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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2025.09.12Vol.70 城の崎より(三浦)

 今回の作文は、城崎の旅行記のようなものだ。一人旅である。元来、どちらかといえば、一人で何処かに出かけることを厭うタイプではない。ひとり焼肉、ひとりカラオケ、ひとり城崎。ひとりテーマパークはまだ機会がないが、そのうち達成してしまうかもしれない。東京に出かけた際も、現地の友人の都合がつかないときは日がな一日土地勘のない都会をあてどなく徘徊しまくっていたこともあるので、気ままな一人旅は嫌いではない。
 城崎といえば、真っ先に浮かぶのは志賀直哉の「城の崎にて」だった。今回のタイトルも少しそれに倣っている。教科書に載っていたこともあって幾度か読んでいるはずだが、子どもが鼠をいたずらに死なせる場面の印象が強すぎて、それ以外の記憶はおぼろげであった。それでもまあ天下の志賀直哉だし、そして案の定城崎文芸館もあるし、と、今回の一泊二日の旅行に踏み切った。
 文芸館の休館日だけ調べて、素泊まりの宿と電車の切符だけを買ってのこのこと出かけて行ったのは八月末だ。大阪から城崎温泉までは特急電車で三時間弱、姫路を過ぎたあたりからは時折普通列車かと勘違いするほどの速度での走行もあり、見渡す限りの自然の中をのんびりと進んでいく。なんというか、そういったところにも旅情があった。夏はシーズン外なこともあってかそれほど人は多くなかった。外国人観光客もさぞ多いだろうと踏んでいたのだが、実際には現地でも時折見かけるくらいだった。ただ、宿泊した宿では海外の人が働いており、その割合も多いような気がした。働き手不足の影響もあるのかもしれない。素泊まりのできる宿が増えたのも、飲食と宿を別にすることで宿泊客を多く受け入れることができるというのがあるらしい。
 さて、話を戻す。まずは城崎といえば城崎温泉、外湯巡りだろう。個人的に大衆風呂というものに苦手意識があったため、宿を取れば入り放題のパスがついてくる、とあっても巡る気はさらさらなかったのだが、特にやることもないので思いつきで足を運んでみることにした。結果的にはものすごく楽しくて、七つの外湯のうち、定休日の関係で難しかったものだけを除いて、結果的には六つは回った。そのうち一つは雨宿りも兼ねて二回、一つは朝一番に向かったので、なかなかのハマり具合だったかもしれない。
 私は視力が弱いので、眼鏡を外すと何もかもがぼやける。その状態で温泉に入るのだが、驚くほど何も見えず、かえってすべてが新鮮なのだ。近づかないと掲示されている字が読めないので片っ端から近づいていく。人の顔もよく見えないので、人を意識することもなく、そして意識されているとも思わない。それが個人的にとても気楽な距離感だった。先ほど「雨宿り」と書いたが、突発的な雨の多い時期だったので、露天風呂で30分ほどぼんやりと時間を潰したことがあった。露天風呂の端、屋根のある下に皆が静かに並んで湯に浸かり、雨の打ち付ける水面を眺める。時折雨をものともしない人がふらりと中心まで出ていく。雨の影響で少し温度の下がった湯も含め、その時間と経験がとても印象深く、城崎のことを思い出そうとするとまずそれが浮かんでくるし、これからしばらくはそうなのだろう。あと、温泉は問答無用でスマホなどの機械に触れないので、そういう意味でもデジタルデトックスになった。温泉にはそういった効用もある。
 もう一つの目的である文芸館は、志賀直哉や志賀に勧められて訪れた彼の友人に関する展示がほとんどだろうと思っていたが、「城崎を訪れ、作品に残した文芸人」という枠組みではかなりの人数についてのパネルがあり、温泉街というものの強みを感じた。実際、街中にも吉田兼好や松尾芭蕉、島崎藤村などの文学碑が多く点在している。もちろんそういった展示も面白かったのだが、特に興味を惹かれたのは約百年前、北但大震災によって城崎が火災に見舞われたこと、そこからの復興の足跡だった。当時の状況はひどく、山に逃げてもそこまで火の手が回り助からなかったともあった。だが、温泉があれば復興できると立ち上がり、まずは教育を軸にと子供を集めて学校を真っ先に開いたり、人々が自身の土地を譲ることで道路を広くしたり(道がふさがったことで救助が遅れていた)、建物は景観のためにも木造主体での再建をしたりと、多くのことを乗り越えたのだそうだ。当時の城崎を訪れた島崎藤村の作品が記されており、至る所に足場がかかっていることや、それでも温泉街として既に機能していることなどが書かれていた。後から調べたところ、『山陰土産』という作品らしい。今年のGWにも城崎では火災が発生していたが、八月末には一見してわかるような名残はなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、そう思わせない穏やかな活気の方が勝っていた。これは百年前もそうだったのだろう、きっと。
 文芸館でありのままに書く旅行記というものに憧れ、帰路の電車からゆっくりと書き進め始めたはずが、気づけば数週間経っていた。城崎は文学の町として、湊かなえや万城目学の「城崎限定」短編小説を発売している。まだ読んでいないそれが手元にあるのだが、タオル生地でできた特別製の表紙を撫でつつ、いまだに温泉に思いを馳せている。

2025.09.05Vol.69 師匠の奥義(西北校・土屋)

 私の記憶に残る作文の師匠は、ある全国紙で社会部デスクをしていたF氏である。他にも数人携わってくれた人はいたが、「師匠」と呼べるのは彼が唯一無二で、心の原風景に存在している。
 もう30年も前の事、新聞社を目指して就活していた私は、大学生活と併行して、マスコミ志望者向けの予備校に通っていた。入社試験では特に論作文の配点が高く、F氏はそこで“アルバイト講師”をしていた。全国紙のデスクという本職とそのような副業を兼務してよかったのかどうか、今でも定かではないのだが、F氏には枠に囚われない大らかさがあり、それだけに夢を持つ若者たちの面倒見もよかった。授業の後には決まって、希望する学生たちを引き連れて、近くの喫茶店で「講評茶会」を開いてくれた。一つのテーマで各々が書いたものを、学生同士で交換して読み合い、感想を語り合う機会を与えてくれたのだが、同じお題でもこんなにも異なる切り口があるのかと興味津々になったのを覚えている。何よりも一人ひとりに、時に冗談を交えながら、それでいて適切なアドバイスをしてくれるのが、楽しく、有難かった。
 勿論私はこの会の常連で、F氏の出来るだけ近くに座を占め、一言一句漏らさぬように耳を傾けていた。先生は大抵私の書いたものを面白がり、次の頑張りに繋がるような声掛けをしてくれた。しかしある日の小論文では、渋い表情だった。確か「男女雇用機会均等法」をテーマに、「これからの社会に求められることを述べよ」というような設問だった。私は女性の社会進出が進んでいくことへの期待や喜びを綴り、「だからこそ、女性であることに甘え、全体を乱してはならない。そのようなことがあれば次世代の女性たちの行く手を阻んでしまう」といったような事柄を述べた記憶がある。
 何ともレトロで全体主義的な論調である。性にせよ人種にせよ、あらたな属性が加わるということは、これまで通りとはいかず、構造的なイノベーションを必要とする。大きな困難を伴うが、それを超えて行く中で人々の意識は徐々に変化し、組織として新たな展望も生まれる。様々な特性を持った人が生きやすく、活かしやすくなる、といった事である。上の作文は旧来の枠に自らの性を押し込め、まるで古めかしい男性の仮面を被っているようである。
 だが無理もなかったのかも知れない。この法律が施行されてからまだ5年未満の頃で、育児休業法は審議の途中、出産・育児などを理由とした不利益取り扱い(出産で休暇を取った後、その人の座がなくなっていたなどといったこと)も「禁止項目」にはなっておらず、「努力義務」だった。新聞社のセミナー後の懇親会でも、「成績が優秀なのは断然女子。でも(採用しても)子供を産むからな…」というような呟きを耳にしたこともあった。そんな時代に、男性が大多数の組織に所属し夢を叶え続ける事を、勢いばかりが有り余った未熟な頭で、懸命に考えた末に辿り着いた解答だった。
 F氏は磊落な大声のいつもとは異なり、低く重みのある口調で、次のような助言をしてくれた。「君は女性なんだから、もっと女性に寄り添った物の見方をせんとあかんで。これなら男の論理で男が書いた文章と変わらん。女性の視点が入ってない」。銀縁眼鏡の奥の、細く鋭い目に見据えられた。
 しかし当時の私には、その言葉の意味が理解できなかった。それどころか、「女性なんだから」「女性の視点で」との言い回しが、ジェンダーに境界線を引くようでF氏らしくないと、浅はかにも、言葉尻だけを捉えて少々気分を損ねていた。しかし彼の言葉に込められたメッセージを、私はその後、身をもって体験することになったのだった。
 社会へ飛び出し、念願叶って地方にある新聞社に入社した。本社から離れた或る地域へ、“その支社初の女性記者”として赴任することになった。
 着任から1カ月足らずの間に、難題が次々と降りかかってきた。最も困難に感じていたのは、私の指導役の先輩(一定の地位にあるオジサン)が、「女は嫌だ」と受け入れ姿勢を示してくれない事だった。事件や事故を告げる「緊急」の呼び出しに、駆け付けると何もなく、深夜に何軒も飲みに連れ回されることが度々あった。途中で断ると「男と同等じゃないな。お前の原稿は見ないからな」が決まり文句だった。要は「セクハラ」と「パワハラ」がセットになって飛んできたのだが、前者は定義がまだ曖昧で、後者は用語さえなく(提唱されていなかった)、この身に伸し掛かる不本意な諸々が何なのか分からず苦しんだ。言葉がないという事は恐ろしい。
 その先輩と2人で詰める初の夜勤の前日に、上のような状況に対処して貰いたくて、上役に相談した。仕事をきちんと覚えたかったのだった。返答はすぐだった。「明日は会社を休んでくれないかい。腹痛とかで」。周囲は一様に無表情で、業務を進めていた。見て見ぬふりという風だった。そんな状況が何年か続き、私は社内で自分の考え、つまり「声」を出さなくなった。出せなくなった、のだった。
 F氏の事は折に触れ脳裏を掠めたが、彼の言葉の意味が分かるようになるのには、実はそれから更に数十年を要した。巻き返しを図ろうとその後、同業他社へ入社し直し、結婚、出産、慌ただしい保育園の送迎、頼みの綱の実母の病気、退職、子育て、晩年の母の介護、そして看取り。一つひとつを経験し、少しずつ身に染みてきた。そしてある時、記憶の襞に潜んでいた、助言の続きが蘇った。
 「色んな声を拾わないと。大きい声は自然に耳に入ってくるけど、それだけ聞いてても、問題の本質は見えへんで。君は少数派として社会へ出て行くんだから、小さな声を拾わんと、何も変わらんよ。誰がするの?」。
 「志高塾」にご縁を頂き、勤務して6年以上が経つ。F氏の言葉は、今では座右の銘となっている。
 「君、複眼を持って物事を見ているか?傾聴してるか?」。
 生徒たちの意見作文などの添削をしている時、それは蘇り、私の中に生きている。

2025.08.29Vol.68 嫌いなアイツと夏にちょっとだけ仲良くなるには(徳野)

 夏期講習が終わった。毎年、親御様向けの案内を配布する時は「1か月もあるんだなぁ」と、果てしない道のりが広がっているような感覚を覚えるのに、いざ始まってみると「光陰矢の如し」である。精神面でもそうだが、特に公立校の夏休みは実際に短くなっている。丸々1か月は羽を伸ばせていた世代の私にとって8月31日といえば、自由研究や図工などのラスボス級の宿題を徹夜で完成させる地獄の一日だった。ところが、最近の小中学生はほとんどが学校で机に向かっているのだから未だに違和感が消えていない。
 それでも容赦なく課されるのが作文系の課題である。とりわけ読書感想文にきちんと向き合うには10時間は必要だし、そこにかかる多大な心理的負担を大人なら誰しも身を持って知っているだろう。つい先日の高槻校でも、お子さんがいる社会人講師との会話で「お家でも塾でも面倒を見切れない子の場合はどうしているのでしょうか」という疑問が投げかけられた。私は(あくまで一般論として)「今どきはChatGPTにでも丸投げしていると思いますよ」と答えたのだが、ここ1か月で自分が生成AIに触る機会が減っていたのを思い出したのもあり、志高塾の課題図書でもある滝井幸代の『レンタルロボット』の感想文を書かせてみることにした。ChatGPTには小学3年生になりきるよう指示を与えた。そして、数十秒ほどで表示されたのが以下の文章である。

 わたしは『レンタルロボット』を読んで、ロボットは便利だけれど少しこわいと思いました。ロボットに友だちのかわりをさせたり、いやなことを全部まかせたりすると、人は自分で努力したり気持ちを伝えたりすることを忘れてしまうと感じたからです。
 たとえば、友だちとけんかして仲直りするとき、自分の言葉で話すから本当の気持ちが通じます。でもロボットがやってしまったら、その大切な練習ができません。
 また、ロボットは命令されたことしかできないので、本当の思いやりはもっていません。だから、人と人との心のつながりはロボットでは作れないと思いました。
 この本を読んで、めんどうでも自分でがんばったり、気持ちを伝えたりすることが人間らしさにつながるのだと気づきました。わたしもこれから友だちや家族との時間をたいせつにしていきたいです。

 さすがは最新版のGPT-5だ。あざとい。自己評価もさせたところ「小学生らしく『気づき』や『自分の体験と結びつけた考え』も盛り込んでいて、提出しても十分に評価される内容です」とのことで、改善点としては「小学3年生としては少し大人びた表現が多い」と「本文の具体的な場面の引用やエピソードがもう少しあると、読んでいない人にもより伝わりやすくなる」を挙げていた。実に的確である。『レンタルロボット』に関するインターネット上の情報が少ないのもあり、作品の内容を探る手掛かりは題名くらいしか無かったのだから。つまり、AIはこの世に存在しない(であろう)物語を創作した上で、世の大人たちが納得しそうな教訓やら何やらを並べるというハルシネーションを起こしていたのだ。余談だが、先ほど登場した社会人講師から面白いエピソードを教えてもらった。作家の平野啓一郎氏は学生時代、本を読まずに自身の想像力だけを頼りに原稿用紙を埋めていたらしいのだ。ある意味で時代を先取りしている。しかも、高校の教員には一度も悟られなかったというのだから、小説家になる人物の「挑発力」は一味違うということだろうか。
 話を戻すと、今回は「だから自分の力で書き上げることに意味がある」ということを伝えたいわけではない。保護者や生成AIによる代筆がまかり通る背景にある、教師、ひいては大人への「侮り」に近い感情が個人的には気になっている。いや、見くびられても仕方がないような状況が、私が知る限り二十年は続いている現実が気になる、とした方が正確だ。例えば、毎日新聞社が主催の全国読書感想文コンクールの課題図書に小中学校の先生方は目を通せているのだろうか。目の前の業務に必死な教育現場の様相をほんの少し窺うだけでも要らぬ心配を抱いてしまう。さらに、自由図書となると判断基準が「文章に破綻が無ければ大丈夫」程度になってしまうだろう。そして、フィードバックなど夢のまた夢だ。生徒に言葉を紡ぐことを求めているのに、喩えるならば、半ば強制的に投げさせたボールをただ受け止めてから黙ってどこかにしまい込むような真似をしていることになる。生徒にとっても、行方不明が決まっている作文に思い入れなど生まれない。だから「どうせ気づかれないし」と、抜け道を選ぶのだ。
 でも、読んだり書いたりすることが元々好きな子には、大人がどうかだなんて関係ないのではないか、という声が飛んでくるかもしれない。しかし、どうやらそうではないらしい。今年の夏は人気の文筆家による読書感想文講座を謳ったネット記事にいくつか当たってみたのだが、むしろ、「書かせること」に対して最も冷ややかな目を向けているのは執筆業のプロだという事実を痛感した。皆、学校から課される感想文の存在意義を疑うところから始めていたからだ。少年少女の頃から様々なジャンルの作品に触れ、生身の人間が善悪を併せ持つ不甲斐ない生き物だと感性で学んできた人にとって、「内面の成長」という結論付けが暗黙の了解となっている宿題には反発心しか無い。中でも、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』や『「好き」を言語化する技術』が話題となった三宅香帆氏による記事(https://toyokeizai.net/articles/-/690496?display=b)は印象的だった。作文コンクールの方針に透けて見える「読書を通して道徳的な価値観を身に着け、豊かな人間性を育んでほしい」という思惑に疑問を呈しつつも、先生に褒められやすい文章に仕上げるテクニックを紹介しており、編集部からの要望にきちんと応えながら「どうせこう書けば満足なんでしょ」と、教育関係者への皮肉を効かせることも忘れない手腕には思わず舌を巻いてしまった。そのシニカルさは、「提出して十分に評価される内容」を実現させる型を無邪気に適用するChatGPTには出来ない芸当だ。
 確かに、そもそも本を読む習慣が無い子どもに原稿用紙何枚分もの分量をやらせるのは逆効果だ。しかも「善いことを書かなくてはならない」という圧力がかかっているのだから尚更である。夏休みの宿題で作文をやらないといけないのであれば、漫画感想文や俳句(逆に難しいだろうが)に取り組むのでも良い。だが、ここまでの展開からして意外だろうが、私自身は読書感想文というものを無意味だとは捉えていない。それは教育関係者の端くれとして恵まれた環境にいるおかげだろう。生徒の反応を間近に見える教室で腰を据えてコミュニケーションを重ねられている。特に今年は、辻村深月の『かがみの孤城』を題材に選んだ生徒とやり取りする機会が多かったのだが、不登校を扱った本作に対する、一筋縄ではいかないリアルな声に触れることができたのは大きな収穫だった。作者が示した結末に納得できずとも、そこを出発点にして自分なりに道を模索していけば良いのだ。
 読書感想文は、学生時代の「失望と軽蔑」、あえてパンク風にすると「クソったれなもの」の象徴になっているかもしれない。その風潮を知りつつ私が嫌いにならずに今まで来れたのは、自然体の自分を表出できる手段になりえると実感してきたからだ。本の作者を含めた大人の権威に同調したり感銘を受けたりしたのであればそれで良い。ただ、批判と分析だって立派な感想に昇華できる場が志高塾なのだと思う。むしろ、そういう心を失わずにいた方が、読み書きを素直に楽しめる大人になれる。

2025.08.22社員のビジネス書紹介㉓

三浦のおすすめビジネス書
斉藤徹 『だから僕たちは、組織を変えていける やる気に満ちた「やさしいチーム」のつくりかた』 クロスメディア・パブリッシング

 社会は農業社会や工業社会を経て、今やインターネットの発達により情報社会と化した。それによりビジネスモデルも変化して然るべきなのだが、多くの会社では未だ旧態依然とした、大量生産を基盤にした工業的な労働システムが蔓延っている。そうではなくて、現状の知識社会システムに適応した働き方をしなければならない、という本だ。そういったことを書くビジネス書は多いが、この本では社会自体や理想とされてきたビジネスモデルの変遷まで丁寧に追った上で、どうするべきかを述べている。
 ここで一貫して述べられているのは、「人と人とのつながりを思い出す」ということだ。これが題の「やさしいチーム」に繋がるのだろうが、その「人とのつながり」こそが、現在求められる「一人ひとりが学び、考え、行動する組織」のために必要なものだ。血の通った組織にするためにはどうするか。信頼関係を築き、まずは関係の質を高める。そして思考・行動の質へと繋げていき、そうすれば自ずと結果が生まれてくる。この結果を焦って追い求めようと工程をスキップすることなく、ひとつずつクリアしていけば、また結果によっていずれの質も向上する好循環を生む。ビジネスもプライベートと変わらず、人と人とのコミュニケーションによって成り立っているのだという当たり前のことを意識し、人を尊重することがなにより大切だ。

徳野のおすすめビジネス書
荒木俊哉 『瞬時に「言語化できる人」が、うまくいく。』 SBクリエイティブ

 時には自社のクライアントも同席する会議。上司から俎上のテーマについて「どう思う?」といきなり話を振られると、咄嗟に言葉を出せない。つい先程まで思い浮かんでいたものがあったはずなのに。だから焦って頭がさらに回らなくなる。そして、沈黙に耐えられず何とか絞り出せたのは取り止めのない感想だけ。それを聞く参加者たちのつまらなそうな表情にいたたまれなくなるけど、次のミーティングでも再び不甲斐ない姿を晒してしまう。
 上のような場面に苦い思い出がある人は多いだろう。それを裏打ちするかのように、書店に足を運べば「上手な説明の仕方」を伝授する本がいくつも平積みされている。だが、毎月のように同類の新刊が発売されているあたり、既存の書籍では悩めるビジネスパーソンたちをまだ救えていないようである。その理由はいたってシンプルで、問題の本質が「伝え方」ではなく「伝える内容」にあることを把握できていないからだ。要するに、人は自分が思っているほど意見そのものを練れていない。
 本作の著者は電通のコピーライターを生業としている。言葉を扱うプロフェッショナルとも言える荒木氏によると「言語化」とは、脳内にすでにある事柄のアプトプットだけを指すのではなく、発言するべき内容を掘り下げていく過程である。そして、「掘り下げる」とは物事に対する解像度を上げて新しい視点を発見することだ。その能力は一朝一夕で身に付くものではないので、実際のコミュニケーションの場で成果を残せるようになるには日頃から地道な訓練が欠かせない。そこで荒木氏が紹介しているのが、1枚のA4用紙を使った「言語化力トレーニング」だ。設定した「問い」について「思ったこと・感じたこと」とその「理由」をそれぞれ2分の制限時間内に挙げられるだけ箇条書きしていく練習法なのだが、適度な緊張感の中でひたすら手を動かすことで頭が活性化され、いつの間にか考察を深められている、というのがメリットである。ただ、意識するべきなのは、まずは自分の「経験」を出発点にすることだ。過去の「出来事」はもちろんのこと、その時々の「感情」も合わせて洗い出すからこそ、課題分析に具体性がもたらされ、自分ならではの着眼点が見えてくる可能性が高くなる。また、トレーニングが習慣化すれば、日常生活における身の回りの物事に疑問や興味を持てるようになり、それがまたアイデアの種になる、という好循環も生まれる。
 意見作文に取り組んでいる生徒には「普段から色々なことにアンテナを張っておかないといけない」という声掛けをよくしている。大人になって働き出してからも、大切なことは基本的に変わらないのだと実感させてくれた1冊だった。

竹内のおすすめビジネス書
龍崎翔子 『クリエイティブジャンプ 世界を3ミリ面白くする仕事術』 文芸春秋 

 ホテルに対して、「宿泊施設」以外にどのような意味付けができるか。例えば、「夜通し空いている箱」。家とは違った雰囲気で、夜更かしできる空間。そのような特性を生かして大阪弁天町で開かれたのは、平成ソングを夜通し建物内で流し続けて平成最後の1日を終えるオールナイトイベントである。また、「体験型ショールーム」と考えれば各部屋や共有ラウンジに置かれた製品の広告を務めることにもなる。本来の機能は「旅の途中の休息所」だが、視点を変えれば新しい役割を見出すことができる。
 著者である龍崎翔子氏は、東大在学中の2015年に起業し、富良野のペンションを購入しホテルとして開業した。その後、多くの観光客が訪れる京都でもホテルを始めたが、ライバルとなる施設は多数。「同じ値段なら駅に近い他のところにするかな」と選ばれないことも度々あった。価格競争に参加するのではなく、来ること自体が目的になるホテルを作りたいという課題に直面した時、彼女は非連続の思考(クリエイティブジャンプ)によって糸口を見つけていった。これは「価値の再定義」「空気感の言語化」「顧客心理の観察」「異質なものとの組み合わせ」「誘い文句のデザイン」の5つの要素からなり、順を追って決めていくのではなく相互に行き来しながらコンセプトや商品の内容が確立されていくという点で「非連続」だと言える。冒頭のホテルの持つ別の意味はまさに「価値の再定義」であり、そこに異質なものが掛け合わされることで他にはないサービスの提供に繋がっている。
 1つだけではなく多面的に意味を付与することは何だかなぞかけのようで面白そうである。そういう視点で教室をより充実させるアイデアを出したい。

2025.08.15Vol.67 記録の終わり(三浦)

 以前、あまりの情報収集の面倒くささに、パソコンの買い替えをめちゃくちゃ渋っていることをここに書いた覚えがある。その後、買い替えたことは書いたかどうか記憶にないのだが、どうにかこうにか思い立って実行し、実は新しいものを迎えてもう数カ月が経っている。今までの一体型と違ってデスクトップなのでかなりの存在感があり、まだそれが堂々と鎮座している部屋の風景に慣れない。つい最近も店舗に出向いてキーボードを新調した際、今のパソコンのブラックではなく、以前のカラーであるホワイトに無意識に合わせてしまい、ちょっとちぐはぐな光景がデスクに広がっている。
 さて、パソコンを移行するにあたって、データに関してはUSBを使って移動させることにしていた。大容量のものを持っていなかったこともあり、家に散らばっていたUSBをかき集め、数個に渡ってデータを移し変えた。その作業もきちんと終わらせたと思って一安心していた矢先、つい数週間前に、ふと10年分くらいのデータが失われていることに気が付いた。
 それだけ気付かなかったのは、すぐに使うようなものではなかったからだ。それは例えば大学時代に提出した論文や、数日分残していた日記、友人とのやり取りなどで、必要になることはめったになく、なんとなく「見返したいな」と思い立たなければ開くことはない。だから気づくのが遅れてしまい、そして、困るような目には遭ってもいない。けれども、私はこういうのはなるべく残しておきたいたちだ。時折抜けているところはあれど、高校時代のスマホの写真のデータもきっと残っているし、遡れば、小学生時代のパソコンのデータだって、メールの履歴だってある(はず)。だから今回のデータ紛失は結構なショックだった。旧パソコンからUSBにデータを移したことは覚えているので、そのUSBを見つけさえすればいいのだが、見当のつくところは一通り探し終えてしまい、あとはふとしたときに現れてくれるのを祈るばかりである。
 クラウドに保存しておけばよかったのではとも思ったが、私はクラウドをいまいち信用しきれていない。そのクラウドサービスが終了すれば跡形もなく消え失せるし、そうでなくとも誤作動で消えてしまうかもしれない。勝手に同期して勝手に消えたりなんかしたらきっと許せないので、すべてのデータはオフラインで管理することにしている。やはりUSBのような、物理的なデバイスが安心できる。
 USBの話で、ふと濱口秀司氏のことを思い出した。とても簡潔にいうと、濱口氏はUSBが開発された際のコンセプトデザインにおいて、とにかく「すべてがネット上で完結する方向に向かうだろう」という当時の感覚とあえて逆行し、物質的な感覚こそが必要になるのではと、今のような記録媒体を生み出した。その結果、こうして世界的に受け入れられる保存メディアが生まれたというわけだ。ここで濱口氏のアイデアの出し方について舵を切ってもいいのだが、ここはまだ記録媒体の話をしようと思う。
 物理的なメディアはやはり安心感がある。しかし、私のように紛失しなければずっと残り続けるのかというと、そうでもない。以前インターネットで見かけて気になっていたのだが、DVDが普及して数十年、経年劣化が進んで見られなくなっているDVDもそれなりにあるらしい。中のデータは無事だったとしても、外側のディスクが「物」である以上、どうしても熱などによる劣化は避けられない。そのため、知らず知らずのうちに動作の限界を迎えているということもあるようだ。「物」である以上、といった手前USBも調べてみたところ、これもやはり数年~十年ほどの使用期間で見ておいたほうがいいらしい。デジタルからは離れるものの、物理的な保存媒体といえばやはり「本」で、そう考えると上記のものよりも長持ちはするものの、やはり永遠に残り続けるものでもない。
 インターネット上でも、ホームページの期限が切れたりリンクが切れたりして、見れなくなったページは多くある。デジタルでも物理媒体でも、どんな手段にせよ、何かをずっと保存し続けることは難しいのかもしれない。そんなふうに考えて自分を慰めつつ、やはり、寂しいものは寂しい。

2025.08.08Vol.66 やめられないのは誰のせい(西北校・伊藤)

 スマホが気になり、ついつい手が伸びてしまう。通知が来れば反射的に画面を開き、SNSを覗く。面白い投稿があるわけでもなく、何かを探しているわけでもなく、ただ無意識に指を上下に動かしている。ただ、「あなたへのおすすめ」を使えば、自分の好みに合致したコンテンツが次々と流れてくる。
 最初にこの機能を発見した時、その素晴らしさに感心したと同時に、自分の脳内が見知らぬ第三者に見透かされ、監視されているような気がして少し恐怖感を覚えた。その感覚はあながち間違いではなく、便利さの裏で実際に莫大な情報が集められ、それらは推薦システムに使われている。私はこの仕組みに興味を持ち、現在、大学院で推薦システムについて研究している。
 最近は「スマホ依存症」に加えて「スマホ認知症」といった言葉も耳にするようになった。脳が情報過多になることで、記憶を取り出す作業ができなくなり、名前が出てこなかったり、約束を忘れてしまうという、認知症と同様の症状があるそうだ。
 「Tiktok見てたら1時間経ってた」のような時間の浪費は自覚し、後悔することができるが、私たちの思考や行動がどのように変化させられていたかまでは気づいていない。無意識にネットで買った好みの服も、実際は自分の意思ではなく、デザインされた、仕組まれたものだったのかもしれない。ただ、そうなるのも当然で、それを促すことがGoogleなどの世界的テック企業のビジネスモデルであり、私たちの注意資源(どれくらいの時間、どのコンテンツを見たか)こそが彼らの利益の源となっている。
 私が以前視聴した『監視資本主義』というNetflixドキュメンタリーの中で登場したエンジニアは、皮肉なことに、「昼間は人々の注意を搾取する仕組みを設計し、夜は自分が作ったアプリに時間を奪われている」と語っていた。動画サイトやSNSは、私が好きそうなものを延々と表示する。まるでスロットマシーンのように設計されているため、新しい投稿を求めてスクロールする指が止まらない。脳はドーパミン中毒になり、常に何か刺激を求め続けてしまう。
 カフェで友人とスマホを操作しながら会話していたとき、隣のマダムが「最近の子って、ずっとスマホ見てるよね」と話していた。しかし、電車の中では、若者だけでなく、幼い子供もサラリーマンも皆ずっと同じ姿勢で覗き込んでいる。(むしろ一番見ていないのは大声で喋っているサークル終わりの大学生集団である。)彼女らが揶揄できるのは、使わなくても生活に支障が無い環境にいるからであり、一度手に取ってしまえば同じようになるぞ、と私は依然として画面を凝視しながら心の中で呟いた。
 若者のスマホ依存とよく一緒に触れられる話題に、倍速視聴がある。高校時代に通っていた予備校では、映像授業は基本的に1.5倍速で見るよう指示されていた。既習事項や得意分野は1.5倍速に設定し、苦手な分野は所々止めながら学習するなど、習熟度に応じてスピードを変えられるという点では、合理的で効果的だった。
 ただ、映画でさえもNetflixで早送りする人がいるというのは衝撃的だった。臨場感や没入感を味わえるのが醍醐味の一つだが、それさえも、「ただの情報源」の一つになってしまうのだろうか。
 関連して、デジタルが普及しているからこそ、私の中では「ライブ」の特別感が上がっている。決して安くはないお金を払い、会場まで足を運び、アーティストの生演奏・生パフォーマンスを全身に浴びるのは、「効率化」や「タイパ主義」から逃れた贅沢なひとときである。Official髭男dismの『ペンディング・マシーン』には「Wi-Fi環境がないどこかへ行きたい 熱くなったこの額 冷ますタイムを下さい」と言うフレーズがある。娯楽さえも効率化され、常に大量の処理を求められる現代社会において、私たちは自然に休む場所を求めているのかもしれない。このような状況を踏まえると、若者でさえ認知症になるのは無理もない。
 ネットコンテンツの質にも触れたい。映画やゲームには年齢制限があるが、ネットは無法地帯である。過激な動画、フェイクニュース、誹謗中傷…。最近ではAI生成物も普及している。愉快で新奇なものの裏に、少なからず被害者がいるということを忘れてはならないが、これを子どもたちは意識できているだろうか。全てが記録されるネット上では「失敗してから学ぶ」ことは危険なため、幼い頃からネットリテラシーを高めることは必須である。
 例えば、AIの言うことを鵜呑みにしないことが挙げられる。塾の教材の1つに、社会問題に対してグラフや表を活用しながら意見を述べる『資料読解』があるが、タブレットを使って何か調べ物をする際、AIの要約をそのまま作文にコピー&ペーストしてしまう生徒は多い。その度に口酸っぱく、出典や根拠を調べるよう言っている。
 私は「ゆとり」と「Z世代」の過渡期で育った。幼少期は時折パソコンに触れ、スマホは思春期と共にあった。ネットの便利さに夢中になりながらも、次第に生活が支配されていく違和感を覚えたが、それが今の進路を決定するきっかけとなったことも事実である。だからこそわかる視点や肌感覚で、生徒に寄り添いながら、今後とも情報社会との向き合い方について共に対話していきたい。

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