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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.11.29Vol.41 F君の朗報(徳野)

 先日、西宮北口校の元生徒で大学2回生のFくんに誘ってもらい、彼が学校の文化祭にて携わったサークルの展示会にお邪魔した。彼が中学2年次から通った約4年間の中で私が関わったのは高校2年次の12月頃からの1年弱だったが、ありがたいことに声をかけてくれたのだ。
 Fくんは1浪を経て大阪大学基礎工学部に進んだ。そして、入学早々、「お出かけスポット紹介サークル」を立ち上げただけでなく、SNSでの活動報告の熱心さを買われて、外国人観光客向けのメディアを展開するJapan Travel株式会社の公式アンバサダーを務めている。現在は代表の座こそ他のメンバーに譲った様子だが、Xへの更新頻度は相変わらず凄まじいので、アカウントを覗いていただけるだけでも本人の励みになるはずです。
 https://x.com/1IeqedjfwucuPu2
 展示会では「ミュージアム同好会」との共同企画が印象的だった。発案者の一人であるFくんは学内にあるほぼ全ての文化系サークルの声をかけ、彼らの活動内容に関連する博物館や美術館を訪問してもらい、さらには作成してもらった個性豊かなレポートたちを公開していた。敬遠されることが珍しくない「ミュージアム」と名の付く場への心理的距離感を少しでも縮めたい、という熱意がひしひしと伝わってくる素敵な展示のおかげか、会場はなかなかの盛況だった。
 そして、私が何よりうれしかったのは、人間的に成長した彼にも「変わっていない」部分がしっかり残っていたことだ。
 ここまでの内容からは、元から社交的で人を巻き込むのが上手な青年像が思い浮かんでくるかもしれないが、今も抜きんでて社交的というわけではない。私がFくんの性格を一言で表すとしたら「猪突猛進」となる。目標に向かって脇目もふらずに走っていけるスタミナが強みである一方で、中高生の頃は自分の言動がどう受け取られるかに無頓着だった。(現役時代に共通テストの点数が振るわなかった旨をメールで連絡してくれた際、標題にでかでかと入れられた「悲報」にどきりとさせられたのは良い思い出だ。)それが原因で学校では周囲から浮いている様子が会話の端々から窺えたし、対人関係でひどく傷ついた経験もあった。その当時を思うと、「お出かけスポット紹介サークル」に7人のメンバーが集まり、自分のコミュニティを超えて交流の輪を広げている現状は感慨深く、持前の行動力や生真面目さが良い方向に働いていて本当に安心している。「自分の形」を削ることなく生活を充実させられている卒業生の姿を間近で見れたのは収穫だ。
 そんなF君にとって志高塾が大切な居場所であったことに違いはない。だが、私自身が「以前通っていた塾の講師」以上の存在になれているか、となると話は別だ。F君が精神的に最もしんどかったであろう時期に私は西宮北口校には勤務していなかった。当時の彼の月間報告を担当し、中心的にやり取りをしてくれていた学生講師の女性Aさんによる尽力は他の社員から度々教えてもらってきた。F君が自身の作文にそのままぶつけたようなフラストレーションを受け止めつつ、客観的な視点を粘り強く示し続けた彼女の存在は、F君にとって教室に通う意味そのものだったはずだ。伸び伸びと言語化できる環境があったからこそ、元々持っていた長所が今に生きているのだけでなく、やり取りで真摯にボールを返してくれるAさんがいたおかげで、(まだまだ成長過程にいるものの)他者と関わっていく下地が形成されていったはずだ。
 では、私はどうだっただろうか。F君が志高塾にいた最後の1年間を共に過ごしたことになるが、悲しいことに、読解問題を一緒に解く以上のことをしてあげられた記憶が全く無い。しかも、現役時代は京都大学を目標にしていたものの、共通テストの段階でそのレベルにまで届かせられなかった。また、F君は当塾を卒業した後は、ほぼ自宅での勉強だけで合格を掴み取ったと言える。受験専門塾では無いとはいえ、私は何も貢献できないのも同然なのだ。それにも関わらず、浪人中は何度かメールで近況報告や古文の質問をしてくれたり、今回もイベントにわざわざ招待してくれたりしたのは、ただただF君の律儀さゆえである。彼が手がけた展示に本当に招かれるべきだったのはAさんの方だ。彼らが連絡先を交換していなかったことが悔やまれる。
 信頼や尊敬はまず行動に表れる。社員になってからF君以外には6人の大学受験生と関わってきたが、当塾を卒業してから連絡をよこしてくれたのはF君だけである。私は「わざわざ会いたい人」にはなれていないことを物語っている。かつての生徒たちが何か聞いてほしい見てほしいと思ったときにふらっと立ち寄ってもらえるようになりたい。そのためには問題演習の範疇を超えて、進路決定に代表される、生徒たちの「これから」に対して意識的にアプローチしていくのが私の課題である。

2024.11.23社員のおすすめビジネス書⑭

徳野のおすすめビジネス書
『バナナの魅力を100文字で伝えてください 誰でも身につく36の伝わる方法』柿内尚文

 キャッチ―なタイトルなので、これまでも書店で幾度か目に入ってきたが、心の中で「私、バナナアレルギーだし・・・」などと漏らしながら通り過ぎてきた。つまり自分にとって「伝えたいこと」が無いから考えることをはなから諦めていたのだが、そういう言い訳を止めるためにも手に取ることにした。
 著者の柿内氏は広告業界を経て出版社の編集者として活躍している人物なので、数多くのキャッチコピーや商品名が具体例として取り上げられている。だが、本書から学べるのは「この言葉を使えば売り上げが伸びる」という便利な「型」ではない。他者を納得させ、動かすために必要な「視点」を与えてくれており、生徒が取り組んでいる意見作文や講師が作成する月間報告に通じる部分もあると感じた。例えば、新調したばかりのスニーカーを友人に見せる際に「これ、すごく欲しかったんだよね」と、「結論」だけ伝えるのではなく、「お店に買いに行ったらどこも売り切れで、実は10軒以上まわってやっとゲットしたんだよ。すごい人気だよね。」という風に手に入れるまでの「過程」と共に説明することで、そのスニーカーの魅力や価値を理解してもらいやすくなる。相手に「伝わる」ようにするための「フリオチの法則」と呼ぶ方法が活用されているのだが、当塾も「beforeとafter(とその間)」を明確にすることを大事にしている。
 ちなみに、生のフルーツを基本食べられない私が考えてみたバナナの魅力は、「朝もぎり、自然の栄養即チャージ」となった。(字数の関係でキャッチコピー風)

三浦のおすすめビジネス書
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆

 以前、SNSで何度か見かけたので手に取ってみた。生徒に本を勧めている立場上、「読書とは」というのは常に頭の片隅に置いておきたいテーマだ。しかし時間的余暇は比較的あるはずなのに、なかなか本に手が伸びないことも多い。本書では、そういった「時間に余裕がない」以外の、労働と読書の歴史を紐解いてくれている。現代までの変遷についてはぜひ実際に読んでほしいが、「昔も長時間労働者は多かったが、それでも読書は習慣化されていた」ことが鍵のひとつだ。読書の目的は、そして主なターゲット層は時代によって違う。
 現代。SNSやインターネットの登場で、読書は情報収集に最適な媒体ではなくなった。しかしそれは単純な事ではない。必要最低限の情報以外、余分な「文脈」「歴史」などをノイズとして認識するようになってきたことが大きなきっかけである、というのが本書での見方だ。インターネットでの短絡的な知識と読書によって得られる体系的な知識は遠く、そして現代では前者に慣れてしまい、後者のノイズまみれの読書に耐えがたい、というのだ。本を読まずにネタバレを見てしまうのも、内容という情報を「知る」ことに重きが置かれているためだ。自分の興味のあるもの以外がノイズに思える。社会からどんどん離れ、個人に偏っていくことがこういうところに表れる。
「本が読めない」というのは、ただ時間がないとか疲れているとか、それだけのことではない。「自分」以外と関わっていけるかどうか、偶発的な知に触れる余力があるか。労働での自己実現が望まれる世の中で、労働以外の自己を持てるかどうか。そんな様々な原因を抱えているのだろう。

竹内のおすすめビジネス書
『灘校 なぜ「日本一」であり続けるのか』橘木俊詔

 ここ最近古めの本ばかりのチョイスで申し訳ない。志高塾の生徒を通して見てきた「灘」を詳しく知るべき、と思って、2010年出版のものではあるが手に取ってみた。
 毎年多数の東大合格者数を叩き出しているが、東大志向であることが灘の特徴である。近年では西大和学園も高い実績を上げているが、その他の関西の学校では京大への合格者数が東大のそれを上回っている。戦後の学制改革によって6-3-3-4制が敷かれ、旧制中学が3年間の新制高校に移管されたのに伴い、新制中学校が誕生した。それによって公立の旧制中学は中学・高校が別々となったのに対し、私立の場合は中高6年間の一貫教育の形を取ることができた。また、学区の指定もないことによってより広範囲から優秀な生徒を集めることができたことも灘を名門校へと押し上げた。トップ層が関西各地からやってくることで、日本のトップを目指すという風土が確立されていったといえる。また、阪神間は関西以外からの転入も少なくないことから、反対に関西を離れるということへの抵抗が小さいというのもあるだろう。
 昨今珍しいことでは無いのだろうが、中高6年の一貫校であることのみならず、学年団の教師陣が6年変わらないということが灘の大きな強み、魅力であると思っている。3年かけて『銀の匙』を読むという有名な授業をはじめとして、各教員の裁量で、また長期的な計画のもとで指導がなされている。そこには相当な準備があるのはもちろんのこと、いかに充実した学びを提供するかという教師の工夫が詰まっている。本書の内容からは離れるが、灘の国語担当教師の取材記事があったので共有する(https://www.sankei.com/article/20240809-EZWDAZWXPZNTPPPDH4UKUKZD3U/?outputType=theme_nyushi)。
 著者は本書の中で、今後の日本が徐々に学歴重視の程度を弱めていくことを予想している。この時点で既に東大生の官僚志向は薄れており、また各大学の就職支援はかなり手厚くなってきていることからも、学歴のみで社会での活躍の可能性を測れるわけではないことは明白である。だからこそ、学歴を得るためだけの学習に留まらない学びを届けることが大切なのだと考えさせられた。

2024.11.15Vol.40 「できる」の限界(三浦)

 エスカレーターの正しい乗り方は、アナウンスでも流れているように「二列に並んで立ち止まって」乗ることだ。だが、それを守っている人はそういない。「関東は左に立ち、関西は右に立つ」という地域差すら有名になってしまうほどに、皆、歩く列と立ち止まる列に分かれることが当然のようになってしまっている。
 随分前にテレビで見かけたのだが、歩く列と立ち止まる列に分かれるよりも、二列で立ち止まって乗った方が、全員が移動し終わるまでにかかる時間は短いそうだ。だが、理屈の上ではわかっていても、それを実行するのは難しい。自分ひとりの問題ではなく、周囲へ強制することもセットになってしまうからだ。例え立ち止まる気が満々だったとしても、後ろの人からの視線を感じると竦んでしまうのではないだろうか。私は実際にそうだ。何度も「これは立ち止まるのが正しい乗り方なんだ」と自分に言い聞かせても、左側の人波に流されるまま歩いて降りていってしまう。その途中で立ち止まれたことはない。
 ずっとそれが引っかかっていたのだが、以前ふと、名古屋で取り組みをしているという情報を耳にした。エスカレーターの片側に、立ち止まるように促す大きなマークを背負った人が乗っている画像を見かけたことがきっかけだ。改めて調べてみると、名古屋ではエスカレーターを歩くことを禁止する条例が去年から施行されており、その取り組みの一環である「なごやか立ち止まり隊」の働きのようだ。それを見たとき、なんだかとても腑に落ちたことを覚えている。結局のところ、自分が立ち止まれないのは「ひとり」かつ「個人」だからだ。重複しているようだが少し違う。単独ではなく複数人で行えば反感を買ってトラブルに巻き込まれる可能性も減るだろうし、それが公的な機関による活動の一環であるのなら尚更だ。
https://www.city.nagoya.jp/sportsshimin/page/0000162248.html
 上記のような物理的なものだけでなく、AIによって音声を流すという取り組みもあるようだ。自動で流れ続けるアナウンスとは違って、センサーによって歩いている人を検知した場合にのみ、立ち止まるように指示をするのだそうだ。もちろんAIなので人ではないことは百も承知で(聞いているだけではわからないのかもしれない)、けれども、そうやってリアルタイムで対応をされることで、より明らかに「自分に言われている」と感じられるのだろう。
https://www.nhk.or.jp/nagoya/lreport/article/006/15/
 他にも、そもそも立ち止まれないように一人分の幅にするとか、色々な対策が見込めるだろう。けれどもそれらは結局のところ、「自分」だけでは変えられないものだ。教室では『資料読解』という、時事問題に関するグラフを読み解き問いに答える教材があるのだが、現在は全体的な教材自体の見直しを行っているところだ。現代社会に合わせたアップデートをかけることはもちろん、「自分に出来ること」を考えて終わらないようにすることを意識している。
 以前までの教材では、エネルギー問題や地球温暖化などについて、まず自分にも取り組めることを考えるように促していた。それが無意味だとは全く思わないし、規模の大きな話を「自分」に落とし込むには必要ではある。しかし、規模の大きな話は「自分」ひとりの力で変えることはできない。どれだけ一人が節電しようが世界に大きな影響は与えられないのが現実だし、「だからみんなに節電を呼びかける」というのもいささか現実的ではない。仮に一時的には効果があったとしても、続くとは思えない。もちろん、だからといって自分ではどうしようもないからと諦めてしまうのは本末転倒なので、バランスの取りどころである。
 だからこそ、そもそもの仕組みや背景を知る、それをしっかり落とし込むことを主軸として切り替えていくことにした。そして、自分という枠にとらわれずに、けれども他人事として済ませずに、「こうしたらいいのではないか」と色々と考えられるようになってほしいという願いを込めている。

2024.11.09vol.39 経験の使い方(竹内)

 まず初めに、この文章をご覧になっている皆様へ。更新の遅れや順番の変更といった不誠実が続き、申し訳ございません。そのうえで、今回のものに関しても日を跨いでの更新となってしまっていること、重ねてお詫び申し上げます。この「志同く」は、志高塾がどのような教室であるか、そこで授業をしている講師がどのような者であるか、それらを知っていただくための一つの場所です。そしてそれは予定通りの金曜日にお届けするからこそ、正しく伝わるものになります。そのことを胸に刻み、一つひとつを積み上げてまいります。

 休日にぼちぼちと車の運転を練習している。死角が存在することを認識し、周辺への注意を常に払いながら、近くにも遠くにも目を向ける。こんなのは熟練ドライバーの方からすればもはや体に染みついているレベルのことであろう。人に乗せてもらうときにはただただ気楽に座っているだけだったが、運転する側の目の動きがどれだけ忙しいかを毎回実感している。長距離運転をすることによる疲れや、横断歩道のないところで急に渡ってくる歩行者の恐怖など、これまでもずっと想像できていたとは思うが、「実感」との間には隔たりがあったと気付かされる。時間は有限で、何でもかんでも経験できるわけではないし、ということは全てを「分かる」ことはやはり難しいのだが、でもだからこそ、できる経験はすべきだという考えに至っている。また、想像と実感とに隔たりがあるということは、前者の力をいかに豊かにしていくかが肝要であるということでもある。
 少し違う方向に話が転がりそうだったので早めに戻す。免許を取得した時点では、「家族に緊急事態が発生した時に、近くにいる自分がすぐに動けるように」というそれはそれは殊勝な思いを持っていた。が、家の状況もやや変わり、私がいち早く出張る必要もなくなった。そんなわけで、練習が目的ではなくて別の理由で実家に帰ることがあった時についでに乗っておくか、という向き合い方になってしまっている。目標を見失っているのだ。実際に、合宿所で仲良くなった女性は、駅からやや離れたところが新しい転職先になったこともあり、スムーズな通勤が可能になるようにほぼ毎日練習していたそうだ。朝の時間帯は混雑もするので、日々鍛えられているはずである。一方の自分は現時点で機会が少ないうえに、不慣れであるゆえの操作のぎこちなさも残っているので、やる気よりも「事故でもしたらどうしよう」の不安の方が上回っていってしまう。それを乗り越えるためには、「でも、こうならないといけないんだ」を自分の中に持つしかない。私の場合のそれは「自分の運転で姪っ子と甥っ子を須磨のシーワールドに連れていく」になる。
 まだすべての親御様とのそれを終えたわけではないが、今回の面談では、よく「より先」のことを話した。特に中学受験や高校受験において、志望校に合格することと共に、入学後の生活を充実させることもその子にとって欠かせないことである。ある6年生の男の子は、AとBの2校のうち、その時点での成績ではBは十分に狙えるがAはまだ不透明という状況だったため、Bを第一志望に据えるかという話が一旦出た。しかし、Aを一緒に目指している友人たちの個性が豊かで面白い=そういう子たちがより多く集まるところに進みたいという強い意志のもと、Aを第一志望として走り切ることになった。
 この春から通塾を開始した中3の女の子がいる。バレーボール部に所属しており、7月末に引退するまでは練習や試合の都合で授業を変更することがそれなりにあった。今回の面談は体験授業ぶりにお母様とお話しする機会となり、彼女について色々なことを教えていただけた。特に印象的だったのは、中学でレギュラーメンバーではなかったものの、希望する高校に入学後もバレーを続けたいという意欲を持っていることである。夏休み中の授業時に引退式が行われることを楽しそうに話していたこともあり、中心に立ってやり切ったという達成感があったのだろうという先入観を持ってしまっていた。試合に出られないことが多いと面白くないので、高校では違う部活にしよう、となることはきっと珍しくないはずである。
 しかし、私自身、中学でソフトボール部に所属しており、高校に進学してからもそれを続けた。めちゃくちゃへたくそだったので、中学の間は何もできなかった。振ってしまうとバットにボールがかすらないのでバントするのだが、見切るのが早くてそれも空振り。監督はさぞかし困っただろう。でも、高校ではもう少しできる気がした。実際に、やっとこなした数が見合ってきたのか長打を含むヒットが出るようになって、試合に出られることが増えた。だから、彼女のその選択は、ある時に「こういうことか」になる瞬間を生み出す布石になるかもしれない。そんな思いを込めて、自分の話をした。
 なお、優良ドライバーになるためにまだまだ数が必要なことは、感覚ですでに分かる。

2024.11.01Vol.38 自分の形は削らない(徳野)

 先日、新聞からふいに顔を上げた父が「『とうい』の反対が『存在』なの?」と尋ねてきた。しかし、私は「とうい」が何のことか分からなかったので、恥ずかしながら逆に教えてもらう運びとなった。
 漢字に直すと「当為」となる。漢文風にすると「当(まさ)に為すべし」であり、「なすべきこと、あるべきこと」という意味の哲学用語だ。一方で、「存在」はほぼそのまま「あること」なのに加え、「あらざるをえないこと」を指す「自然必然性」の概念も「当為」の対義語である。より分かりやすくまとめると、世の中には「理想主義」対「現実主義」という構造があるということだ。それだけだったら至極当たり前のことを小難しく説明しているだけなのだが、父が興味を持った新聞コラムによると、石破茂首相の政治観を一言で表すと「当為」らしい。例えば、今年の自由民主党総裁選において論点になっていた衆議院解散の時期について、当時の石破氏は「自民党の都合だけで勝手に決めてはいけない。政治情勢をあわせて考えないと『今すぐやります』という話にはならない」と正論を述べながら慎重な姿勢を見せていた。また、「野党との討論を踏まえて国民の皆様に選挙で判断していただくべきだから」というのも理由として挙げていた。その頃は非主流派だからこそ派閥問題で揺れる党に刷新感をもたらすことを期待されていた。ちなみに、対極の「存在」を体現しているのは、今は亡き安倍晋三氏とのことだ。実際の文章を読まずに関西に戻ったものの、その鮮やかな対比関係に思わず唸ってしまった。
 さて、10月1日付で内閣総理大臣に就任した石破氏だが、さっそく「存在」と「自然必然性」に苦しめられているような印象を受ける。求心力の弱さを不安視する声は常に上がっており、長年の悲願を達成したとしても党内融和のために総裁選での主張をひっくり返すような決断をせざるをえない事態を予想していた人は以前からいたはずだ。しかしながら、あまりにもタイミングが早すぎた。それが地位を得ることの条件だったのではないかと疑ってしまうスピード感で解散を決行し、総裁選で(いちおう)争点の1つになっていた政策活動費の扱いについても優柔不断に対応したことは、今回の選挙結果に少なからぬ影響を与えたに違いない。そして何より、「裏切り者」と呼ばれても仕方ないほどの方針転換をしたにも関わらず、組織内での評価が悪化の一途を辿っている現状に哀愁を感じる。ご本人は周囲に「選挙が終わったら自分がやりたいようにする」と漏らしていた、という噂をネットニュースで見かけたが、本心では「変わりたくないのに変わらざるをえない」という心境なのだろうか。
 現首相が直面している苦境に関する報道に触れているうちに、ふと蘇ってきたのが三島由紀夫の代表作『金閣寺』内の一場面だ。主人公である修行僧の溝口とその数少ない友人である柏木が決別する様を描いているのだが、前者は吃音、後者は内反足(足の先天的な形態異常のこと)という風に症状こそ違えど、ふたりとも障害を抱えながら生きてきた大学生である。だが、両者の価値観は真逆と言ってもいい。
溝口は円滑なコミュニケーションが困難なせいで嘲笑を受け続けるうちに、他者、特に異性との接触を恐れる若者に育った。もうひとりの友人である鶴川の健全な心身に憧れつつ、彼の鈍感さ単純さを密かに軽蔑することで精神の安定を保っている節がある。一方で、自分だけの世界に閉じこもりながらも孤独感に苦しみ、誰かに理解してもらいたいという悲痛な願いも根底に抱えている。そんな彼にとって金閣寺は完璧な「美」の具現化であると同時に、醜い自身の劣等感を刺激してくる両面的な存在だった。そして、溝口は次のような結論に至る。「自分を魅了し苦悩させる金閣を燃やすという『行為』によって、これまでの人生から解放されるのではないだろうか」。
 そんな中で、鶴川は恋愛での絶望感をきっかけに自ら命を絶ち、彼の遺書を柏木が溝口に手渡しに来た。溝口の目には鶴川が明朗で前途洋々たる美青年としか映っていなかったため、その唐突な死は動揺をもたらした。そして、衝撃を受けている溝口を前に柏木は口火を切った。

柏木:「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。」
溝口:「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。」

 現実的には「認識」と「行為」は綺麗な二項対立に落とし込めるようなものではないだろうが、上記のやり取りからは、困難にぶつかった時に「まず自分が変わるか、もしくは他者(そこには人間に限らず、物質や環境も含まれている)を変えようとするか」という命題が浮かび上がってくる。しかしながら、後者の立場を取る溝口が破滅的な末路を辿ったことを考えると、やはり柏木の方に軍配を上げざるをえないだろう。高い知性を持つ柏木は自らのハンディキャップを、他者の同情心を刺激する「道具」として扱い、社会的地位も気位も高い女性を手玉に取ることまでやってのける。女性関係に奔放な分、人脈は広く文化的な素養も持ち合わせており、嫌味に満ちた言動を繰り返しながらも社交的な印象も与える。全く褒められた人物ではないのだが、身近な人間を冷静に観察し、何より自分自身のコンプレックスに対する捉え方を転換させることで生き方を確立してきた。だから、自分と似た境遇の溝口に鶴川の実情を知らせることを通して「視野を広げて自己憐憫をやめろ」と真剣に諭したのだ。だが、柏木の大上段に構えたような物言いは反発心を招き、溝口の凶行を止めるには至らなかったのだが。
 「自分らしさ」と「集団・社会の論理」の間で葛藤する時、泣いたり暴れたりするなどの破壊的な「行為」によって都合の良い状況を作り出そうとする子どもは少なくないが、年齢を重ねるにつれ通用しなくなることを本人も学んでいく。そして、ある程度成熟してくると、今度は組織に迎合するか否かの選択を己に迫るようになり、集団内の常識と足並みを揃えようとすることを「認識」の変化とみなすこともできるかもしれない。ただ、石破首相の現状を見るに、周囲に合わせて行動するだけで事が必ず上手く運ぶわけではない。まず必要なのは、今の自分を悩ませている「思い込み」に気づくことではないだろうか。それは、『金閣寺』の柏木にとっての「内反足があっては女性と交流できない」という諦念であり、石破氏にとっての「自分自身の方針では自民党に十分な利益をもたらせない」という自虐感情である。しかしながら、その時々の情勢や周囲にいる人々の心情を分析してみる中で、負の要素だとばかり思っていた自分の特性を「武器」にする可能性を発見することもあるのだ。それこそが、本当の意味で「認識」が世界を変貌させる瞬間なのだろう。

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