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2024.04.09Vol.634 振り返るということ

 ただいま8日(月)の15時半過ぎ。フライトまで2時間以上あるので、新千歳空港にある温泉の休憩所で書き始めた。この時点でまったく手を付けていなかったので、さすがにまずい、となったからだ。なお、札幌には、幼馴染に会うためにここ数年毎年来ていて、今回は土曜からの二泊三日であった。
 体験授業に来られた親御様に、「国語の先生は、『国語は楽しい』というところからスタートするので、そうで無かった自分には先生の話す内容がスッと入ってこなかった」というようなことを伝えることがある。その際、具体的な先生を思い浮かべてはいないのだが、高2の頃の担任でもあったF先生もその一人である。同窓会に参加された先生が一人5分程度の話をされていたのだが、F先生の話を聞きながら、ふとそんなことを思っていた。ちなみに、センター試験の現代文の作問を2度に渡って任されたとのこと。我々が卒業して数年後に大学の先生になられてからのことである。センター試験の現代文の問題が簡単になり過ぎたことで受験生の国語力が低下したことを憂い、小林秀雄の文章を扱ったとのことであった。家に帰ってから「センター試験 小林秀雄」で検索すると、トップに以下の記事が出て来た。
https://www.sankei.com/article/20130218-YV3D6CXAUZKSRJPS5TSIXACSTY/
国語に関する本はほぼ読まないのだが、記事の執筆者である石原千秋の『教養としての大学受験国語』、『中学入試国語のルール』は例外である。今でも教室のどこかにあるかもしれない。中身に関してはほとんど何も覚えていないが、国語のことをまったく分かっていなかった私は、「なるほど」と納得しながら読み進めた気がする。面白くなければ2冊目はなかったはずだからだ。その問題自体にまだ目を通していないが、石原千秋の批判は的を射ているのであろう。ただ、F先生が試みようとしたことにも意味はある。教育業に携わる者としては、思いがあることは必要条件である。ただ、そのメッセージが受け取り手(今回の場合であれば大学受験生、もしくは過去問として解くその後の大学受験生)に伝わらなければ意味が無い。よって、その伝達手段を合わせて持てていて初めて必要十分条件を満たしたことになる。帰宅してから気になったことがある。その問題を1回目に任されたときに作り、例年より大幅に平均点を下げたにも関わらず2回目を頼まれたのか。それとも、1回目はその思いを胸に秘めながら無難なものにしておいて、2回目のチャンスが巡って来たときに「折角なら」となったのか。先生のアドレスが同期のグループライン上で公開されていたので聞いてみることにしよう。前回、「この旅行中、二男に何かを聞かれた際に、『答えも持たずに、質問をするのはアカン』と注意したことがあった。最終的な答えとまでは行かずとも、尋ねることに対して少なからず自分なりの考えを持っている必要がある。」と述べた。人に言うからには、自らが実践しなければならない。おそらく後者であろう。どのように問題作成の担当者を決めるのかは知らないが、それを決定する人たちは保守的で事なかれ主義のはずなので、平均点を大幅に下げた人に再度お願いをするという冒険をするとは思えないからだ。疑問に思ったことに対して、このように理由を付けた上で答えを考えることが重要である。
 F先生は決して雄弁ではなかったこともあり、そのような熱い思いを持っていたことを知らなかった。「こともあり」というのは、私がもし先生にもっと興味を持っていれば、「多くは語らないけど、この先生は内に秘めたものがある」となった可能性があるからだ。また、他の先生の話を聞きながら「そうやったんや」となることがいくつかあった。ある先生は、赴任したときに「北野高校に教壇があるのには意味がある。生徒より一段高いレベルから教えられる人でないといけないからだ」と先輩の先生から説明されて、その覚悟を持ってその教壇に立っていた、ということを話されていた。先生が生徒より高いレベルにある、というのは当たり前に聞こえるかもしれないが決してそんなことはない。数学の先生が次のようなエピソードを披露していた。「着任してすぐ、生徒が難しい問題を持って質問に来たので、その場で一生懸命に解いて説明すると『先生中々やるな』となった、と」。要は、その生徒は新任の先生の能力を値踏みしに来ていたのだ。私も含めて九分九厘は平凡だが、中には優秀な生徒も何人かはいて、その彼らより一段高いところに位置するというのは容易では無かったのであろう。
 最近、ひょんなんことから家系図を調べることになり、それが中々面白かった、という話をある講師から聞いた。私はそういうことをしたことが無いので、そのときは「そんなものなのかあ」といった感想しか持たなかったのだが、今回同窓会に出て、当時先生たちが何を考えながら接してくれていたかを知り、少しその気持ちが分かった気がする。振り返るということは成り立ちを知ることなのだろう。先祖にそういう人たちがいて今の自分に繋がっている。そういう思いを持った人たちに教わったから今の自分がある。そんなことを考えていて、生徒や息子が大人になってこのブログを読み返そうとなり、それによって少しでもエネルギーを与えることができたら嬉しいな、となった。これも、承認要求では無く承認欲求の範疇に入るはずである。嬉しいのは何も志高塾や私のことを思い出してくれるから、ということだけではなく、それは彼らの人生がある一定以上にはうまく行っていることの現れでもあるからだ。そうでなければ振り返ろうとは中々ならないはずだからだ。彼らが大人になったときにも良い影響を与えられる人でありたい。

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