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2023.06.27Vol.596 作文の効用

 ちょうど2週間前の夜の、この春から研修医になった元生徒とのラインのやり取りを紹介する。1年前、数週間にわたり、第一志望の病院に提出する小論文の添削を行い、無事に内定をもらえた。

私:「充実しているようで何より。期待していたのと違った、ということの方が世の中多いからね。」
生徒:「期待していたのと違った、を言うとするならば、その病気が治ったとしても元通りの生活が出来る人は多くないということです。って志高くを読んだらあまりにもタイムリーでした。これが健康寿命と平均寿命の差なんでしょうね」

次のようなコメントもあった。「カルテとか紹介状とか他の診療科へのコンサルとか、文章を書かなければいけないことが想像以上に多かったです」。そして、時間を掛けて小論文を書き上げたことが役に立っている、と。事務的な文章だからこそ、些細な部分で違いを生み出すことが重要になってくる。そういうものが無ければ、無機的な連絡に留まってしまう。ブログか内部向けのどちらであったかは忘れてしまったが、『志高く』で彼女の文章をビフォー、アフターという形で掲載した。結果的に10回弱それなりに大きな修正をしたのだが、最初に私にメールで送られてきたとき、「結構うまくまとめられた自信があります」という言葉が添えられていた。仕上がった後、「あんなんで自信満々だった自分が恥ずかしいです」と振り返っていた。その後、同級生との私的な勉強会で小論文や履歴書の志望動機などを見せ合った際に、「ああ、私も以前であればこんなこと書いてたな」という感想を持ったことも教えてくれた。その「以前」は、1年前ではなく、わずか1か月前とかの話なのだが。ただ、間違いないのは「以前」と視点が変わったということである。
 「視座を高くする」という言葉を私は好まない。言葉がきれいすぎて、受け手の行動を変えるイメージが湧いてこないからだ。これまでの人生で3度も使ったことがない気がする。いや、保険を掛けて5度にしておこう。そのわずかな機会ですら、「視座を高くしないといけません」と、単独で、その言葉に頼り切るのではなく、いろいろと説明をした上で、「まあ簡単に言えば、『視座を高くする』ということになるのですが」といった形を取ったはずである。他にも、そういう言葉があった気がしたので、何だったかな、と考えて、「そう、『社会実装』や」となった。5年ほど前に、社会問題について話し合う勉強会に誘われて参加した。市からの補助金も出ていたし、市の職員も数名参加していた。その会のファシリテーターが、それなりの人数を集めておきながら実現性の乏しいアイデアしか引っ張り出せず、自らの力量の無さを横に置いて、それを連呼すればあたかもその会の価値が高まるかのように「社会実装のために」を繰り返していた。目の前に実在する社会問題を解決するためなのだから、社会実装は当たり前なのだ。そのような場において、言葉というのは、実態を隠すためではなく、事実を正確に受け止め、そこから少しでも前に、先に進むための効果的で実現可能なアイデアを生み出すために駆使されるべきものなのだ。ちなみに、その地域が抱えていた問題の1つは、空き家が多く治安が悪いことであった。4, 5駅のところに大きな国立大学があるので、シェアハウスを作り、経済的に苦しい大学生を呼び寄せる、というのが私のアイデアの骨子であった。そこには電動自転車を生産、販売している世界的な企業の社員が参加していた。当時、東京23区では赤い電動のレンタルサイクルが普及していたこともあり、ヴィヴィッドな青い自転車をその大学生たちに無償で使わせる、ということを合わせて提案した。その企業のコーポレートカラーがブルーなので正に打って付けであった。そう言えば、私の住む豊中でもこの1年ぐらいで電動のレンタサイクルをあちこちで見かけるようになった。「視座を高くする」、「社会実装」という言葉に罪はない。いつか誰かが、それらを私の中に心地良く響かせてくれることを期待している。
 話を戻す。前の前の段落の最後で、視点が変わる、ということを述べた。物事を見るには、「鳥の目」、「魚の目」、「虫の目」の3つが大切だと言われる。それぞれの細かい説明は割愛するが、「鳥の目」は「視座を高くする」ことを意味している。私がここで提案したいのは、垂直の前に、視点をまずは水平に動かすことから始めてみてはどうかということ。少し離れたところから見てみる。それにより、少し客観視できるようになり、「上からだとどんな風に見えるんだろうか」とその次の段階に移って行くのではないだろうか。
 この2週間ほど、英語のスピーチコンテストに出る中3の生徒の日本語原稿の添削を行っている。冒頭の元生徒のときもそうであったが、初期の段階では、「言いたいのはこういうこと?」と確認をしたり、「やりたいこととその理由がずれちゃってる」とおかしな部分を指摘したりすることに終始する。この材料出しにいかに時間を掛けるかが、とても重要になってくる。そして、ある程度で出し尽くされたと判断した段階で、もう少し具体的な提案をし、まとめに入って行く。ちなみに、彼女が扱っているのは「ジェンダー平等」という壮大なテーマなので、具体策もそれに見合ったものにする必要がある。ここでは、コンテスト自体が終わってないこともあり、その具体策は伏せておくが、本人には以下のようなことをメールで伝えた。

そういう場で「私は〇〇をやります!」と宣言をすることで、「言ったからにはやらないと」と自分の背中を押す力にすることができます。そうすることで、「やってみようかな。でもやっぱ大変そうだからやめよ」となるのを防ぎやすくなるので。こういうスピーチにはそういう副次的効果もあります。
私は大して大きなことは宣言しませんが、『志高く』をそういう風に使うことはあります。

 ディベートをやる、と生徒と約束したのにそのままになってしまっている。まったく持って動き出してはいないが、自分の中に気持ち悪い状態で残り続けている。副次効果はきちんと機能している。

2023.06.20Vol.595 自然発酵させるために

 同じ轍を踏まない。2週連続では。ただいま6月14日(水)の9時過ぎ。翌朝から早くも手を付け始めた。今日は、週1回の小学校に教えに行く日で、10時半に到着しないといけない。昨年度までの2年半は月曜だったのだが、週末の時点でこのブログの文章が全然進んでいないときに、納得の行かないままにアップしないといけないことが幾度もあったので、学校側に変更をお願いした。月曜の午前に余裕を持たせておきたいのだ。暑くなって来たので授業前にサウナに寄ることは決めていたのだが、昨晩の時点での懸案事項は、その前にゴルフの練習をするかどうかということ。結局、朝起きて行かないことにした。文章を書くことを優先したかったのと、2日続けて打ちっ放しに行っていたので、体の、というよりかは頭のリフレッシュをすることにしたからだ。私の場合、勉強でも運動でも何でもそうなのだが、やってみて、うまく行かないモヤモヤを自分の中に少しの間抱えて、「こうすれば解決するかも」と自分の中から糸口のようなものが自然と浮かび上がってきたときに、再び動き出す、というサイクルをきちんと回せたときに物事は良い方向に向かう。モヤモヤが発酵する時間をたっぷり取れるかどうかがポイントなのだ。それが十分でないと、切羽詰まって自然ではなく人工的に答えを出しに行くので納得の行かない結果になってしまう。問題を抱えたとき、「何か良い方法はないかな」と外に答えを求めに行くことはほとんどない。「私はすべて自分で考えてどうにかします」ということが言いたいのではない。所詮アイデアなんて組み合わせであったり、流用でしかなかったりする。日頃から、自分の中にいろいろな情報を蓄積させられていれば、それらを活用することで大抵のことはどうにかなる。その日常の作業を怠って安易に解決策を得ようとするから、運良くいくつかはやりすごせても、その場しのぎでその後が続かないのだ。ご存知のように子育てにおいては次から次へと問題が起こるわけで、その度にネットで検索していたら子供がまともに育つはずはない。その問題が独立して存在しているわけではなく、その子のこれまでの歩みや性格などと強く結びついているからだ。
 さて、今日の練習は断念したゴルフ。この4月から再びレッスンに通い始めた。そこで私が指導を受けているコーチから、後輩がプロテストで不合格になったときに次のようなやり取りがあったことを教えてもらった。
「この一年どんな練習をしとってん?」
「1日たりとも休まずに自らに課した700球を毎日打ってました」
「来年に向けて、どうすんねん?」
「ちゃんと700球打ち続けます」
その言葉を聞いて、「こりゃアカンわ」となったとのこと。そして、実際その彼はプロになれずじまいであった。立ち話のような状況でゴルフのことがよく分かっていない人に手っ取り早く数字の話をするのは理解できるが、相談に近い形のときにそのような話しかできないのはあまりにも貧相である。
 継続は力なりなのだが、ただがむしゃらにやり続けたからといって上達するものでも無い。具体的な数値目標を立てることによって自分を甘やかせないようにすることも大事だが、ただ、それをすることが本来の目的に合致しているか、思考停止に陥っていないか折に触れ、チェックをしなければならない。算数が苦手なので、「毎日計算を10問」というのは誰もが思い付く方法である。それによって計算ができるようになったのは良いが、その訓練をしたことで、算数≒計算というような勘違い生まれていたら、一時ストップする必要があるし、そもそもそうならないように単純作業だからこそ最初の段階から工夫をさせなければいけない。教えている我々としては、答えが合っているかだけではなく途中経過をきちんと見る必要がある。例を挙げると、どこでそんな変なことを習うんや、と怒りすら覚えるのだが、分数の足し算、引き算を機械的に仮分数に変換する生徒がいる。そういうのを見つけたら、これ解いてみ、と次のような問題を出す。
2334 1/16-2331 1/12
そのあほみたいなやり方を実行すると、まずは
37345/16-27973/12
とそれぞれを仮分数にした後に、分母を最小公倍数の48に揃えて、
112035/48-111892/48=143/48
となる。
余計なことをせずに解けば、
2334 3/48-2331 4/48
となり、そのままでは引けないから1借りてきて
2333 51/48-2331 4/48=2 47/48
となる。
例が極端すぎる、と思われるかもしれないが、こういう風なことをやらせても同じことを繰り返す生徒がいる。絶対に帯分数のまま解きなさい、ということが言いたいのではなく、そこに判断を入れさせたいのだ。その次に掛け算、割り算をするのであれば仮分数にしに行くことを前提にすれば良いし、足し算、引き算であれば帯分数が最初の選択肢になる。大切なのは、「何でこうやって解いたん?」と聞いたときに、「AかBかで迷ったんですけど、Cという理由でBを選びました」と答えられるかどうかなのだ。
 そして、もう1つ。計算を通して感覚を磨く必要がある。たとえば、
4.1×3.02=11.124
というのを見せたときに、間違いだと気付ける感覚である。1つ目の理由は、一番下の位は1と2の積である2でないといけないのに4になっていること。2つ目はそれよりももっと重要である。それぞれ4と3より大きい数を掛けているので、絶対12以上にならないといけないのに11であること。
 「数は感覚が大事と」と生徒たちに日頃偉そうに言っている私が、とんでもないミスをしたこと気づいた。前回、最後の方で以下のように述べた。

ここまで述べてきたこと以外にも、この2年間でコロナ対策に100兆円というニュースがあったので、子供一人当たり1,000万円支給すると何人分になるのか、と計算したら、たったの1,000人分にしかならなかった。

式で表すと、100兆÷1,000万=1,000となる。私は、日本の国家予算が100兆強であることも知っていた。ここで分かりやすく日本の人口を1億とする。それは1,000万の10倍である。割る数が10倍になれば、その答えは10分の1になる。つまり、上の式が正しければ、100兆÷1億=100となるのだ。これは、今回のコロナ対応や国家予算が1人当たり100円で済むということになり、明らかにおかしいのだ。先週、あれっ、と思いながら何度か確認したのに情けないことに気づけなった。実際は、1,000人分ではなく1,000万人分だったのだ。2022年は初めて日本人の出生数が80万人を割り込んだ。100兆円あれば、子供1人に1,000万円を配っても、12年間分の新生児を賄えるのだ。
 HPのトップページで、「『言葉』と『数字』は思考をする上での両輪です。」と語っている。バランス良く、スムーズに回転するように鍛錬を積んでまいります。

2023.06.13Vol.594 少子高齢化について考える

 白い服を着ているときに限ってコーヒーをこぼす。そう信じ込んできたのだが、最近それが間違いであることに気づいた。日頃からそれなりに汚しているのだが、白以外のときはがんばって拭けば目立たなくなることが多いので気にしていなかっただけなのだ。事程左様に、問題をきちんと把握してないことは案外多い気がする。その状態で対策を打ったところでうまく行くことはない。
 さて、少子高齢化。このことに関して特別に問題意識があるわけではない。ただ、ニュースで取り上げられることが多く、それに伴い考える機会も増えるのでテーマにしてみたくなった。プラスチックごみやエネルギーなどの社会問題に関するデータが与えられ、それを踏まえて意見を述べることを求められる「資料読解」というテキストがあるのだが、その中には人口に関するものもある。これを機に頭の中を少し整理しておけば、今後生徒に教えるときに役立つという効果もある。
 まず、「少子化」と「高齢化」という2つの問題が重なっているから大変だと感じさせられるのだが、「高齢化」は必ずしもネガティブではない。「長生きできるようになって良かった」となるからだ。ただ、物事はそれほど単純ではない。ここで、平均寿命と健康寿命の差について見ておかなければならない。健康寿命とは、支援や介護を必要としない期間のことである。厚生労働省が2016年に発表したデータによると、その差は、男性で8歳、女性で12歳となっている。生活にどれぐらいの制約が掛かるかにもよるが、この年数は長すぎる。個人的には、3~5歳ぐらいであればまだ悪くはないかな、となる。平均寿命が延びるにしたがって、その差も少しずつ大きくなっている。それは、社会保障費の増大を意味している。高齢化が問題なのではなく、それに伴う不健康期間の長期化こそが問題の本質なのだ。70歳を超えた母は、今も現役でケーキの先生をしている。車の運転ができないこともあり、材料の買い出しなどのために自転車で元気に走り回っている。「骨折にだけは気を付けや」と伝えている。
 ただいま、6月13日の午後15時過ぎ。30分のふて転寝を終えたところである。目を閉じる前に頭をよぎったのは、アップできるのが23時ぐらいになるかもしれない、とのこと。なぜ、そんなことになったのかと言うと、世界の出生率のデータを調べたら、自分が想像していたものと大きくずれていたからだ。そして、行き詰まって現実逃避。起きた後、もう一度いろいろと検索してみると、「これだ」というのを見つけた。それは、2020年の合計特殊出生率(15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計した値であり、「1人の女性が一生の間に産むとされる子供の数」に相当する)のランキングである。それだと、福祉国家と言われるデンマークとスウェーデンはそれぞれ1.67と1.66となっている。本来であれば、もう少し比較検討して、信頼に足るかどうかのチェックをしなければならないのだが、既に時間的にも精神的にも追い込まれているため正しいものとして扱う。以下がそのサイトである。
https://ecodb.net/ranking/wb_tfrtin.html
 気を取り直して、少子化対策に話を移す。日本のそれは1.34である。上で挙げた北欧諸国との0.3の差を大きいと取るかどうかにもよるのだが、彼らでもその程度なのだから、ここは開き直って、「少子化対策」という概念自体を捨て去ってしまってはどうだろう。今回、私が最も主張したかったのはこのことである。中途半端にやるぐらいなら、少子化がさらに進むことを前提にして、それでもある程度うまく回るような社会にするための手を打てば良いのだ。それが実現すれば、高齢者を支えるための現役世代の負担が軽減され、出生率の上昇に結び付くのではないだろうか。残念ながら具体策を持っているわけではない。高く見積もった出生率を前提に社会保障の制度設計を行い、下方修正するたびにちょこちょこいじるから歪みが大きくなるのだ。1997年に政府が出した「目標とする合計特殊出生率」では、その時点で下降を続けて1.4前後まで落ち込んでいたにも関わらず、2020年~2050年まで1.6程度で推移することになっている。2022年はさらに落ち、過去最低の1.26となった。
 「少子化対策」と銘打つのであれば、もっとインパクトのあることをやるべきなのだ。出産育児一時金が増額されるから子供を産もう、とは中々ならない。児童手当になると、「増やします」となっても、少しの上積みであり、いつ減額されるかも分からないためほぼ効果はない。少子化対策というのは、予定に無かった子供を産んでもらうための政策である。現在は、出産育児一時金が50万円、その後所得制限はあるが児童手当として毎月1万円(子供の年齢や何番目の子供かによって金額は異なるが、ここでは分かりやすく1万円としている)が15歳まで支給される。それらを合計すると230万円となる。それであれば、出産した時点でその倍の500万円を支給してはどうだろうか、というのが私の提言である。ただ一括支給するのではなく、出産時に50万、その後18歳まで毎月2万円ずつぐらい振り込まれるという形式にした方が良い。この施策のポイントは生まれたときに全額を手にすることはできないが、その時点で500万円の所有権を親に与えるということである。こういうものこそ、マイナンバーと紐づけしてどうにかできないのだろうか。財源はどうするのか。その増額分の270万円をその人自身が25歳から65歳までの40年間で毎月返すと考えた場合、月額6,000円以内に収まる。
 ここまで述べてきたこと以外にも、この2年間でコロナ対策に100兆円というニュースがあったので、子供一人当たり1,000万円支給すると何人分になるのか、と計算したら、たったの1,000人分にしかならなかった。
 生徒たちには、身の回りで起こっていることに関して、「(自分に)関係ない」ではなく、興味を持っていろいろな角度から考えて欲しい。そのためには、我々自身が頭の体操を楽しまなければならない。率先垂範である。
 ただ今、19時5分。どれを履こうかと迷って、あえて選んだ白のデニム。思いのほか早く書き上がった分、汚さずに今日一日を終えるまでの時間はそれなりに残されている。

2023.06.06Vol.593 自伝的小説(未来編)を構想するにあたって

 文章を書くのは難しい。タイトル1つ取ってもそうである。どのタイミングで付けるかはその時々なのだが、最初に決まっているときは、それにいざなわれるようにゴールをほぼ真っすぐに目指せるときもあれば、他の方向に加速し始めたのに、「タイトルとずれてしまう」と方向転換をしようとすることで減速することもある。
 今回、タイトルは「これだ!」となり、一文字も書く前から文章の構成も頭の中でほぼできあがっており、「今回は行ける」という自信がある。そういうことは10回に1回もない。そういうときに限って、「あれ、おかしいな」と袋小路に入ってしまいそうな匂いがぷんぷんしているのもまた事実である。「調子に乗って、予定になかった余談に花を咲かせるな。同じ失敗を繰り返すなよ、俺」。
 『毎月新聞』という教材がある。筆者の佐藤雅彦が書いた文章を読んで、与えられたテーマについて意見を述べることが求められる。なお、志高塾のツイッターで6月2日に掲載したものはその『毎月新聞』に関わるものなので、お目通しいただければ幸いです。その1つに「日常のクラクラ構造」と題した文章を読んでのものがある。本文の中で、「ゴミ袋を入れていた袋が最後の1枚を出した瞬間ゴミになること」、「財布を買うために現金で支払うとそこに入れるお金がその分減ること」などが具体例として挙げられている。それに対するテーマが「あなたの周りの『クラクラ構造』を一つ見つけて、四百字程度で説明しなさい」である。このテーマに限らず、本文の具体例に引っ張られないようにするためには抽象化する必要がある。この場合、「立場が逆転する事柄」などとできる。ただ、それをしてもこのテーマに適切なものを身近なところから持ってくるのは難しい。「新入社員時代の自分の教育係が、何年後かに自分の部下になった」などはそれに当たるが、実際にそのようなことは中々ない。
 この週末、1泊2日で博多に行っていた。家族で行くときは子供たちに窓際を譲り、一人のときもすぐに出られるように通路側を選ぶことが多いのだが、今回は珍しく窓側で、ちょうど翼が真横に見えるところであった。何とは無しに外に目をやると変な感覚に襲われた。そして、「あっ、これや」となった。そのとき読んでいたのが『ライド兄弟 ~イノベーション・マインドの力~』で、本の中では2人はまだグライダーのような無動力飛行で100メートルすら越えられずに悪戦苦闘しているときだったのに、私は空を飛んでいたからだ。「よしっ、ここまでは順調。油断するなよ、俺」。
 半年に1回の面談も西北は残すところ3人だけである。その中で、進学塾の個人面談の話が出てくることは少なくない。その内容を聞く度に「成績表だけ見て話をされても」となる。「漢字や語句で点を落としているから、毎日1ページずつやりましょう」、「計算問題で点を落としているから、毎朝10問ずつやりましょう」。たとえば、漢字を含めた語句で言えば、やっているのにできていないのか、そもそも興味が無いのか。本を読んで言葉はよく知っているのにできていないのか、まったく読書をしないのかでも違ってくる。また、他の教科ができる、できないによっても打ち手は変わる。ただ、これに関して親御様に伝えるのは、「進学塾にそんなこと期待しても無駄です。それを前提としてどう活用するかを考えなければいけません」ということ。親としてはそうなのだが、子供に関わる仕事をしている一人の大人としては「そういうもんだよな」で済ませられない。人というのは何がきっかけで変わるか分からないので、その時点のポジションだけを指標にして、「この子はダメ」という烙印を押してはならない。その逆もまたしかりである。今、良い位置に付けているからといって、「この子は大丈夫」とはならない。その考えは、志高塾を始めたときから自分の中にあり、そしてそれはこれからも間違いなく変わらない。ある日の面談終了後、ふと「あっ、そういうことなのか」と腑に落ちた。「俺は、その子の自伝に関わっているんだ」と。そんなことはこれまで考えたことは無かった。そして、今、こうやって書きながら、「自伝というより、自伝的小説の方が近いか」となった。自伝では、起こった出来事をできる限り忠実に再現することが求められる。一方、自伝的小説であれば、そこに創作の要素が加味される。自伝であろうが、自伝的小説であろうが、過去が対象となる。私の場合はそうではない。現在どのような状況であろうと、生徒の未来がよりハッピーになるように、自分に、志高塾にできることはないか、と今から先のことを考える。もちろん、結果が出るように手を打つところまでが我々の役割である。「この先も勉強で大して困ることはないだろうな」となる生徒であれば、できるからこそより深く、より柔軟に考えられることを目標にして、かつ人間性も高めてあげなければいけない。一方、今、勉強で苦労している生徒がいれば、まずは考えることの楽しさを経験させてあげなければいけない。頭を使わずに良い仕事などできないのだから、勉強嫌いでも考えることは好きであって欲しい。
 その自伝的小説なるものに何章から関われるのか、何章まで関われるのか。その後も間接的に関われるのだろうか。それは分からない。我々が書き手でないことはもちろんのこと、別にそこに登場する必要もない。「子供の頃に、ああでもないこうでもない、と作文をたくさん書いて、いろいろな本を読んだことが今に役立っている気がする」というような文言がどこかにあれば、それで十分である。
 志高塾の強みは、生徒のダイバーシティにある。「ダイバーシティ」という言葉は、マイノリティを排除しません、というきれいごととして用いられることも少なくない。そもそも、生徒は一人一人違うのだから、皆、マイノリティなのだ。それぞれの生徒に同じ強さの透明の光を当てる。輝く色は違う。生徒自身が元々持っている色が違うのだから当たり前のことである。それこそがダイバーシティである。
 7月26日に第1回『beforeとafterの間』を行う。トップバッターは、これまで道のど真ん中を歩いて来た元生徒である。一方で、今回、博多で2日間、一緒に晩御飯を食べたこの春大学1回生になったばかりの男の子は、ずっと超低空飛行というか、そもそも飛ぼうとすらしていなかったのが、ようやくやる気になっている。その彼が第2回、3回では無理でも、どこかで後輩たちに自分の経験を胸張って話せるような人になることを期待している。もちろん、それは彼だけに限らない。「やればそれなりにできるじゃないか。次も気を引き締めて頑張れよ、俺」。
 なお、オリジナルのタイトルは「自伝を書き進めるにあたって」であった。

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