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2026.03.06Vol.87 思考と試行の場(竹内)

 ミステリー小説に取り入れられる叙述トリックには、人物像を誤認させるタイプのものがある。「違いますわ」という文字だけだと、その発話者がうら若きお嬢さんのように感じられるが、実際にはそれは大阪のおっちゃんだった、というのがその一例だ。ジャンルを限定せずとも、全てひらがなで表記されていたら幼い子どもの、それがカタカナであればロボットの言葉なのだろうと自然に予想できる。文章で作品の世界観を作り上げていくとき、このような役割語の果たす役割は大きい。役割語そのものについてはステレオタイプを誘発するということも指摘されてはいるのだが、どのような言葉を使っているのか、というのはその人がどのような人物であるのかをよく映しているからこそ確立されていったといえる。
 物語文でなくとも、エッセイや、このブログのような文章においてもその人らしさというのは如実に表れるものだ、と思う。「思う」と付けてしまうのは果たして自分にそのような色はあるだろうかと常々疑問だからである。以前に松蔭がこれまでの「志高く」をAIに読み込ませたうえで、親御様からよく頂く質問について回答したり、教育について論じたりすることを提案していた。生成される文章そのものは本家に見劣りするだろうが、今のAIであれば核をきちっと押さえて「言いそうやなあ」とか、「確かに言ってたわ」という内容をきっと出力できるであろう。体験授業の問い合わせが入った際、やはり松蔭の文章を通して「他とは違う」と感じ取って扉を叩いてくださる方が多い。限られた時間の中、全てを遡って読み返すことはできない。時期によって直近で目にしている内容も異なるはずだ。それでも多数の方がそのように感じられるということは、これまでの文章にぶれない軸が通っているということである。読み手であると同時にその体現者の一人でもある私は、自分の中でそれを育て、自分だから作れる形にしようとしている。
 教室で生徒とコミュニケーションをとるとき、私は基本的に関西弁を発している。同じように「なあなあ、先生ぇ~」のように声をかけてくる子どもも一定数いるが、親御様の転勤で関西に越してきて、それを使う馴染みがない生徒も同じようにいるので、ふとした瞬間に「なんでそうなるねん」と突っ込みのような問い方をしていることが自分の中でやけに気になってくる。また、関西弁は本人が意図せずともきつい印象を与えてしまうことがあるので、あまりに癖を出しすぎると内容そのものがきちんと相手に届かないのでは、ということも頭をよぎる。そういうことが瞬間的に浮かびながらも最終的には関西弁の方を取るのだが、これまでの対人関係を振り返るにおそらく私のそれはそこまで強くないから、というのが理由の一つである。地方出身の学生講師も在籍しているため、堅苦しい空気なく、これまでの自分の言葉を使ってほしいというのもある。一方で、生まれながらに関西にいるという講師に対しては、その言葉の強さの目安を示すことにも繋がるかもしれない。そこまで意識するものではないだろうから、意識的に使うようにしたい。
 少し話は変わるが、フランスのレーモン・クノーという作家による『文体練習』という小説がある。「真昼の混雑するバスの中でクレームをつける青年と乗り合わせ、その後、街中で同じ人物を見かけた」という、特段のオチもない日常のワンシーンを描いている。驚くべきは、同一の場面を99通りに書き分けていることだ。先ほど役割語の話を出したが、99通りの属性をベースにしたというような単純なものではなく、夢の中の出来事のように表してみたり、隠喩を多用してみたり、はたまた間投詞だけで表してみたりと、なかなか思いつかないような表現形式が数多く登場する。この小説自体はバッハの「フーガの技法」という作品に着想を得たらしい。クラシックに明るくないので調べてみたものの、それでもいまいち理解できなかったのだが、同じメロディを追いかけるところから始まり、徐々にメロディラインが逆になったり、リズムを伸ばしたり縮めたりと変化を加えていく「フーガ」という技法を詰め込んだ曲である。私はフランス語が分からないので原文で味わうことができないのだが、訳者である朝比奈弘治氏のあとがきを読んでいると日本語の形式でこの試みの面白さを伝えることにそれこそかなりの試行錯誤を要したことが窺える。ベースとなる1話目の直後には「複式記述」と題したものが続き、例えばバスに乗車している時間帯を「昼の十二時の正午頃」としたり、降車後の場面では「百二十分たった二時間後」のようにしたり、くどい表現で説明するという手法がとられている。もとが分かっているからこそ、おかしいというだけではなくくすっと笑える面白みも感じることができる。
核を持って、それをあの手この手で伝える。書くことがその最たる場であるべきだ。

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