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2026.11.03Vol.757 AIが答えを出す時代に 人が考える力をどう育てるか(前編)

 今週、来週と2週に渡って、論理力を鍛えるためのアプリを開発中の大学1回生の田畑君の文章を紹介します。前編でそのようなものを作ろうと考えるに至った経緯、後編ではアプリの具体的な内容を説明してくれています。完成版ではないものの、既に使える状態にあり私も試してみました。再来週のVol.759で私の感想を述べ、アプリのURLをお伝えします。アプリに関しては前編で披露するのが良いのか、それとも後編か、などと考えたのですが、「一体どんなものなのだろうか?」と期待値を高めてからの方が良いのではないか、という判断を行いました。膨らんだ期待に耐えうるどころか、超えるようなものになっています。では、お楽しみに下さい。

 僕は毎日、数時間にわたってAIと話しています。最初は、分からないことを質問したり、自分の思考を整理して言語化してもらったり、あるいは課題をこなしたりといった、一般的な用途で使い始めました。時間をかけて考えていたことに、短時間で整理された回答が返ってくる。その能力に驚き、作業の効率が上がることを実感していました。一方で、便利になるほど、「本当にこのままで大丈夫なのか」と、自分で考える機会が減っているのではないかと感じるようになりました。答えにたどり着くまでの思考を、気づかないうちにAIに任せていたからです。完成された説明を読んで理解することと、前提を整理し、試行錯誤を重ねて、自分で説明を組み立てることでは、頭の使い方が違います。AIのおかげで成果物は早く作れるようになっても、その過程で自分の力が育っているとは限らない。そこに、僕は危機感を覚えました。そして考えたのが、生まれたときから、こうしたツールが当たり前に存在する世代のことです。答えをすぐに得られる環境で育つ子どもたちは、自分で考える力を、どこで、どのように鍛えていくのだろうか。この問いが、僕が「Debeat(ディビート)」というアプリを作ろうと思った出発点です。この名前は、議論を意味する「Debate」と、相手を打ち負かすという意味の「beat」を掛け合わせた造語です。ディベートが持つ「論理で相手を打ち負かす」という競技性を取り入れながら、考える力を鍛えてほしいという思いを込めました。
 僕は中学生の頃から、「なぜ数学や国語、そのほかの学問を学ぶのか」と疑問に思っていました。進学のため、就職のため、学歴のため。どれも現実的な答えではあります。ただ、僕が知りたかったのは、もっと学ぶ側に近いところにある答えでした。目の前の問題に悩み、時間をかけて解くことが、自分にとって何になるのか。その疑問に対し、高校卒業後の浪人期にひたすら問題と向き合う中でたどり着いた答えの一つが、「論理力を鍛えるため」というものでした。例えば数学では、公式を知っていれば、問題に取り組むための道具が増えます。公式の意味や成り立ちを理解することにも価値があります。その上で、僕が特に大切だと思うのは、知識を使って答えにたどり着くまでの過程です。条件を読み取り、何を問われているのかを整理する。使えそうな知識を選び、いくつかの方法を試す。うまくいかなければ、どの前提や手順に問題があるのかを考え直す。そして最後に、自分の答えが、本当に問題の要求を満たしているかを確かめる。答えにたどり着くまでには、こうした判断の積み重ねがあります。すぐに正解できなくても、何が分かり、どこで行き詰まったのかを整理しながら考える。その時間にも、学ぶ意味があると思います。これは数学に限りません。現代文では、文章を正確に読み、設問に対応する根拠を探し、必要な要素を答案にまとめます。英作文でも、文章が整っているだけでは十分ではありません。問いの一部にしか答えていなければ、求められた解答にはならないからです。
 教科ごとの知識や技能は、それぞれ大切です。その上で、「何を問われているかを捉え、根拠をもって答える」という力は、多くの学習に共通する土台だと考えています。AIによって、答えや解説を得るために必要な労力は大きく変わりました。難しい問題についても、筋道の整った説明をすぐに読めるようになっています。だからこそ、AIを使って問題を解けることと、自分自身が解けるようになることを、分けて考える必要があると思います。説明を読んで納得するだけで終わらず、自分でもその理由を説明できるか。途中の条件が変わったときにも、筋道を考え直せるか。学ぶ上では、そこまで目を向けることが大切ではないでしょうか。もちろん、AIがいつでも正しい答えを出すわけではありません。提示された答えを採用してよいのか。根拠は信頼できるのか。見落としている条件はないのか。自分の状況に、その結論を当てはめてよいのか。こうしたことを判断するには、出力された文章を読むだけでなく、その筋道を検討する力が必要です。「AIがそう言ったから」という理由だけで、人や組織の判断が正当化されるわけではありません。判断の結果を引き受ける人間がいる以上、その判断を支える思考力は、これからも重要であり続けると思います。便利な道具を手に入れたのに、その答えを評価する力が弱くなってしまう。それを避けるためにも、自分の頭を使う機会を、意識して作っていきたいと考えています。では、自分で考える力を守るために、AIの利用を禁止すればよいのでしょうか。僕は、一律の禁止を中心とした対応だけでは十分ではないと思っています。特に、教室の外で取り組む課題では、完成した文章だけを見て、AIを使ったかどうかを確実に判断することは難しいからです。完成した答案だけを評価すれば、ルールを守って自力で考えた人より、隠れてAIを使った人のほうが高く評価される可能性もあります。周囲がAIを使っているかどうかが見えなければ、「自分だけ正直に取り組んで損をしているのではないか」という疑念が生まれるかもしれません。禁止によって利用実態が見えにくくなり、その不透明さが不信感を生み、さらに隠れた利用を促してしまう。僕は、そうした悪循環を懸念しています。これは、試験や練習の目的に応じてAIの利用を制限する意味まで否定する話ではありません。疑問に思っているのは、禁止を掲げることだけで、学習を守れると考えてよいのかという点です。AIを使える環境を前提に、どこを人自身に考えてもらうのか。完成した答えだけでなく、どの過程を学習として大切にするのか。その設計に向き合う必要があると思います。僕自身、AIの便利さを手放したいとは思いません。だからこそ、その能力を、人が考える機会を増やす方向にも使えないかと考えました。
 後編では、この問題意識から開発しているDebeatについて、議論という形式を選んだ理由と、目指している学びの形をお話しします。

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