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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.04.26vol.21 その言葉は誰のもの?(徳野)

 九段理江氏の『東京都同情塔』からの引用。

 狂ってる。何が?頭が狂ってる。いや、「頭」はあまりに範囲が広いか?違う、むしろ狭いのだ。それに、「頭が狂ってる」と言うと、精神障害者に対する差別表現とも受け取られかねない。ここは「ネーミングセンス」くらいでいいだろう。じゃあ誰の?誰のネーミングセンスが狂ってる?日本人の。STOP、主語のサイズに要注意。OK、それなら「有識者」で――と、鍵のかかった私の頭の中に誰も入れるわけがないのに、オートモードでワードチョイスの検閲機能が忙しなく働く。知らない間に成長を遂げている検閲者の存在に私が疲れを覚え、エネルギーチャージのために急激に数式が欲しくなる。

文章の約5%をChat GPTで作成した(上で九段氏が手を加えた)ことで話題になった芥川賞受賞作の本著であるが、予想していたほどは生成AIが物語に大きく関わっていないと感じた。目新しい技術がどうこうではなく、SNSがインフラになった時代の個人と「言葉」の向き合い方を模索する、という巨大なテーマを掲げているからこそ、サイエンス・フィクションではなく「純文学」のジャンルに分類されたのだろう。
 そして、主人公の建築家、牧名沙羅の脳内に頻繁に登場するのが「検閲者」だ。上記の抜粋部分のように、彼女は思いついた言葉がコンプライアンス的に適切かどうか一つずつ検討し、より正確な認識が反映されているであろう表現に修正する作業をひたすら続けている。というより、作業を続けずにはいられない頭になっている。自身を突き詰めて客観視できる高い知性の持ち主なのだが、その強みのせいでかえって思考が停滞している気の毒な女性なのだ。
 ここで脱線。そういえば「検閲」と、まさに今Wordのリボンに表示されている「校閲」の違いは何なのだろうか?前者には「禁ず」、後者には「正す」イメージがある。いちおう自分なりに方向性を見出した上で『広辞苑』を引いてみたところ、「検閲」とは「出版物・映画などの内容を公権力が審査し、不適当と認めるときはその発表などを禁止する行為をいう」である一方で、「校閲」は「文書・原稿などに目を通して正誤・適否を確かめること」と定義されている。また、前者はすでに世に発表された表現物が対象になるが、後者は出版前に行われる、という発見もあった。その点を踏まえると、未発信の状態にある自身の言葉にあれこれ口出しする牧名の「検閲者」はむしろ「校閲者」と称するべきではないのか。しかしながら、そこまで物申したら生真面目な当人は言葉を紡ぎ出すことへの不安をさらに募らせるはずなので、不適切な対象を炙り出すための判断基準となるコンプライアンス、もしくは「誰にも批判されたくない」という人間心理が持つ強大な拘束力を表現するために「検閲」を採用した、という解釈に落ち着かせておく。牧名(「九段氏」とするべきかもしれないが)もそのワードチョイスに一度も疑問を呈していないので、本人の中で納得が行っているのだろう。
 閑話休題。Xを開くと、ある分野への見識が深いユーザーが配慮に欠けたポストを相手に毎日飽きもせず懇切丁寧な指摘を繰り広げている。その傍観者である私は批判の対象になっている投稿に対して「どこを直しておけば怒りを買わなかったか」を探ってみるのだが、暇つぶし以上の何にもならないと我ながらに思う。昨今の風潮の中で「正解」とみなされる内容に書き替える処理を行っているに過ぎないからだ。また、そのような発信方法のおかげで角が立たなかったとしても、自分の言葉に責任を持っているとは言い難いし、志高塾に通ってくれている皆には悪い意味での「安全牌」を狙ってほしくない。
 特に要約教材に取り組んでいる生徒に向かって「書き言葉を使わない」「簡単な言い回しに頼らない」という風に、ある種の制約を提示することは少なくない。それによって頭を抱えている生徒たちは、言語能力がむしろ足枷になっているときの牧名と同じような気分を味わっているかもしれない。ただ、私は「検閲者」ではない。易きに流れないラインを定め、生徒が各々出したものに対して「これ以上ぴったりな表現は無い」と納得できるよう、さらにはその認識のレベルを上げていけるような「伴走者」でなくてはならない。

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