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2019.07.16Vol.406 我が子育て記

 先週、幼稚園のPTAの元役員たちの同窓会に顔を出してきた。1年前に続き2回目である。参加したのはお母さん5人と私。着くなり、あるお母さんが「松蔭さん、信者が1人増えましたよ」と言うので、何のことかと思ったら、そこにいた1人のお母さんが最近ブログを読み始めた、ということであった。しかし、この話にはオチがあって、以前は読んでくれていた1人のお母さんが逆に読まなくなったことが後から判明したので、実際は±0。私の文章を読みなが「うんうん、私の子育ては間違えていない」という確認をしてもらえているとのこと。「ただで読めていいです」ということを何度か口にしていたのだが、価値が無いと判断すれば無料であってもわざわざサイトを訪れないので嬉しいことである。昨日、中学受験とともに卒業した現在高2の男の子のお母様とラインのやり取りをしていた。「困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」と伝えていたこともあり、「昨日『松蔭先生に教えてもらうかな』とブツブツ言っていました」という報告をいただいた。私の教室までは片道1時間かかる。それゆえ、コンスタントに通うのは難しいので夏期講習の期間など時間に余裕があるときに力になれれば幸いである。今回、久しぶりに息子の話をメインテーマにしようとしたのは、先の入信者のお母さんが「時々、登場する子供の話を読んで、当時のお子さんのこと(二男の同級生のお母さんなので)を思い出しています」と漏らしていたから。始まり始まり。
 先週の木曜日の昼頃、夕方から大雨の予報だったので妻に「今日の(長男の)サッカーどうすんの?」と尋ねると、案の定「今日は雨がひどいから休ませる」と返って来た。「他の上手い子と同じように休んでどうするん。人が少ないときに行ったら、下手くそやから日頃はコーチに目を掛けてもらえてなくても『おう、よう頑張って来たな』ってなるやん。落雷の危険があれば話は別やけど、大雨やったら気を付けて行かせたらいいねん(片道30分ぐらいかけて一人自転車で通っている)」と話した。結局練習に行ったのだが、予報は外れて小雨だったため結局たくさん来ていたとのこと。残念である。その日、仕事からの帰宅後、上の話を長男に伝えた。「『どこやったら自分は頑張れるか』というのをよく考えて行動せなアカン」ということを説明した。それは何も頑張っている振りをすればいいということではなく、よくできる人と同じことをしていても駄目ということを分かって欲しかったのだ。休みの日に一人で練習をするのが理想なのだが、現時点でそれはあまり期待できないので、せめてそれぐらいはしなさい、ということである。こういうことは1回聞いて理解できるものではないので、折に触れて話す必要がある。
 二男は、ノート1ページ分、自分で興味のあることを調べて、それを毎日先生に提出している。「余裕がある人はやってください」という先生の言葉に反応してそのようにしているのだ。欠かさずにやっているのは我が子だけらしく、褒められているとのこと。一方で、覚えればできるような学校の漢字テストなどで、よく間違えている。リビングのテーブルに無造作にどさっと置かれているプリントに目を通して驚かされることが少なくない。その2つのことを踏まえて「テストでちゃんと点数を取れないのに、そういうことだけやっても意味がない」と話した。それは、どちらか1つをするならテストにつながる勉強を選びなさい、そちらの方が大事だ、という意味ではない。調べ学習を自分だけ継続していることが誇らしいのであれば、それをそのままにした上で、覚えることなどの地道なことをしなさい、ということを伝えたかったのだ。何かを調べるといっても3年生のやることなので、いろいろな資料を突き合わせて、そこから自分なりの結論を導くわけではなく、どこかに書いてあることをただ写しているだけのレベルである。手で書いているだけで、単なるコピペに過ぎない。私は高1の最初の半年間で、入学時に学校から配られた大学入試向けの英単語の本に載っているものを完璧に覚えた。それ以降は、いつどのタイミングで問題を出されても9割は取れるぐらい頭に残し続けた。帰りはクラブの友達と一緒だったものの、行きは一人なので、満員電車に揺られている30分を有効活用していたのだ。右手で吊革をしっかりと掴み、左手の本を頭より高い位置に持って来るという中々苦しい体勢であった。その頃の私をモチーフにした現代版の二宮尊徳像が作製されたら、妙に体くねらせながら、少しの時間も無駄にしない学生、というイメージを醸し出せる自信はある。当時、ただ立っているだけの同級生を見ながら「いやぁ、俺って頑張ってるなぁ」と一人いい気分に浸っていたのだが、英語ができるわけではなかった。なぜなら、テスト前を除けば英語の勉強をほとんど家でしていなかったからだ。同級生は、日々時間を掛けて、辞書を引いたりしながら和訳などの予習をしていたのだ。当時の私や今の二男のやっていることは、メインディッシュの肉の皿に載っている野菜のようなものである。もし、肉だけがど真ん中にドンと置かれていたら「野菜も欲しいなぁ」となる。一方で、大きな皿の周りに野菜だけが置かれたものが出てきたら、まったく持って意味が分からない。
 彩が無ければ味気がない。一方で、彩はあくまでも添えるものであって、メインにはなりえない。やるべきことだけをやっているというのもつまらないし、やるべきことをやらずに中途半端にそれっぽいことをしていてもいけない。そういうことが分かる人になっていって欲しい。

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