
2026.07.31社員のビジネス書紹介㉞
徳野のおすすめビジネス書
堀田秀吾 『大事なことだけ聞く力』 サンマーク出版
多くの冊数を手に取ってきたわけではないものの、心理学や脳科学の本を読んでいて面白いと思うのが、「人類は石器時代と比べて大して進化しているわけではない」という事実である。本作は、とりわけ日本人が「人の話を聞きすぎる」という状態に陥いりがちな背景を人類学、行動心理学、言語学といった様々な分野の観点から分析した上で、人々の悩みを根本的に軽減していくための具体的な仕組みを状況に応じて提示してくれている。著者は明治大学法学部の准教授なのだが、世間一般でイメージされるような「文系」の枠組みに収まらない知見を生かした研究を行っている。実際、堀田氏は著作のタイトルに「科学的」という言葉を盛り込むのを好んでいるようだ。(『科学的に証明された すごい習慣大百科』、『科学的に元気になる方法集めました』など。)
さて、本作が取り扱っている「聞く」には主にニつの意味が含まれている。一つ目は「周囲にアドバイスを求める」で、もう一つは「傾聴する」だ。そういった姿勢を心がけるのは良い事とされているが、時代が進むにつれて過剰になっていき、真面目な人ほど心身共に消耗してしまうという側面も忘れてはならない。では、なぜ、誰かとコミュニケーションを取ると疲労感が生まれるのか。人類は狩猟中心の生活を送っていた大昔以来、共同体内の結束力を強めることで生存確率を上げ、さらには技術と文化の水準を高めてきた。だから、集団内での孤立を本能的に恐れるようになり、身近な人からの言葉をきちんと受け止めたり、仲間内での合意形成に努めたりする傾向を強く示すようになったのだ。さらには、マスメディアとSNSの発達に伴い、一人の人間が一日に触れる情報量は膨大なものとなり、日常の中で選択と判断を求められる機会も増えていった。すると、脳は思考に費やすエネルギーを節約しつつ失敗を避けるために、他者からの声に依存するような動きを見せるようになる。その反面、色々な意見に触れるうちに決断ができなくなったり、聞き役に徹してどっと疲れたりという皮肉な事態を引き起こしてもいるのだが。
繰り返しになるが、「聞き上手」は社会生活を営むのに欠かせない素質である。重要なのはバランス感覚だ。疲弊しないためには、➀必ずしも真剣に受け止める必要のない情報を見極めることと、➁相手と会話のキャッチボールをすることを、意識した方が良い。
まず➀については、主語が「みんな」で、語尾に「するべき」「するのが普通」と付くような、つまりやや乱暴な一般論に過ぎないような意見には注意を払う必要がある。そもそも、ある人にとっては常識でも、他の人にも当てはまるわけではないケースなど幾らでもありうる。そこを認識せずに、自分の軸を持たないまま周囲、特に目上の人から「正解」を教えてもらおうとしても物事は進んでいかない。「自分は何をどうしたいのか」と己に問いかける時間を作るためにも、迷った時はその場で結論を出そうとせずに(期限を決めた上で)後日に持ち越す判断も有効だ。
そして、➁は当たり前ではないかと思うかもしれない。しかしながら、良くも悪くも「聞き上手」な人の場合、他者が一方的に語るような形を容認してしまう。話している方は気分がすっきりするかもしれないが、ひたすら耳を傾けるだけでは相手との関係はそれ以上深まっていかない。親密度はお互いが自己開示することで深まっていくものだからだ。「一人ぼっちになりたくない」「嫌われたくない」という消極的なモチベーションを越えて思い切った言動を見せた方が人生の幸福度は高くなる。
しかしながら、➀と➁はあくまで、数ある改善策のうちの一部に過ぎない。様々な方法にあれこれ手を出すより先にすべきなのは、どういった場面で「聞きすぎる」のか、そもそも「聞きすぎている」のではないかと自覚することだ。そういった客観視のためにも、自分が置かれている状況と、その時に湧いてくる感情を言語化する習慣から身に着けておきたい。
竹内のおすすめビジネス書
金川顕教 『AIに負けないためにすべての人が身につけるべき「営業学」』 KADOKAWA
「営業の電話がかかってきた」「営業トーク」という言葉が用いられる際、あまり好意的に取られていないことが多い。そもそも営業の仕事では自社サービスが顧客のニーズに応え得るものであることを提示し、契約を結ぶことが目標とされる。自分たちの持っているものが何で、それが相手の求めているものと合致しているか、もしくは相手の困りごとを自分たちならどのように解消できるのか、そういったものを見せられることが不可欠である。しかし、それが一方的な押し付けになると、先のような印象を相手に与えることになる。人を介さずともオンライン上で買い物などの手続きを済ませられるのが当たり前になっている昨今、関わる人がどのような人物であるかによって対面での購買意欲は変わってしまう。
教室では随時体験授業を行っているが、隈なく志高塾のサイトを見てくださっている方がほとんどである。そうやって気に入り、期待を込めてお子様を通わせてくださっていることに応え、子どもたちを強くしなやかにしていくことがまず第一である。ただその上で、一度は扉を叩いてくれたはずの方に、そのまま足を踏み入れてもらえるようにできなかったことは自分の中に強く残る。「ニーズに合わなかった」と言ってしまえばそれだけかもしれないが、色々な子がいて、一人ひとりに寄り添いながら前進させていく我々のスタイルに、本来「合わない」と断言できるものはないはずなのだ。
自分たちの提供できるものが、必要とする人にきちんと届くようにするために、サービスの中身は当然のことだが届ける側の「人」を磨いていくことが同様に重要だということになる。子育てをしていての希望や不安、具体的に目指す学校などがあるはずで、それらを引き出し正確に掴む。それに対してどのような打ち手を挙げられるか。提供できる情報を持つことは信頼につながり、「この人から聞きたい」と思っていただけるようになる。情報収集は「インプット」ということになるが、「アウトプット」するからまた新たな情報が入ってくるとも言える。つまり、自分が知ったことを他者に伝えるからこそ、それによって相手が考えたことや思い出したことが返ってくるということだ。「営業」としてのマインドが多く紹介されていたが、その肩書であるかとは関係なく、自分が念頭に置くべきは情報を循環させることだといえよう。
三浦のおすすめビジネス書紹介
荒木博行 『努力の地図』 クロスメディア・マーケティング
努力をすれば報われる、とは古来より語り継がれてきた言葉だろう。あるいは、努力が報われることはないという諦めも同様に。私自身は努力家からはほど遠い自覚があり、「努力をするのも才能のひとつ」と思い込んでいる節がある。本書の冒頭では、まず「努力」とは何か、「報われる」とはどういうことかを定義しないまま、努力論について語られていると述べている。確かに、努力と聞いて想像するのは漠然とした我武者羅なもので、報酬と聞いて想像するのは漠然とした成功だ。
まず「努力」について、著者は四つに分けられるものだという。真っ先に浮かぶ「量をこなす」努力だけでなく、「質を高める」もの、そして目標に何が必要かを見定める俯瞰的な「設計」の努力、そして何より目標を正しく定める「選択」の努力。単純な目標であれば取れる手は限られるため、必然的に「量と、できれば質」が重要になる。しかし目標が高く、そして複雑になればなるほど、そういった力任せなものだけでなく、頭を使って考える努力も必要になってくるという。定期テストで特定の教科の点数を取ることと、志望校に合格することでは、まったく違う努力のやり方が必要になるというわけだ。
そして「報酬」。報酬は、本人が目指していた目標からどれだけ離れているか、そしてそこに辿り着くまでの時間によって分類されるという。離れた報酬とは、いわば副産物だ。ギターの上達を目標に練習していたところ、腕前はそれほど上がらなかったものの友人関係が増える。これは目標から離れた報酬で、無意味ではないが、「本気で上手くなりたいだけ」の人間には意味がない。あるいはアスリートなどのストイックな分野ではなおさらだろう。本当に目標に向かいたいのなら、この副産物を報酬として目的にしてはいけない、という。
私はどちらかといえば、副産物にこそ意味があると思うタイプだ。目標を達成して終わりというよりは、そこに辿り着くための過程にこそ意味がある、と。しかし、当の本人が目標を叶える前に、「こっちでいいや」と思ってしまうのは本末転倒だ。講師としての視点に立ち返ってみれば、生徒を含めた他者の努力に対して「こういうポジティブな結果が出ている」と認めつつ、本人の本来の目標からずれないようにサポートする。そしてその道程のため、適切な「努力」の形を共に模索する。それが、見守る側に必要なことなのではないか、と思う。
2026.07.03Vol.98 でこぼこな連帯(徳野)
【社員ブログ 更新頻度変更のお知らせ】
いつも 『志同く』をご覧いただき、誠にありがとうございます。
この度、弊塾広報媒体の運用体制を見直し、2026年7月より本ブログの更新頻度を以下の通り変更することといたしました。
変更前:毎週金曜日更新
変更後:毎月第2週および最終週の金曜日に更新
※初月(2026年7月)のみ、第2週分は7/3(金)に更新させていただいた本ページとなります。
今後隔週にはなりますが、皆さまにより一層興味深く読んでいただける内容をお届けできるよう邁進いたしますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
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映画館の上映室でたった一人、という事態に遭遇したことがある人はどれくらいいるだろうか。つい先日、他ならぬ自分が経験者になってしまった。そして、実際に経験してみてまず湧き上がってくるのが、静かな恐怖である。以前、夜の大阪ステーションシネマで中年男性と二人きりになった時よりも緊張感があった。特に怖かったのは終映後である。室内灯が点いてから係員さんがドアを開けてくれるまで1分ほどの間があったのだが、ほんの60秒間ポツンと待たされただけでも、「このまま永遠に、誰も助けてくれなかったらどうしよう」という不安に襲われた。世界から隔絶される気分とはこういうことなのではないだろうか。
さて、アップリンク京都にて、唯一の観客として鑑賞したのは≪熱狂をこえて≫という作品である。1994年に日本初のプライド・パレードを開催し、自身も男性パートナーと同居している南定四郎(みなみ ていしろう)氏の半生を振り返るドキュメンタリーだ。まず印象的だったのは、御年94歳とは思えぬ南氏の旺盛な活力だ。アルコールと高カロリーな食事に舌鼓をうち、一回りも二回りも若い仲間たちと豪快な声で談笑する彼に、私は体力も気力も負けている気がしてならない。さらに、カルチャー誌の編集に長年携わってきただけあってファッションセンスにも優れ、ショッキングピンクのジャケットを粋に着こなしてパレードの先頭に立つ姿には惚れ惚れとしてしまった。エネルギーとカリスマ性に溢れた魅力的な人物である。そして、当事者だからこそ持ち得た(当時としては)先進的な己の価値観を信じ、世間から向けられる偏見のまなざしを相手取ってきた南氏の闘姿は、まさに「生きた歴史資料」と言えるだろう。
しかしながら、同作の狙いは南氏の功績への称賛だけにあるわけではない。彼の、引いては1980年代後半から90年代前半にかけてのゲイ・コミュニティによる内省と「懺悔」を記録することにもある。
南氏はパレードを主催する以前から、同性愛者の人たちのための居場所づくりに心血を注いできた。1984年に国際レズビアン・ゲイ協会(略称はILGA、当時の組織名は「国際ゲイ協会」だった)の幹部から日本支部の設立を持ち掛けられたのをきっかけに、欧米での事例を手本にしながら様々な取り組みを展開していった。出版業で得た豊富な資金を元に、映画祭の企画、電話相談窓口の開設、パブリックスペースの運営など、意義を感じたアイデアには次々と手を出し、その果てに満を持して実施したイベントが≪第1回レズビアン&ゲイパレード≫だったのだ。1980年代末期の「エイズパニック」に立ち向かわねば、という切実な気概もあっただろう。年表的な実績だけを踏まえると南氏は「身を粉にして働く精力的な人権活動家」に見えるし、その人物評が決して間違いではない点は強調しておきたい。だが、実態はもっと複雑である。彼が良かれと思って実現させてきた取り組みは長くは持たず、パレードも第3回目にして早くも休止に追い込まれた。原因は「独善」にあったと、南氏が自ら認めている。外部からの圧力に負けたのではなく、内側から崩壊が起こったのだ。
南氏が作中で繰り返していた言葉の一つが「連帯しなくちゃいけない」である。その発言に関して鑑賞中は「結束を強要したら、かえって組織の足並みが揃わなくなるんだな」程度の感想しか浮かんでいなかったのだが、後日改めて「連帯」の定義を調べていたところ、NHK出版デジタルマガジンの『「連帯」は、バラバラな私たちが、バラバラなまま共に生きていくためのノウハウ』という記事を見つけた。南氏が前提にしているのであろう意味合いとはかなり違う。さらに読み進めてみると、人種や性的指向といったアイデンティティ面での共通点を持つ人々が団結して政治活動を行うことの功罪にも言及されていた。危険性については「自分たちとは異なるアイデンティティを持つ集団との差異を強調するあまり、国内の精神的分断を招く」という、まさに昨今のアメリカで顕著になっている問題が指摘されている。さらに、《熱狂をこえて》が浮き彫りしているのは、社会的少数者のコミュニティが「不寛容な世論」という巨大なものと戦おうとしていたにも関わらず、集団内の多様性を自ら軽視する方向に動いてしまった様子である。具体的には、当時のILGA日本支部に属していたゲイ男性の中には、年下のメンバーや女性に対して高圧的な態度を取ったり、彼ら彼女らからの意見を切り捨てたりする者も存在したらしい。そして、トップに立っていた南氏の我の強い人柄が、風通しの良くない雰囲気を助長していた面は否めない。今となっては一大イベントとなったプライド・パレードに対してさえ、当初は反発の声が少なくはなかったらしい。そんな組織に対して積もりに積もった怒りが爆発したのが第3回パレードでの出来事だったのだ。その後、取り返しのつかない悲劇が起こったのを機に自責の念に駆られた南氏は活動から身を引き、沖縄で20年近く隠遁生活を送ることとなった。久しぶりに再会した仲間たちと酒を酌み交わす際にも「記憶に残るのは嫌な思い出のほうだね」ときっぱりと言い切っていたのは印象的だった。
ILGA日本支部が事実上の解散をしてから数十年。南氏の生きざまを映像に残した松岡弘明氏も自身のセクシュアリティを公表している。LGBTQ+の尊厳を守るべく紆余曲折してきた社会運動の歩みを自己批判的に辿っていくような構成は、若い世代の当事者だからこそ編み出せたものだろう。そんな監督の人物像も知るべく、インタビューが掲載されている『LGBTR.』というサイトを覗いてみたところ、時代の変化を実感した。松岡氏を含め様々な背景を持つ性的マイノリティの人々の言葉に触れられたのだが、自身とは異なるアイデンティティや主義主張を持つ他者との間に壁を作らないことを強く意識している様子が窺えた。例えば、「自分は生きているうちに親しい人に打ち明けられた方が良いと考えているけれど、カミングアウトするのが正しい、と言ってしまうのは違うと思うんです」と発信する形で個々人の選択を大切にしたり、「異性愛者の人たちも皆、何かしらの悩みを抱えている」という風に視野を広げてみていたりと、新しい意味での「連帯」、言い換えると「包括」を目標に掲げたメッセージが数多く盛り込まれている。自身について語りながら、他者の語りに徹底的に耳を傾ける。松岡氏が常にその姿勢で物事に向き合っているからこそ、被写体となった南氏も心を開き、苦く重い己の過去に対峙できたのだろう。
私が「LGBT」という枠組みを知ったのは大学生の頃だ。正直に言うと、27年間生きても自分のセクシュアリティに未だに確信が持てない。そんな立場なので、いつの間にか言葉の末尾に「Q」と「+」が増えている現在に戸惑いを覚えている。当事者および賛同者の方々の熱量にまだまだ付いていけていないのだ。しかしながら、私と同じような感覚を持っている人、もしくは、性の多様性に元から興味が薄い人も少なくないのだと思うし、アップリンク京都の客席が残酷にもそれを物語っている。だが、奇しくも「世界にたった一人きり」を思わせるような状況に身を置いたことで、閉鎖的な故郷で南氏が味わっていただろう孤独感に近い何かをほんの60秒間だけ窺い知れた気がしている。それもまた一つの「連帯」である。








