
2019.01.22Vol.383 (仮)
1年半ぐらい前だろうか。ある親御様から「先生のところ、最近、中学受験で結果が出てませんよね?」と言われた。5秒ぐらいだろうか、それとも10秒ぐらいだろうか。その意味を理解するまでに少なくない時間を要した。電話ではなく面と向かって話していたのだが、それでも5秒と言うのはかなり長く感じられるものである。実際に沈黙の時間を計ったことはないので、実感とどれぐらい差があるのかは分からないのだが。直近の2年ぐらい最難関校と呼ばれる学校へ合格していないというのが、その理由だったのだ。だが、生徒がどこの学校に行くかはある意味どうでもいいことなのだ。「じゃあ、なぜ、灘と甲陽だけ累計の合格実績を出しているのですか」と指摘を受けるかもしれない。それには単純な理由がある。「志高塾は、中堅校には良いけど、最難関校を目指すならやめた方が良い」などとなるのが嫌だけなのだ。それは、私個人のつまらないプライドとの連関が強い。「大したことないな」という評価をされたくないのだ。なぜ、それだけ時間が掛かったかと言えば、それなりの結果を出し続けている、という自負が自分の中にあったからだ。それは一人一人の生徒と真摯に向き合ってきた、という自負である。もちろん、すべてがうまくいっていたわけではなく、思うような結果を出せないこともあった。
上記は、以前に書き留めていたものから引っ張り出してきたものである。2,000字近く書いて完成させたものも含め、一度お蔵入りさせたものは十中八九、日の目を見ることはない。時間が経ったことで、扱っていたテーマが自分の心のど真ん中からずれてしまうためだ。自分の中で旬ではなくなってしまうのだ。例外的に復活させたのには訳がある。中学受験がほぼひと段落したものの、完全には終わり切っていないからだ。この1か月は中学受験が心のど真ん中にあった。しかし、現時点でそれが完全に立ち去らず、それゆえ新たなものもそこに入って来ていない。宙ぶらりんの状態で今朝を迎え、「さてどうしたものか」と思案しようとしたところで、「(仮)」と題したこの文章にたどり着いた。通常、仮のタイトルを付けておいて「(仮)結果を出せない志高塾」などとするのだが、それすらもなかった。
字数稼ぎはこれぐらいにして、本題へ。今年で言えば、甲陽に合格した生徒が、去年で言えば灘に合格した生徒が一番手は掛からなかった。その2人に関しては、100回受験したら99回は合格したはずである。しかも、2人とも既に4年生の時点でそれは明確であった。私からすれば彼らが志望校に合格したところで我々が結果を残したことにはならない。彼らが結果を出しただけの話なのだ。それゆえ、その2人の結果を踏まえて「結果出てますね」と言われても、やはり「?」となったはずである。その甲陽の生徒で言えば、「文中の言葉を引用しない」という志高塾のルールをとりあえず守っているものの、ただ少し言い換えているだけだった。たとえば「(時間が経つのも忘れて美しい絵を)見ていた」と本文にあれば、「眺めていた」にするというようなレベルのものである。そうではなく、その状況を思い浮かべれば「目を(心を)奪われていた」、「目が釘付けになる」などとすることもできるのだ。そのような後ろ向きの取り組み姿勢を踏まえて、半年に1回の面談では入塾後ずっと「まあ、受験には合格するでしょうが、面白くないんですよね」と親御様に言い続けていた。その彼が、何が原因かは分からないが、6年生になった頃から急に思い切った表現を出すようになったのだ。時に不適切な言葉になっていることはあったが、そのような時でも「おっ、良い表現使おうとしてるやん」と声を掛けてきた。既に述べた通り合格は間違いなかった。言われていることを最低限やるだけではなく、なぜそれをする必要があるのか、ということを自分なりに消化して取り組めるようになったことが私には嬉しかった。彼は人間的に成長したのだ。そして、それは未来を明るくしてくれるはずのものなのだ。HP上で「受験専門塾ではない」と謳っている。それは、先のようなこととも関係している。ただ、合格すればいいという話ではないのだ。
今後、高校、大学受験を迎える生徒もいる。そして、何よりも我々は受験専門塾ではないのだ。すべての生徒の成長を促せるように、私自身また気持ちを新たに前に進んで行かなければならない。ただ、今週いっぱいはまだ中学受験が心の中心付近をうろついていそうである。