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2024.04.16Vol.635 大人の心頭体

 「大人になるということ」としようとしたのだが、前号が「振り返るということ」だったので手を加えた。HPの『志高く』の欄に直近5回分のタイトルが並ぶ。ブログをアップデートする作業をした後にHPに反映されているかどうかを念のためにチェックするのだが、その際、その5つがバラエティに富んでいると「それなりに柔軟に考えられているのかも」とちょっとした満足感が得られる。もちろん、自然とそうなって初めて価値があるので、事前に過去の分を確認はしない。ただ、ワードのファイル名が「HP_vol.634志高く_2404_2「振り返るということ」」といった感じで長いこともあり、前回のものをコピペしてから今回のものに書き換えるので直前の分だけはどうしても目には入ってしまう。
 高校の同窓会があり、先日は大学の同期が教室を訪ねて来てくれ10年ぶりぐらいに会った。昔のことを話していると、同じことを経験しているのに覚えていることは本当に人それぞれである。「せやな、そういうことあったな」となることよりは、「えっ、そんなことあったっけ?」となる方が断然多い気がする。
 「あなたの記憶に残っている謝罪会見はどれですか。3つ挙げなさい」と言われたら、次のものになる。1つ目は、1997年の山一證券が自主廃業するときに行った社長のそれである。「私らが悪いので、社員は悪くありません」と顔をくしゃくしゃにして涙ながらに訴えていた。2つ目が、2014年の兵庫県議会議員で野々村竜太郎の号泣会見である。この2つはテレビでも時々取り上げられるので、覚えているのではなくそのように錯覚しているだけなのかもしれない。そして3つ目は、2006年の東横インの社長のものである。複数のホテルで、条例で定められている身障者向け客室を、建築確認申請の確認検査が終わった後で勝手に改造していたことを指摘され、「障害者用客室つくっても、年に1人か2人しか泊まりに来なくて、結局、倉庫みたいになっているとか、ロッカー室になっているのが現実」、「(違法改造は)制限速度60kmの所を65kmで走ったようなもの」とふんぞり返らんばかりに語っていたのに、事の重大さに気づき、その2週間後には涙を流しながら頭を下げていた。このことを記憶している人はほとんどいないのではないだろうか。その変貌ぶりを目の当たりにした当時28歳であった私は、「大人なんてこんなもんか。偉そうにしていても中身は大したことない人が多いな」となった。「自分もそんなんでいいや」というのではなく、表面的に大人っぽく振る舞おうとするのだけはやめよう、という思いをさらに強くした。時には背伸びすることも必要である。ただ、それはそのうちにそういう自分になるようにするためであり、未熟な自分を隠し続けるためではない。そんな私なので、日頃生徒たちから「先生、めっちゃ子供やん」と指摘を受けることが少なくない。その度に、「ほんまはほとんどの大人が子供やから」と返している。それがほとんどなのか、半数なのか、それとも2, 3割程度なのか分からないが。ちなみに、ここでの「大人」とは、それなりに社会人経験を積んだ4, 50代ぐらいをイメージしている。
 このことに関して、最近、自分の中でようやく納得の行く答えが見つかった。運動会で張り切り過ぎて足がもつれちゃうお父さんと一緒やん、と。また、「学生時代の友人に久しぶりに会うと、童心に帰れる」というようなことが言われるが、それも社会に出てからは親としてであったり仕事人としてであったりの役割を演じようとするから(それはそれで必要なのだが)、童心なるものが顔を覗かせないようにしている結果である気がする。この2つから言えるのは、体は変わっても心は若い頃のままだということである。
あれは大学生の頃にパリに行ったときのことのはずだが、ルーブル美術館のガラスのピラミッド付近にある水場で、おじいちゃんやおばあちゃんも含めて多くの大人が靴を脱いで、気持ち良さそうに足を水につけている光景に驚いた。日本では、そのようなことをするのは子供ばかりだからだ。そのとき、人に迷惑を掛けさえしなければ、という条件付きにはなるが、自分がやりたいと思った楽しそうなことをやる大人になろう、という思いを胸に刻んだ気がする。
 心は子供のままでは良いのだが、頭がそれではまずい。暗記力など、体と同様に能力的に低下する部分はあるのだが(ちなみに、名前などが覚えられなくなっていくが、衰えているというよりかは、出会う人が増えて行き、30代ぐらいでメモリーがいっぱいになるからだ、と私は思い込んでいる)、経験値は上がって行く。これは仕事柄というのもあるだろうが、子供と大人の大きな違いというのは、人生にはいろいろな成功の仕方があるというのを知るか知らないかである。成功という言葉の定義は難しいが、ここでは、「その人が持っている能力がきちんと活用されて、その人らしく生きられること」ぐらいで捉えて欲しい。私の場合、高校受験、大学受験、就職試験のときなど、道は成功と失敗の2つに分かれていて、その時々で失敗の方に行くと、もう成功の方には戻れないという一種の恐怖心のようなものがあった。それもやはり、読書をしてなったことも含め、ものを知らなさ過ぎたことと明らかに関係している。それが30代や40代と年を重ねるにしたがって、途中までうまく行っていたのにそうでなくなる、もしくはその逆もあることなどが分かるようになって行く。心が、自分の時と同様に我が子の直線的な成功を願うことは良い。しかし、頭では我が子がどのような状態にあるかをきちんと見極め、セカンドプランを準備してしかるべきである。私は教育に携わっていて情報が得やすいという有利な状況にあるため横に置いておくとして、上のようなことをきちんと理解された上で子育てをされている親御様は決して少なくない。そういう親に育てられた子供は、小学生ぐらいのときはあまりうまく行かなくても、中学、高校と進むにしたがって結果を出せる人になっていく確率は高くなる。我々の役割は、親御様が分かりやすいベストプランしか持っておらず、既に子供がその道から外れてしまっているときに、その子のためを思いベタープランを提示し、それに留まらず、それに納得していただくところまで説明を尽くすことである。そのベタープランこそが、本来、その子にとってのベストプランということになる。
 冒頭の時点では、「大人とは」としていたタイトル。その後、「大人の体と心と頭」と出てきた順番に並べようとして、最終版にたどり着いた。「心頭体」は、もちろん「心技体」を意識してのものである、それであれば、読みは「しんずたい」か。

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