
2025.08.15Vol.67 記録の終わり(三浦)
以前、あまりの情報収集の面倒くささに、パソコンの買い替えをめちゃくちゃ渋っていることをここに書いた覚えがある。その後、買い替えたことは書いたかどうか記憶にないのだが、どうにかこうにか思い立って実行し、実は新しいものを迎えてもう数カ月が経っている。今までの一体型と違ってデスクトップなのでかなりの存在感があり、まだそれが堂々と鎮座している部屋の風景に慣れない。つい最近も店舗に出向いてキーボードを新調した際、今のパソコンのブラックではなく、以前のカラーであるホワイトに無意識に合わせてしまい、ちょっとちぐはぐな光景がデスクに広がっている。
さて、パソコンを移行するにあたって、データに関してはUSBを使って移動させることにしていた。大容量のものを持っていなかったこともあり、家に散らばっていたUSBをかき集め、数個に渡ってデータを移し変えた。その作業もきちんと終わらせたと思って一安心していた矢先、つい数週間前に、ふと10年分くらいのデータが失われていることに気が付いた。
それだけ気付かなかったのは、すぐに使うようなものではなかったからだ。それは例えば大学時代に提出した論文や、数日分残していた日記、友人とのやり取りなどで、必要になることはめったになく、なんとなく「見返したいな」と思い立たなければ開くことはない。だから気づくのが遅れてしまい、そして、困るような目には遭ってもいない。けれども、私はこういうのはなるべく残しておきたいたちだ。時折抜けているところはあれど、高校時代のスマホの写真のデータもきっと残っているし、遡れば、小学生時代のパソコンのデータだって、メールの履歴だってある(はず)。だから今回のデータ紛失は結構なショックだった。旧パソコンからUSBにデータを移したことは覚えているので、そのUSBを見つけさえすればいいのだが、見当のつくところは一通り探し終えてしまい、あとはふとしたときに現れてくれるのを祈るばかりである。
クラウドに保存しておけばよかったのではとも思ったが、私はクラウドをいまいち信用しきれていない。そのクラウドサービスが終了すれば跡形もなく消え失せるし、そうでなくとも誤作動で消えてしまうかもしれない。勝手に同期して勝手に消えたりなんかしたらきっと許せないので、すべてのデータはオフラインで管理することにしている。やはりUSBのような、物理的なデバイスが安心できる。
USBの話で、ふと濱口秀司氏のことを思い出した。とても簡潔にいうと、濱口氏はUSBが開発された際のコンセプトデザインにおいて、とにかく「すべてがネット上で完結する方向に向かうだろう」という当時の感覚とあえて逆行し、物質的な感覚こそが必要になるのではと、今のような記録媒体を生み出した。その結果、こうして世界的に受け入れられる保存メディアが生まれたというわけだ。ここで濱口氏のアイデアの出し方について舵を切ってもいいのだが、ここはまだ記録媒体の話をしようと思う。
物理的なメディアはやはり安心感がある。しかし、私のように紛失しなければずっと残り続けるのかというと、そうでもない。以前インターネットで見かけて気になっていたのだが、DVDが普及して数十年、経年劣化が進んで見られなくなっているDVDもそれなりにあるらしい。中のデータは無事だったとしても、外側のディスクが「物」である以上、どうしても熱などによる劣化は避けられない。そのため、知らず知らずのうちに動作の限界を迎えているということもあるようだ。「物」である以上、といった手前USBも調べてみたところ、これもやはり数年~十年ほどの使用期間で見ておいたほうがいいらしい。デジタルからは離れるものの、物理的な保存媒体といえばやはり「本」で、そう考えると上記のものよりも長持ちはするものの、やはり永遠に残り続けるものでもない。
インターネット上でも、ホームページの期限が切れたりリンクが切れたりして、見れなくなったページは多くある。デジタルでも物理媒体でも、どんな手段にせよ、何かをずっと保存し続けることは難しいのかもしれない。そんなふうに考えて自分を慰めつつ、やはり、寂しいものは寂しい。








