
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.08.08Vol.66 やめられないのは誰のせい(西北校・伊藤)
スマホが気になり、ついつい手が伸びてしまう。通知が来れば反射的に画面を開き、SNSを覗く。面白い投稿があるわけでもなく、何かを探しているわけでもなく、ただ無意識に指を上下に動かしている。ただ、「あなたへのおすすめ」を使えば、自分の好みに合致したコンテンツが次々と流れてくる。
最初にこの機能を発見した時、その素晴らしさに感心したと同時に、自分の脳内が見知らぬ第三者に見透かされ、監視されているような気がして少し恐怖感を覚えた。その感覚はあながち間違いではなく、便利さの裏で実際に莫大な情報が集められ、それらは推薦システムに使われている。私はこの仕組みに興味を持ち、現在、大学院で推薦システムについて研究している。
最近は「スマホ依存症」に加えて「スマホ認知症」といった言葉も耳にするようになった。脳が情報過多になることで、記憶を取り出す作業ができなくなり、名前が出てこなかったり、約束を忘れてしまうという、認知症と同様の症状があるそうだ。
「Tiktok見てたら1時間経ってた」のような時間の浪費は自覚し、後悔することができるが、私たちの思考や行動がどのように変化させられていたかまでは気づいていない。無意識にネットで買った好みの服も、実際は自分の意思ではなく、デザインされた、仕組まれたものだったのかもしれない。ただ、そうなるのも当然で、それを促すことがGoogleなどの世界的テック企業のビジネスモデルであり、私たちの注意資源(どれくらいの時間、どのコンテンツを見たか)こそが彼らの利益の源となっている。
私が以前視聴した『監視資本主義』というNetflixドキュメンタリーの中で登場したエンジニアは、皮肉なことに、「昼間は人々の注意を搾取する仕組みを設計し、夜は自分が作ったアプリに時間を奪われている」と語っていた。動画サイトやSNSは、私が好きそうなものを延々と表示する。まるでスロットマシーンのように設計されているため、新しい投稿を求めてスクロールする指が止まらない。脳はドーパミン中毒になり、常に何か刺激を求め続けてしまう。
カフェで友人とスマホを操作しながら会話していたとき、隣のマダムが「最近の子って、ずっとスマホ見てるよね」と話していた。しかし、電車の中では、若者だけでなく、幼い子供もサラリーマンも皆ずっと同じ姿勢で覗き込んでいる。(むしろ一番見ていないのは大声で喋っているサークル終わりの大学生集団である。)彼女らが揶揄できるのは、使わなくても生活に支障が無い環境にいるからであり、一度手に取ってしまえば同じようになるぞ、と私は依然として画面を凝視しながら心の中で呟いた。
若者のスマホ依存とよく一緒に触れられる話題に、倍速視聴がある。高校時代に通っていた予備校では、映像授業は基本的に1.5倍速で見るよう指示されていた。既習事項や得意分野は1.5倍速に設定し、苦手な分野は所々止めながら学習するなど、習熟度に応じてスピードを変えられるという点では、合理的で効果的だった。
ただ、映画でさえもNetflixで早送りする人がいるというのは衝撃的だった。臨場感や没入感を味わえるのが醍醐味の一つだが、それさえも、「ただの情報源」の一つになってしまうのだろうか。
関連して、デジタルが普及しているからこそ、私の中では「ライブ」の特別感が上がっている。決して安くはないお金を払い、会場まで足を運び、アーティストの生演奏・生パフォーマンスを全身に浴びるのは、「効率化」や「タイパ主義」から逃れた贅沢なひとときである。Official髭男dismの『ペンディング・マシーン』には「Wi-Fi環境がないどこかへ行きたい 熱くなったこの額 冷ますタイムを下さい」と言うフレーズがある。娯楽さえも効率化され、常に大量の処理を求められる現代社会において、私たちは自然に休む場所を求めているのかもしれない。このような状況を踏まえると、若者でさえ認知症になるのは無理もない。
ネットコンテンツの質にも触れたい。映画やゲームには年齢制限があるが、ネットは無法地帯である。過激な動画、フェイクニュース、誹謗中傷…。最近ではAI生成物も普及している。愉快で新奇なものの裏に、少なからず被害者がいるということを忘れてはならないが、これを子どもたちは意識できているだろうか。全てが記録されるネット上では「失敗してから学ぶ」ことは危険なため、幼い頃からネットリテラシーを高めることは必須である。
例えば、AIの言うことを鵜呑みにしないことが挙げられる。塾の教材の1つに、社会問題に対してグラフや表を活用しながら意見を述べる『資料読解』があるが、タブレットを使って何か調べ物をする際、AIの要約をそのまま作文にコピー&ペーストしてしまう生徒は多い。その度に口酸っぱく、出典や根拠を調べるよう言っている。
私は「ゆとり」と「Z世代」の過渡期で育った。幼少期は時折パソコンに触れ、スマホは思春期と共にあった。ネットの便利さに夢中になりながらも、次第に生活が支配されていく違和感を覚えたが、それが今の進路を決定するきっかけとなったことも事実である。だからこそわかる視点や肌感覚で、生徒に寄り添いながら、今後とも情報社会との向き合い方について共に対話していきたい。