
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.08.01Vol.65 あえての駄作(徳野)
数年前に「ファスト映画」が話題になっていた。動画の違法性はさることながら、人気の背景にある、コンテンツ過多の環境に生きるZ世代の過剰な「タイパ(タイムパフォーマンス)」意識が物議を醸した。そして、以前と比べてメディアに直接取り上げられる機会は減ったと体感しているものの、YouTubeでファスト映画を投稿するチャンネルじたいはまだまだ健在である。しかも、取り上げられている題材の傾向から推測するに、映画鑑賞をそれなりに好む中高年層でないと再生しないであろうものも少なくないので、世代など関係ないのだ。作品に興味はあるけれど、もし内容が気に入らなかったら視聴に費やした時間が無駄になってしまう。だから、口コミよりも詳しい紹介動画でほど良く手軽に済ませて、2時間付き合うだけの価値があると感じればサブスクリプションで検索する。娯楽にまで効率性が持ち込まれる時代になった、とつくづく思う。
だが、出来や相性が悪いコンテンツと距離を取りやすい昨今においてもなお、私には「実際に観てみないと分からない」経験ができる場がある。兵庫県内に拠点を置く某歌劇団だ。現時点ですでに大半の人が組織名を察しているだろうが、念のため伏せておく。当塾のホームページを熱心に閲覧してくださっている方々の中にファンがいると知りながら名指しで批判する勇気が無いからだ。本題に戻る。観劇は「生もの」なのだから、観に行くことに意味があるのは当たり前ではないか、と思うかもしれない。だが、先述のような断りを入れておくほど、某歌劇団のオリジナル作品は独特である。率直に言ってしまえば、凡作と駄作の割合が他の著名な劇団や劇場での演目と比べて多い。ストーリー性が薄いショーの方はまだ素直に楽しめるものの、ミュージカルとなると時折、頭だけでなくなぜか眼球にまで疼痛を感じるくらいである。その感覚を初めて味わったときは、内容にどうしても入り込めない際の反応が「睡魔に襲われる」だけではない事実に驚愕した。以降、客席で開演を待つ間は期待と「今日は大丈夫だろうか」という不安が入り混じった気分を味わうようになった。団員たちの名誉のためにも述べておくと、登場人物たちのビジュアルと舞台装置はこの上なく美麗で、かつ演者たちはパフォーマンスにも真摯に向き合っている。それなのに、この3年間だけでも「目を閉じたいのに閉じられなく」なる演目が1つや2つで済んでいないのだから、構造的な問題があると言わざるをえない。
某歌劇団は往年の人気作の再演は何年かおきにするものの、英米のプロダクションが目指すような1年を越えるロングラン公演は滅多に行わない。それだけなら日本の演劇界全体に当てはまる傾向だが、某歌劇団の特徴はオリジナルの新作をほぼ毎月発表する体制を100年は続けてきた点にある。さらにその背景には、「スターシステム」に基づいたキャスティング方法がある。短いスパンで作品が世に放たれる度に、ファンは各組の人気スターの動向に敏感になる。特にトップスター候補とされる若手団員の配役はリピーターの固定化に繋がる重要な情報であり、熱心なファンにとっても有望な新人の成長を長い目で見守るのは「推し活」の醍醐味だ。人事が劇団最大のビジネスコンテンツと言える。一方で、「新作主義」によって演目の質が犠牲にならざるをえないのは容易に想像が付く。2,500席規模の大劇場向けの作品を製作できる座付きの演出家は常に不足しているし、企画立案から舞台本番までの時間も限られている。上演スケジュールと各演出家の登板頻度から察するに、90分のミュージカルを半年で完成させるよう求められる場合もあるのだろう。『オペラ座の怪人』や『キャッツ』の作曲で知られる巨匠のアンドリュー・ロイド・ウェバーだって、紆余曲折を経験しながら2、3年かけて納得のいく仕上がりにするらしいので、いくら豊かな才能があっても半年やそこらで脚本や音楽を十分に練るのは至難の業だ。
ちなみに、一つの演目に複数回足を運ぶような熱心なリピーター層であっても、質に期待しすぎないのを前提にファンを何十年と続けている人は少なくない。彼らは自身のブログで「こんなものに出演させられる団員が気の毒」とこき下ろしつつも、翌週には当の駄作をS席で再見する猛者である。特別応援しているスターの存在が度量を広げている面は間違いなくあるだろうが、それだけで全ての「組」の公演を網羅する気力は湧かないだろう。それに何より「推し」がいない私自身、リーピーターの境地には至らずともチケットが取れれば劇場に向かっている。一体何に心を捕らえられているのだろうか。
大学生の頃、劇作家の平田オリザ氏による講義を受けていた。平田氏は、演劇に限らず子どもには名作だけを与えるべきだと力説していた。大人が理屈で価値を判断する一方で、子どもは感覚でしか物事を捉えない。だから、精神的に成熟する前に優れた芸術に接しておけばセンスは自然と研ぎ澄まされ、成人後に付け焼き刃で身に着けた人のそれとは雲泥の差がある、とのことだ。「優れた」の基準は非常に曖昧ではあるものの、子育てにおいて感性を育むことを大事にしている人たちは、知識を増やしたり考察したりして初めて意義を感じ取れるような作品に積極的に触れさせているのは確かだ。子どもがその時その場できちんと理解できなくても別に構わない。そういう下地作りが「能動的な受け取り手」を生む。そして、個人的には、いわゆるB級モノの愛好家は娯楽鑑賞に対してかなり能動的な層だと考えている。漫然と視聴するだけでは心が折れてしまうような作品でも愛すべきポイントを拾いあげ、その一筋縄ではいかない魅力を発信するべく試行錯誤する、つまり「面白くない」を「面白い」に変える人の言葉にはやはり惹きつけられる。もしかしたら、それに近いことを私は某歌劇団の演目でやりたがっているのかもしれない。例えば、駄作の印象を受けたものに対しては、「どの要素が足を引っ張っているのか」、そして「どのような改善をする余地があるか」を探りながら観劇している。いくつか挙げてみると、トップコンビ以外のスターたちにも見せ場を作ろうとして散漫かつご都合主義な脚本になるのは仕方ないのだろうが、悪役の人物造形がワンパターンなのはいただけない。あと、たまに取り入れられる映像投影も無くした方が良い。どんなに美人でもあの濃厚な舞台メイクを施した顔がスクリーン上に大写しにされると違和感が勝るからだ。
また、良作になかなか巡り合えないからこそ、予想よりも内容を楽しめた際の喜びはひとしおである。「意外に良いじゃないか」という感情のために毎度賭けに臨んでいるようなものなので、傍目には不毛な遊びをしているように見えるだろう。だが、少し真面目な話をすると、某歌劇団は新作を生み出し続けることの大変さを教えてくれる貴重な場でもある。厳選された海外の人気ミュージカルを安定的に高いクオリティで提供する劇団四季や東宝の公演だけを享受していたら、作り手が置かれている環境に目を向けていなかっただろう。コンテンツに恵まれすぎているのも考えものである。