
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.10.03Vol.71 私は「白」が好き(徳野)
27年間生きてようやく、博物館が苦手なのだと気づいた。だから何なのだ、となるだろうが、私は以前は美術系の学芸員を目指していたくらいなので、「ミュージアム」に分類される施設なら全般を好んでいるはずだった。しかし、どうやら違うらしいと自覚したのは今年の4月、東京の国立科学博物館でのことだ。上野本館の1階にある「地球の多様な生き物たち」のコーナーで過ごすうちに、「どうでもいいや」という無関心が脳内にじわじわと広がっていった。実際に行ったことがある人なら分かるだろうが、件のコーナーはワンフロア全体を使っての壮大な展示であり、足を踏み入れた瞬間に誰もが感嘆の声を上げてしまうような緻密な構成となっている。また、キリンの気管と食道やら、「鼠算」の由来を再認識できるハツカネズミの胎盤やら、とぐろを巻く寄生虫やら、思い出すだけで食欲が減退する刺激的な標本の数々には見入ってしまった。特にネズミに関しては、同日の上野動物園でハダカデバネズミ(名前の通り体毛が退化している)の大所帯ぶりに面食らったばかりだったので、その旺盛な繁殖力のメカニズムを視覚的に理解できるのが興味深かった。そういった印象に残った物はいくつか挙げられる。なのに、訪問によって得た一番の発見は、「博物館、好きじゃない・・・」である。我ながら身も蓋もなさすぎる。
ただ、「嫌い」でもなければ「しょうもない」と思っているわけでもない。そこは強調しておきたい。どんなに小規模な展示であったとしても、そこに関わる人々が様々な意図や想いを込めている背景を、大学の学芸員養成講座で教えられたからだ。では、美術展では味わった記憶の無い、あの投げやりな疲労感の正体は何なのだろうか。
時は少し進んで、9月末の休暇でのこと。2泊3日の福岡旅行のスケジュールに福岡市博物館を組み込んだ。別にマゾ気質があるわけない(はず)。最初は市立美術館の方に興味を持ちつつお出かけスポットを調べていたところ、社会科の教科書でお馴染みの「漢委奴国王」の金印を所有している博物館を見つけたからだ。それに、所蔵品の大半は歴史関連の資料なのに加え、キャプションが独特で面白いという口コミも貰った。自然科学専門の所よりも個人的に楽しめるであろうし、もしかしたら、冒頭で述べた苦手意識への解像度が上がるかもしれない。そんな小さな目標めいたものを胸に、現地で目的地へと続く「サザエさんロード」を歩いた。
結果としては、常設展示の後半部分は足早に済ませてしまった。政令指定都市の歴史を全て詰め込みました、という様相だったので、たった1日で味わい尽くそうという姿勢が無謀だったとは分かっている。それは国立科学博物館に対しても同じだ。そこを承知で改めて気づいたことを述べると、体系立って理路整然と説明し尽くされた膨大な情報を前にすると「脳の身動きが取れなくなる」感覚に陥ってしまう。だから「好きではない」のだ。
しかし、金印はやはり違った。国宝とだけあって、専用の小部屋にて常設展示室の頭を飾っていた。皇帝からの贈呈品として堂々たる存在感を放っていると想定していたのだが、正直なところ拍子抜けしてしまった。なぜならば、実物は一辺2.3センチメートル、高さ2.2センチメートルと、非常にちんまりとしていたからだ。最初に対面した時はチロルチョコ程度の大きさに感じたが、調べてみたところさらに小さかった。10円玉と同じくらいらしい。要は指でつまんで使う印章としては利に適ったサイズだ。ただし、鑑賞者の目には優しくない。幸い周りに人がいなかったので、ガラスケースに鼻を付ける勢いで細部に目を凝らしてしまった。それだけ見つめても、つまみの部分が何の意匠なのか見当がつかない。写真でしか知らなかった頃はちょうど良い形の金塊を接ぎ合わせただけと決めつけていたが、実際はそれなりに手の込んだ加工が施されている。結局、自力での識別は難しかったため、キャプションに頼ったところ、「とぐろを巻いた蛇をモチーフにしている」とあった。「いや、絶対にそうは見えへんって!」と心の中でつっこみつつ、人間から基本的に嫌われている動物をかたどった品物を授けたという行為に戸惑った。その後、より詳しい解説コーナーに移った。それによると、同時代の後漢は色々な地域に主従関係の証として印を贈っており、文化的特徴が自分たちと近い民族には亀の、北方の遊牧民にはラクダの形をした物を、という風に分類していたとされる。亀とラクダは理解できる。では、我が国はなぜ蛇なのか。疑問の答えは解説パネルからは得られなかった。それも相まって、1世紀当時の先進国から見れば、倭人は野蛮で重要度の低い連中だから危険生物がその象徴に用いられたのだろうか、などと卑屈な妄想が膨らんだ。良くない深みにはまりそうだったので、退館後に「Google先生」ならぬ「Gemini先生」に質問をぶつけてみた。以下が会話内容である。
私:
亀、駱駝、蛇では、生き物のランクが違うと いうこと?
Gemini:
亀、駱駝、蛇の生き物としてのランクというよりは、与える相手の属性(地域)を象徴するものとして使い分けられていた、と考えるのが適切です。
当時の中国(漢王朝)は、自国を中心とした「華夷秩序(かいちつじょ)」という世界観を持っていました。これは、中国が世界の中心(華)であり、その周辺にいる異民族(夷)は文化的に劣っている、という考え方です。
この秩序の中で、印章の持ち手(鈕)は、与える相手が華夷秩序の中のどの位置にいるかを示す記号でした。
(中略)
• 蛇鈕
南方の異民族に与えられました。
蛇は、当時の中国では南方の湿潤な気候と結びつけられ、その地域に住む民族の象徴とされました。
日本の「漢委奴国王印」の鈕が蛇であるのは、後漢王朝が倭(日本)を南方の異民族と見なしていたことを示しています。
このように、それぞれの生き物の意匠は、単純な「ランク」の上下ではなく、「文化圏」や「地域」を分類するための記号として機能していたのです。
私:
ありがとう。なんで蛇みたいな嫌われがちな生き物がモチーフなのかが気になっていたんだよね。
Gemini:
当時の中国における「蛇」の象徴は、日本や現代のイメージとは少し異なっていました。
後漢時代の中国では、蛇は以下のような意味合いを持つ生き物として認識されていたと考えられます。
• 龍の原型・神聖な存在: 中国の神話では、蛇は神聖な生き物である「龍」の原型と考えられています。「伏羲(ふっき)」や「女媧(じょか)」といった古代の神々は、人間の顔と蛇の体を持つ姿で描かれることがあり、彼らは宇宙を創造したり、人類を創生したと信じられていました。つまり、蛇は単なる動物ではなく、神秘的で力を持った存在として崇拝されていた面もあったのです。
• 再生・生命力の象徴: 蛇は脱皮を繰り返すことから、「再生」や「不死」の象徴とされていました。また、その生命力の強さから、豊穣や繁栄といった意味合いも持っていました。
AIに回答をもらったのを機に、諸星大二郎の漫画『暗黒神話』を思い出した。古代史を題材にしたファンタジー作品であり、1970年代の日本で暮らす主人公の少年はヤマトタケルの生まれ変わりで、果てには宇宙の真理に迫る選ばれしアートマンになる宿命を負った中学生だ。(ちなみに私は本作を3回ほど読んでアニメ版も観たものの、今だに物語の意味を理解しきれていない。)彼の肩には蛇に似た形の傷跡があり、それが、永遠を生きる神に近しい存在である証の「聖痕」なのだ。また、作中には現実世界では発見されていない、邪馬台国の卑弥呼が授けられたとされる「親魏倭王」の金印もキーアイテムとして登場する。熱が入ってしまったが、ここで大事なのは漫画の内容ではなく、金印一つに好奇心や想像力、記憶を刺激された事実である。そして、自分の好きな漫画家が構想を練る上で思い浮かべた可能性がある諸々を、ほんの一片だけでも追体験できたかもしれないのが嬉しかったのだ。そういった際限なく広がっていく思考や妄想は、古代の遺物が孕んだ未解明の点と、博物館での解説が拾い上げていない疑問による産物だろう。言い換えれば、「余白」もしくは「空白」部分によるものだ。だから、私は美術館の方に惹かれるのだろう。そう考えると、着眼すべき点を提示しつつ、来場者のために自由度を確保できるような「余白」を見極めるのが学芸員の腕の見せ所なのだと改めて実感させられる。
さて、博物館が苦手な理由を少しは認識できたわけだが、今後も訪問じたいを止めるつもりは無い。旅先にあれば門をくぐってみる、くらいの頻度で、ネズミの胎盤や金印のような「お土産」を一つ持ち帰れたら良しとしよう。