
2026.08.25Vol.748 自己肯定感とか
このブログの字数は平均すると2,500前後のはずである。1,500字ぐらいは書けそうなテーマを選び、9割方先にタイトルも付ける。足りない字数を補うために冒頭に余談を持って来ることが多いのだが、ことのほか、そこで筆が進んで予定とまったく違った方向に話が行ってしまったり、ある程度思い通りに進んだ場合でもタイトルを別のものに置き換えたりすることはあるものの、とにかく予めタイトルは決めている。今回は「自己肯定感」に触れようかな、ぐらいの感じでメインとなるテーマも決めず、タイトルも無いままに書き進めてみる。どこに行きつくのであろうか。
最近、塩田武士の小説にはまっている。2か月ぐらい前に本屋で『存在のすべてを』を手に取ったことがきっかけで、来年映画化されるので見に行く予定にしている。次に、グリコ森永事件をモチーフにした『罪の声』に手を付けた。3冊目の『歪んだ波紋』も既に読了し、ただいまデビュー作の『盤上のアルファ』を半分ほど読み終えたところである。そして、購入済みの『崩壊』と『騙し絵の牙』が本棚で出番を待っている。先週、授業中に「俺は推理小説なら松本清張が好き」ということを話していた。それについてはおそらく、内部配布かブログ、いずれかの『志高く』で言及した。生徒にも勧めるのだが、それは、単純に面白いことに加え、今とは時代背景がまったく違うので、推理小説を楽しみながら昔のことを学べるからだ。私の印象に残っているのはアパートの大家の家にだけ電話が引かれていて、住人がそれを使わせてもらう場面だ。記憶は定かではないが、それがトリックに使われている話もあったような気がする。『盤上のアルファ』に次のような一節があった。「多忙な彼が趣味にしているのは、阪神タイガースと読書だった。この出張のために、松本清張の短編集を一冊買っておいたのだ。秋葉は清張作品がかもし出す不安で暗い世界観が好きだった。人間の欲が破滅と直結している物語は、普遍的な面白みがある。」。「秋葉」というのは登場人物の名前である。要は、兵庫出身の塩田武士自身が「阪神タイガース」と「松本清張」が好きということなのであろう。私と波長が合うはずである。松本清張の話をした2, 3日後に上記の一節に出くわした。
高1の二男が、サッカー部で期待したような評価が得られないことに若干のストレスを感じているので、「人の評価なんてそんなもんだから、大事なのはチャンスをもらった時に生かせるかどうかだよ」と諭した。そのような話は、二男のサッカーのことに限らず息子たちには何度かしている。入部してからまだ4か月ほどしか経っておらず、顧問の先生は2年生を中心に見ているので、1年生まで目が行き届いていないのだ。これまでに何試合か見に行ったが良いプレーをしていた。親の欲目もあるだろうが、それを差し引いてももっと評価されても良いというのが私の見立てだ。もちろん課題もあるのでそれを伝えた上で、出番が回って来たときに一発でつかみ取れるように準備をしておかないといけない、ということを伝えている。強引に話をつなげるわけではないが、塩田武士にしても、1冊目が面白くなかったら2冊目を買うことは無かっただろう。2冊目の途中ぐらいで、「この人の本は間違いない」となり、一気に注文した。
さて、「自己肯定感」。少し前にそれについて語るイチローの動画が流れて来た。「高い方が良いって言うのかな、どうなんやろ」と思いながら聞き始めた。結論としては、「自己肯定感が高い人というのは努力をしないから成長しない」という内容であった。納得である。「自己肯定感」に限らず、言葉は定義の仕方によってその意味するところが変わってくるので、当然のことながらその人がどのような意味合いで使っているのかをきちんと理解していなければならない。有名人が意見の切り取りに対して腹を立てていることがある。そのほとんどが文脈から切り離されていることが原因なのだが、切り捨てられた中に言葉の定義に関する内容が含まれているのだ。数日前に、最近テレビで見ることがほとんどなくなった歌手が20年前ぐらいのヒット曲を歌っていた。それを見ながら、こうはなりたくないな、と考えていた。その歌手のことを批判したいわけではない。「自己肯定感」には、過去、現在、未来がある。新曲ではなく昔のものだけを求められるというのは、現在は否定され、過去の自分が肯定されていると解釈することができる。イチローは現在の自分を肯定することを戒めている。大事なのは、未来の自分を肯定したい、未来の自己肯定感を高めたい、という気持ちなのではないだろうか。私は、よく自信家だと勘違いされるのだが、まったく持ってそんなことはない。自信とは、自らを信じることだと捉えることができる。では、何を信じるのか。「自分はやったらできるようになるはずだ」という自分に対する信頼だ。目の前の課題に対して、「できる気がしない」となるのは、「やってもできるようになる気がしない」ではなく、「頑張り切れる気がしない」という場合がほとんどなのではないだろうか。「自己肯定感」とか「自信」について生徒たちに話すとき、ものすごい説得力のある例がある。「あのな、大谷翔平ですら過去なんて振り返らずに、今できていないことがどうやったらできるようになるかを考えながら日々練習しているのに、俺らぐらいのレベルで今の自分を肯定するとかおかしいねん」。大谷翔平とは、能力の差よりも、「自分はやったらできるようになる」ということに対する自信の開きの方が断然大きい気がする。やり抜いたけど結果出ませんでした、という人に私自身は出会ったことが無い。仮にそういう人がいたとしても、その人は別の分野でそれなりに納得の行く結果を出すのではないだろうか。
2026.08.18Vol.747 非日常の空気
「非日常」と「旅」の結びつきは強い。東京大阪間を移動する場合、飛行機と新幹線のどちらを選ぶ人の方が多いのだろうか。料金とトータルの時間に大差がないことが議論の対象になる理由である。私の場合、父が航空会社に勤務していたこともあり迷うことなく飛行機派である。最終便以降の時間帯に移動しないといけないときは仕方なく新幹線を利用するが、2時間以上電車の中に閉じ込められることに未だに慣れていない。また、志高塾を始めてからのこの20年間は仕事と切り離されているので、子どもの頃の「飛行機に乗る=どこか遠くに遊びに行く」というワクワク感が今もどこかに残っているのかもしれない。そのワクワク感は、陸地を移動したわけではないので不連続でありワープしたような錯覚を与えてくれることと無関係ではない。目的地の空港に降り立ち飛行機から一歩外に出ると、国内でも沖縄などであれば空気の違いを感じる。それは湿度とにおいの影響が大きい。ただ、今回のタイトルにある「空気」は、人が醸し出す雰囲気のことを指している。
1993年にJリーグが始まって以来、地元のガンバ大阪を応援し続けている。そのガンバ大阪に加えて、父の会社がスポンサーをしていたこともあり、1番とは大きな差はあるものの清水エスパルスは2番目に好きなチームであった。大学生の頃のことなので25年以上も前の話になるが、静岡県に遊びに行った際に、清水エスパルスのホームスタジアムである日本平を訪れた。同じ日本であるにも関わらず全然雰囲気が違うのだ。それは、サポーターの年齢層が明らかに高く、おじいちゃん、おばあちゃんが多かったからだ。サッカーが文化として根付いていたのだ。Jリーグが発足して10年も経っていなかったこともあり、他の地域ではまだにわかファンが多かった。ちなみに、「サッカーどころ」とググってみると、Geminiによる概要は以下の通りであった。「日本で『サッカーどころ(サッカー王国)』といえば、歴史的・文化的にサッカーが深く根付いている静岡県(特に旧清水市や藤枝市などの中西部地域)が最も有名です。また、近年ではJリーグクラブが多く強豪が揃う神奈川県などもサッカーが盛んな地域として知られています。」。ここでも私の文と同様に、「文化」に加え、「根付いている」という表現が使われているのは面白い。
日常の中に組み込まれたサッカーですら上のように感じることがあるぐらいなので、縁遠い音楽となると強い刺激として入って来る。そうすれば頭は勝手に回り始める。春休みにイギリスとアイスランドを旅行した際に、二男が車の中でかけていたことがきっかけで川崎鷹也というシンガーソングライターを知り、5月に大阪城ホールと武道館に1回ずつ足を運んだ。コンサート自体20年ぶりぐらいのことだったので新鮮であるのはある種当たり前なのだが、駅からホールまでの道のりがもう非日常なのだ。タオルやTシャツなどのグッズをまとった人たちが溢れかえっていて、場違いなところに来たような感覚を覚えた。上で「強い刺激」と書いたが、身近なところに自分の知らない世界が普通に存在していて、そういうものを日頃意識せずに生きているということを経験的に知ることを指している。仕事柄、そういう刺激を絶えず自らに与え続けておかないと、生徒たちに知ることの、考えることの面白さを伝えられない。
縦に深さ、横に広さを取ったとき、縦×横の長方形の面積が大きいほど興味深い話ができる可能性は高まる。私は一つのことを深く掘り下げることが得意なタイプでは無く、典型的な広く浅くのタイプなので、とにかく少しでも広げられるように積極的に未知のことに触れる機会を作る必要があるのだが、自分一人でそのようなものを探してくるのには限界がある。それゆえ、人に勧められたものは積極的に受け入れるようにしている。その一環で、8月9日(日)にザ・シンフォニーホールで行われた『平和コンサート~あの日の事は決して忘れない~』を聴きに行ってきた。高校2年生の生徒がピアノの演奏をするということで、「先生、もし宜しければ」とお母様から声を掛けていただいたからだ。初めに黙とうを行ったのだが、オーケストラの演奏が静かに流れる中でそれをしたのは人生で初めてのことであった。音楽のことなんて何も分かっていないので、「音響が良い気がするけど、それは自分の思い込みなのか」などと考えながら目を瞑っていた。また、生徒の演奏に対しては、「上手だなぁ」とあほみたいな感想しか持つことができなかった。それ以外には、ピアノの前に座り皆の注目を集めている彼女の姿を眺めながら、観客席ではなく舞台の上の人間でいたいな、ということを考えていた。観客席、舞台というのはもちろん比喩である。レストランであれば、料理人が舞台の上の人となる。そこに立つ人だけが得られる緊張感や達成感がある。このブログも私にとっての一つの舞台である。ホールが小さく、観客は少ないかも知れないが、訪れた一人でも多くの方に読んで良かった、と思っていただきたい。そのためには、日常的に非日常の空気に触れておかなければならない。
2026.08.11Vol.746 「資料読解」のその先
主に中学生以上が取り組む「資料読解」というテキストがある。市販で優れたものがあればそれを利用する方が良いのでオリジナルにこだわる必要はどこにもないのだが、ことこの「資料読解」に関しては自前であることに意義を感じている。生徒たちには、「学校の作文は提出したら終わりやけど、『資料読解』は書き上げたところからスタートやからな」と伝えている。その内容について簡単に説明をすると、人口、エネルギー、ゴミなどの社会問題を章ごとに取り扱っている。「そのことに関する知識が無い場合はどうしたら良いの?」という疑問が浮かぶかもしれないが心配無用である。各章の頭で、そのことに関するデータなどを与え、それについて要約することで知識を頭に入れ込んで行き、章の最後でそれまで学んだことを活かして意見を述べる、というような作りになっているからだ。私が子ども時代にそうであったように物を知らない生徒が多すぎるので世の中のことに興味を持って欲しくて、元々は「読売KODOMO新聞」を一面から3ページほど読ませて、その中で気になった記事に関して400字程度の作文をさせていた。より体系的に学べるように、5年ほど前に「資料読解」と名付けて教材を作成し、どんどん手を加えながら今に至っている。上の「書き上げたところからスタート」というのは、そのテーマと真剣に向き合い文章にしたことによって、たとえば、それまではエネルギー関連のニュースが流れていてもまったく気にならなかったのが引っ掛かりを覚えるようになる、ということを意味している。作文は、興味の導火線に火をつける役割を果たすのだ。
100点満点の60点を平均としたとき、教材に限らず服などでも良いのだが、70点のものを見つけるのはそれほど難しくはない。ただ、80点、90点となると探す手間やお金がそれなりに必要になる。「資料読解」を自作することは、好きな言葉ではないがタイパ、コスパが良い。データの鮮度がとても大きなポイントになるからだ。エネルギーで言えば、2011年に起こった東日本大震災によって日本の原子力発電量は一時的にゼロに近い状態になり、2022年のロシアのウクライナ侵攻がきっかけで、ドイツは、天然ガス輸入の5割以上を占めていたロシアから完全に脱却した。最近のことで言えば、ホルムズ海峡の問題が今後どのように影響を与えて行くかを見守る必要がある。ナフサなど、これまでは何となく名前を聞いただけだったが、石油にもいろいろな種類があり、それが生活とどのように関わっているのを知るのも面白そうである。その他、次にテキストをアップデートでするタイミングで、「AIが、電力使用量のうちどれぐらいを占めるかが分かるようなものを入れ込んで欲しい」という要望をテキスト作成の担当者に出している。AIの普及によって電力量が増加している、というのはよく耳にするものの、どれぐらいインパクトがあるのかという具体的な数字については私自身聞いた記憶が無いのがその理由である。また、数日前にオーストラリアの太陽光発電に関するニュースに触れた。日本では自然エネルギーの占める割合は25%前後だが、オーストラリアでは40%を超えたとのことであった。日本とオーストラリアの比較を新たに加えても良いかもしれない。
「資料読解」で学んだことは、特に小論文試験に生きて来る。現在高3で、獣医師を目指している生徒がいる。彼は小3の終わりから通っていて、中学入試のときには本番直前の2, 3日前にもふざけていて、その日は9時から17時まで教室で勉強する予定になっていたのだが、私の逆鱗に触れ、10時ぐらいには教室から追い出した。頭に血が上り、怒りに任せてそのようにしたわけではなく、その気持ちのゆるみが本番で実力を発揮しきれないことにつながるのを恐れてのものであった。無事に志望校に合格したものの、中学の3年間もいろいろと大変で、高校の途中ぐらいからようやくまともなやり取りができるようになってきた。少し前に初めて過去問に取り組んだとき、アイデアが中々出てこなかったので、知識を増やすためにも、自分の将来の仕事に関してもっと深く知るためにも獣医関連の本を何冊か勧めた。世の中の多くの受験生は、わざわざそんな時間の掛かることをせずに手っ取り早く点数が取れるようになる方法を探るであろう。そんなものは存在しないのだが。読んだ本がいかに面白かったかという感想を伝えて来たり、作文の添削中の私とのやり取りを楽しんだりしているのを見ると心底嬉しくなる。子どもは放っていても成長するものなので、我々がどれほど貢献できたかは定かではないし、そんなことはどうでも良いことではあるのだが、彼の成長に最低限寄与できてきたかな、という実感がある。彼は、産業動物獣医になることを目標にしている。鳥インフルエンザの発生によって大打撃を受ける養鶏農家を救うことや食の安全を守ることにおいて彼が将来大いに活躍してくれることを期待している。
2026.08.04Vol.745 ウェビナー(おまけ編)
オンラインの体験授業を行う前に保護者の方と面談を行うようにしているのだが、セミナー直後に実際に申し込みがあったのは2件だけであった。参加者が100人を超えていたのでもう少し多いだろうと予想していた。野球でもサッカーでも、生徒や息子から「どっちが勝つと思う?」と聞かれたら、それが阪神やガンバ大阪、もしくは日本代表に関することであれば、「応援してるチームやから予想ではなく期待になってまうからなぁ」と、基本的にはっきりとは答えない。それで言うと、「もう少し多いだろう」も淡い期待に過ぎなかったので、「まあ、そんなもんか」というのが、現時点での率直な感想である。セミナーの前の時点で、アメリカ在住の2家庭(お子様はそれぞれ3人と2人)が一時帰国した際に教室で体験授業をすることは決まっていた。また、いずれも生徒の親御様からの紹介でベトナム在住の2家庭(お子様は1人ずつ)の方から問い合わせがあり、共にオンラインでの面談、体験を終えた。結果的に全員入塾していただけることになり、オンラインの生徒は元々の9人に7人が加わったので16人になった。また、この9月からアメリカとイギリスに留学する生徒が1人ずついて、その2人はオンラインに移行すると勝手に予定している。2人とも長いこと通ってくれているので、これに関しては期待ではなく願いかもしれない。彼らに限らず、ある程度長いスパンで成長の過程に関わり続けられるというのは志高塾にとってはとても大事なことであり、私にとってはとても幸せなことである。その私の個人的な願いが叶うと18人になる。今の態勢で受け入れ可能なのはおそらく25人前後なので後7人分しか余裕がない。本などを読んでいて、書き手が数字を入れることによって具体的に伝えてくれても、それによって逆に内容が入ってこないことがある。今回の私のものもその一例かもしれない。
「9人が16人になりました。ほぼ倍です。」と訴えたところで、それを受け取った方としては「ふーん」で終わるだろう。数字的なインパクトが非常に小さいからだ。ただ、私の得た手応えは、2倍ではなく、3倍、4倍といった感じである。アメリカの2家族の体験に顔を出し、ベトナムのお母様2人との面談も私が行った。その手応えとは、いろいろと話をさせていただく中で、自分たちが役立てることがもっとあるのではないか、というものである。これまで体験授業に来られた方から「志高塾のようなところは中々無いですよね」という評価の言葉をいただいた際には、「世の中には我々と同じようなことをもっと高いレベルでやっているところはもちろんあるでしょうが、それを家の近所で見つけるとなると簡単でないかもしれません」というような返答をしてきた。謙遜しているわけではなく調子に乗っているわけでもなく、偽らざる本音である。今や、多くのところがオンライン授業を行っているため、上の私の論に従えば、志高塾ではなく他のところを選べば良いということになる。それにも関わらず、我々のところに興味を持っていただけたり、その後入塾していただけたりするのは非常に嬉しいことである。
冒頭の2件のうちの1件は横浜市在住の方であった。30分を予定していた面談は私がべらべらとしゃべり続けたせいで1時間半になり、後日体験授業も行った。それなりに気に入っていただけたのだが、現在小6で中学受験生であるため、受験後にまた連絡をいただけることになっている。また、もう1件はアメリカ西海岸の方であり、今週オンラインでの面談予定である。単純に日本人が多いからなのかセミナーの参加者の中で西海岸在住の方が一番多かったような気がする。参加者のリストを眺めながら、いつかロサンゼルスに教室を作れないかなぁ、となった。
開塾当初から、生徒たちをどのよう人に育てたいか、と考えたとき、「グローバル」という言葉がずっと私の中にあった。「長年ものすごくぼんやりとしたものであった。それがはっきりと形を持ったのは“Think Globally, Act Locally”という言葉に出会ったときである。たとえば、こういうことである。私が志高塾を始めると決めたとき、候補として考えたのは関東と関西の2つであった。それは、“Think Locally”の典型例である。もし、そこにロサンゼルスやパリなどが含まれると“Think Globally”となる。生徒たちの皆がそうである必要はどこにも無いが、彼らが大人になったときに「どこの国でやろうかな?」といったような考えを持てるように、授業を通して刺激を与えてあげたい。オンラインの生徒が増えることで、日本の教室で授業を受けている生徒たちにも有用な情報をもっと提供できるようになるはずである。中には世界を股にかけて、“Think Globally, Act Globally”になる子も出てくるかもしれない。こういうことは想像しているだけで楽しい。
そろそろ締める。今回、最初に頭に浮かんで来たのは(総集編)だったのだが、1文字も書く前から大仰なタイトルに見合う文章にはならないだろうな、となり、(まとめ編)とひらがなにしてから書き始めた。そして、さらに修正を加えて最終的に(おまけ編)に落ち着いた次第である。








