って決めるべき、ということだろう。設定までにどれだけ考えたのか、それに対してどこまで丁寧に振り返りながら進むことができるか、それが「どれだけ貢献できたか」に繋がってくる。

竹内のおすすめビジネス書
西林克彦 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』 光文社新書

 文や文章を読むとき、そこに知らない言葉が多数含まれていたり、情報の関連が見えなかったりすると意味を掴みにくい。反対に言えば、語彙を増やすことや背景知識を蓄えていくことが「わかるもの」を多くする助けになる。しかし、躓くことなくスムーズに読み通すことができた時ほど「わかったつもり」に陥りやすい、というのが筆者の主張である。この状態は探索への意欲を阻害してしまうため、初め以上に読みを深めていくことを困難にする。これは誰しもに起こり得るということが、小学生や大学生を対象にした実験結果など様々な事例や、読者に提示された例文によって示されている。
 なぜそのようなことになってしまうのか。これはシンプルな話で読みが不十分だったり、誤解が生まれたまま読み進めてしまうことに原因があるのだが、もっと踏み込むと「疑問を持たない」ことや「鮮度の低い情報を粗末にする」ことによる。これらは日頃の指導においても心当たりがある。読書をしている生徒をしばらく観察し、その後内容などを聞いてみると、うろ覚えであることが度々ある。そのような生徒に共通するのは「前のページに全く戻っていない」ことである。誰だったっけ、何でそうなったんだっけ、となっていて、ただページを進めているだけなので、「量を求めているわけではないし、必要なら遡ってちゃんと前の出来事を確かめるようにしないと面白くないよ」と注意する。読解問題の丸付け中なども、台詞の発言主を尋ねた際に決め打ちで主人公だと答えることなどもある。そういう時にきちんと意識を本文に持っていくために不可欠なのが我々が行っているような「問い」を投げかけることだと言える。
 書けば書くほど、読めば読むほど考えるわけだから、分からないことがさらに増していくことは何もおかしくない。自分を卑下して、などということではなく、「わかっていないかもしれない」という自覚を持って向き合うからこそ実際に引っかかる部分が出てくるものである。指導する人間としてその意識を持ちながら学び続けるのはもちろんのこと、子どもたちを「わからない」を前向きに受け止めて考えられるように導きたい。

2026.03.13Vol.88 往復する扉(三浦)

 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読了した。来る3月20日に映画が公開されるということで、どうにかそれまでに読み切らなければと急いでいたのだが、下巻に突入してからはそんなことは気にしなくても良いほど早く読み終えてしまった。安心して映画の予告なども見られるようにはなったのだが、見たら見たで小説版で感じた感動や衝撃が恋しくなり、宣伝の仕方にもどかしくもなりで、ちょっと複雑だ。
 本当はこれすらも小説で読んでほしいのだが、これからの展開に必要なので仕方なく、簡単に書影に載っていた部分だけのあらすじを説明する。主人公の男性は記憶喪失の状態で不可思議な空間で目を覚まし、(本人にとっては)なぜか持っている宇宙や科学に関する知識、それを基にした実験を駆使して、自分が宇宙空間にいることを突き止める。そしてその理由を自身に問いかけていくうち、地球の危機、そして地球を救うという自分の使命を思い出していく……というのが、導入の流れだ。
 この、実際の知識や実験を駆使して試行錯誤していく過程がまた面白い。突拍子もない部分と地に足のついた部分が良いバランスで組み合わさっていて、説得力とエンタメ性が補強されている。上巻の途中まで読み進めたところで、一人の男子生徒の顔が浮かび、その生徒の授業があった日に喜々としてこの本を勧めた。理系で、実験や宇宙に関することが好きな生徒だったので、きっと私よりもずっとリアルに想像できるだろうと思ったからだ。テスト前だったにも関わらず購入してくれた彼は、その一週間後には上巻をほぼ読み切ってくれていて、感想や所感をいろいろと話してくれた。嬉しいやらタイミングを後悔するやら、教師としてはいまいちだったかもしれない。
 そして、今は同じ作者の『火星の人』を読んでいる。映画『オデッセイ』の原作といったほうがわかりやすいかもしれない。これは火星探査の一員である主人公が死んだと判断されて取り残されてしまい、植物学をはじめとする知識を活用してひとりぼっちの火星で数年を生き抜かなければならなくなる、というものだ。宇宙や深海といった酸素のない空間に対してどうしても恐怖を抱くたちだから、映画の方は苦手意識があって避けてきたのだが、本を読み切ったら観てみようと思う。
 上記の二作は科学エンタメともいえる作品で、だからこそ読者にも納得のいく、身近な科学や地道な計算が登場する。一方、古典SFの有名どころでは、火星人が地球を襲うウェルズの『宇宙戦争』などは科学というよりは逃げ惑う人々がメインだったので、特に火星に関する知識がなくとも良かったし、特別それを語る必要もなかった記憶がある。『宇宙戦争』の発表は1898年。同時代には、大砲で月へと向かうジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』も出版されている。思えば、その時代よりもずっと科学は進歩し、火星も月も夢物語ではなくなったということだろう。
 サイエンス・フィクション。いわゆるSF小説は割と好きで読むほうなのだが、この「サイエンス」の部分への造詣は未だに浅い。地に足のついた身近な科学であればあるほど、その部分を流し読みしてしまうこともままある。しかし、理系科目とは早くに縁を切ってしまった私が、こういった文学を通じて、知らない世界を覗き見て、その面白さを痛感できるのは、物語という媒体の良さなのだろう。
 考えてみれば、SFのように文学を通して科学に通ずる道はあるが、その逆は少ない気がする。つまりは科学から文学へ、理系から文系へのアクセスのことだ(理系・文系と括ってしまうのはいささか乱暴かもしれないが、ひとまず)。私が理系に詳しくないからかもしれないが、ぱっと思いつくものはない。SFを好んで読む理系の子が、その延長線で他の本に手を伸ばすくらいだろうか。そこからどんどん広がってくれればいいが、その入り口はやはり万人が立っているものでもない。
 双方向のアクセスをどう作っていくか。自分の範囲にないものを、どう面白がれるようになっていくか。その扉をたくさん作ってあげるのが、教える側の責務なのだろう。
 最後に少しネタバレを。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の主人公の職業は教師である。後の世代にバトンをつなぐこと、子どもの未来を信じること、そんなことにまで思いを広げながら読み終えた。教えるというのは、ともすれば地球を危機から救うことくらい、難しくも大切なことなのかもしれない。

2026.03.06Vol.87 思考と試行の場(竹内)

 ミステリー小説に取り入れられる叙述トリックには、人物像を誤認させるタイプのものがある。「違いますわ」という文字だけだと、その発話者がうら若きお嬢さんのように感じられるが、実際にはそれは大阪のおっちゃんだった、というのがその一例だ。ジャンルを限定せずとも、全てひらがなで表記されていたら幼い子どもの、それがカタカナであればロボットの言葉なのだろうと自然に予想できる。文章で作品の世界観を作り上げていくとき、このような役割語の果たす役割は大きい。役割語そのものについてはステレオタイプを誘発するということも指摘されてはいるのだが、どのような言葉を使っているのか、というのはその人がどのような人物であるのかをよく映しているからこそ確立されていったといえる。
 物語文でなくとも、エッセイや、このブログのような文章においてもその人らしさというのは如実に表れるものだ、と思う。「思う」と付けてしまうのは果たして自分にそのような色はあるだろうかと常々疑問だからである。以前に松蔭がこれまでの「志高く」をAIに読み込ませたうえで、親御様からよく頂く質問について回答したり、教育について論じたりすることを提案していた。生成される文章そのものは本家に見劣りするだろうが、今のAIであれば核をきちっと押さえて「言いそうやなあ」とか、「確かに言ってたわ」という内容をきっと出力できるであろう。体験授業の問い合わせが入った際、やはり松蔭の文章を通して「他とは違う」と感じ取って扉を叩いてくださる方が多い。限られた時間の中、全てを遡って読み返すことはできない。時期によって直近で目にしている内容も異なるはずだ。それでも多数の方がそのように感じられるということは、これまでの文章にぶれない軸が通っているということである。読み手であると同時にその体現者の一人でもある私は、自分の中でそれを育て、自分だから作れる形にしようとしている。
 教室で生徒とコミュニケーションをとるとき、私は基本的に関西弁を発している。同じように「なあなあ、先生ぇ~」のように声をかけてくる子どもも一定数いるが、親御様の転勤で関西に越してきて、それを使う馴染みがない生徒も同じようにいるので、ふとした瞬間に「なんでそうなるねん」と突っ込みのような問い方をしていることが自分の中でやけに気になってくる。また、関西弁は本人が意図せずともきつい印象を与えてしまうことがあるので、あまりに癖を出しすぎると内容そのものがきちんと相手に届かないのでは、ということも頭をよぎる。そういうことが瞬間的に浮かびながらも最終的には関西弁の方を取るのだが、これまでの対人関係を振り返るにおそらく私のそれはそこまで強くないから、というのが理由の一つである。地方出身の学生講師も在籍しているため、堅苦しい空気なく、これまでの自分の言葉を使ってほしいというのもある。一方で、生まれながらに関西にいるという講師に対しては、その言葉の強さの目安を示すことにも繋がるかもしれない。そこまで意識するものではないだろうから、意識的に使うようにしたい。
 少し話は変わるが、フランスのレーモン・クノーという作家による『文体練習』という小説がある。「真昼の混雑するバスの中でクレームをつける青年と乗り合わせ、その後、街中で同じ人物を見かけた」という、特段のオチもない日常のワンシーンを描いている。驚くべきは、同一の場面を99通りに書き分けていることだ。先ほど役割語の話を出したが、99通りの属性をベースにしたというような単純なものではなく、夢の中の出来事のように表してみたり、隠喩を多用してみたり、はたまた間投詞だけで表してみたりと、なかなか思いつかないような表現形式が数多く登場する。この小説自体はバッハの「フーガの技法」という作品に着想を得たらしい。クラシックに明るくないので調べてみたものの、それでもいまいち理解できなかったのだが、同じメロディを追いかけるところから始まり、徐々にメロディラインが逆になったり、リズムを伸ばしたり縮めたりと変化を加えていく「フーガ」という技法を詰め込んだ曲である。私はフランス語が分からないので原文で味わうことができないのだが、訳者である朝比奈弘治氏のあとがきを読んでいると日本語の形式でこの試みの面白さを伝えることにそれこそかなりの試行錯誤を要したことが窺える。ベースとなる1話目の直後には「複式記述」と題したものが続き、例えばバスに乗車している時間帯を「昼の十二時の正午頃」としたり、降車後の場面では「百二十分たった二時間後」のようにしたり、くどい表現で説明するという手法がとられている。もとが分かっているからこそ、おかしいというだけではなくくすっと笑える面白みも感じることができる。
核を持って、それをあの手この手で伝える。書くことがその最たる場であるべきだ。

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