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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.03.22vol.18 右とか左とかではなくて(徳野)

 3月10日、山崎貴監督の『ゴジラ―1.0』がアカデミー賞の視覚効果賞を獲得した。私は作品が公開されて3か月経った頃、賞の候補作として挙がった、という報道を目にしたのを機に鑑賞したのだが、宣伝を初めて目にしたときの感想は「これとは絶対に関わらない」だった。「終戦間も無い1940年代後半に、戦地に未練を残しつつ復員してきたであろう男性たちが、愛する母国を守ろうと一致団結する」という筋書きから、国家や世界のような「全体」の存続のために「個」が捨て身で脅威に立ち向かうのを右翼論者が賛美する構図を勝手に思い浮かべてしまったからだ。それと同時に、未見のうちから散々こきおろしておきながら、国際的な評価を得たと知って映画館に足を運ぶ私も大した俗物である。
 御託を並べたが、結果的には見ておいて良かったと思う。長い歴史を持つ『ゴジラ』シリーズの最新作なので、正直に言って話の展開は容易に予想が付くものであり、そういう意味では陳腐なのだろう。しかし、主人公である元・海軍航空隊少尉の敷島浩一(しきしま こういち)が大怪獣に戦いを挑みに行く「背景」には、はっとさせられるものがあった。以下があらすじである。
 戦時中のある日、特攻隊員の敷島は死から逃れるために飛行機の故障を偽り、整備兵たちが待機している島の基地に着陸した。しかしその晩、体長15メートルのゴジラが襲来。メンバーの中で唯一の戦闘員だった敷島は砲撃を懇願されたものの、恐怖のあまり身動きが取れず茫然とするだけだった。その間に他の者たちは嬲り殺しにされ、敷島は罪悪感を抱えながら帰国した。それから数年。敷島は同居人や仕事仲間に励まされながら安定した生活を取り戻しつつあった。ところが、核実験の影響で50メートルにまで巨大化したゴジラが日本に上陸し、復興が進む東京を破壊し尽くした。過去にけじめを付けるため、敷島は再び戦闘機に搭乗するのだった。
 要約しながら改めて感じたが、敷島は自己中心的な男だ。終戦後にゴジラと命がけで対峙した動機も「家族や友人を守りたい」というよりは「整備兵たちの仇を取ることで過去のトラウマから解放されたい」というやや利己的なものだった。そして、私は敷島の姿からなぜか作家の三島由紀夫(1925~70)の人生を思い出してしまった。文学者としては大変尊敬しているのだが、それ以外の部分では相容れないと感じてきた人物だ。しかしながら、小説家の平野啓一郎氏の言葉を借りると、三島は「生き残ってしまった」世代の人間である。彼は空襲から運よく逃れ、徴兵された後も病弱を理由に入隊を拒否されたおかげで戦後の文壇で地位を築くことができた。一方で、同年代の若者たちが戦場で命を散らしたり、この世の地獄を味わってきたりしてきた中で、自分だけが比較的安全な場所で生きながらえた事実に後ろめたさや劣等感も覚えていた。その強烈なコンプレックスが、旧日本陸軍を彷彿とさせる民間軍事組織「盾の会」の創設や武士道精神に則った割腹自決での最期といった強烈な行動として具体化した、というのは容易に想像できる。
 詰まるところ、敷島と三島の「殺された基地の人たちのために」「日本の伝統と治安を守るために」などの言葉はけっして嘘ではないのだろうが、彼らは何より自分自身を救済しようと強大な相手と戦った(戦おうとした)のだ。彼らが味わったであろう戦争の大きな渦に「巻き込まれた」という感覚を今の私が味わうのは到底無理な話だ。しかし、三島のように表面的には盲目的な愛国主義者に見える者でも、何だかんだで個人としての感情を大切していたのだと理解する視点を持てたのは、『ゴジラ―1.0』が持つフィクションとしての力のおかげなのに違いはない。歴史を「記録」ではなく人物の心情変化を中心に進行する「物語」を通して触れる中で、現実での出来事や人間に歩み寄りつつ冷静に向き合えることもあるのだ。

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