
2026.04.24社員のビジネス書紹介㉛
三浦のおすすめビジネス書
永松茂久 『人は話し方が9割 2』 すばる舎
『人は話し方が9割』、普段あまりビジネス書棚をじっくり見ない自分でもかなりよく見かけていた。手に取ったことはなかったが、2といっても小説の続編のようなものではないので、今回は2から読み始めることにした。
話し方というとまずスキルを磨くイメージがあるが、本書ではとにかく「心構え」の話から入り、一冊を通じてそれがテーマとして通底していた。「会話とは相手を思いやることで、だから苦手な人とうまく話そうとするのではなく、心から大切な人に対してうまく話すにはどうするか、を考える」というものだ。大切な相手だからこそ、相手を不快にさせずに話したい。そうやってスタートラインを引くことで、却って小手先のスキルではない会話術になるのだろう。「相槌を打つ、自分を主語にせず相手が何に興味を持っているかを軸に置く、自分の話に持っていく前に質問をして話題を広げる」…本文で取り上げられている手法らしいものは、相手を思い、関心があれば自ずと出来そうなものだ。無理にうまく話そうとするよりは、自分が相手を尊重していることが正しく伝わるようにしたほうがいい。
マイナスな言葉を使わない、相手を否定しない。本書に取り上げられていたことは相手を不快にさせないために大切だが、大切だからこそ、あえて言うべき場面もあるよな、ということを考えながら読んでいた。添削することは決して否定ではない。ただ、頭からすべて肯定してしまうのももちろん違う。ちょうど志高くのVol.731で松蔭が「2つの選択肢があり、そのどちらにするかで迷えば、より自分の気持ちが伝わる方を選ぶ。」と述べていたが、その伝える内容が相手を思ってのことかどうか、そこが肝心なポイントなのだろう。それさえ頭にあれば、落ち着いて、伝えるべきことを伝えられるはずだ。
徳野のおすすめビジネス書
グレッグ・マキューン 『エフォートレス思考 努力を最小化して成果を最大化する』 かんき出版
本作は『エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする』の続編である。初めに「エッセンシャル思考」に軽く触れておくと、ビジネスだけでなく学業や家事育児も含めたタスク数を必要最小限にして、本質的な物事に注力するための考え方である。そして、今度の「エフォートレス思考」は、業務や用事を絞り込んでもなお仕事で疲弊してしまう人ための技術だと言える。英単語の”effort”を聞くと即座に「努力」と日本語訳してしまうが、本来の意味はポジティブなものばかりではなく、「骨折り損」というなるべく避けたい状態を指す場合もある。そして、心身ともに摩耗して生産性が落ちてしまう要因は主に、行き過ぎた完璧主義にある。苦労の割に結果が伴っていないのであれば、自身が装飾や形式といった表層的で些末な部分にばかり目を向けてはいないか疑ってみなくてはならない。
また、体力と気力を長期にわたって保つ上で「一気に頑張りすぎる」のは良くない。たまたま調子が良いタイミングにあれもこれもと業務を詰め込めたとしても、その分の疲労は蓄積して数日後のパフォーマンスに悪影響を与えるからだ。だが、仕事のペースを緩めるだけでは締め切りに間に合わなくなる恐れが出てくるので、とにかく早く着手して毎日の成果を少しずつ蓄積させていくやり方を定着させる必要がある。そして、取り掛かるまでの障壁を下げるためには、自分が取り組もうとしていることの目的を明確にしてそれ以外のことを「捨てる」のが重要になってくる。
具体的なエピソードを紹介すると、アップル社に勤めていたある社員がiDVD(デジタルコンテンツをDVDに読みませるアプリ)の設計案を、スティーブ・ジョブズに提出した。それを見たジョブズは、ホワイトボードにパソコンの液晶画面を模した四角を1個だけ書き、「動画をウィンドウにドラッグする。作成ボタンをクリックする。以上。そういうものをつくるんだよ。」と教えた。社員の方が初めに想定していたデザインのままでは、作業完了までの手順が煩雑で、詳細な取り扱い説明書が無いと利用できないような仕様になっていたからだ。当然ながら、そのようなサービスは消費者に愛されない。つまり、シンプルさの追求は、作り手側のエネルギーとコストの浪費を防ぐだけでなく、受け手側にとっての利便性や快適性にも繋がるのだ。
竹内のおすすめビジネス書
西林克彦 『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』 光文社新書
先月取り上げた『わかったつもり』と同じ著者によって、前作から16年を経て刊行されたのが本書である。文章を読む際、分かった気になってしまうことの背景に「疑問を持たない」ことがある点が前作では指摘されていたのだが、今作では「知ってるつもり」の状態に陥っていることをその要因として挙げている。少し立ち止まればそういうものはたくさんあるが、例えば私の場合ならPodcastは何なのかよく分からないままに利用していたサービスだ。インターネット上で配信されている音声番組ということになるが、どういう仕組みになっているのか、などと突っ込まれると調べないことには答えられない。しかし、それでも正直なところ生活する分には困らない。日々大小さまざまな「問題解決」をしなければいけない我々は、用意されたサービスやツールを通して、各分野で各人が発揮する専門性をお互いに享受することで悩む時間を最低限にしている。
しかし、そのように素通りが続いてしまうことは「問題発見」の力を弱めることになる。解決のための調べる作業に重点を置きすぎると、せっかく得た知識が孤立したものに留まってしまう。何か一つの言葉から「そういえば…」と他のことを連想していくためには、知識システムを構築していくことが必要となる。その鍵として提示されているのが「共通性」と「個別特性」である。場当たり的に知識を吸収していくと、それは個別性のものになってしまう。つい最近のことで言うと、漢字の勉強をしていた生徒が「積」と「績」を練習している際に右側を「青」にしてしまっていた。先の2つの音読みを尋ね、それが「責」の部分からきていることを確認した。そのような共通点を見出せることが、「この場合もそうだ」「これは違う」という個々を精査する姿勢や整理された状態での記憶へと発展していく。
また、筆者は教育学者として「外側にいる人間は学習主体の置かれている状況設定に関与することでその学習に影響を与えることができる」と述べている。分かりやすいのはテストを行うことで学習者に勉強する理由を与えるというものだ。無論、その準備をしないような子どももいる。それを生徒の側の意欲の問題にするのではなく、その方法では影響を及ぼせていないと受け止めて、勉強そのものを本人に委ねるというより、上記のような確認作業を一緒に行うなど打ち手を練っていかなくてはならない。上手くいかない時、「そういう子だから」で済まされてしまうということをよく耳にする。「よく」ということは決して特殊な事例ではなく、彼ら彼女らに通底しているものがあるのだろうし、それが見えることでその子特有の課題も明らかになるのだろう。さらに、子どもたちは成長するし物事は変化する。だから共通と個別の間を行き来することは終わらない。そういうものだと認識することで「知ってるつもり」から抜け出すことができるようになるのだ。
2026.04.17Vol.91 旅する予習(三浦)
前回取り上げた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』をしっかり観てきた。上映時間は156分、私が映画館で鑑賞した中では最も長い。もしかすると前にも書いたかもしれないが、そもそも私は映像作品に不慣れなので、長時間の作品はまず気後れしてしまう。上映中のお手洗いとかも考えると、どうしても。ただ、それでもどうしても観たかったので勢いのままチケットを取った。体感では2時間に満たなかったので、今回はかなり没入できたのだと思う。
映像のメリットは、やはりその没入、臨場感なのではないか。視覚、聴覚、4DXであれば触覚。どこかのニュースでは、映画ではなかったはずだが、嗅覚もあわせて刺激するシステムがあるとかないとか見かけた気もする。そういった複数の感覚器官を使うことによって、多くの情報を一気に与えることができる。個人的には、特に映像になると音の恩恵を強く感じる。今回の映画でも劇中歌が本当に良い仕事をしていて、今でもその曲を聴くたびに通勤路でも涙ぐんでしまう。感動しやすいたちなので、なんなら映画では開始10分程度、まだ何も始まっていない段階から、「ああ、この主人公はこれからあんな思いをするんだ……」と小説を読んだ時のことを思い出して泣いていた。隣に座っていた友人をいくらか驚かせてしまったかもしれない。
徳野が「志同く vol.89」で触れていた映像が先か文章が先か、という点では、ひとつ思い当たる節がある。
前述の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の上映前に広告が流れたことをきっかけに、Audibleを少し聞きかじるようになった。まだ無料体験期間なので続くかはこれからなのだが、何を聴くか選ぶ際、無意識に小説を避けていることに気付いた。
映像も音声も、再生は基本的に一方向である。こと物語においては、私はそれが苦手なのかもしれない。登場人物がピンチになると気が気でなくなり、そのまま数カ月くらい読み進められず置いてしまったり、あるいは先に助かるかどうかだけ確かめてから戻ってきたりすることもしばしばだ。同作者、『オデッセイ』の原作である『火星の人』も読み終えたのだが、さすがにラストだけは耐えたものの、何度か「大丈夫か……?!」と思わず先のページを確認してしまった。ただ知識不足もあいまって、「今どうなっているのか」が絵として想像しづらい場面もしばしばあったので、大変映像映えはするのだろう。しかし、映画で先に観ていたら、心配のあまり何度も目を逸らしていたに違いない。今は小説版で流れを知っているので、それほどハラハラせずに観られるはずだ。この「ハラハラ」を人は没入感や臨場感と呼ぶのかもしれないが、私にとっては、少し壁になるものでもある。だから、小説で自分のペースで受け入れた上で、映像に触れる方が、どちらの情報もしっかり拾えるようになる。とはいえ、人によってこの感覚は様々だろう。
ちなみにAudibleでは、気にはなっていたもののまだ読んでいなかった『暇と退屈の倫理学』を聴いている。目が疲れないのが良い。ただ、電車などで聴いていると、思わず「あ~」「確かになあ」と声に出して相槌を打ってしまいそうになるので、それが一つ目の難点だ。もう一つ目は、聴くタイミングに悩むこと。本では少し読み飛ばしてしまっても戻ることができるが、一言聞き逃してしまうと、スマホを操作して戻るしかない。だから手が離せないようなタイミングは避ける。環境音で搔き消えてしまわないように、賑やかなところでも避ける。CMでは掃除機をかけながらヘッドホンをしていた気がするが、やはり聞き逃してしまいそうなので避ける。他に気が散ってしまいそうな場面でも避ける。そんなことをしていると、結局本で読んだ方が早いのでは、とも思う。ただ、耳から情報を入れる練習として、少しずつ静かな夜にでも続けていくつもりではある。
先日の休みに訪れた小さな島の話もしたかったのだが、話がまとまらなくなってしまうので、ひとまずはこのあたりにしておく。目的地は家島。梅田から姫路までの電車、姫路から姫路港までのバス、姫路港から30分ほどの船旅……。二回目の訪問である。それほど距離としては遠くない。それでも、海と桜(と猫)に囲まれ、地域の方が通りがかりに声を掛けてくれる小さな島は、私にとってはすっかり身近な別世界だ。そこに辿り着くまで、多く見積もってもここから3時間程度。映画1本分の片道だ。
2026.04.10Vol.90 青よりも蒼い森(竹内)
浮遊感。そしてもう後戻りはできないという緊張感。もしこれがジェットコースターならば悲鳴を上げることで恐怖を軽減できるのかもしれない。そう言っておきながら、私はバーから決して手を離さず口を固く結び、さらに目を瞑り、1周するのを耐え忍ぶタイプの人間なのだが。見回せば私なんかよりよほど乗り慣れている様子の子どもの姿。楽しそうに家族とお菓子を食べている。そんな中ではなおさら怖がっているわけにはいかない。飛行機に乗る時はいつも平静を装いつつ、心の中は大騒ぎしている。
そんな気持ちになるのになぜ乗ったのかというと、この春休みに青森に行ってきたからである。1人ならどれだけ時間がかかろうとも新幹線で向かっていたのだろうが、今回は友人との2人旅行になり、往復の便の時間も彼女が調べてくれたので委ねることにした。そんな気持ちにいつか打ち勝つためにも、少しずつ経験を積んでおかねばならないのだ。休講期間に入る前の授業で生徒に旅のことを話すと「青森行きならたぶんプロペラ機やで」と教えられ、不安いっぱいでその日を迎えたのだが、搭乗橋もなく地上から階段を上がって乗り込むというさらに予想外のイベントに「ファーストレディみたいやん」と反対に余裕が生まれ始めた。離陸して飛行機が安定すると共に安心し、しばらくうとうとした後で窓の外に目をやると、冠雪した山が広がっていた。その場では分からず北アルプス辺りかと思っていたのだが、私の座席位置からだと見えないようで、機内から撮った写真をGeminiに見せたら石川県の白山だと解答してくれた。標高2702メートル。私にとって馴染み深い地元西宮の甲山は309メートル。六甲山ならまだしも、ひらがなで「やま」と表すのがふさわしいようなものが身近な存在だったので、これぞ「山」というものを見せてもらった。険しい山肌、雪に覆われた山頂を目の当たりにして、この先に待っているのは自分が日頃過ごしている場所とは全然違うのだということが感じられた。3月末の青森の日中は10℃くらいでそこまで寒くはなかったが、歩いていると道路脇に固められて全然溶けていない雪の大きな塊がたくさん残っていた。
森見登美彦の連作怪談小説『夜行』の中に、青森、そして五所川原市が舞台となった「津軽」という話がある。五所川原駅を起点にして走っている津軽鉄道のストーブ列車が登場するのだが、その名の通り列車の中にストーブが設置されており、それで暖がとれるのはもちろんのこと、販売されているスルメを載せてあぶってカップ酒とともに頂けるという雪深い町に相応しい観光列車である。途中停車する金木駅には、あの太宰治の生家もあり、記念館として運営されている。好んでスルメを食べるわけでもお酒に強いわけでもないのになぜかその描写に強く惹かれてしまい、いつか行けたら良いなとずっと思っていたのだが、そのいつかが今回だったというわけだ。
11時ごろに空港に着いてからはまず青森市内に向かった。ここからじわじわと旅程が崩れていくことになる。その原因は海鮮のっけ丼を食べた後に立ち寄った「ねぶたの家ワ・ラッセ」である。正直なところ、せっかく青森まで来たんだから見ておいた方が良いよな、駅からも近いし、という程度の意欲だった。券売機でチケットを買ったら、プリントされていたのは1957年のねぶた祭りを描いた棟方志功の絵で、すぐ近くに実物も展示されていた。サイズこそ大きくないが、迫力はある。期待が高まる。知らないことだらけで何もかも新鮮だったが、歴史のある祭りであるのに神仏の信仰に由来していないということが意外だった。起源が諸説あり、その成立背景がはっきりしていないのである。当初は竹で骨組みを作り、和紙を貼って絵を付け、中を蠟燭で灯していたのが、戦後には針金や電球を使うようになったことで、芸術性はより高まっている。広々としたスペースに近年のねぶた祭りでの受賞作が展示されており、かなりじっくり見ることができる。接触可能なものもあって、それを触っているとスタッフのおじいさんが色塗りされている部分とされていない白い箇所の違いを解説してくれた。白い部分には蠟が塗られており、色自体はつけていないのだ。ここで白を塗ってしまうと、全体が暗くなってしまうらしい。比較対象はなかったものの、例えば白目の部分は内側から照らす照明の明るさがダイレクトに伝わって、力強さがみなぎっていた。ねぶた名人は7人いるのだが、後身育成にも力を入れながら脈々と伝統が受け継がれている。2時間弱施設を回って、丁度いい時間のバスに乗り遅れ、17時閉館の三内丸山遺跡には16時前に入った。教科書で名前を見てからついぞ忘れていた場所である。現代人目線だと、縄文時代の人々の生活は単調で大した悩みも無いような気がしてならない。しかし実際にはそういったものを克服して文明が築かれてきたはずだ。土器の文様の変容や赤色の漆器の存在などは縄文人が変化を求めた証ともいえる。
ホテルを取っている弘前には夕方ぐらいに到着して、城を見てから気になっていた喫茶店を訪ねてあとは夕飯を楽しみ、1日目を終えるはずだった。しかし、閉館まで遺跡で過ごしたこともあり、結局チェックインした頃には19時を回っていた。改めて時間を調べてみると、翌朝に弘前での予定をこなしてから五所川原に向かうと空港まで戻れるのはもう飛行機が発ってしまっている頃。そんなわけで、一番の目的だったストーブ列車はお預けになってしまったのだ。ただ、昨年12月から運行を開始していたものの年末に車両連結部分に不具合が生じ、運行そのものは停止して列車の展示のみが行われていたようである。諦めがついて弘前をゆっくり回ることにし、弘前城とは反対方向にあるれんが倉庫美術館にも行けたことで、1日目に県立美術館に入る時間がなかった無念を晴らすことができた。桜にはまだまだ早かったが、結果オーライ。とはいえ、これから先、あと3回はまた行くことになるのだろう。
1泊2日で満足する旅行をするのは難しいほどに青森は広く、そしてすごく静かだった。日々暮らす池田の町も人がそこまで多くないのは同じなのだが、「しんとした」という表現がぴったりだという印象を青森には抱いた。まだ雪が残り、生き物たちが動き始めていないという感じだろうか。ここでの生活はどのようなものなのだろう。旅をすると、その場所に思いを馳せる。自分のそれとは異なる日常がそこには確かにあって、自分とは交わることのない大勢の人がいる、いや、大勢の人が自分とは交わることなく過ぎ去っていくのだ。通勤電車で乗り合わせる人たちだって同じはずなのにあまり意識しないから不思議だ。本当は関われる人が限られているからこそ、目の前の人と丁寧に向き合うことが大事なのだろう。そういうことを考えながら帰路につく。「家に帰るまでが遠足です」と小学生の頃よく言われていたけれど、その時間が余韻を生み出すのかもしれない。








