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2021.06.29Vol.500 開けてビックリ玉手箱々々々・・・(ちょこっと実践編)

 彼は一体何歳になったのであろうか。生年月日を調べてみたら、もう24歳になっていた。6月28日生まれなので、後1日遅かったら今日が誕生日だったのに。久しぶりに電話をして近況を教えてもらおうかな。
 入塾してきたのは中1の頃なので約10年前のことになる。当時はほとんどが小学生だったため、意見作文用の教材は無いに等しかった。ここでも何度か紹介している『毎月新聞』の作文課題は彼のために私が作ったものである。私自身に小論文に類するものを教えた経験も無かった。無いもの尽くしの中で、期待されていることに応えるべく試行錯誤を繰り返していた。手探りではあったが、真正面からの体当たりの指導を心掛けていた。逆に言えば、私にできることと言えば、自分の持っているものをすべてぶつけることだけであった。上に立つ者は時に演じることを求められる。だが、それは持っていないものを持っているように見せかけることではなく、内心びくびくしながらも堂々と振る舞うことである。子供は自信がない先生の話に耳は傾けないのだから。実力が伴っていなければうまく行かないことは頻繁に起こる。その自分が開けてしまった穴を埋めた上でさらにそこに少しでも何かを積み上げてみせる、という気概があれば大抵のことはどうにかなる。どうにかなると言っても、安っぽい根性論ではなく、気概とは、何ができるかを冷静に考え、適切な手を打って行くための心のエネルギー源のようなものである。
 高3の夏休みに一橋大学専門のコースを東京の予備校で受講することになりそのタイミングでの卒業となったが、6年弱ほとんどすべての添削を私が行った。思い出深い出来事がある。高校生になったぐらいの頃であろうか、一度試しに読解問題に取り組ませた。すると、お母様から「そんなことを望んではいない。志高塾でしかできない作文をやらせてくれ」というようなお叱りを受けた。そのような明確な意思表示をされたことは後にも先にもその一度きりで、ずっと温かく見守り続けてくださっていた。こういうことを書く時、少なからず戸惑いがある。私がそういう姿勢を親御様に要求しているように受け取られかねないからだ。気になることがあれば遠慮せずに言っていただきたい。そういうことに一つ一つ応えることで我々も成長して行くからだ。もちろん、我々もただ言われた通りのことをするだけではなく、必要であればお断りすることもある。私のことをよくご存知の親御様は私が素直に首を縦に振るとは思っておられないから、直前の一文はいらなかったかもしれない。
彼とお母様とのことで私が大好きなエピソードがある。定期試験の勉強において、英語の分からないところを昔予備校で英語を教えておられたお母様に質問をすると、その周辺のことから説明が始まるので、5分もあれば終わるところが1時間ぐらい取られてしまい結果的にテスト勉強が進まない、とぼやいていたことがあった。それを聞いたとき、「良いお母さんやなぁ」と心からの感想を述べた。出会った中1の時点で既に落ち着きのある子であった。生来の性格もあるのだろうが、お母様のそのような考えが大きな影響を与えたことは間違いない。
 Vol.498を「不思議なことに1年前より一緒に勉強していて楽しいのだ。いや、不思議でないのかもしれない。次回、乞うご期待。」と締めくくった。目先のことではなく、すごく根本的なことを教えられていることに一定の満足感がある。たとえば、英語の勉強で言えば、長男は小さな単語カードの表面に「りんご」、裏面に”apple”と書くようなことをしていた。そんなものは時間の無駄でしかない。それであればまずは中学生(英検4級)レベルの単語帳を1冊さっさと丸覚えした方が断然早い。そこからこぼれたものだけに絞って書き出せば良いのだ。大した量ではなかったが、過去の分はすべて捨てさせた。
 私は効率的と言う言葉を好まない。本来は(効率的)≒(効果的)のはずなのだが、実際は(効率的)<<(効果的)となっているからだ。時間の効率性を示すタイムパフォーマンスは、次の式で表される。 (タイムパフォーマンス)=(成果)÷(時間) 効率的と言うのはタイムパフォーマンスの値を上げることなのだが、世の中の多くの人は、ただ時間を削減することにしか目が向いていないような気がする。たとえば、成果;100、時間;100であったとする。このとき、タイムパフォーマンスは100÷100=1となる。時間のことばかり考えて、それを80まで削ったところで、成果も下がって80、もっとひどい場合として60になってしまえば、それは1、もしくは0.75となる。後者の場合、1が0.75になっているので効率が25%下がったことになる。計算でスピードばかり意識させすぎたせいで、ミスが増えるだけでなく、変な手抜きの癖まで付いてしまう、というのはその典型例である。そういうことも想定した上で、あえて速さを追い求めたのであればそれも一つのやり方ではあるが、正確性が保たれることを期待していたのであればそれは虫が良すぎるというものである。  (ちょこっと実践編)としておきながら、禁止したことに触れただけなので、何をさせるようにしたのかの紹介を。英語塾で複数形や発音記号から単語のスペルを答えるというテストがされていたので、大きな単語カードのおもて面に「歯」、それ以外に複数を意味する”plural”の頭2文字の“pl”と書かせる。そして、裏面には 単数形の“tooth”と複数形の”teeth”とそれぞれの発音記号に加え、名詞を意味する”n”、その他良さそうな例文があればそれも合わせて記入させる。品詞はもちろんのこと、発音記号も慣れてくれば書く必要がなくなるので、あくまでも最初のうちだけのことである。それ以外には、”home”の使い方を間違えていたので、辞書を引かせておもて面に ①我が家に勝るところなし ②明日は一日中家にいるつもりです と並記させ、裏面に ①There’s no place like home. ②I”ll be home all day tomorrow. と書かせた上で、①、②の場合の名詞と副詞を意味する”n”と”adv”と追記させた。”home”のようにいろいろな品詞がある場合は、そこらへんを整理してあげる必要がある。そうすると、おかしな使い方をしなくなるし、別の単語を見た時にも自動的にそのような分類を行えるようになる。これまではすべての単語が一緒くたに放り込まれていたのが、品詞ごとのボックスを設けたことで整理されやすくなる。そう言えば、”home”と”house”の違いを説明し忘れたことに今気が付いた。私は英語指導のプロでも何でもないので、理想的な勉強の仕方を提示したかったわけではなく、時間の先行投資の一例を示したかったのだ。大事なのは時間を掛けることを無駄に思うのではなく、掛けた時間をきちんと回収しようとすることである。イメージ的には、時間を50%増しの150にする代わりに、成果が倍の200になるようにすることである。そうすれば、タイムパフォーマンスは30%以上上がる。長男は、折角作成した単語カードを有効活用していないので、せめて英語塾の授業の前日に見るなどして習慣化するようしつこく伝えているところである。  効率的と言う言葉を好まない私が、前回のVol.499で用いている。ただし、その対象となっているのは、ご飯を食べることであったり学校の準備であったり、と言ったように(成果)自体を変えられないものである。手を打ったからと言って中々うまく行くわけではない。朝起きて、ご飯の後にのんびりとテレビを見ていたにも関わらず、出る直前に準備ができてないことに気付き、焦って取り乱すというのは日常の光景である。朝からそんなものを見せられている親としては、「よくもまあ毎度あほみたいに同じことを繰り返すな」とうんざりする。だが、前の晩に準備するか、朝の無駄な時間を削るか、遅れそうでも泰然自若としていられるようになるか、少なくともどれかはそのうちにできるようになるはずである。ブログなどを通して、それっぽいことを書くから、親としての私も我が子もそれなりにできているように勘違いされることもあるが、まったく持ってそうでない。文章にすることで、言ったからにはやらないとアカンと自らの背中を押したり、言葉にすることで頭の中を整理し自分の心を落ち着けたりしているだけのことである。  500号を意識しないようにしていたのだが、それなりに区切りにふさわしいものになったような気もする。通常2,500字前後のところ3,500字を超えた。中々の大作である。読んでいただく時間が40%増しになるのだが、成果の方はどうなのであろうか。例え今回のタイムパフォーマンスが低いと感じられても、その穴、私が埋めた上でさらなる積み増しを行います。もうしばらくご愛顧いただき、そのチャンスを私に与えていただくことを心よりお願い申し上げます。

2021.06.22Vol.499 開けてビックリ玉手箱々々々・・・

 さて、どこから話を始めようか。
 冒頭で触れておかなければそのままになりそうなので、タイトルにある「々々々・・・」から。もちろん、「開けてビックリ玉手箱」は中間テストの成績が返ってきて驚いたことを意味している。玉手箱の中は入れ子構造になっていて、その中にまた箱が入っている。親の私としては、それが美しいのか面白い形をしているのか、どのようなものであれば納得できるのかはよく分からないのだが、我が子らしいと思えるものに出会うまでひたすら開け続ける。ずっと「うそやろ?おっかしいな、こんなはずじゃないのに」というビックリの連続で途中めげそうになりながらも、最後だけは「おっ、あれっ、やっぱそうやんな」というビックリで終わる。そして、その箱の中には、箱ではなく我が子らしい輝きを放つ何かが入っているはずなのだが、その中身はその場で確認せずに後の楽しみにとして取っておく。ここで「何でその中は箱ではないのか?」、「何で開けても無いのに中身を予想できるのか?」と言ったような正しい疑問を間違えても持たないでいただきたい。可能性は無限大、と言う耳障りの良いことではなく、その反対を表現したかった。箱がどんどん小さくなっていき、さすがにもうアカンか、と焦りながらも「まだあるやんな」と期待を抱く。ここでの箱の大小は価値を表しているわけではない。ただ、既に述べたように、小さくなっていくにしたがって、その中に箱が入っている可能性自体が下がって行ってしまうのだ。こうやって説明しながら、「きっと読んでる人に俺の言いたいこと理解できへんよな」となっている自分がいる。「分かってもらえなくて良い」という開き直りなんて許されるはずもないのだが、私自身としてはものすごくしっくりと来ている。みなさん、意味不明でごめんなさい。
 成績が悪かったことが勉強を教えよう、となった直接的なきっかけではあるのだが、それ以上に心配だったのは、生活のリズムがものすごく悪かったこと。睡眠不足になっていたからだ。しかも、まだクラブが始まっていなかったにも関わらず。さすがにこれではまずい、ということで、宿題が終わっていなければ早起きしてやっていたのだがそれを止めさせることにした。早起きしてえらい、という評価も改めた。6時10分に起きれば学校に間に合うので、それより前に起きることを禁止にして、夜も23時には寝ることを義務付けた。中学生になってからは自分で起きなさい、とたとえ寝坊しても放っておくというルールに変えた。実際、遅刻しそうになることが何度かあった。それ自体は良かったのだが、入学と共に購入したデジタル時計が5時とか変な時間にしょっちゅう鳴って、隣の部屋で寝ている私もよく起こされた。それも睡眠不足の原因になっていた。アホみたいな話なのだが、一度その時間にセットしたのは良いが、消し方をよく分かっていなかったのだ。説明書を読ませて使い方を覚えさせるという方法や携帯のアラームを使うというのもあったのだが、少なからず似たようなことが起こりそうだったのでアナログ時計を一緒に買いに行った。きれいな音楽がおかしな時間に流れることが無くなった代わりに、適切な時間に昔ながらのベルを叩くジリジリジリが鳴ることになった。それで大抵は私の目も覚めるのだが、その音は予想していたより不快ではなく、それどころか一種の懐かしさも手伝って心地良さを感じてさえいるぐらいである。
 上位4分の1ぐらいには余裕で入れるだろうと考えたのには理由がある。背伸びして入った学校でないことと、中学受験で全然疲れていないことの2つだ。目標だけ設定すれば、自ずとクリアするだろう、と考えていたのだが完全に甘かった。そして、「あれ、もしかして、俺、我が子が所属している(超ウルトラ弱小)サッカーチームのコーチと同じやん」となった。念のために断っておくと、私はそのコーチのキャラクターは好きではある。ただ、ルールすら分かっていない低学年の子供たちに向かって「考えることが大事や。自分達で作戦を立てろ」と指示しているのを聞くたびに、「引き出しも無いのに、そんなん絶対無理やーん」と心の中で突っ込み続けて来た。「こういう風に工夫しなさい」と教えられてやったものは工夫でも何でもないという考えに基づいて、勉強だけでなくそういう方法論も意図的に教え込んでこなかったせいで、長男は工夫の仕方をまったく分かっていなかったのだ。また、それに関することとして、効率的にやりなさい、ということもこれまで伝えてこなかった。小手先のテクニックでうまくやることよりも、興味の幅を広げて欲しかったからだ。大人になっても手際が悪い人というのはいるが、そういうものは一度手に入れれば、後は少しずつそのレベルを上げたり、他の事柄にも応用できるようにしたりすれば良いだけのことなので、早い段階から無理に身に付けさせる必要はない。たとえば、音読の宿題はやってもやらなくてもばれないのだが、いつもきちんとやっていた。先生に言われたことをきちんとやる真面目な子に育てたかったのではなく、早い段階で意味が有る、無いという判断をさせたくなかったので、「偉いなぁ、俺やった絶対やらへんよなぁ」と思いながら眺めていた。小学生の頃、月に1回、放課後に地域の人が主催する希望者だけが参加するプログラムがあった。高学年になっても、花壇の種まきか何かに申し込んでいたので、「同級生の男の子なんて誰もおらんかったちゃう?」、「うん、いなかった」、「楽しかったの?」、「うん、楽しかった」、「人の目なんて気にせずに自分がやりたいことをやったらええからな」というやり取りをしたことを覚えている。その流れを汲んで、生活がぐちゃぐちゃになっているさなか、先日、学校で紹介された理科に関する何かの検定試験を受ける、と言い出したので、「あのな、意欲はいいんやけど、勉強せずに受けてもしょうがないし、今は英語や数学のできてないことを優先せなアカン」と初めて堰き止めた。今なら、そのメッセージも適切に受け取ってくれる気がしている。
 一時期ぱったりと無くなってしまっていたのだが、部屋を覗くと以前のように読書をしている姿を見かけるようになった。非常に良い兆候である。本人が考える余地をできる限り残した上で、しばらくは週に1回2時間ほどは息子の勉強に関わって行く予定にしている。目下3週間継続中である。もちろん、ゴルフとサッカーと釣りなどの自分の時間を削る気はさらさらない。そう言えば、最近美術館に行ってないな。

2021.06.15Vol.498 開けてビックリ玉手箱々々々・・・(予告編)

 前回(※)、遠くを見ることの大事さの話の中で中学受験のことを書きこぼした。それをどのようにすくいあげるかを考えていたちょうどそのときに、あの言葉に出会った。「勝ち」がなくても、「価値」があるものにしてあげなければならない。それを前提にして、どうやったら勝てるかを真剣に考える。「勝ち」のことだけ考えて、「価値」も付いてこればラッキー、では「勝ち」すらおぼつかない。中学受験においては特に、その先を見越していないと打ち手を誤る。そんなデータは存在しないが、中学受験は高校、大学受験に比べて、成績が急降下する生徒の割合は断然高いはずである。それは、親や塾の先生と言った大人の関与する度合いが強いから。尻を叩かれながら期待に応えるべく頑張っていたものの、ある瞬間プチンとなる。やることは増える一方なのに成績は下がり続け、自我も芽生え始めるからだ。この3つが化学反応を起こし始めたときに、「中学受験が終わるまでは」と見て見ぬふりをすることは許されない。私に言わせれば、そもそもそのようになる前にきちんと手を打つのが周りにいる大人の役割である。やる気を失わせるのは論外だが、悪くないではなく良い受験にしてあげるために何が必要なのかを真剣に考えてあげなければいけないのだ。
※ここでの「前回」は「Vol.496 憂国」を指している

 上記は、前回の「Vol.497 言葉の重量」に入れていたものの最終的に削った内容に加筆修正したものである。これを文章の冒頭に持って来て、それに絡めてタイトルも元々は「おこぼれ話」にしていたぐらいなのだ。思った通りに進んで行かないのが作文であり、そこが難しいところであり面白いところでもある。特に私の場合は、理路整然と論理を組み上げるのではなく、思うに任せて書き連ねて行くから「予定調和」なんて夢のまた夢である。いつか使うかも、と保存しておいた材料も、1週間も経てば思いは他の所に移動しているので日の目を見ないことがほとんど。私の中で鮮度を失ってしまうからだ。それにも関わらず、光を当てたのには訳がある。今回は、「宗旨変えリターンズ」と題して、「Vol.456 宗旨替え~恐怖との闘い~」と絡めながら話を展開して行く予定にしていたからだ。読み返すと、以下のようなことが書かれていたのでそのまま抜粋する。

 これまでも何度か述べて来たが、我が子に勉強を教えないようにしてきた。教育関連の仕事に従事していなければクイズ感覚で一緒に解くことを楽しんだかもしれない。それでも限定的であったはずである。そして、実際にはその業界に身を置いている。自分で気づけた、と感じるチャンスを私が奪い取ってしまうかもしれない、ということが怖くて怖くてしょうがないのだ。些細なことであっても、自分の頭で考えて、実践して、ということを繰り返してきたつもりである。中学受験での失敗や就活に始まり20代の社会人生活での挫折がその後のエネルギーとなっている。もちろん、失敗するよりは成功した方が良い。ただ、中身が重要なのだ。いい加減にやっていれば失敗しても得るものがないし、何となくの成功もその後にはつながらない。私自身の経験は、志高塾の生徒にもプラスに働く。合格しさえすれば良いとは考えないからだ。生徒に対しては、受験勉強を通して、いかにその後につながるものを身に付けさせてあげられるか、つまり中身のある成功体験をさせてあげるかということが重要なのだ。我が子に対しては、せめて良い失敗をしてくれることを願っている。

 お分かりいただけたであろうか。冒頭の内容と酷似しているのだ。こういう出会いは安心感を与えてくれる。自身の軸がぶれていないことの確認になるからだ。だからと言って、何らかのきっかけがなければ自らの文章を読み返すことはない。そもそも軸なんてぶれようがないのかもしれない。自分が志高塾でやりたいことは何なのか、それは本当に人の役に立つことなのだろうか、それを正確に伝えられているだろうか、そして、それを実践できているのだろうか、ということを絶えず自問自答しているからだ。この「絶えず」が誇張でないぐらいに、頭の中で繰り返している。
 最後に、次回への予告を述べて今日は終わりにする。よって、タイトルに(予告編)を付け足した。長男が高槻に入学する際に、半分以内に入らないと1年で辞めさせるからな、というようなことを伝えた。脅しではなく、ちゃんとやらないんだったら近くの公立に転校すれば良い、というすごくシンプルな考えに基づいている。確か「半分以内」だったはずなのだが、私の感覚ではちゃんとやれば大した苦労もなく上位4分の1には入れるだろう、というのがあった。そういう意味ではかなり余裕を持たせている。何をどのようにしていたのかは知らないが、日常も試験前もそれなりに時間を掛けて勉強していたにも関わらず、中間考査で平均点以上が10教科中3教科しかなく、しかもその3つはいずれも5点も超えていなかったのだ。総合順位は4分の3ぐらい。ちゃんとやって半分に入らないというのはまったくの想定外。こりゃアカン、となって、6月6、13日と2週連続で日曜日に勉強を教えた。ひとまず、夏休みが終わるまでは続ける予定にしている。不思議なことに1年前より一緒に勉強していて楽しいのだ。いや、不思議でないのかもしれない。次回、乞うご期待。

2021.06.08Vol.497 言葉の重量

 食卓に閉じられずに置かれていた読売の『中高生新聞』のページ下の広告に目が行った。

「勝ち」がなければ、「価値」はなかったのか?

第58回宣伝会議賞の特別課題「部活動の価値を伝えるキャッチフレーズ」の受賞作品。検索すると、「宣伝会議賞」のHPがあり、トップページに「心を動かすって、こんなに楽しい。」というフレーズが。それは、志高塾における「最短の遠回り。」に当たる。きっと「心を動かすって、こんなにも楽しい。」から、最終的に「も」を取り除いたのではないか。文章を書いていると、そういう一文字を入れる入れないに始まり、ある言葉を前に置くのか後ろに持って行くのかを決めるのにかなりの時間を要する。それを判断する基準などは存在せず、感覚でしかないから。1ついじると全体のバランスが変わり、新たに他の所が気になり出したりする。ほとんどの場合、その1つ1つが読み手に影響を与えることはない。でもきっと、そういうところに神経を使うことがとても重要なのだ。「神は細部に宿る」の信奉者ではないが、少しでも良くしようともがけば、自ずと細部はおろそかにできなくなる。文章ですらそうなのだから、キャッチコピーとなるとなおさらであろう。
 先日「HPを拝見しました」とセールスの電話が掛かってきた。HPに載っている我々の指導方針などにいくつか触れて、暗に「時間を掛けてきちんと読みました。単なる売込みとは違います」ということをアピールした上で、「生徒さんが読書感想文のコンクールで賞を取れるようにするために」と話は続いた。「それ、全然ちゃんと見ていませんね。まったく興味ないです」と伝えて電話を切った。そういうときに周りに社員がいれば、どういう電話が掛かってきたかを簡単に説明した上で、「あんなのは仕事でも何でもない」という話をする。電話相手のことなんてどうでも良いので、彼らを否定することが目的ではない。具体例を交えて意味のない仕事をいてはいけない、ということを胸に刻んで欲しいのだ。読書感想文に対してはそんなスタンスの私も、もし生徒が「宣伝会議賞」の中高生部門にエントリーするとなれば、言葉が生み出される過程を見守りたい。「実体の伴わない、言葉遊びはアカンで」ということを伝えた上で。
 『Vol.494想定外で予定外は想定内?』でも触れた『毎月新聞』という教材に、次のような課題がある。
「『お客さん、これ最後のひとつですよ』と言われることで筆者は本来買おうと思っていなかったものを買ってしまうことがあります。このように人の行動を変えさせる効果のある言葉を考え、なぜ変わるのか、それによってどのような効果があるのか、などが分かるように四百字程度で作文をしなさい。ただし、物の売り買いとは別の事柄について書きなさい。」
「実体の伴う」とは何か。それは、人の行動を変えさせるだけのインパクトがあるということ。それが特定の誰かである場合は、その人のことを真剣に思ってのものでなければならない。
 先週、5年生の男の子を本気で怒った。その子は家で本を読まないので、以前から授業後に教室で30分ほど残して読書をさせている。そのように我々に強制される子の多くは集中せずに時間が来るまでどうにかやり過ごそうとするのだが、彼は例外的にグッと入り込む。家では漫画やゲームなどが優先されるだけで、読書を楽しめないわけではないのだ。作文の時もかなりよく考える。最近、「5年生の1年間で頑張って読書習慣を付けるように。そうしたら国語の成績は一気に良くなる」と発破をかけた。後日、本人に尋ねると「(最近は)読んでる」と返って来たので信じていたのだが、お母様に確認したら「そんな姿をまったく見ない」とのこと。それだけでもいらだっていたのに、それに加えて「お母さんのいないところで読んでる」としょうもない言い訳をしたので、見事なぐらい火に油を注いだ。改めて彼にとっての読書の意味を説明し、「期待をしながら夏休みが終わるまでは読んでいるかどうかの確認をする。でも、それでもだめならこいつは言っても分からん奴やからと俺はあきらめる」ということを話した。
 一方で、どの生徒にもそのようにすれば良いわけではない。元々読書をせず、勉強やらクラブやらに追われている中高生に「ちゃんと読みなさい」の言葉は響かない。言われた方からすると「読まへんの分かってるやん」となったり、適当に「はい」と答えたりするようになる。このような中身のない言葉のキャッチボールをすると、意味のあるやり取りができなくなってしまう。それであれば、夏休みなどの時間が取れるときまで待って勧めたり、その子が興味の持てそうな本を見つけてあげたりしなければならない。また、時には読書をさせることを断念して、他の所で補充してあげなければならない。それは読解問題を通してかもしれないし、添削や丸付け時の会話かもしれない。そのひと手間をかけずに、本人任せにすることほど無責任なことはない。
 私は下らない話をするのが大好きだ。そこで発せられた言葉は、あたかも無重力状態下の物体のようにふわふわと宙を舞う。できる限りどうでもいい話を楽しむためにも、たまにちゃんと話をするときぐらいはきちんと重力を生む場を作り出せなければならない。どれだけの重力を生み出せるかは日頃の言葉との向き合い方に掛かっている。

2021.06.01Vol.496 憂国

 Vol.494で紹介した柳川範之著『東大教授が教える知的に考える練習』に倣えば、コロナに関する報道には知的に考えるための練習材料がゴロゴロ転がっている。情報に受け身な人でも、テレビで連日連夜これだけ代り映えのしないニュースが流されっぱなしになっていると、さすがに疑問を持ち始めるのではないだろうか。それは考えることのスタート地点に立ったことを意味している。これだけ長期に渡って、同じテーマがメインで扱われ続けたことは記憶にない。オウム真理教の地下鉄サリン事件や東日本大震災でもこれほどではなかっただろうし、少なからず進展があったはずだ。
 最近すごく気になり出したことがある。一体この国には長期的な視点でコロナ対策を考える役割を担っている人がいるのだろうか、と。私はしばしばスポーツに例を取るのだが、あるお母様から「スポーツの話が出てくると頭がロックする」とやんわりとクレームをいただいたので、「前に伝えましたよね」とお叱りを受けないようにほとぼりが冷めるまでは別のものを。運転をする際には、目の前ではなく遠くの方を見るように教わる。それも経験を積んでからではなく、自動車教習所で既にそのように習うのだ。それは2つのことを示唆している。1つは、一部の人を除き、遠くは意識しないと見られるようにならないこと。そして、もう1つが、遠くを見ようとすることで目の前で起きうることへの予測の精度が上がり、適切な判断がしやすくなること。目的地も定かではない多くの人たちが、目の前だけを見て運転をしていたらあちこちで事故が起こるのは当然のことである。
 卑近な例で言えば、高槻校を出すための準備を少なくともその1年以上前からしていた。ただし、していたのは講師を採用して育成することのみ。だからと言うわけではないが、生徒は全然集まっていない。既存の西宮北口校、豊中校に新たに応募してきて、かつ京都の大学に通う学生には、「学校からの帰り道に寄ってもらうことは可能でしょうか。阪急高槻市駅の近くで物件を探す予定です」というようなことを面接の際に伝えていた。その結果、高槻校に出勤可能な3, 4人を含めて大学2回生が両校合わせて10人もいる。4回生が2人であることを考えると、この1年でいかに多くの人を採用したかがお分かりいただけるはずである。途中で辞める人がいないわけではないが、その多くが卒業まで勤めてくれるのでほぼこの数字で行くはずである。これまで何度か述べてきたが、人が足りていても良い人がいれば採る、足りていなくても良い人で無ければ採らない、というのが我々の方針である。また、希望している回数、曜日に入ってもらえるように時間割を組むようにしている。週1日を希望する講師に3日お願いすることもなければ、その逆に3日希望しているのに1日だけしかお願いしないということもない。申し訳ないことに1日ぐらいのずれが生じることはあるが、希望している以上に働いてもらわないようには注意している。無理がたたると長く続けてもらえなくなるからだ。物事には良い側面もあればその反対もある。人余りの状況なので、本来は2人しか講師が必要のないところに3人入っていることも少なくない。その場合、各人がきちんと1人当たり1の仕事をこなせば3÷2=1.5なので、理論上、通常の1.5倍の質の授業を生徒たちに提供できることになる。逆に、2の仕事を3人で分担すれば、一人当たり2/3になってしまう。同じ2をするのであれば、1の仕事をする2人で行った方が明らかにその場の空気はピンと張る。さらに、もっと困るのは、早い段階で2/3の仕事の仕方が体に染みつくと、3の仕事が必要になったとき、3人でさすがに2止まりということはないだろうが2.5ぐらいが限界になってしまう。一般的には有事、平時の2段階で語られるが、そこに1つ付け加えて、有事、平時、無事と言った感じだろうか。有事に備えてではなく、平時のパフォーマンスを上げるために、無事の状況でどれだけのことができるか。これが我々の現在地である。こんなちっぽけな塾ですら、少しぐらいは未来を考えながら動いている。
 今回のコロナ対応ほど、日本が技術立国でなくなってしまったことを白日の下に晒した例はないのではないだろうか。それに加えて、先日、内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)が第三者の不正アクセスを受けて情報システムに関する情報が流出したことが明らかになった。なお、NISCのホームページには次のようにある。
「ITの急速な発展と普及に伴い、 ITは生活のあらゆる部分に浸透し、いまや社会基盤として必要不可欠のものとなっています。ITの重要性が増す反面、ITに障害が起きた場合には、国民生活や経済活動へ大きな打撃を与える可能性があります。さらに近年、官公庁や企業からの情報流出が発生しており、サイバーセキュリティの確保が、喫緊の課題となっています。
このような状況において、2014年11月、サイバーセキュリティ基本法が成立しました。同法に基づき、2015年1月、内閣に「サイバーセキュリティ戦略本部」が設置され、同時に、内閣官房に「内閣サイバーセキュリティセンター(NISC※)」が設置されました。」
自分達のことすら守れない人たちに何を期待すればいいのであろうか。しかも、これは当然の帰結なのだ。2018年の時点で、NISCは非常勤の技術者を日給8,000円で募集している。常勤のデータは見つけられなかったが、驚くような額ではないはずである。海外では年収が1億を超えることもあるとのことなので太刀打ちできるはずがない。
 理系、文系という分け方は好きではないが、もう少し科学技術に明るい理系出身の人を国のトップに据えればいいのではないだろうか、と考えた。鳩山由紀夫、菅直人はその条件を満たしていた。間違いに気づいた。日本は政治家ではなく、官僚が政治を支えていることを思い出したからだ。そして、文科省と総務省(NISCの管轄省庁)の新卒採用の出身学部を調べると(2013年のものなので少し古い)、理系はわずか10%強しかいないことが分かった。種は一体どこに蒔かれているのだろうか。バイデン政権は、来年度の予算案として「科学研究や再生可能エネルギーなどの国内向けプログラム」として前年度比で16.5%の増額を要求している。財源の問題などはあるのだろうが、少なくともそこにはメッセージはある。大胆であれば良いわけではないが、そういうダイナミックさが今の日本には求められているのではないだろうか。
 エネルギーなどの社会問題に関する作文をしている生徒に伝えることがある。絵に描いた餅ではなく、少しでも自分のできることを書きなさい、と。それぞれの生徒の未来を想像し、今何をするべきかを考え、それを実践していく。それは、私にできることであり、志高塾にできることである。

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