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2026.05.01Vol.92「一期一会」の先へ~其の一~(徳野)

 月曜日15時10分、京都市は快晴だった。志同くVol.86で取り上げて以来ずっと先延ばしにしていた「cafe出町びぎん」を訪問するべく河原町に降り立った。お店の最寄りのバス停は「河原町今出川」もしくは「葵橋西詰」で、どちらも京都河原町駅から約10分とのことだったが、私はさっそく行き詰まっていた。どの乗り場に向かえばいいのか分からなくなったのだ。皆様お察しの通り、私は極度の方向音痴である。よって、ターミナル駅前のバス停となると路線が入り組んでくるので、あっという間にお手上げ状態に陥る。右往左往している間に時間は無情にも過ぎていく。お店は17時に閉まるというのに。そもそも家を出る時刻も遅すぎた。花粉症なのか知らないが昨晩から続いていたくしゃみと喉の痛みを理由にだらだらと過ごしてしまった。体調不良を押して外出するならさっさと出発すれば良かったのだ。もうこうなったら「あの手」を使うしかない。己の迂闊さを呪いつつ、カラオケ屋の前で待機していたタクシーに乗り込んだ。
 あくまで個人の感覚になるが、京都のタクシードライバーさん達の運転はワイルドだ。今回お世話になった人も、他の地域の運転手さんと比べて体感1.3倍ほどのスピードで街を駆け抜けてくれた。そういえば座席に掛けてあったブランケットもチーター柄だった。そのおかげか乗車中ずっとはらはらしっぱなしだった。しかしながら、サービス精神旺盛で、(はるかに年下の私が言うのも変だが)とても愛嬌のあるご老人ではあった。例えば、鼻をすすっている私を一瞥するや否やのど飴を2つ差し出し、「ゴミはそこの吸い殻入れに捨てたらええわ」と声を掛けてくれた。親族以外の、いわゆる「大阪のおばちゃん」的な存在から飴ちゃんを貰った経験すら無い身としては、京都のおじいちゃんによる心遣いへの感激よりも先に軽い驚きを覚えてしまった。その後、信号待ちの度に挟まれる観光案内に相槌を打ちながら車に揺られること7分。寺町通で降ろしてもらった時のお会計は2,200円だった。財布からまず2,000円を出したところ、運転手さんから「残りの200円は無くてええわ。あとは自分で頑張って(目的地に)辿り着くんやで。」との言葉を受け取った。ちなみに、こういう風に「負けて」もらったのも初めてだった。さすがに今度はきちんと感動しながら何度もお礼を伝えることができた。
 歩きながらふと記憶に蘇ってきたのが、中学2年生の頃にクラスメイトだったMちゃんのことだ。Mちゃんは学年内での評判がとにかく悪かったし、彼女の唯一と言っても良い友人も陰ではMちゃんをこき下ろしていた。なぜなら、自分は教員の目を盗んで校則をしょっちゅう破っておきながら、他の生徒のルール違反やミスを見つけると、即座に担任教師や部活の顧問に報告していたからだ。また、そういった棚上げ行為をしていない時でも、人に接する態度が苛烈だったため、私自身、意識的に彼女を避けるようにしていた。だが、そんなMちゃんに異変があったのは2年次の秋からだ。まずは、教員に頻繁に言いつけに行くのを止め、所属している吹奏楽部でも落ち着いて練習するようになった。そのおかげで周囲との衝突も各段に減った。ここまでは良かった。同時に始まったのが、「あげる」行為である。先述の通りお菓子の校内持参は禁止だったのだが、Mちゃんはチョコやらグミやらを生理用品を入れるポーチに忍ばせ、昼休みに体育館裏や便所で会った顔見知りの女子に上目遣いを送りながら「これ、食べていいよ」とおもむろに取り出すのだ。正直に言って意味もなく睨みつけられるよりも迷惑だったし、以前の姿を知っているだけに「何か企んでいるのではないだろうか」と勘ぐってしまっていた。ただ、私には毅然と断る勇気が無かったため、「ありがとう、また今度にしとくね」とお茶を濁して逃げていた。大半の生徒も似たような対応をしていたので、Mちゃんの周囲に集まる人は相変わらず少なかった。そして、本人も効果の薄さを実感したのか、冬になる頃には目立った行動を取らない本当に大人しい子になっていた。年齢を重ねた今となっては、Mちゃんの孤独感が痛いほど分かる。けれども、残酷ではあるが、彼女が心を許せる友達を得られなかったのは仕方ない、とも思う。あんなになりふり構わずいきなり下手に出て、人の心を物で釣ろうとしていてはかえって距離を置かれるからだ。また、Mちゃんは相手にまで校則違反というリスクを負わせることで連帯感を生もうとしていたはずである。彼女がその点にどこまで自覚的だったのかは不明だが、最終的には「これでは上手く行かない」と悟ってくれたことには救いがある。
 Mちゃんのことを思い出したのは、タクシードライバーさんの気遣いが細やかでありながら、とてもさっぱりとしていたからだろう。二人のあり方は対照的だ。短くて1年間は付き合わなくてはならないクラスメイトとは違い、観光地の運転手と乗客というのはまさに「一期一会」の関係にあるとみなせる。そして、たった一度きりだからこそ、無償のサービスを通して相手を喜ばせて、お互い気持ち良く別れたい。あの運転手さんは「純粋」を感じさせてくれた。土地勘の無さ以上の問題を抱えた私を「本当に行ける?」としきりに心配してくれたおじいちゃん。おそらく後期高齢者に差し掛かっていて耳も遠くなってきている様子ではあったが、とにかくご本人が望む形で幸せに生きてほしいと願う。

 さて、Googleマップいわく、寺町通りから路地に入り、まっすぐ進めば「cafe出町びぎん」はある。とのことだったが、多彩な喫茶店や豆餅で有名な「出町ふたば」が店舗を構える通り沿いとは違ってごく普通の住宅が並んでいたので、「本当にあるのか?」と若干不安になってきた。
 すると突然、宙に浮くつぶらな青い瞳と目が合った。出町桝形商店街の目印(と私が勝手に認識している)の巨大なサバのオブジェではないか!脂の乗っていそうな立派な体躯に似合わず、ロマンチックに星を散らした瞳の持ち主である。アーケード内を散策したい気持ちはやまやまだったが、17時閉店の「cafe出町びぎん」に急がねばならなかったので、そのまま横切った。
 やっとのことで到着した「cafe出町びぎん」に足を踏み入れた第一印象は、「物凄く普通の、綺麗なお家だな」というものだった。名物店主であり、地元の方々に「ママ」と慕われているKさんがお宅の1階を活用しているので当たり前ではあるものの、テーブル、アップライト・ピアノに応接セット、パソコン用のデスクが同じ空間に置かれている店内の空気には、とても新鮮味を覚えた。ランチタイムのピークはとっくに過ぎており、その時点でお客は私だけでKさんの姿も無い、という状況も不思議な感覚をもたらしていた。30秒ほどキョロキョロとした後に厨房の方をおそるおそる覗き込んでみると、タイミング良くKさんが2階から降りてきた。他方のKさんにとっては「運悪く」だっただろう。「すみません・・・」という弱気な声を漏らしながらこちらを窺ってくる幽霊のような私に気づくなり、思わず「うわぁ!!」と悲鳴を上げていた。さらには、直後に「大声を出してごめんなさい!」と謝らせてしまったことは申し訳なかった。(Kさん、あの時は本当に失礼いたしました。)ただ、Kさんが驚いた際に彼女の体から放たれた声の瑞々しい張り具合を耳で感じ取った時、「本に出てきた、あの素敵なママだ!」と嬉しくなったのも事実である。我ながら気色の悪いことを書くが、それだけKさんは、私が頭の中で思い描いていた以上に快活で、初対面の相手との間にさえ壁を作らない人なのだ。そして、ひとしきり挨拶が済みしだい、看板商品のホットコーヒーを淹れていただいた。それから50分程の滞在時間の内にも色々な事があったのだが、このままだととんでもない文章量になってしまうため、続きは次回に。

2026.04.24社員のビジネス書紹介㉛

三浦のおすすめビジネス書
永松茂久 『人は話し方が9割 2』 すばる舎

『人は話し方が9割』、普段あまりビジネス書棚をじっくり見ない自分でもかなりよく見かけていた。手に取ったことはなかったが、2といっても小説の続編のようなものではないので、今回は2から読み始めることにした。
 話し方というとまずスキルを磨くイメージがあるが、本書ではとにかく「心構え」の話から入り、一冊を通じてそれがテーマとして通底していた。「会話とは相手を思いやることで、だから苦手な人とうまく話そうとするのではなく、心から大切な人に対してうまく話すにはどうするか、を考える」というものだ。大切な相手だからこそ、相手を不快にさせずに話したい。そうやってスタートラインを引くことで、却って小手先のスキルではない会話術になるのだろう。「相槌を打つ、自分を主語にせず相手が何に興味を持っているかを軸に置く、自分の話に持っていく前に質問をして話題を広げる」…本文で取り上げられている手法らしいものは、相手を思い、関心があれば自ずと出来そうなものだ。無理にうまく話そうとするよりは、自分が相手を尊重していることが正しく伝わるようにしたほうがいい。
 マイナスな言葉を使わない、相手を否定しない。本書に取り上げられていたことは相手を不快にさせないために大切だが、大切だからこそ、あえて言うべき場面もあるよな、ということを考えながら読んでいた。添削することは決して否定ではない。ただ、頭からすべて肯定してしまうのももちろん違う。ちょうど志高くのVol.731で松蔭が「2つの選択肢があり、そのどちらにするかで迷えば、より自分の気持ちが伝わる方を選ぶ。」と述べていたが、その伝える内容が相手を思ってのことかどうか、そこが肝心なポイントなのだろう。それさえ頭にあれば、落ち着いて、伝えるべきことを伝えられるはずだ。

徳野のおすすめビジネス書
グレッグ・マキューン 『エフォートレス思考 努力を最小化して成果を最大化する』 かんき出版

 本作は『エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする』の続編である。初めに「エッセンシャル思考」に軽く触れておくと、ビジネスだけでなく学業や家事育児も含めたタスク数を必要最小限にして、本質的な物事に注力するための考え方である。そして、今度の「エフォートレス思考」は、業務や用事を絞り込んでもなお仕事で疲弊してしまう人ための技術だと言える。英単語の”effort”を聞くと即座に「努力」と日本語訳してしまうが、本来の意味はポジティブなものばかりではなく、「骨折り損」というなるべく避けたい状態を指す場合もある。そして、心身ともに摩耗して生産性が落ちてしまう要因は主に、行き過ぎた完璧主義にある。苦労の割に結果が伴っていないのであれば、自身が装飾や形式といった表層的で些末な部分にばかり目を向けてはいないか疑ってみなくてはならない。
 また、体力と気力を長期にわたって保つ上で「一気に頑張りすぎる」のは良くない。たまたま調子が良いタイミングにあれもこれもと業務を詰め込めたとしても、その分の疲労は蓄積して数日後のパフォーマンスに悪影響を与えるからだ。だが、仕事のペースを緩めるだけでは締め切りに間に合わなくなる恐れが出てくるので、とにかく早く着手して毎日の成果を少しずつ蓄積させていくやり方を定着させる必要がある。そして、取り掛かるまでの障壁を下げるためには、自分が取り組もうとしていることの目的を明確にしてそれ以外のことを「捨てる」のが重要になってくる。
 具体的なエピソードを紹介すると、アップル社に勤めていたある社員がiDVD(デジタルコンテンツをDVDに読みませるアプリ)の設計案を、スティーブ・ジョブズに提出した。それを見たジョブズは、ホワイトボードにパソコンの液晶画面を模した四角を1個だけ書き、「動画をウィンドウにドラッグする。作成ボタンをクリックする。以上。そういうものをつくるんだよ。」と教えた。社員の方が初めに想定していたデザインのままでは、作業完了までの手順が煩雑で、詳細な取り扱い説明書が無いと利用できないような仕様になっていたからだ。当然ながら、そのようなサービスは消費者に愛されない。つまり、シンプルさの追求は、作り手側のエネルギーとコストの浪費を防ぐだけでなく、受け手側にとっての利便性や快適性にも繋がるのだ。

竹内のおすすめビジネス書
西林克彦 『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』 光文社新書

 先月取り上げた『わかったつもり』と同じ著者によって、前作から16年を経て刊行されたのが本書である。文章を読む際、分かった気になってしまうことの背景に「疑問を持たない」ことがある点が前作では指摘されていたのだが、今作では「知ってるつもり」の状態に陥っていることをその要因として挙げている。少し立ち止まればそういうものはたくさんあるが、例えば私の場合ならPodcastは何なのかよく分からないままに利用していたサービスだ。インターネット上で配信されている音声番組ということになるが、どういう仕組みになっているのか、などと突っ込まれると調べないことには答えられない。しかし、それでも正直なところ生活する分には困らない。日々大小さまざまな「問題解決」をしなければいけない我々は、用意されたサービスやツールを通して、各分野で各人が発揮する専門性をお互いに享受することで悩む時間を最低限にしている。
 しかし、そのように素通りが続いてしまうことは「問題発見」の力を弱めることになる。解決のための調べる作業に重点を置きすぎると、せっかく得た知識が孤立したものに留まってしまう。何か一つの言葉から「そういえば…」と他のことを連想していくためには、知識システムを構築していくことが必要となる。その鍵として提示されているのが「共通性」と「個別特性」である。場当たり的に知識を吸収していくと、それは個別性のものになってしまう。つい最近のことで言うと、漢字の勉強をしていた生徒が「積」と「績」を練習している際に右側を「青」にしてしまっていた。先の2つの音読みを尋ね、それが「責」の部分からきていることを確認した。そのような共通点を見出せることが、「この場合もそうだ」「これは違う」という個々を精査する姿勢や整理された状態での記憶へと発展していく。
 また、筆者は教育学者として「外側にいる人間は学習主体の置かれている状況設定に関与することでその学習に影響を与えることができる」と述べている。分かりやすいのはテストを行うことで学習者に勉強する理由を与えるというものだ。無論、その準備をしないような子どももいる。それを生徒の側の意欲の問題にするのではなく、その方法では影響を及ぼせていないと受け止めて、勉強そのものを本人に委ねるというより、上記のような確認作業を一緒に行うなど打ち手を練っていかなくてはならない。上手くいかない時、「そういう子だから」で済まされてしまうということをよく耳にする。「よく」ということは決して特殊な事例ではなく、彼ら彼女らに通底しているものがあるのだろうし、それが見えることでその子特有の課題も明らかになるのだろう。さらに、子どもたちは成長するし物事は変化する。だから共通と個別の間を行き来することは終わらない。そういうものだと認識することで「知ってるつもり」から抜け出すことができるようになるのだ。

2026.04.17Vol.91 旅する予習(三浦)

 前回取り上げた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』をしっかり観てきた。上映時間は156分、私が映画館で鑑賞した中では最も長い。もしかすると前にも書いたかもしれないが、そもそも私は映像作品に不慣れなので、長時間の作品はまず気後れしてしまう。上映中のお手洗いとかも考えると、どうしても。ただ、それでもどうしても観たかったので勢いのままチケットを取った。体感では2時間に満たなかったので、今回はかなり没入できたのだと思う。
 映像のメリットは、やはりその没入、臨場感なのではないか。視覚、聴覚、4DXであれば触覚。どこかのニュースでは、映画ではなかったはずだが、嗅覚もあわせて刺激するシステムがあるとかないとか見かけた気もする。そういった複数の感覚器官を使うことによって、多くの情報を一気に与えることができる。個人的には、特に映像になると音の恩恵を強く感じる。今回の映画でも劇中歌が本当に良い仕事をしていて、今でもその曲を聴くたびに通勤路でも涙ぐんでしまう。感動しやすいたちなので、なんなら映画では開始10分程度、まだ何も始まっていない段階から、「ああ、この主人公はこれからあんな思いをするんだ……」と小説を読んだ時のことを思い出して泣いていた。隣に座っていた友人をいくらか驚かせてしまったかもしれない。
 徳野が「志同く vol.89」で触れていた映像が先か文章が先か、という点では、ひとつ思い当たる節がある。
 前述の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の上映前に広告が流れたことをきっかけに、Audibleを少し聞きかじるようになった。まだ無料体験期間なので続くかはこれからなのだが、何を聴くか選ぶ際、無意識に小説を避けていることに気付いた。
 映像も音声も、再生は基本的に一方向である。こと物語においては、私はそれが苦手なのかもしれない。登場人物がピンチになると気が気でなくなり、そのまま数カ月くらい読み進められず置いてしまったり、あるいは先に助かるかどうかだけ確かめてから戻ってきたりすることもしばしばだ。同作者、『オデッセイ』の原作である『火星の人』も読み終えたのだが、さすがにラストだけは耐えたものの、何度か「大丈夫か……?!」と思わず先のページを確認してしまった。ただ知識不足もあいまって、「今どうなっているのか」が絵として想像しづらい場面もしばしばあったので、大変映像映えはするのだろう。しかし、映画で先に観ていたら、心配のあまり何度も目を逸らしていたに違いない。今は小説版で流れを知っているので、それほどハラハラせずに観られるはずだ。この「ハラハラ」を人は没入感や臨場感と呼ぶのかもしれないが、私にとっては、少し壁になるものでもある。だから、小説で自分のペースで受け入れた上で、映像に触れる方が、どちらの情報もしっかり拾えるようになる。とはいえ、人によってこの感覚は様々だろう。
 ちなみにAudibleでは、気にはなっていたもののまだ読んでいなかった『暇と退屈の倫理学』を聴いている。目が疲れないのが良い。ただ、電車などで聴いていると、思わず「あ~」「確かになあ」と声に出して相槌を打ってしまいそうになるので、それが一つ目の難点だ。もう一つ目は、聴くタイミングに悩むこと。本では少し読み飛ばしてしまっても戻ることができるが、一言聞き逃してしまうと、スマホを操作して戻るしかない。だから手が離せないようなタイミングは避ける。環境音で搔き消えてしまわないように、賑やかなところでも避ける。CMでは掃除機をかけながらヘッドホンをしていた気がするが、やはり聞き逃してしまいそうなので避ける。他に気が散ってしまいそうな場面でも避ける。そんなことをしていると、結局本で読んだ方が早いのでは、とも思う。ただ、耳から情報を入れる練習として、少しずつ静かな夜にでも続けていくつもりではある。
 先日の休みに訪れた小さな島の話もしたかったのだが、話がまとまらなくなってしまうので、ひとまずはこのあたりにしておく。目的地は家島。梅田から姫路までの電車、姫路から姫路港までのバス、姫路港から30分ほどの船旅……。二回目の訪問である。それほど距離としては遠くない。それでも、海と桜(と猫)に囲まれ、地域の方が通りがかりに声を掛けてくれる小さな島は、私にとってはすっかり身近な別世界だ。そこに辿り着くまで、多く見積もってもここから3時間程度。映画1本分の片道だ。

2026.04.10Vol.90 青よりも蒼い森(竹内)

 浮遊感。そしてもう後戻りはできないという緊張感。もしこれがジェットコースターならば悲鳴を上げることで恐怖を軽減できるのかもしれない。そう言っておきながら、私はバーから決して手を離さず口を固く結び、さらに目を瞑り、1周するのを耐え忍ぶタイプの人間なのだが。見回せば私なんかよりよほど乗り慣れている様子の子どもの姿。楽しそうに家族とお菓子を食べている。そんな中ではなおさら怖がっているわけにはいかない。飛行機に乗る時はいつも平静を装いつつ、心の中は大騒ぎしている。
 そんな気持ちになるのになぜ乗ったのかというと、この春休みに青森に行ってきたからである。1人ならどれだけ時間がかかろうとも新幹線で向かっていたのだろうが、今回は友人との2人旅行になり、往復の便の時間も彼女が調べてくれたので委ねることにした。そんな気持ちにいつか打ち勝つためにも、少しずつ経験を積んでおかねばならないのだ。休講期間に入る前の授業で生徒に旅のことを話すと「青森行きならたぶんプロペラ機やで」と教えられ、不安いっぱいでその日を迎えたのだが、搭乗橋もなく地上から階段を上がって乗り込むというさらに予想外のイベントに「ファーストレディみたいやん」と反対に余裕が生まれ始めた。離陸して飛行機が安定すると共に安心し、しばらくうとうとした後で窓の外に目をやると、冠雪した山が広がっていた。その場では分からず北アルプス辺りかと思っていたのだが、私の座席位置からだと見えないようで、機内から撮った写真をGeminiに見せたら石川県の白山だと解答してくれた。標高2702メートル。私にとって馴染み深い地元西宮の甲山は309メートル。六甲山ならまだしも、ひらがなで「やま」と表すのがふさわしいようなものが身近な存在だったので、これぞ「山」というものを見せてもらった。険しい山肌、雪に覆われた山頂を目の当たりにして、この先に待っているのは自分が日頃過ごしている場所とは全然違うのだということが感じられた。3月末の青森の日中は10℃くらいでそこまで寒くはなかったが、歩いていると道路脇に固められて全然溶けていない雪の大きな塊がたくさん残っていた。
 森見登美彦の連作怪談小説『夜行』の中に、青森、そして五所川原市が舞台となった「津軽」という話がある。五所川原駅を起点にして走っている津軽鉄道のストーブ列車が登場するのだが、その名の通り列車の中にストーブが設置されており、それで暖がとれるのはもちろんのこと、販売されているスルメを載せてあぶってカップ酒とともに頂けるという雪深い町に相応しい観光列車である。途中停車する金木駅には、あの太宰治の生家もあり、記念館として運営されている。好んでスルメを食べるわけでもお酒に強いわけでもないのになぜかその描写に強く惹かれてしまい、いつか行けたら良いなとずっと思っていたのだが、そのいつかが今回だったというわけだ。
 11時ごろに空港に着いてからはまず青森市内に向かった。ここからじわじわと旅程が崩れていくことになる。その原因は海鮮のっけ丼を食べた後に立ち寄った「ねぶたの家ワ・ラッセ」である。正直なところ、せっかく青森まで来たんだから見ておいた方が良いよな、駅からも近いし、という程度の意欲だった。券売機でチケットを買ったら、プリントされていたのは1957年のねぶた祭りを描いた棟方志功の絵で、すぐ近くに実物も展示されていた。サイズこそ大きくないが、迫力はある。期待が高まる。知らないことだらけで何もかも新鮮だったが、歴史のある祭りであるのに神仏の信仰に由来していないということが意外だった。起源が諸説あり、その成立背景がはっきりしていないのである。当初は竹で骨組みを作り、和紙を貼って絵を付け、中を蠟燭で灯していたのが、戦後には針金や電球を使うようになったことで、芸術性はより高まっている。広々としたスペースに近年のねぶた祭りでの受賞作が展示されており、かなりじっくり見ることができる。接触可能なものもあって、それを触っているとスタッフのおじいさんが色塗りされている部分とされていない白い箇所の違いを解説してくれた。白い部分には蠟が塗られており、色自体はつけていないのだ。ここで白を塗ってしまうと、全体が暗くなってしまうらしい。比較対象はなかったものの、例えば白目の部分は内側から照らす照明の明るさがダイレクトに伝わって、力強さがみなぎっていた。ねぶた名人は7人いるのだが、後身育成にも力を入れながら脈々と伝統が受け継がれている。2時間弱施設を回って、丁度いい時間のバスに乗り遅れ、17時閉館の三内丸山遺跡には16時前に入った。教科書で名前を見てからついぞ忘れていた場所である。現代人目線だと、縄文時代の人々の生活は単調で大した悩みも無いような気がしてならない。しかし実際にはそういったものを克服して文明が築かれてきたはずだ。土器の文様の変容や赤色の漆器の存在などは縄文人が変化を求めた証ともいえる。
 ホテルを取っている弘前には夕方ぐらいに到着して、城を見てから気になっていた喫茶店を訪ねてあとは夕飯を楽しみ、1日目を終えるはずだった。しかし、閉館まで遺跡で過ごしたこともあり、結局チェックインした頃には19時を回っていた。改めて時間を調べてみると、翌朝に弘前での予定をこなしてから五所川原に向かうと空港まで戻れるのはもう飛行機が発ってしまっている頃。そんなわけで、一番の目的だったストーブ列車はお預けになってしまったのだ。ただ、昨年12月から運行を開始していたものの年末に車両連結部分に不具合が生じ、運行そのものは停止して列車の展示のみが行われていたようである。諦めがついて弘前をゆっくり回ることにし、弘前城とは反対方向にあるれんが倉庫美術館にも行けたことで、1日目に県立美術館に入る時間がなかった無念を晴らすことができた。桜にはまだまだ早かったが、結果オーライ。とはいえ、これから先、あと3回はまた行くことになるのだろう。
 1泊2日で満足する旅行をするのは難しいほどに青森は広く、そしてすごく静かだった。日々暮らす池田の町も人がそこまで多くないのは同じなのだが、「しんとした」という表現がぴったりだという印象を青森には抱いた。まだ雪が残り、生き物たちが動き始めていないという感じだろうか。ここでの生活はどのようなものなのだろう。旅をすると、その場所に思いを馳せる。自分のそれとは異なる日常がそこには確かにあって、自分とは交わることのない大勢の人がいる、いや、大勢の人が自分とは交わることなく過ぎ去っていくのだ。通勤電車で乗り合わせる人たちだって同じはずなのにあまり意識しないから不思議だ。本当は関われる人が限られているからこそ、目の前の人と丁寧に向き合うことが大事なのだろう。そういうことを考えながら帰路につく。「家に帰るまでが遠足です」と小学生の頃よく言われていたけれど、その時間が余韻を生み出すのかもしれない。

2026.03.27Vol.89 開きかけている扉(徳野)

 前回の「志同くVol.88」を読んでいて興味深かったのは、映画とその原作小説の扱い方だ。私は三浦とは反対に、基になった文学作品を後から手に取ることが多いと自覚したからだ。とはいえ「観てから読むべきだ」という明確な意図があるわけではなく、気づけばそういう順序が定着していただけである。読み進めていただければ分かるように私の好みは古い映像作品に偏っているため、書店に行っても「映画化決定!」の帯が巻かれた本に目を留めることが滅多に無いのは大いに関係している。加えて「観てから読んだ方が二度美味しいな」と実感した経験を幾つかしてきたがゆえに、順序をわざわざ変えてみようと思うことも無かった。
 そういった経験の中でも特に印象に残っているのが、ジョナサン・デミ監督の≪羊たちの沈黙≫を鑑賞した時だ。映画にさほど興味が無くとも、アンソニー・ホプキンス演じる強烈な「レクター博士」が登場することは知っている、という人は多いだろう。公開から35年を経ても「歴史に残る傑作」という位置づけは揺らいでいないし、私もその評価じたいに異論は無い。この、奥歯に物が挟まったような書き方をした時点で悟られているだろうが、実は個人的には好きではないのだ。カメラワークや劇中音楽などの視聴覚効果に焦点を絞って捉えれば、本当に素晴らしいと思っている。だが、トマス・ハリスの原作小説に夢中になっていた身としては、映像化されたことで主人公のクラリスの内面描写がどこか淡白になっているような気がしてならなかった。小説版のクラリスもまだFBI訓練生なのが信じられないほど優秀な刑事であることに変わりは無いものの、理知的な態度を取りつつ、心の中は周囲の人々に対する皮肉や罵倒で埋め尽くされていることも少なくない。例えば、レクター博士が収監されている精神病院の好色な院長チルトンに、「FBIは色仕掛けでレクターに心を開かせるために若い美人を派遣したんだろ」という風にあからさまに侮られた際には、クラリスは表面上は受け流しながらも内心では「死ね、チルトン」としっかりと毒付いていた。私はそんな彼女に親近感を抱いているし、癖の強い男性陣と捜査上の困難に行き当たった際の彼女の心情を力強く、そして丁寧に書き込むハリスの筆力に惹き込まれている。当然ながら、尺の問題もあって映像でそこを表現するのは難しい。先に挙げた場面に関しては、映画だと「クラリスは閉口した様子を窺わせるに留めた」くらいの描かれ方になっている。彼女の冷静さが際立つシーンなのだが、どうしても小説版と比べてしまう私は「いや、クラリスはもっと俗っぽく怒らないと」という余計な突っ込みを入れることとなる。しかも作中ではそういう箇所が少なからずあるので、初めて鑑賞した時は物語の世界に入り込めないままエンドロールを迎えてしまったのだ。(だからといって、日本のテレビドラマのように、副音声で登場人物の本音を説明してほしいわけではないが。)今だに「映画を先に観ておけば…」と悔やむ瞬間がある。
 逆のパターンの体験もある。このブログを読んでくださっている皆さんは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の≪ベニスに死す≫をご存知だろうか。こちらは1971年公開。60代の人は「巨匠の代表作」と認知しているかもしれないが、いかんせん55年も前の作品なので、私と同世代でこの作品に触れたことがある人物に出会った記憶が無い。ちなみに、私自身は両親(66歳の父と54歳の母)から存在を教えてもらった。しかし、名作という前評判を受けていざ鑑賞した二人は肩透かしを食らったらしい。なぜなら、ストーリーにあまりにも単調すぎるからだ。バレるのを恐れるほどの「ネタ」も無いのであらすじをまとめると、「スランプに陥っている中年の作曲家であるアッシェンバッハが、バカンス先で遭遇した美少年タジオを追いかけているうちに、コレラにかかって死亡する」だけの話である。よって、両親から聞かされていた感想は「アッシェンバッハが汚い化粧をされて死ぬところしか覚えていない」と「タジオくん役のビョルン・アンドレセンは確かに綺麗な男の子やったけど、芝居がとにかく下手くそやった」という芳しくないものだった。だが、私はけっこう天邪鬼である。あれだけ退屈だと言われながらも傑作としての地位を保ち続けている本作に好奇心を掻き立てられ、大学1回生の帰省時にDVDをレンタルした。結果、思いがけず感動した。大げさでなく、映画が持つ力を認識させられた。我が国ではアンドレセンの容姿ばかりが取り上げられるが、≪ベニスに死す≫の魅力はアッシェンバッハ役のダーク・ボガードの演技力にある。作品全体を通してセリフ量は最低限しか無い(タジオなど二言しか発していなかったはず)のだが、ボガードは顔で語れる俳優であり、表情だけで憧憬や嫉妬といった感情を伝えてくる一方で、けっして大仰な印象は与えない。そんなボガードの姿を中心に構成されているため、「アッシェンバッハは今、何を感じているのだろうか」と考えながら画面に見入っていた。また、この、ストーリー以外の要素で観客の「読解力」を刺激するヴィスコンティ監督の手腕にも彼が「巨匠」と称される所以を感じ取った。言葉を介さない「読解力」が重要な役割を果たす本作だが、トーマス・マンというドイツの文豪による同名小説を基にしている。原作のアッシェンバッハの職業設定が音楽家ではなく文学者であること以外、筋書きじたいは映画版とほぼ同じ、正確には、映画版は原作に基本的には忠実に作られている。だが、≪羊たちの沈黙≫と同様に主人公の心理面の説明に多くの紙幅が割かれており、一つの作品から直接的に受け取れる情報量は静かな雰囲気の映画版より遥かに多い。特に、病に侵されるうちに現実と想像の区別が曖昧になっていくアッシェンバッハの目が映し出す情景の描写には迫力すら感じる。しかしながら、この文章の内容を練り始めてから気づいたが、≪ベニスに死す≫に関してはヴィスコンティ版との相違点をむしろ楽しめている。もし原作を先に読了していたなら、アッシェンバッハの心の動きをあらかじめ把握しているせいで、「この場面ではあの気持ちになっているはずだな」という風に答え合わせのような脳内作業をしながら画面を淡々と眺めてしまっていたかもしれない。さらには、ヴィスコンティの他の監督作品にまで手を伸ばしていなかったかもしれない。
 私には映像の持つ可能性を信じたいがゆえに「原作後追い派」になった節がある。だが、三浦の視点に触れたことで、長年続けてきた安全牌をあえて取らないことが何をもたらすのだろうか、という関心が生まれている。それなりに付き合いの長い他者を通して自分のそれとは異なる見解に触れることの醍醐味は、「私も試してみようかな」という風に己に引き寄せて捉えられることにある。作文は「ゴール」ではなく「スタート」でなくてはならない、という言葉が思い出される。
 最後に具体的な話をすると、今年公開の≪嵐が丘≫を週末に観に行こうと計画していた。エミリー・ブロンテによる原作小説は私が最も愛するフィクションの一つである。ところが、現時点でなぜか愛知県でしか上映していない事実(3月25日の段階では大阪でも流されていたのに)が判明したため、配信開始を待つ。

2026.03.20社員のビジネス書紹介㉚

徳野のおすすめビジネス書
宮口幸治/田中繁富 『「頑張れない」子をどう導くか 社会につながる学びのための見通し、目的、使命感』 ちくま新書

 大前提として、子どもが「頑張れていない」状態は、本人の能力不足や怠け癖から来るものではない。多くの大人は「勉強嫌いな子は、理解力が追いついていないせいで、難しい問題を解けた時の達成感が無いから努力ができないのだ」と捉えて、我が子や教え子を塾に通わせるなどして学習習慣を身に着けさせようとする。だが、それは「苦手なことでも我慢してやりなさい」という根性論の押しつけに他ならず逆効果にしかならない。児童精神科医の宮口氏によると、子どもの内にある学ぶ意欲は「➀見通し、➁目的(ゴール)、③使命感」という三つの軸に支えられて育っていくものである。そして、➀と➁に関しては後者のレベル設定が適切で無いと意味を為さない面があるので、特に小学生に対しては、学校の標準化されたカリキュラムを網羅させることに固執しない方が良い場合もある。大切なのは子どもが「意外と簡単だった」「他の事もやってみたら出来るかもしれない」という気楽さを知れるような体験を積み重ねていくことであり、さらにはその過程に大人が寄り添うことで安心感が増し、ゆくゆくは本人の自信に繋がっていく。
 「安心感」は本著において頻繁に登場するキーワードである。子どもは何より孤独を恐れる。例えば、家では机に向かわない子でも、学校の授業になると真面目に板書しながら積極的に発表するのは、周囲から取り残されることへの無意識の恐怖があるからだ。また、保護者に悩み事を打ち明ける際も、具体的な解決策よりも、苦しみを正面から受け止めてくれる相手の方を求めていることが多い。だから、そこを理解しないまま子どもを問いただしたり叱責したりすると、徐々に信頼を失っていき、最悪の場合、家族間のコミュニケーションが途絶えてしまうのだ。思い詰めている時ほど心の安定のために「話をただ聞いてほしい」と願う点は大人も同じだ、という点を忘れてはならない。
 最後に③の「使命感」について。現役の小学校教員である田中氏は、学びの最終的な目的を「周りの人と物事に関心を持ち、吸収した知識を元に他者と助け合えること」だと定めている。人との交流に充実感を覚える時こそ幸福なのだ、というメッセージを読んで、私は自分の中学生時代を思い出した。
 当時は美術の本を読み始めた頃で、西洋の有名な絵画に関する情報に触れるようになっていた。そんな折に部活の仲間たちと徳島県の大塚国際美術館に行く機会があり、同級生が展示品に対して漏らした疑問の幾つかに(今となっては赤面ものだが)答えたり、作品の背景知識を解説したりした。そんな私に心優しい仲間たちは感心してくれた。さらに嬉しかったのは、後日、皆が学校でも私が持っていた美術書に興味を示して回し読みするようになったことだ。その経験が大学の文学部を志望するきっかけになったことに違いは無いし、今の仕事にも繋がっていると考えている。

三浦のおすすめビジネス書
坪谷邦生 『図解 目標管理入門』 ディスカヴァー・トゥエンティワン

 MBO、KPIやOKR、そういった言葉をビジネス書でもよく見かける。そのたびに「そういうものなんだなあ」程度に漠然と思っていたが、目標意識を持たなければただぼんやりと日々を過ごしてしまうというのは、ビジネスにおいても実生活においてもその通りだ。
 ドラッカーが提唱したMBOというマネージャー哲学は、組織の中で「共通の目標」を設定し、それに個人が「自律的な貢献」を行うことで、「組織としての成果」が生まれる、というものだ。目標管理において特に重要なのはこの「自律的な貢献」で、自分はどのように組織や社会に貢献できるか、という自主性がなければ、ただ与えられたノルマに成り下がってしまう。実質的な目標を個人が立てるのであればマネージャーは何をするのか、それは目標の「方向づけ」だ。何のために行うのか、それがなければ目標は形骸化してしまうし、組織で考えればてんでばらばらな方向を向いてしまう。
 OKRは、その目標達成を具体的にどのようにするか、という実践手法のひとつだ。特に興味深かったのは、「100%達成できるもの、するべきもの」ではなく、達成率が7割程度になる目標を設定し、「失敗を恐れず、やってみる」という土壌を作るというものだ。やりきって然るべき目標と、少し背伸びをした目標。そういった切り分けをすることで、土台作りと挑戦が同時にできるのかと納得した。また、目標を設定する、つまり「集中するものを決めること」は「他を捨てること」ともあった。優先順位をつけるのではなくやらないことを明確にする、とはよく耳にしているのだが、確かに目標設定においても同様だ。それだけの覚悟(というと大げさかもしれない)を持って決めるべき、ということだろう。設定までにどれだけ考えたのか、それに対してどこまで丁寧に振り返りながら進むことができるか、それが「どれだけ貢献できたか」に繋がってくる。

竹内のおすすめビジネス書
西林克彦 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』 光文社新書

 文や文章を読むとき、そこに知らない言葉が多数含まれていたり、情報の関連が見えなかったりすると意味を掴みにくい。反対に言えば、語彙を増やすことや背景知識を蓄えていくことが「わかるもの」を多くする助けになる。しかし、躓くことなくスムーズに読み通すことができた時ほど「わかったつもり」に陥りやすい、というのが筆者の主張である。この状態は探索への意欲を阻害してしまうため、初め以上に読みを深めていくことを困難にする。これは誰しもに起こり得るということが、小学生や大学生を対象にした実験結果など様々な事例や、読者に提示された例文によって示されている。
 なぜそのようなことになってしまうのか。これはシンプルな話で読みが不十分だったり、誤解が生まれたまま読み進めてしまうことに原因があるのだが、もっと踏み込むと「疑問を持たない」ことや「鮮度の低い情報を粗末にする」ことによる。これらは日頃の指導においても心当たりがある。読書をしている生徒をしばらく観察し、その後内容などを聞いてみると、うろ覚えであることが度々ある。そのような生徒に共通するのは「前のページに全く戻っていない」ことである。誰だったっけ、何でそうなったんだっけ、となっていて、ただページを進めているだけなので、「量を求めているわけではないし、必要なら遡ってちゃんと前の出来事を確かめるようにしないと面白くないよ」と注意する。読解問題の丸付け中なども、台詞の発言主を尋ねた際に決め打ちで主人公だと答えることなどもある。そういう時にきちんと意識を本文に持っていくために不可欠なのが我々が行っているような「問い」を投げかけることだと言える。
 書けば書くほど、読めば読むほど考えるわけだから、分からないことがさらに増していくことは何もおかしくない。自分を卑下して、などということではなく、「わかっていないかもしれない」という自覚を持って向き合うからこそ実際に引っかかる部分が出てくるものである。指導する人間としてその意識を持ちながら学び続けるのはもちろんのこと、子どもたちを「わからない」を前向きに受け止めて考えられるように導きたい。

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