
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.06.06Vol.59 歴史を繋いでいくことの意味(徳野)
2011年3月11日14時46分、小学校卒業を間近に控えた私はクラスメイトたちと一緒に探究学習のレポート冊子を作成していた。賑やかな雰囲気の中で突然流れたのが、「東北地方で大きな地震があったので、皆さん速やかに下校してください」という校内放送だった。その後、今ひとつ状況が吞み込めないまま帰宅し、テレビ中継で遠く離れた土地の惨状に目を丸くしたのは言うまでもない。一緒にいた母親も言葉を失っていたが、私の習い事の予定時刻が迫ってくると「あんたはやることをやりなさいよ」と急かしてきたので、私も慌てておやつを食べてピアノのレッスンに向かったことを覚えている。私には私の生活があるのを忘れるな、ということだ。それから1か月も経たないうちに中学校入学の日を迎えた。式の最中に「東北の子たちには校舎すら無いんだ」と、ほんの一瞬だけ思いを馳せたものの、そこから深まってはいかなかった。ニュースで断片的に流れてくる現地の情報に対しても「大変そうだなぁ」という感想と共に通り過ぎてゆく。それが四国に住んでいた私と東日本大震災の距離感だった。
14年経った今年の5月9日、宮城県にある震災遺構「仙台市立荒浜小学校」を訪問した。とはいえそれだけを目的にわざわざ飛行機に乗るほど真面目な人間ではない。劇団四季の『キャッツ』を観劇しに行くついでだった。観光もするつもりだと講師室で休暇の予定を話したところ、他の社員講師が「震災遺構」の存在を教えてくれたのだ。実物を通して悲劇の記録に向き合う時間の重みは広島の平和記念資料館で実感していたので、すぐさま旅程に組み込んだ。
本題の前に仙台市への印象を述べると、「人口密度がちょうど良い都市」といったところだ。特に仙台駅周辺は娯楽がそれなりに充実しつつ、通勤ラッシュの時間帯でもストレス無く過ごせる状態に好感を持った。データを検索してみたところ、都道府県別の訪日観光客数ランキングで伸び率においては全国4位の一方で、数じたいは10位以内にも入っていなかった。実際、シンボル的な「伊達政宗公騎馬像」がある仙台城本丸跡にも外国人旅行者の姿は無かったと言っていい。代わりに歴史系のアニメキャラのぬいぐるみと共に記念撮影する日本人を見かけたものの、それもチラホラという程度だった。しかし、だからなのか、代表的な観光地の最寄り駅のほとんどがバス停なのに、良くて40分に1本しか来ない運行状況には愕然とした。(徳島市内でさえ10分に1本なのに!)荒浜小学校の場合は地下鉄東西線の荒井駅からバスで15分はかかるものの、駅からは1時間に1本だけだった。時刻表を前にしばし途方に暮れたものの、翌日の観劇に備えて体力をなるべく温存しておきたかったのと、ダイヤをろくに確認して来なかった自分に責任があると言い聞かせて仕方なくタクシーを利用することにした。
結果的には一人で郊外の町を歩くよりもずっと有益な時間を過ごせた。旅行先でタクシーの運転手から教えてもらうおすすめの店やお出かけスポットに外れは無い、という話をたまに聞くが、口下手な私にとっては夢物語のようなものだった。また、去年の春に遊びに行った京都で腰痛に耐え切れず乗り込んだタクシーに良い思い出が無かったのも少なからず影響していた。河原町から京セラ美術館まで運んでほしいとお願いしたところ、ドライバーさんからはやや不満げな反応が返ってきた。その直後に10分ほどの道のりを無言で飛ばしていたところを見るに、さほど運賃がかからない近距離に時間を取られることが嬉しくなかったのではないだろうか。1日にさばくべき数が他の都道府県とは桁違いのはずだろうから彼の気持ちは分からなくもなかったが、「タクシーはむやみに使ってはいけないんだな」という後ろめたさに近い気持ちが私の中に残った。そして、肝心の仙台市のタクシー運転手は、私がこれまで出会ったことの無いタイプの人たちだった。当日は東北大キャンパスから仙台城跡に向かう際にも違う会社のドライバーさんにお世話になったのだが、ふたり共に「短い乗車時間でもお客に有益な情報を提供しよう」という心遣いを感じたので、そういう土地柄である可能性が高い。降りる際に「お金が勿体無いね」と笑いながらバスの時刻を教えてくれるくらいだ。仕事における「ゆとり」の適切なあり方だと思う。
さて、荒浜小学校までの道のりに話を戻す。出発後5分ほどは住宅街を進んだ。何も考えずにぼんやり座っていると、「ここら一帯は被害規模が比較的小さかったので、復興住宅が集中しているんですよ。荒浜地区で被災した方々が住まれています。」と教えてくれた。改めて見てみたところ、確かに築年数が浅い綺麗な一軒家が多い。風景の「意味」が立ち上がってきた瞬間だった。しばらくして整然とした家々の横を通り過ぎると今度は田園地帯に入った。2011年当時は「畑の塩害と瓦礫のせいで農業どころじゃなかった」ものの、綿の栽培を通して1年かけて地力を回復させたらしい。ちなみに後で調べて知ったことだが、その過程で育った綿の茎は「東北コットンCoC」という紙の原料にもなるので、打撃を受けた農家の収入源確保に向けた取り組みでもあるのだ。解説に相槌を打ちながら窓の外を眺めていると「ここから過去の津波浸水区間」の標識が視界に飛び込んできた。その時になって初めて、自分が被災地にいるのだと実感して思わずどきりとした。さらに追い打ちをかけるかのように、車のフロントガラスの遠く向こうには松の木(かつては防災林だった)がまばらに並んでいた。報道映像で繰り返し目にしてきた光景だ。思わず「そう、あれ!」と声を上げてしまった。原爆ドームを前にした時と同じような、歴史上の重要な1ページがめくられた現場に足を踏み入れたことへの感慨が湧いてきたからだ。感動すら覚えていたと言ってもいい。未曾有の出来事に対して部外者だからこそ抱ける場違いな感情だ。
そうこうしているうちに目的地に到着した。海岸から約700メートル地点に位置しているそこは資料館としての役割も担っている。あの日、4階建ての小学校には2階まで海水が押し寄せてきたが、全校生徒と教職員、そして地元住民の合わせて320名は屋上で難を逃れることができた。館内で上映されていた、元校長の川村孝男氏と近所で暮らしていた町内会長の方へのインタビュー映像によると、川村氏が2011年以前から独自に行っていた避難訓練の見直しが功を奏したとのことだった。当時の公立校では地震を想定して障害物が少ないグラウンドに出てから耐震性に優れた体育館に移動するという「二段階方式」が一般的だったが、度々津波に襲われてきた過去を語り継いできた高齢者からの意見を取り入れ、屋上に直行するルートに変更しておいたのだ。東日本大震災より前に現地で大規模な天災があったのは明治期である。大半の住民が津波に対して現実的なイメージを抱けなくなっていたであろう中で通例主義に陥らなかった、当時55歳の川村氏の英断には尊敬するしかない。小学校からさらに200メートルほど進んだところには「荒浜地区住宅基礎」という震災遺構もある。先述のドライバーさんから「絶対に見に行ってください」と念押しされていたのもあり、潮風に吹かれながらえっちらおっちら足を運んでみた。そこには津波の直撃により土台が一部しか残らなかった住居の無残な姿があった。敷地を一周しているうちに「南海トラフ巨大地震なんてどうせ来ないでしょ」と決めつけている自分が徐々に浮かび上がってきた。2018年の大阪北部地震で少しばかり不便を被った程度の経験しか無い私は楽観的すぎるのではないか。防災に関しては見聞を自身の生活に落とし込みやすいのだから行動するしかないと心に決めた。
1999年に「2011年3月に大震災が起こる」と予見していた漫画が注目を集めている。それによると今年の7月5日に再び天災が訪れるらしい。作者は神からの預言を綴ったとのことなので、科学的根拠のへったくれもないオカルト作品ではあるものの、来るべき日に備える上での個人的な「期限」として捉えて物資を集め始めたのが最近の変化である。