
2024.06.21Vol.26 レンズの向こう(三浦)
子どものころから整理整頓が苦手で、今でも自室はかなり散らかっている。多分、想像のかなり上をゆくほどだと思う。この間のGWで多少は片づけたのだが、まだ紙類があちらこちらに置いてあるなど、結構な惨状である。だから生徒に「部屋は綺麗にしなさい」となかなか強く出られない。一方で、部屋が汚いことの情けなさを重々承知している身なので、こうはなってほしくないという意味を込めて注意することはできる。情けない話である。
こんなことを堂々と書くのはどうかとも思うが、部屋が汚い原因のひとつに、「現状が常態化してしまっている」ことが挙げられる。ようは感覚が麻痺するのだ。床に何かを置きっぱなしにしても「通るときに邪魔だなあ。まあ跨げばいいか」で終わってしまうし、片づけ忘れたレシートが視界に入っても「そこにレシートがあるなあ」で終わってしまう。見慣れてしまったせいで危機感が湧かなくなる。順応しているといえば聞こえはいいが、もちろんそのままでいるわけにはいかない。
そんな時、役に立つのがスマホである。
別段特別なことをするわけでもない。スマホのカメラ機能で自室をうつすだけだ。写真も撮らない。ただカメラ越しに覗くことで、初めてそこで、「私の部屋ってこんなことになってしまっているんだ」と客観的に気づくことができる。楽しんでいる場合ではないのだが、まるで別人の部屋のようで面白い。普段は部屋全体ではなく何かのアイテムに注目している一方、まさしく「全体像」を一目で見えるようになる点が大きかったのかもしれない。
ちなみにそのスマホのカメラ、もうひとつ身近な役に立つことがあった。
私は視力が悪いのでいつも眼鏡をかけているのだが、そういう人にとって眼鏡を失くすというのは命綱を失うこととほぼ同義である。普段はあまり意識こそしないが、例えば緊急避難時に眼鏡がなければどうなってしまうのかを想像すると、足元も見えない、遠くの文字も見えない、顔もわからないで、かなり大変な思いをするのだろうと推測できる。だからコンタクトをした時も「コンタクトを失くしたら一歩も歩けない」くらいの気持ちで、いつもしっかりとケースに入れた眼鏡を持ち歩いていたのだが、荷物がかさばるのが面倒になってついにコンタクトの方を全くしなくなった。
さて、眼鏡がない状態で眼鏡を探すのは腰の折れる作業だ。特に取っ散らかった机の上にほうり出してしまった時など、眼鏡を探すための眼鏡が欲しいくらいだ。しかしそんな時、スマホのカメラを通すと、画面の中では遠近など関係ないので、遠くまできれいに見ることができる。スマホの画面であれば、顔を多少近づければピントを合わせることができる。距離感を掴むのは難しいので眼鏡の代わりにはならないだろうが、探し物には十分だ。眼鏡に限らず、灯台下暗しの探し物も、案外こうすれば見つかるのかもしれない。「これはここにあるはずだ」という思い込みをいったん切り離すことができるのだから。
だが、その命綱でもある眼鏡も、案外外してみると面白かったりもする。この間の夜道、ふと思い立って安全なところで立ち止まって外してみたのだが、車のライトや信号の光などがぼやけるせいでやけに大きく見えて、まるで花火のように派手で明るく、いつもの帰路がまったく違う道のようにも見えたのだった。
さて、つらつらとスマホのカメラだの眼鏡だのの話をしてきたが、いずれも「視点を変える」ことに繋がるな、とふと思ったことだった。
何か、いつもとは違うレンズを通して見てみること。あるいはレンズを外してみること。既にあるものを、別の使い方ができないかと悩んでみること。作文の際、よく「視点を変えてみたら」とアドバイスすることがある。なんとも投げっぱなしなアドバイスだが、視点の変え方にもいろいろとあるのだ。アイデアの出し方とも言っていい。同じ景色でも、通すレンズが変われば何もかもが変わる。たまには歪んで見えるレンズがあっても面白い。そのレンズの引き出しを頭の中に持っておきたい。と、今、視力を計るときにいろいろなレンズを差し替えられる、あの形をイメージしている。








