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2023.05.30Vol.592 そのとき親としてどう対応するのか

 「なんであんな風にするんだろう」、「こうすれば良いのに」。自分が同じ状況に置かれたとき、あんな風にせずにこうすれば、うまく行く確率は高くなる。他人の振る舞いに対して自分の中で自然と湧き上がって来る、多くの場合批判的な意味合いがこもっているアイデアは自分の理想を表している。少し離れたところから客観的に物事を見られているからだ。クリティカルシンキングとは批判的思考のことである。批判的思考は否定的思考ではない。誰かを否定するためではなく、物事の本質を捉えるため、たとえ専門家の意見であっても、思考停止に陥らずに、自分の分かる範囲で「ほんとにそうなんだろうか?」と問いを続けることこそがその目的である。週1回教えに行っている小学校では、生徒が黒板に書いたものを別の生徒に添削をさせることがある。その際、「添削する方は、否定では無いから遠慮せずに思い切ってやれば良い。された方は、たとえ自分が書いたものの方が良いと思う場合でも、そういう考えもあるのか、と受け止めなさい。そういう意見交換ができるように人になって欲しい。俺は、大人になった今でも人の意見を受け入れるということはうまくできないけどな」と声を掛けている。先週、「勉強するために座っている時間は長い割に成果が出ていない」ということをテーマに作文をしていた中3の生徒に、「もっと集中して、効率を上げよう」といったような安易な結論を最後に持ってくるのではなく、「なぜ自分はだらだらと勉強をしてしまうのだろうか」ということをとことん掘り下げた方が良いというアドバイスをした。たとえば風邪を引いたとする。その原因を探ると、「運動をして汗をかいたのに、そのままにしてたから体が冷えた」、「最近睡眠不足が続いていた」ということが分かれば「今度はすぐに着替えよう」、「夜早く寝るようにしよう」といったように、原因を突き止めることと解決策がセットになることもある。上の勉強における効率の話はそんなに単純ではないが、問題がなぜ発生しているのかが掴めていなければ適切な対応策など打てるはずがない。
 西北校では先週の木曜から半年に1回の面談が始まっている。付き合いの長い親御様になれば、多くの場合お子様が中学生以上になっていることもあり世間話で終わることも少なくない。中学受験が控えていればそうは行かない。また、タイミング良くというか悪くというのか、その時にとても大きな問題を抱えているわけではないことも影響している。私からすると、時に教育と全然関係のない話をしながら、「本当に困ったときに、この人は本当に頼りになるだろうか」という値踏みをしていただければ良いと考えている。こんな私でも、教育に関する話になるとそれなりに真面目に答える。しかし、それ以外になると思い付いたことをポンポンと口にする。そういう他愛も無い会話の中の何気ない一言に、その人が信頼できるかどうかの判断材料が転がっている気がする。できる限り自分をありのままにさらけ出して、幸いにして「この人なら信頼できる」と思っていただけたのであれば、何かしら小さくない問題が起こった時には声を掛けていただけるだろう。自民党の二階元幹事長が「平時に顔を合わせていれば、何かあったとき(有事)には相手の些細な変化に気づけるものだ」と以前語っていたとのこと。「10増10減」に伴って新設される東京28区の候補者擁立の件で、自民党と公明党の幹事長同士が衝突し、現状、東京都においては選挙協力をしない方向で話が進んでいる。2人は、日頃から関係を築くことの大事さを理解していなかったのであろう。
 さて、親としてどう対応するのかの具体的な話に関して。長男、二男、三男それぞれに最近起こったことに私がどのように対応したかをお伝えする予定だったのだが、ここまでにそれなりの字数を費やして来たため、今回は二男のことだけに絞る。中3になる長男には、テスト期間中であっても、習い事を休むことを許してこなかった。そして、今春、二男は公立の中学に入学した。この前、初めての中間テストがあったのだが「待てよ」となった。そこで、自分の中に生じた疑問は次の通りである。「長男は、テスト期間中でも普段通りに行かせていたが、もしかすると、それは私立の中高一貫に通っているからであって、成績が内申書に関係し、それが高校受験の志望校にも影響する二男に対しても、私は親として同じようにできるのだろうか」というものである。ここで、「あんな風にせずにこうすれば」の出番である。これまで、まったく同じでは無くても、似たようなことを親御様から尋ねられたら、「それぐらいでできないようではだめですよ」と我が物顔で意見してきた。そのことを思い出し、「公立中学に通ってるからこそ、それをさせることに意義がある」と結論付けた。すべての条件が整っていなければ結果を出せないような人にはなって欲しくない。そういう話は折に触れ、息子たちにしている。

2023.05.16Vol.591 少しだけ先に進んだ、まだまだまだ発展途上のある高一の男の子の話

 先週の金曜、西北校を18時に後にするに際して、生徒が例のごとく「えっ、もう帰るんですか?」と聞いて来たので、「さすがにこんな早く帰らんやろ。この後、高槻校で体験授業なんや」と、「ほんと忙しくて大変」ということが伝わることを願いながら、教室にいた人たち全員に聞こえるように大きな声で答えた。「さすがに」と強調したものの、プライベートの用件でさっさと帰ることもある。そういう時は、玄関のドアを閉める音にも気を付けながら静かに去って行く。後ろめたいことがあるときの小さな子や犬と大差は無い。
 その晩、講師から中高一貫校に通う高一の男の子に関することで以下のようなラインが来た。

イギリス留学の奨学生に応募して合格し、夏に行く予定だそうです。
作文と面接のテストがあり、ここでやっていることが初めて役に立った気がした、と嬉しそうでした。
最終的に必要になる力はこういうものなのかな、とも言っていました。
志望も自発的だったようです。
でも、そういう面だけで入試に臨むのはリスキーだから、やっぱりこういう読解問題もちゃんとやらないと、と、こちらが水を差すまでもなく自戒していました。
最後には、いやぁ、初めて喜ばせることができた、と笑みが溢れていました。

ちなみに、その講師が「松蔭さんにも伝えないの?」と尋ねると、「日本語もできてへんのに、とか言われそう!」と返って来たとのこと。「おっ、よく分かってるやん。少しは読解力付いたんかもな」とそこだけは褒めてやりたい。
 その日の高槻校での体験授業でも親御様に「志高塾における『語彙』というのは、『知っている』ではなく『使える』、つまり『書ける、話せる』言葉のことです。知識系の問題に答えられるだけでは意味が無いのです」といつものように説明をしていた。作文と面接では正にその力が試される。その力、というのは単なる語彙の豊かさではなく、いろいろな言葉を使って論理的に自分の意見を組み立てる力である。本質的な語彙の豊かさと柔軟性のある論理的思考というのはある程度比例しているものではあるが。今回、我々がやっていることがどこまで貢献したかは定かではないが、本人が「ここでやっていることが初めて役に立った気がした」と感じられたことに意味がある。彼は、中2の4月に入塾してきた。「Vol.589一層良質な教育を一層多人数の子供達に」で、「開校当初から今に至るまで、ネット上の志高塾に関する口コミはほとんどない。ただ、リアルの口コミはそれなりにしていただけている。多くの方に広めてくれるお母様から、『この人なら志高塾のことを分かってくれるって人に限定してお伝えしてます』というようなことを教えていただくことも少なくない。」と書いたが、彼のお母様は、「本当の力を付けたいなら志高塾に行くべきだ」と勧められて彼を連れて来られた。私の記憶が確かであれば、開校当初からの15年以上の付き合いである元生徒のお母様が初めて紹介した方のはずである。
 彼は、小学生が5分ぐらいで書き上げるものでも、15分、20分と時間を掛けることがあるので、「もうちょっと早くやってくれ」と尻を叩き続けてきた。これまでは作文だけに取り組ませてきたのだが、外部の模試で国語だけとんでもない点数を取ってくることもあり、2, 3か月前から読解問題に移行した。案の定、見当違いの記述をしておきながら「俺はこう思う。何でこれではアカンのか分からへん」ということを言い出したので、「あのな、読解問題というのは、世の中の7,8割の人がそのことを聞かれたときにどのように考えると思いますか、ということを問われてるから、自分がどう思うかは関係ないねん。読解問題を通して培われた力はコミュニケーションを取る時に非常に役に立つから。俺は、相手の話を聞かずに、自分の意見を一方的に押し付けていた。未だにそこはうまくできてへんから、そうならんようにしいや」とお決まりのことを伝えた。
 彼のセリフの中に「でも、そういう面だけで入試に臨むのはリスキーだから、やっぱりこういう読解問題もちゃんとやらないと」とまるで私立文系の推薦入試でも受けるかのようなものがあるが、かなりの確率で国立の理系に進むはずである。彼の通っている学校のレベル、数学の学内順位からすると、2次試験で国語がある東大、京大であっても医学部以外であれば理系科目だけで逃げ切れるはずである。そんなことを目標にすべきではない。今回の一件は、より高みを目指して行く上での初めの一歩になったのではないだろうか。持ち前のキャラクターが大人になってさらなる輝きを放つオモロイ人間になって欲しい。後日、その場にいた社員にもその時の様子を尋ねると、「頑張ってきたかいがあった」というようなことを漏らしていたらしい。「成果も出ていないのに我慢して通わせ続けてくれた親に感謝せな」の間違いである。国語力を磨いて、きちんと現状認識ができる日が来ることを願うのみである。
 来週は、ゴールデンウィークに頑張ったご褒美で、このブログは臨時休業です。再来週、またお目にしていただければ幸いです。

2023.05.09Vol.590 勉強を通して

 『Jリーグと私 30年の物語』というNHKの番組の中で、カズこと三浦知良は、2003年から続けている、小学校を訪問し、夢を持つことの大切さを伝える「夢で逢えたら」のプロジェクトについて触れ、次のように語っている。

いつも夢についての作文を書いてもらって

もちろん夢って みんなが小学生のときに描いた
夢のとおりになっている人の方が少ない

でも努力したことだったり
そこに向かって頑張ったことっていうのは

違うことについても必ず役に立つと思う

とにかくあきらめずに夢を追うことっていうのは

純粋に大事なんじゃないかなと
そういうことを伝えるようにしている

また、卓球の石川佳純は、インスタグラムで引退を表明し、次のように締めている。

これからまた新しいスタートとなりますが、卓球を通じて学んだチャレンジ精神を忘れずに、いろいろなことに挑戦していきたいと思います。たくさんの応援を本当にありがとうございました

2人のコメントに共通していることは、スポーツを通して学んだことは他のことに活きる、ということである。カズはスポーツに限定していないが、自らのサッカーの経験に基づいている。彼らは共に超が付くほどのトップアスリートなので、それがどれぐらい一般的な人に当てはまるかどうかというのはあるが、子供の習い事レベルでも「スポーツを通して」という文言を、よく目にし、耳にする。それに比して、「勉強を通して」は圧倒的に少ないのではないだろうか。勉強の場合は、それ自体、それだけが目的となるのだ。実に不思議なことである。
 中学受験後しばらくは通っていたものの、クラブが忙しくなり休塾になった生徒がいた。下の子が通塾し続けていることもあり、半年に1回の面談の際に、お母様とはどのタイミングで帰ってくるのか、というやり取りを定期的に行っていた。そういう時、大抵「早くした方が良いですよ」という提案はしない。「コマ数を増やした方が良いですよ」も同様である。本人、親御様が納得していない状態で、そのような働きかけをしても望んだ成果は得られないからだ。逆に言えば、私がそのように急かすときは、さすがにこれ以上放置しておくと、手遅れとまでは行かなくても、目標地点に到達するまでに必要以上に多くのエネルギーを要するときである。マラソンに例えるなら、トップ集団から遅れていても常に視界に捉えられる範囲であればラストスパートで追い抜ける可能性はある。しかし、離され過ぎると、まずはある程度の距離まで詰めるのにギアを上げて、さらにそこからもう一段上げなければならなくなる。それは体力的に、というよりも、精神的にきつくなる。「もう無理かもしれない」という諦めの心が生まれやすくなるからだ。
 結果的に、予定より少し前倒しで、高1の途中で戻って来た。大学への内部進学で、希望の学部に進むためには定期テストである程度の成績が必要なので、その対策が主な目的である。学校のレベルは、中の下、もしくは下の上というのが適切な評価であろう。そんなことは私にとってはどうでも良いことである。これまでその子が通う学校の生徒に数学を教えたことは無かったのだが、とにかく先生がめちゃくちゃなのだ。図を描けば簡単に、瞬間で導けることでも、「これは覚えておきなさい」と指導していて、一事が万事その調子である。ある一つのAということだけであればそれでも良いのかもしれないが、それとBを組み合わせてCの式ができているということも少なくない。本来であれば、何一つ暗記しなくて良いのだが、三つのことを記憶しておかないといけないのだ。そんなのは無駄以外の何ものでもない。小学生の進学塾において、一番下のクラスは標準問題まで、真ん中のクラスは応用問題まで、一番上のクラスは発展問題まで、と最低限どこまで解くかを決めるのは良い。ただ、標準問題までしか解かない分、そこにエネルギーを注いでちゃんと理屈を理解できるように導くべきなのだが、それもやはり「これはこうやったら解けるから」というような指導方法なのだ。そして、訳も分からないまま反復練習をさせられる。これは「勉強を通して」の負の側面である。そのようなことを子供の頃に経験することで、大人になってからも、何かできないことがあれば、何の工夫もせずにとにかくたくさんの時間を掛けるという手段しか取れなくなってしまうからだ。ちなみに、先の高校生は、私が理屈から教えて理解できなかったことはただの1つも無い。私の教え方がうまいから、と言いたいところではあるが、教科書に載っているレベルのことを説明したに過ぎない。もちろん、集団と個人では異なるが、学校の先生は「これはこういう風にしたら導けるから、ちゃんと理解して欲しい。ただ、どうしても分からない子は丸暗記すれば良いけど、それはあくまでも最終手段やぞ。その手順を間違えるなよ」という声掛けをすべきなのだ。
 さて、勉強を通して学ぶこと。社会に出て何かしら数字に関する仕事を頼まれたとき、「すみません。数学苦手だったんで」ではなく、「成績は良くなかったですけど、考えるのは好きだったので任せてください」となるかもしれない。親になり、子供に算数の問題について質問されたときに、「忘れちゃったけど、一緒に考えよう」となるかもしれない。「あきらめずに考えなさい!」の言葉より、親が一生懸命考えている姿を見せる方が子供の学ぶ意欲を向上させるには断然効果的である。ここで挙げた2つのことはいずれも数学、算数という教科の領域を出ていないが、もちろん、それだけに留まらない。大抵、物事には理屈がある。「それはそんなもの」で済ますのではなく、「それはなぜそうなっているのか?」と疑問を持てるようになる。それが思考のスタートラインなのだ。そして、ゴール目指して走る。小さいうちから、そういう反復練習を繰り返して欲しい。

2023.05.02Vol.589 一層良質な教育を一層多人数の子供達に

 いつもながらに余談から。書き進めているうちにそこから想定外の話題に飛び、それ自体が文章のメインテーマになることも少なくない。まったく次元の異なる話なのだが、好きな作家の一人である奥田英朗が対談で、「最低限の設定だけして、後は筆が進むに任せる」というようなことを語っていた。「次元の異なる」と言えば、年初に「異次元の少子化対策」を岸田首相は力強く打ち出したものの、中身が無いことで「二次元?」と揶揄されるなどしたため、早々に「次元の異なる」と言い換えた。意見作文に取り組んでいる生徒には、「強く主張したいときには熟語に、柔らかくしたいときには平仮名を混ぜた方が良い。熟語だらけだとうるさくなるからそこは気を付けなアカンで」というアドバイスをする。表現を変えたのを知ったとき、重点政策なのに弱めるなよ、と突っ込みたくなった。
 話を奥田英朗に戻す。それを読んだとき、「この書き方のままで良いのか」と少し慰められたような気がした。私は2,000字ですら操れていないのに、彼らは用意されたエンディングに向かって長編小説を書き上げていると思い込んでいたからだ。物事がうまく行かなくなると、「あそこもだめ、ここもだめ」となり、どこから手を付ければ良いか分からなくなることがある。そんなとき、「そこはそのままで良いよ」と信頼する人に言ってもらえれば、気分は随分と楽になる。そのままで良い「そこ」は大抵、その人の根幹を成している。一見すると欠点に見える「そこ」を大事に守りながら、その他の部分に手を入れることで、その子の成長を促してあげる。「そこ」に手を付けた方が手っ取り早く目の前の結果は出ることも少なくない。教える者としてはそれでも良いのかもしれない。しかし、それでは育てる者としての役割を果たしたことにはならない。両方揃って初めて教育者と呼べるのだ。
 1年ほど前になるだろうか。新聞記者の方から2時間ほどのインタビューを受け、「これまで一方的に私の方が質問をして来たので、最後にお聞きになりたいことはありますか?」と尋ねられたので、「いろいろな方に会われていると思いますので、そのような経験も踏まえて、この2時間話して、私という人物に抱いた率直な印象をお聞かせ下さい」とお願いすると、「謙虚さが無いですね」と返って来た。このやり取りを知っている生徒は、折に触れ「先生には謙虚さが無い」と指摘してくる。私の「そこ」は謙虚さの無さや傲慢さなのだろう。誰か「そこはそのままで良いよ」と言ってくれないものだろうか。
 次の余談へ。営業目的の電話は本当に面倒くさい。わざわざ出たのに、どうでも良い話をされるからだ。電子メールや郵便物であれば、手が空いたときにさらっと確認だけしてゴミ箱に捨てれば良いが、電話は相手のタイミングなのだ。そういうものが無くなることはないので、自分の心に余計な波風を立てないようにするのが最善の策である。少し前に、「口コミの評判を上げるのをお手伝いしてるんですけど」とありえないような電話が掛かって来た。これまた最近の話なのだが、アマゾンで1,500円ぐらいの商品を購入したときに、1,000円のクーポンチケットが同封されていた。最高の評価をした上で好意的なコメントをして、それが認められれば使えるようになる、という仕掛けであった。そういうインチキに加担する気は無いので、もちろん無視をした。それに関しては、ダイニングテーブルに置いていたこともあり、ご飯のときに子供の勉強の材料にした。「仮に、口コミをする人が4分の1いるとしたら、一人当たり250円のクーポンを発行していることになる。要は、1,500円から250円を引いた1,250円でも売っても十分に儲かるぐらい原価は安いということだ」というような話をした。
 勧誘の連絡で一番多いのは、生徒募集に関するものなのだが、大抵は「うち、別に困ってませんので結構です」と返すようにしている。半分本音、半分強がりである。西宮北口校は常に満杯に近いが、豊中校や高槻校はそうではない。私がよく言うように、生徒は多ければ良いというものでもない。ただ、時間割を安定させ、講師が経験を積むためには、ある程度の生徒数は必要である。志高塾は、「よりよい教育をより多くの人に」をスローガンとして掲げている。HP上にその文言は無いが、新しく入った講師に最初に配るプリントの先頭にはその言葉があり、「大抵の塾は、『より多く』が先に来る。しかし、志高塾はそうではない。まずは『よりよい教育』を行わなければならない。そして、『いい教育』だからより多くの人に受けてもらった方が良いよね、という話であり、その順番がものすごく大事なのだ」という説明をする。開校当初から今に至るまで、ネット上の志高塾に関する口コミはほとんどない。ただ、リアルの口コミはそれなりにしていただけている。多くの方に広めてくれるお母様から、「この人なら志高塾のことを分かってくれるって人に限定してお伝えしてます」というようなことを教えていただくことも少なくない。一方で、「知られて欲しくないから誰にも言いません」という親御様もいる。それは、無口な口コミと呼べるかもしれない。いずれのパターンであっても私にとっては嬉しいことなので、もっと増えるように、よりよい教育をして行かなければならない。ところで、私は、なぜ「より良い」とせずに「よりよい」とすべて平仮名にしたのだろうか。本気であることを示すには、まずは表現から変えた方が良いのかもしれない。

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