
2026.06.09Vol.737 満を持して「ファイルの法則」
授業の際に生徒が持って来るのは、ファイル、教室で借りた本、筆記用具の3つ。ファイルにはそれまで取り組んだ作文、読解問題、それにこちらか配布する月間報告などが挟まれている。
作文1つにつき、その中で書けなかったものをピックアップして大抵は3つほど漢字の練習をさせる。2つ目の要約作文教材である『ロダンのココロ』では、「勘違い」や「縁側」というのが何度も出てくる。ある程度ページが進んでいるにも関わらず、それらがまだ平仮名になっていれば、「これまで何度か練習してるやろ?」と尋ねることがある。「してない」と返ってくれば、「ほんまか?」と言いながらファイルを調べる。その結果、「おい、何回もやってるやんけ」となれば、通常3回のところを5回や10回書かせることもある。また、特に入塾して間もない生徒の場合、2, 3か月前のものを確認して、「随分と添削が入らなくなった」、「見直しでだいぶ自ら修正が入るようになった」などの成長を感じ取るために利用することもある。小学生の頃はほぼすべての生徒が持って来るのだが、中高生になると一気に忘れる生徒が増える。正確には忘れているのではなく、意図的にそうしている。確かに、小学生の頃のように我々が見返すことはほとんどなく、書き掛けの作文はこちらで預かるし、月間報告など手紙関連のものもクリアファイルを使えば事足りる。それゆえ、「ちゃんと持ってこい」とうるさく言うことは無いのだが、ある日、灘に通う生徒が学校や塾のテキストでいっぱいになった鞄から何食わぬ顔でファイルを取り出すのを見て、「あれっ?」となった。逆に、その少し前に、おそらくすべて学校に置きっぱなしにして、勉強関連の物が何も入っていない高校生が持って来ていなかったからだ。その灘の生徒は、「卒業生の声」にも載っている中森君だ。そのとき、高校の先輩にあたる現役で東大医学部合格した生徒も同じだったとことを思い出した。2人はいわゆるガリ勉タイプでは無く、中学時代は共にテニスにのめり込んでいたので成績もそこまで良くなった。鞄は重く、志高塾でファイルを使うことはほとんどない。「じゃあ、いらへんか」となってしかるべきなのに、要領の良い彼らがそのような判断をしないことはすごく不思議であった。特別難解なことについて考えるわけではないこともあり、大抵のことはその場で疑問は解消されるのだが、これに関してはしばらく頭の中で宙ぶらりんのままであった。そして、ある瞬間納得の行く答えを見つけられた。ある生徒に「〇〇出して」と伝えたときに、「忘れました」と返って来たので、「じゃあ、□□は?」と尋ねると、「それも持って来てません」となったときに、「あっ、そういうことか」となった。
お分かりだろうか。灘の2人は、必要なときに困らないように準備をしているのだ。それゆえ、確実に要らないもの以外は鞄に入れている。ここでも何度か述べて来たが、現代版の「コスパ」、「タイパ」という考えが好きではない。効率性を重視することは本来悪いことではないのだが、短期的な視点しかないことが問題ないのだ。「確実に要らないもの以外は鞄に入れる」と対になるのは「確実に要るもの以外は鞄に入れない」という考えである。「確実に要るもの」以外を「要らないもの」と判断する思考は非常に危険である。そんなことに思いを巡らせていたら、昨日の朝、教室に向かう電車の中で読んでいた塩田武士著『存在のすべてを』の中で次のような一節に出くわした。「当初は計画のバカバカしさに自分でも呆れていたが、今は違う。無駄と無意味との間にある本質的な差が見えるようになってきたから―。」。
小学生が「先生、こんなん意味ないやん」と漏らすことがある。それに対して、いかにそれが価値あることかを論理的に説明することは無い。そのようなものを求めているわけではなく、自分がそれをしたくない理由として「意味がない」と切り捨てているだけだからだ。そんなとき私は「意味があるかないかの判断をできるだけの材料なんて持ってへんねんから、ぐちゃぐちゃ言わずにやれ」と伝えて終わりである。いつの頃からか「子供と同じ目線で」、「子供が納得するように」ということに重きが置かれ過ぎる世の中になってしまった。もちろん、そういうことが必要なときもあるが、私に言わせれば非常にまれである。「ぐちゃぐちゃ言わずにやれ」と一方的に上から押さえ付けるからには、それ相応の責任が生じる。それは、彼らが後から振り返ったときに「松蔭先生が言っていたことの中には間違いもあったけど、おおよそ正しかった」となるようにしなければいけない、ということである。私という一個人が認められるかはどうでも良い。「意味が無さそう」、「めんどくさそう」という理由で切り捨てようとしたことをやってみたら面白かったり、自分を成長させてくれたりすることが意外とあるいうことを経験的に知ることこそが彼らの未来にとって大事なのだ。それがあれば、「コスパ」、「タイパ」に惑わされることなく、適切な選択ができる可能性が高まるからだ。
昨日の帰り道、先の小説の中で次のような一文に出会った。「情熱と非効率は親和性が高い」情熱もないのにうまくやろうとするから結果が出ないのだ。だからと言って、ただがむしゃらにやるのもそれはそれで違う。まずは心を動かす。次に体を動かす。その上できちんと頭が働いているかを確認する。心と体を動かす順番が逆になることはある。頭が先頭に来たとき、得られる結果はきっと想定の範囲内に留まるのであろう。








