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2021.07.27Vol.504 パーソナルトレーニングの条件

 こだわりは難しい。度が過ぎれば頑固となり、その逆だと優柔不断となる。そのような評価を与えるのは他人であり、「人にどう思われようが構わない」と開き直ることはできるが、問題なのは「この決断で正しいのか?」という問いに対する答えが自分自身でもよく分からないこと。
 開塾以来、教室の玄関に飾るために週1回花を買ってきて生けることと授業前の掃除はほぼ私自身が行っていた。年数にして12, 3年。花を枯らしてしまうのは、神経が細かいところまで行き届きていないことを象徴しているようで何だか許せなかった。10年を区切りにすれば良かったのだが、「もうそろそろ大丈夫やんな?」と自問しながらそろりそろりと慎重に手を引いて行ったので2, 3年余計に掛かった。ジェンガに例えるなら、外から見ると安全そうに見えるたった1つのブロックを抜いただけで音を立てて崩れてしまうような恐怖があった。そのタワーは、志高塾の教育の質を表している。ご存知の方も少なくないが、私は概していい加減である。3教室の物件はどれもほぼ一瞬で決めた。西宮北口と高槻に関しては、現在の教室以外どこも内覧すらしていない。広さ、家賃以外には駅からそれほど遠くなくて、かつ駅からの道がそれなり安全である、ということだけが条件だからだ。それぐらいの情報であれば図面からほぼ取れる。なぜ慎重に吟味しないのかと言えば、悪くない立地であれば、良い教育を提供することで自然と生徒は集まるはず、という考えがあるからだ。あちこちに気遣いするのは疲れるので、それをせずに済むように教育の質を向上させることだけに神経を集中させているとも言えるかもしれない。
 話は変わる。パーソナルトレーナーを付けるようになったことをここで報告した。完全なマンツーマンだけではなく1対2や1対3なども含まれているので、正確に表現すればセミパーソナルとなるのかもしれないが、便宜上パーソナルと表現する。ちなみに、ブログを通してメンバー募集をしていたヨガ。GW明けから週に1回お母様たちと講師たちと合わせて5, 6名ぐらいで楽しみながらレッスンを受けている。半年前まではパーソナルトレーナー不要論者であった。人に管理などされなくても20代の頃から毎日のように筋トレを続けていたので、今のようにわざわざ通うことの必要性を感じなかったからだ。実際にやってみて、人に習った方が何倍も効果的だということを実感した。もう少し早く気づければ良かったのだが、だからと言って時間を無駄にしたとはならない。「その分頑張ろう」となれるからだ。それに関して言えば、体験授業に来られた親御様から「もっと早く志高塾に出会っていれば」という嬉しい言葉をいただいたときに、「全然遅くないですし、今からやれば良いだけの話です」と返すことに通じている。その子が4年生だろうが、中学受験を控えた6年生だろうが、高校生だろうが変わらない。目の前の受験には間に合わないかもしれないが、長い目で見ると大抵のことは気づいたときに手を打ち始めればどうにかなる。問題なのは、気づいてもなおよく分からない理由を付けて放置し続けることである。
 パーソナルトレーニングの利点として、個人のためのメニューを組んでもらえるというのはもちろんあるのだが、そんなことよりも質問できることの方が私にとってはありがたい。ゴルフもそうだが、教わったことを一人で実践してみては、「あれ、これで合ってるのか?」となった部分を次回のレッスンのときに確認する。それゆえ、私の中でのパーソナルとそれ以外を区別する境界線はそれなりに不自由することなく質問をできるか否かである。整骨院でのトレーニングは、ステップアップするため飽きさせないために1か月ごとでメニューが変わるのだが、自分の中で動きを習得できていない、その部分の鍛え方が十分でないとなれば月が変わっても家で練習を重ねている。これは前回書いた高校時代の数学の勉強の仕方と似ている。自分なりのフォームができていれば、分野が変わっても応用することができる。そのような意味でも、生徒達には作文を通して、彼ら独自のフォームを築くきっかけぐらいは少なくとも作ってあげたい。
 個別授業を提供している身でありながらもパーソナルトレーニングを受けることを良しとしなかったのには理由がある。作文の添削のように自分でできないことは良いが、そうでないものは自分でやるべきだというこだわりがあったからだ。既に述べたようにその考えは180度変わった。だからと言って、何でも良いわけではない。ただし、他力本願でなければ、という条件付きである。ライザップのダイエットは、プログラムの実施期間中は効果が見られてもそれを維持できる人とリバウンドする人に分かれる。推測でしかないが、後者の方が圧倒的に多いはずである。意志の有無が関係しているからだ。そのような意味では、我々のような教育業は注意が必要である。なぜなら、多くの場合その意志を持っているのは親であり、子供自身ではないからだ。では、どうするか。作文の添削を通して、それを子供たちの中に芽生えさせてあげることである。言葉を使って考える楽しさが実感できればそのようになるだろうし、志高塾で学んだことが他の所で生きればやっていて良かったとなり前向きになれるであろう。正しく文章を書くための手助けをしているだけでは役割を果たしていることにはならないのだ。

2021.07.20Vol.503 耳より情報

 こんなタイトルを付けると「日頃、どうでも良いことばっかり書いているみたいやん」と突っ込みたくなります。ボケているわけではないので、単品の一人突っ込みです。「(いつも以上に)耳より情報」と解釈していただければ幸いです。
 「試験期間中やから、いつもよりじっくり生け花ができる」と中1の長男が喜んでいた。緊急事態宣言で教室がしばらく休みだったことも手伝っているのだろう。年長で始めた時から親としては大人になるまでやらせる気で、本人も何の疑いも無くそのようになっているので、私としてはしめしめといった感じである。このまま続けていれば高校卒業ぐらいで師範の資格を取れるとかいう話だった。それはそれで良いのだが、長く続けることで身に付くものがある、ということを20歳ぐらいで体験しているということはとても重要な気がしている。時には、何かにスパッと見切りをつけることも大事なのだが、何か1つでも継続しているものがあるというのはすごく意味があるのではないだろうか。自分にそういうものがないので、単なる思い込みの可能性もあるのだが。
 今回のテーマは定期試験と関係している。過去にこのことをメインとして扱ったことはない気がしている。その前に、誰にとって耳寄りなのか。特に、休むことがまだ習慣化されていない現在の小学生以下の子供を持つ親御様にとってである。
 私は、公立中学、公立高校と進んだ。そんな私にとって中学と高校では定期試験の意味合いはまったく異なった。公立高校を目指していたので、中学では内申書のために少しでも良い点数を取る必要があった。ただ、教育熱心な校区で無かったため、実際のところ私はすごい楽ができた。まず、相対的に良い成績を取ることは難しいことではなかった。それに加えて、息抜きをしたければいつ何時でも遊び相手は見つかったし、やるべきことがあれば人に惑わされずにやればいいだけだったからだ。ちょうど私が大学生になった頃ぐらいに携帯電話が普及し始めたので入学と共に買ってもらっている同級生が多かったが、私が持ったのは2回生以降である。理由は単純で必要性がなかったから。麻雀のメンバーを集めたければこちらからは電話をして捕まえることができた。当時、公衆電話があちこちにあったし、そんなことをしなくても近くにいる友達の携帯を借りて、「あっ、俺。麻雀するから来て」と告げ、用事があると断られようものなら「そんなんどうにでもなるやろ。とりあえず来て」と説得を試みていた。あの頃は電話代がそれなりに高かったので迷惑な話である。一方で、私には連絡の取りようがないので誰に邪魔されることなく自分のしたいことをしていた。今の子供たちのように中学生の頃の私がスマホを持っていたらどんな風に付き合ったのだろうかと時々考えることがある。
 公立中学の定期試験については良くない点が1つある。それは問題が簡単なことである。しょうもない自慢をさせていただくと、高校時代、得意の数学で480人中10番以内に入ることはそんなに難しいことでは無かった。進学校と呼ばれてはいたが、最難関と呼ばれるいくつかの私立の学校とは大きく異なり抜群にできる奴なんておそらく3人もいなかったからだ。しかし、その同級生たちと中学のテストで競ったら、100番以内にも入れなかったかもしれない。ほとんどの生徒が90点台を取ることが予想されるので、ミスをするかしないかで順位が決まるからだ。ミスは多い方ではなかったが、それをしないための訓練というのは楽しくない。学力差があることを考慮した上で、70点分はきちんと勉強した生徒は取れるようなものにし、残りに関してはそれなりに解き応えのあるものにするべきだ、というのが持論である。
 一方で、高校の定期試験はフルマラソンにおける5kmごとのポイントのようなものである。常に理想的なタイムで通過する必要はない。時計も無く、残りの距離も分からない状態で、たった一人42.195kmを目標タイムで走り切るのは至難の業である。だが、腕時計をした状態で5kmのポイントが分かるようになっていれば、たとえ遅れていたとしてもどれぐらいスピードを上げればいいかの目処が立つ。ここでのゴールとは大学受験のことを指している。私は高1の頃はそれなりに真面目に勉強していたが高2になるとだらけ始めた。すると、テキストの問題を完璧に理解しないままテスト当日を迎えることが少なくなくなった。そのような時はテスト後に1週間でも2週間でも掛けて、必ずその部分を補ってから次の範囲に移行するようにしていた。しかし、私と同じような状況でも「さっ、次の期末がんばろ」と穴を開けたままの同級生がほとんどであった。数学のような積み上げが求められる教科でそのようなことをするのは理解に苦しむ。たとえば、予定の時間でまだ4kmしか走れていない場合、10kmの地点で帳尻を合わせたければひとまず6kmは頑張らなければならない。しかし、先の同級生たちは車にでも乗って5kmまでワープしていた。もちろん、そんなズルをすればペナルティが課される。この場合のペナルティとは時間を掛けた割にできるようにならないということである。基礎ができていなければ応用などできるはずもなく、解答を見ても理解できないということすら起こる。中間と期末の分野につながりのある場合の話をしているのだ。時間は無駄に過ぎるし、よく分からないしという二重苦である。
 そろそろ結論を。「中高一貫に通っている生徒は試験期間中も休まず来ましょう」ということが言いたいのだ。私の場合、1点でも多く取る必要があった中学生の頃の癖が抜けずに高校生になってからも通っていた個人の塾を休んでいたが、振り返ってみるとまったくその必要はなかった。だらだらしている時間が増えただけだったからだ。実際、西北で国語と数学の両方を習っている生徒の場合、テストに直結する数学はいつも通り授業を行うが、国語は振替になることが少なくない。そして、彼らのほとんどは授業の前後にかなりの時間、ソファーでスマホをいじっている。「もしかして、うちの子のことかしら」と心配になった方はお問い合わせください。かなりの確率で、「告げ口するようで心苦しいのですが、とても優雅な時間を過ごしておられますよ」とお伝えすることになる。もちろん、電話口のこちら側でにやりと笑ないながら。
 中高生がそれなりにいる西北でも休まない生徒は2, 3人しかいないが、彼らは概してよくできる。こういうことを書くと決まって、「それは優秀だからできるんですよ」という意見が出てくる。1年生の1学期の中間テストで驚くぐらいスカみたいな点数を取って来た我が長男よ。頼む、父の言説が間違ってはいないことを証明してくれ。定期テストの時でも休まず塾に通うことで、時間の使い方がうまくなり成績が上がっていくということを。それが鶏か卵のどちらに当たるのかは不明である。

2021.07.13Vol.502 もう1つの宗旨替え(補足編)

 前回、途中の段階まで入れ込んでいたものの削除した内容を大幅に修正して紹介するところから始める。

 新入社員の頃にマーケティングを学んでいた、ということをこれまで何度か述べた。その中で、どのステークホルダー(利害関係者)を最も重視するべきか、ということを考える課題があった。上場企業の場合、株主、従業員、顧客、ビジネスパートナー、環境、地域社会などがそれである。メーカーにとって下請け工場はビジネスパートナーに当たり、電力会社であれば環境や地域社会との関係は無視できない。確か、株主が答えだと教えられたはずである。企業は彼らのものであるから、というのがその理由。その株主の期待に応えるためには株価を上げる必要がある。
 当時、自分が一社員であったというのも無関係ではないのだろうが、株主ではなく従業員こそ大事にすべきだというのが私の考えであった。私にとっては、どれが一番大事か、ではなく、どこから手を付けるか、という話だった。従業員が満足することで顧客へのサービスが良くなり、それによって業績が上がり株価が上昇する、というサイクルをイメージしていた。志高塾の場合は、非常にシンプルで基本的には従業員と顧客しかない。ちなみに、教育業における顧客は生徒と親になる。従業員に関しては、社員講師、社会人講師、学生講師と呼び方を決めたことをここで報告したはずだが、常勤講師と非常勤講師(その中に、社会人、学生の区別がある)でも悪くないな、ということに最近気付いた。それは常にいるかそうでないかを表しているだけだからだ。学校の先生であれば、枠に限りがあるため常勤希望なのになれないということが少なくない。しかも、そこでは同一労働であるにも関わらず賃金格差が生まれている。しかし、志高塾では現状、社員になりたいのになれていない講師はいないので、常勤、非常勤というのは水平の関係である。また、正規品という言葉があることからも分かるように、正規と非正規であれば上下になってしまうので好ましくない。そういう意味では、正社員ではなく社員の方がいいのだろうな。そう、その社員の満足度を上げることに私は力を入れなければならない。
 
 上のものが大体800字程度なのだが、「大幅に修正」の作業は削ること一辺倒であった。元々は上記の部分だけで2000字弱もあったので半分以下に圧縮したことになる。字数が膨らんでいた一因は文章を次のように始めていたからである。

前回は500号という区切りだったので長文になった。今回は1000号に向けての一歩なのでこれまた気合が入っている。長ければ良いというものではないが、次回からは元に戻すので今回までは頑張ってお付き合いいただければ幸いです。

完全に空回りをして、気付いたら長くすることが目的になってしまっていた。このようなこともあり、生徒が「作文難しいわ」と漏らすのに対して、「ほんまそうやで」と心から賛同する自分がいる。良いのか悪いのか。
 前回書き切れなかったことがある。いつもながらに単純な式を用いると
(A;従業員の満足度)=(B;仕事から得られるもの)÷(C;労働時間)
となる。
Bの代表格は給与であり、それ以外にやりがいなどが含まれる。立ち上げ当初、私を支えてくれた女性社員の場合は、給与はある程度制限をかけざるを得なかったので(事前に金額を伝えて了承してもらっていた)、いかにCを減らすか、ということに重きを置いた。局面が変わったにも関わらず、私はその考えを引きずっていて、3年ほど前までは社員と言えども1日の拘束時間を6時間ぐらいに抑えられていたはずである。そのことに自己満足していたのだが、間違いに気づき「宗旨替え」する運びとなった。できる限り長時間働かせよう、という考えは今も全くない。だが、私がやるべきは、たとえば、Cを20%増しにしてでもBを50%増しにすることである。そうすれば、Aの満足度は上がる。念のために断っておくと、給与を上げるために授業料を上げるわけでもなければ、親御様を不安にさせて不要な授業まで取ってもらうように導くわけではない。ちょうど夏期講習の時間割を組んでいるところであるが、「これを取った方が良いです」と追加で勧めることよりも、「それは必要ないです」と促す方が多い。その考えは、昔も今も、そしてこれからも変わることはない。中古品を扱う業者が「高く買って安く売ります」ということを謳っているのを見るたびに、「そんなわけないやろ」と心の中で突っ込んでしまう。ブックオフや最近店舗数が一気に増えているセカンドストリートに行って、そのようなことを感じることはない。想定はしているものの「たったこれだけかぁ」となるし、中古品であるにも関わらず結構な値段で売られている。だが、塾業界を含め、サービス業はそれとはまったく異なる。自分達の手で商品の価値を上げられるからだ。ちなみに、授業料に関しては、似たようなものを提供しているところの平均よりは高くならないように設定しているつもりである。我々と同様に一対二という個別スタイルを取っているからと言って、比較の対象にするわけではない。そして、授業の質は20%と言わず50%ぐらい高くなるように持って行きたい。それを実践できれば、生徒は増えるはずなので小細工などしなくても売上は自然に上がっていく。
 意見作文を指導するには、最低限の知識はもちろんだが人生経験も必要である。ただ経験をすれば良いわけではない。実体験を通して様々なことを感じ取り、思考を深め、興味の幅を広げてこそ、生徒に響く言葉掛けができるようになる。海外旅行は分かりやすい例である。行って終わりではなく、帰国後に訪れた国に関する歴史の本などを読めば、立体的に自分の中で組み上がって行くものがある。また、海外に行こうと思えばそれなりにお金が掛かるし、まとまった休みも必要になる。私がそういう環境を整えることで、そこで得たものが生徒に還元される。休みを楽しめれば、仕事の中身も濃くなるはずである。私は、仕事のために休むのでもなければ、休みのために仕事をするわけでもない。人それぞれ考えがあるのだろうが、仕事は仕事として、休みは休みとして充実していることが大事である。
 社員が良い仕事をすれば、社会人講師がそれまでの経験を生かしやすい土壌が醸成されて行くだろうし、伸びしろがたくさんある学生講師は刺激を受けることで成長が加速する。そして、それらは生徒に還元され、親御様には、志高塾と出会って良かった、と喜んでいただける。20代前半に私自身が考えたことはマーケティングのセオリーからは外れていたが、間違っていなかったと今も心の底から信じている。

2021.07.06Vol.501 もう1つの宗旨替え

 一昨日の日曜日、2回延期になっていたセミナーをようやく行うことができた。気楽に参加していただいた親御様の期待を見事に裏切り、実際に問題を解いていただくことにほとんどの時間を費やす結果になった。事前に案内していたものとかなり異なった内容になり、だまし討ちのようになってしまったことを詫びなければならない。申し訳ございませんでした。一方で、それによって何かしら伝えられたのでは、と都合の良い解釈をしている自分がいる。参加者のお母様からは、セミナーのタイトルを「親のための体験授業〜読解編〜」にすれば良かったのでは、というアイデアをいただいた。今回参加できなかった方を対象に、西宮北口校や豊中校で少人数向けに開催するか、もしくはweb上で行うかなどを探って行き、遅くとも9月には何かしら実施できるようにしたい。それに関しては決まり次第、HPの「志高塾からのお知らせ」欄にて告知する予定である。文章を書くことは自分の頭の中にぼやっと存在しているものに輪郭を与えることにつながるが、セミナーの資料作りも同様である。これまで3年に1回ぐらいのペースでしかそのようなことをしてきていないので、新鮮さも手伝って随分と思考が整理されたような心地良さがあった。アンケートで、「また何かしらのセミナーがあれば参加したい」というお声をいくつかいただいたので、次回は「親のための体験授業〜作文編〜」にしようかな。
 さて、本題。Vol.493で、『世界最高のチーム ~グーグル流 「最少人数」で「最大の成果」を生み出す方法~』を読み、社員各人に3つずつ提案をしてもらい、遅くとも6月29日までにここで発表すると約束したものの1週間遅れてしまった。私の手元にはあったのだが、どのように扱うかを決めかねていたからだ。当初の予定を変更して、豊中校を任せている6年目の社員の冒頭部分のみここで紹介する。

 志高塾は一つの大きなチームである。西北・豊中・高槻の3校があり、それぞれ曜日ごとに勤務しているメンバーが異なる。つまり各曜日を一つのチームとみなすことができ、その日に入っている社員が「マネージャー」の役割を担っている。『世界最高のチーム』では、生産性の高いチームの一番の特性として「心理的安全性」が担保されていることが挙げられている。社員それぞれが背中を預け合って仕事をしていれば、その他の社会人・学生講師も当然安心して疑問点や意見を出すことができ、それによって我々が大切にする理念を共有することが可能になる。志高塾で言えば「より良い教育をする」がそれにあたる。この抽象的な概念を共通のものとして持ち、社員それぞれの中できちんと具体的なイメージとして存在させて授業の場面で同じ目的のために行動できるという状態が理想である。そのように社員たちの足並みが揃っているからこそ、価値観を全体に浸透させていけるようになる。

 これを読んだとき少し成長を実感できて嬉しかった。どうにか期限に間に合わせるべく、本の中で述べられていることをマイナーチェンジした薄っぺらいものが3つ並べられただけで出てくることも想定していたからだ。具体的な提案をする上で、このように位置づけを考えるところから始めることはある種当たり前のことなのだが、それができていることには一定の価値がある。3つの提案自体も骨のあるものになっていた。ただ、具体的な内容であり補足の説明がかなり必要なため、ここでは割愛することにした。なお、各人から出されたものの中からいくつかをピックアップして実践に移すべく、現在、週1回の社員会議で話し合いを重ねている最中である。
 最近になって、これまで社員を全然育てられていなかったことに気が付いた。育っていないということではなく、伸びるに任せているだけで私が積極的に関与できていなかったのだ。社員第一号は、開塾時に私を大いにサポートしてくれた女性である。彼女がいなければ、そもそも志高塾自体が存在していなかったかもしれない。当時、私は国語の教え方など何も分かっていなかったからだ。彼女には少なくとも5年以上の社会人経験があり仕事ができたので、やりがいなども含め少しでも彼女が働きやすい環境を整えることが私の役割であった。そうすれば、指示を出さなくてもやるべきことをやってくれたからだ。しかし、現在の社員4人のうち3人は新卒で加わり、もう1人も他社で2年弱働いただけなので第2新卒みたいなものである。自分で考えてどうにかしてくれ、では私は育てるという責任を放棄しているに等しい。私が彼らをもっと成長させられれば、生徒への貢献度、ひいては親御様の満足度も上がり、当然のことながら彼らはやりがいを感じられる。雇用主としてはそれで終わりではなく、活躍に見合った待遇を用意する必要がある。
 大好きな果物がスイカからメロンに変わるというようなレベルではなく、肉食がベジタリアンになるぐらいのことを持ってしてそのように言うのであろう。宗旨替えの話である。社員教育に関しては、私自身にそれぐらいのマインドチェンジが必要な気がしている。

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