
2026.10.20Vol.755 To put yourself in someone’s shoes
他人の靴を履いてみる。一流ではなくても、それなりに経験がある靴職人であれば靴底のすり減り方を含め、履き慣れた靴を見れば、その人の歩き方の癖が分かるのでないだろうか。他人の自転車に乗ってみる、でも良かったかもしれない。子どもの頃、友達の自転車を借りると随分と漕ぎづらさを感じた。一定期間乗りこなしたものであればペダルにその人の癖が顕著に表れるからだ。
ここで、「他人の靴を履いてみる」でググったものをまとめると以下のようになる。
「他人の靴を履いてみる(To put yourself in someone’s shoes)」は、相手の立場に立ってその人の気持ちや事情を想像するという意味の英語の慣用句であり、エンパシー(知的な共感)を表す言葉です。
主な特徴と「シンパシー」との違い
• エンパシー(Empathy / 他者の靴を履く):自分の価値観をいったん横に置き、相手の視点や状況を頭と想像力を使って理解する作業です。
• シンパシー(Sympathy):自然にわき起こる感情的な共感や「かわいそう」「自分もそう思う」といった内側での感情共有のことです。
エンパシーに関する具体例を2つ挙げる。1つ目。子どもの頃、「相手の気持ちを考えなさい」と先生からよく怒られた。大抵は「そんなもん知るか」と、一顧だにしなかった。もめ事を起こした後にそのような説教を受けるわけで、いつも以上に先生の言葉に耳を傾ける気分になどなれなかったからだ。念のために断っておくと、それなりに悪いことはしたが悪質なことはしなかったという自負はある。たとえば、集団で誰かをいじめるということだけは絶対にしなかった。
2つ目は、物語文における「登場人物の立場に立って考えてみる」である。この言葉が響くことも無かった。それもあって、国語はちゃんとできなかった。本文に書かれている状況を踏まえた上で、自分ならこのように考える、ということを説明できているのに、どこがアカンねん、と納得ができなかった。これに関しては、以前にどこかで書いた気がするのだが、日本の国語教育においてルールが途中で変わることに問題がある、というのが現時点での私の見解である。低学年の頃は、教科書に出てくる人物に関してどう思いますかと先生に尋ねられ、手を挙げて「これこれこういう理由でこう思います」と答え、それが一般的なものでなくても論理的でさえあれば「そういう考えもありますね」と一定の評価が得られたのに、点数が付く読解問題に変わった瞬間に受け入れてもらえなくなってしまうのだ。欧米の教育に詳しいわけではないが、きっと彼らは学年が上がるにつれてより論理性を求められるだけで、やること自体は基本的に変わらないのではないだろうか。国語の教育において、日本は途中でベクトルの向き自体が変わるのに対して、欧米では終始一貫して方向は変わらず、それを長くすることが求められるという違いがあるということである。
今回「他人の靴を履いてみる」をテーマにしたのは、この数年、特にスポーツ選手を含め、有名人の立場に立って考えてみることが増えたからだ。何か具体的な目的を持ってそのようなことを始めたわけではない。前々から自分の心の弱さが嫌で、それを少しでも克服したくて、気づけばそういうことを始めていたといった感じである。最近で言えば、大谷翔平がポストシーズンで全然結果が出せなかったのを見ながら、どういう気分なのだろう、ということを想像していた。もっと新しい話で言えば、我が阪神タイガースはシーズンで優勝を飾ったものの、クライマックスシリーズでまさかの4連敗を喫して日本シリーズに進出できなくなってしまった。野球に詳しくない人からすれば、大谷翔平の話も阪神タイガースの話もピンと来ないかもしれないが、要は期待されていたにも関わらず結果を残せなかったということである。昔であれば、負けたことに対して一ファンとして「なんやねん、弱すぎやろ」と怒っていただけだったが、監督や選手はどんな心境なのだろうか、と考えられるようになった。何かしら具体的に、ああかな、こうかな、と掘り下げて行くわけではないので、何となくの域を出ることはない。でも、それで良いのだ。それにより、少しぐらいの嫌なことがあっても、彼らに比べるとこんなこと大したことないわな、となり、自分に起こったネガティブなことを少しでも前向きに捉えられるからだ。
「相手の気持ちを考えなさい」というのは、実際にそのことを求めているのではなく、「悪いことをしたお前は反省しろ」というのを言い換えているだけに過ぎない。そこに、「相手の気持ち考えてみたんですけど、やっぱ俺悪くないです」という余地は残されていない。最近では、空気を読んだ行動をできない人を揶揄するKYというのをあまり耳にしなくなった。程度の問題はあるが、どう行動するかはその人の自由である。ただ、その場にいる人がどのようなことを考えているかは理解できている必要はある。理解した上で振る舞うのと、そういうことを無視した上で好き勝手するのとは全然意味合いが違ってくる。理解するために、「相手の気持ちを考える」ことや、「登場人物の立場に立って考えること」が重要になってくるのだ。そして、それはコミュニケーション力の向上に、ひいては人生を明るくすることにつながる。
話がいつも以上に散らかっているような気がするが、さて、どのようにまとめようか。子どもの頃、説教じみた先生の言葉が腑に落ちることはほとんど無かった。それを聞いたところで、自分に役立つとは思えなかったからだ。逆の立場に立った今、生徒たちのためになる言葉掛けをしてあげたい。たとえ、中身のある言葉であったとしても、生徒たちがこの人の話をちゃんと聞こうという姿勢にならなければ効果はない。そのためには、生徒たちに「相手の気持ちを考える」ことを求めるのではなく、我々が「生徒たちの気持ちを考える」ことをしなくてはいけない。








