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2024.03.12Vol.631 歩んで来た道歩んで行く道

 予定通り、前回告知した高校3年生の体験談を掲載する。また、「十人十色」の後、彼はある親御様から質問を受け、メールで個別に回答したのだが、内容が良く、かつ2,000字を超えていたので、「しめしめ」となった。「ブログで使えるじゃないか」と。2週連続はさすがに手抜きが過ぎるので、志高塾の公式Xで、今週中にポストいたします。そちらの方も楽しみにしておいてください。元々は、「歩んで来た道、歩んで行く道」としていたタイトル。道は切れ目なく続いて行くので、読点は抜いた。
 
 2024 年 2 月 9 日。岡山大学医学部の「バカロレア・推薦枠」の合格発表があった。自分の受験番号を見つけた時の感動は忘れられないが、こうして大学の合格に辿り着くまでの道のりは紆余曲折そのものだった。これまでの自分の経験について、先日の「十人十色」でも話す機会を頂いたが、本稿ではより詳細に記す。
 私の父は甲陽学院を卒業し大阪大学医学部に入学した、いわゆる受験のエリート街道を走ってきた人間で「息子にも同じような道を歩ませて、医者にならせたい」という強い思いを抱いていた。幼少期から、「医師になるのがいい」「いい仕事だぞ」などと言い聞かされていて、小学生の私は「パパが言うから」「なんとなくいい仕事そうだから」という理由で医師を志していた。よって必然的に(父と同じように)甲陽学院などの難関中高一貫校を目指す流れとなり、受験勉強が始まった。
 小学 4 年生のころから大手進学塾に通い始め、それ以前から通っていた志高塾でも国語に加えて算数の授業を取り始めた。受験勉強を半ば強制的に「させられている」ような状況だ。成績に対する父の期待は当然高かった。しかしながら、大手進学塾で毎月実施されていた「公開テスト」での私の成績は酷いもので、初回こそ1500 人中 600 位程度の順位だったが、回数を重ねるごとに下降し、最終的には常に 1200 位前後を彷徨っていた。それに伴ってクラスも落ち、「ほぼ最下層」といった状況である。塾や家庭教師、親など多方面から指導を受けていたものの、勉強をさせられても、させられても、父の期待とは裏腹にその成果は全く出なかった。
 自分の中では、「どれだけやっても優秀なほかの生徒には太刀打ちできない」「勉強をしたくない」「何のためにしんどいことを続けているのだろう」という思いが芽生え始め、そのような状態でテストの結果も良くないことは明らかであった。しかし、「次こそは」と期待する両親は毎月送られてくる公開テストの結果を見て、残念そうな顔をして、ため息をつく。挙句の果てには 1000 位切ったら「何か買ってあげるよ」とにんじんをぶら下げられるも、短期的なモチベーションにすらならず、何のためにやっているかわからない勉強をさせられることに対する嫌悪感がぬぐえなかった。当時を思い返すと、勉強すること、させられることがただ嫌で、進学塾の宿題は答えを見ていたことを鮮明に記憶している。恐らく「勉強の先に何があるかが見えない」「なぜこれをやらされているかがわからない」という思いから、勉強に向き合えなかったのだろうと、今感じる。
 そんな中で、母は父とはまったく異なった意見を持っていた。父とは対照的に地方出身で、父ほど受験の世界にさらされておらず、留学経験もあったために、父の決めつけによって僕が医師になることに反対していた。むしろ、「医師にはならせたくない」や「広い視点を持たせる国際的な教育をさせたい」という思いを持っていた。結果がなかなか出ないことからもその思いは一層強くなっていったように感じる。この意見の相違から、両親は自分の進路について常にけんかをしているような状況だった。私自身がその場に居合わせることも多かったが、自分の意見を求められるというよりかは、それを傍観していることしかできなかった。自分のせいで、また自分に関して、喧嘩が勃発していること、家族の絆に綻びが生じていたことは、純粋に複雑な心境だった。勉強をずっとさせられているものの、成績が一向に上がらないばかりか、下がる一方だった自分は空回りしていたのだと思う。最終的には「自分の個がつぶれないように」と母と松蔭先生が中学受験を辞めさせてくれた。前回のブログで松蔭先生が「甘やかすのと、守るのは違う」と記していたが、まさにこのことなのかもしれない。
 そこからは、インターナショナルスクールに編入し、それまでとは全く違った環境下に身を置くこととなった。中学から入るという選択もあったが、内部進学のほうが簡単であるという話を聞き、そこは「戦略的に」小学6年から編入をした。実際、同校の中学に入学した時点である程度の英語の基礎を固めることはできていた。(とはいっても、インターに通う日本人のレベルだが)目先の進路選択を迫られることはなくなったものの、インターの中高を卒業した後の進路については自分・両親を含めて常に意識している点ではあった。「医師を目指す」必要がなくなった当時、自分の将来の仕事像ややりたいことについて決まっていなかった。むしろ「医師」という学歴色の強い進路については忌避していた程だと思う。ただ、その中高は開校して2、3年ほどの新設校だったうえに、国際バカロレアを履修できる認定校になるかも不透明だった。よって進路選択の可能性を増やすために留学を決意するに至った。
留学先はカナダのモントリオールで、国際バカロレア認定校である現地校に通っていた。カナダやアメリカでは「学士編入」や「二分野の同時専攻」を容易にすることができ、大学に行ってから自分が関わりたい専門分野や職を探すことができるため、進路をすぐに決めてしまうのではなく、まずは自分の興味を伸ばすことを軸とした。また、その環境に魅力を感じて、そのまま現地校を卒業して大学へと進学することを考えていた。日本では大学入学時にすでに学部が決まっていることが多く、そこから関われる分野や職が限られることも少なくないため、当時、できるだけ広い選択肢を持つようにしていたのだと思う。そういう意味で、「中学受験」というレールを外れたものの、別のレール(ただ乗っかって受動的に進む道という意味で)を探すのではなく、能動的に興味ある分野にいつでも進んでけるような、小学生時代とは違った考え方が身についていたのかもしれない。
 結果的にはコロナで帰国を余儀なくされた。留学中や帰国後に、自分の興味を伸ばしている中で、元々自分の中にあった、防災や人命に関わる仕事がしたいな、という思いが強くなっていった。さらに留学を通してより国際的な社会に身を置く中で、差別や貧困に直面することも多くあった。そこで、災害医療や貧困地域での医療、日本にとどまらず、国際的に活躍する国際臨床医こそが、自分の興味や想いを反映する職なのではないかと考えるようになった。そのため帰国後はインターナショナルの高校に戻り、国際バカロレアを履修して国内の医学部を受験した。結果的には、当初受験勉強をさせられるきっかけともなった職業ではあるが、当時志した「医師像」と今自分がなりたい「医師像」や、進みたい分野は全く異なっている。自分から興味を持って志したものであるからこそ、受験勉強に際しても中学受験のときとは違い、能動的に学習を進められたのだろう。
 幸い、最終的に医学部へ合格することができたものの、大学受験でも挫折を味わった。国際バカロレアの点数が思ったように出ず、既に内定をもらっていた私立大学医学部の合格を取り消されたり、本気で浪人を考えたりと、一筋縄ではいかない部分もあった。中学受験においても、バカロレア履修中に迷走した時も、浪人を本気で考えた時も、松蔭先生が脱線しないようにしっかりとガイドしてくれた。それが必ずしも志高塾や松蔭先生である必要はないが、誰か「頼れる人」「リードしてくれる人」を見つけることが大切であるだろう。
 先日の「十人十色」で受けた質問でもお答えさせて頂いたが、中学受験は「勉強がどのくらいできるかというゲーム」と見ることもできる。ビデオゲームやボードゲームなど、どんなゲームでも負けてばかりだと楽しくないし、辞めたくなる。反対に勝っているとその優越感からどんどんと楽しくなっていく。精神的にも未熟で、将来のビジョンもまだ定まっていない小学生にはそのゲームを続けるべきか、一旦引くべきなのか、わからないのだ。だから、自分が中学受験の頃に助けてもらったように、親を含めた周りの大人が、本人のキャパシティや性格を鑑みて上手に道案内をしてあげる必要があると思う。
 挫折を味わった結果、それをエネルギーに次に進める子もいれば、そこで自己肯定感を失って中学からの勉強のモチベーションが失墜してしまう子もいる。だが、それは受験で合格という成功を勝ち取っても然りなのだろう。

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