
2026.02.13Vol.85 たいせつな曲線(三浦)
高校時代からずっと同じ整体院に通っている。高校生の時に姿勢の悪さやその他諸々が原因で、右足首が非常に痛むようになり、それを治してもらいにいったことがきっかけだった。学校ではちょうど持久走の時期で、診断書と共に先生に掛け合い、どうにか歩いて最低限でも出席と評価をもらおうとしたものの、それまでの欠席が響いて単位を落としたことを未だに覚えている。あとは足首の痛み自体より、不自由なせいで階段にぶつけてつま先を出血した方がショックだったことなんかも印象的だった。というか、姿勢の悪さで足首にダメージがいくのかと、その点もなんだかショックだった。
人の身体の癖というものはなかなか治らず(癖や歪みはあっても仕方ないらしい)、それ以降の付き合いになる。もうかなりの年数を通っていること、そして親子ともども世話になってきていることもあって、先生ともそれなりに懇意にしてもらっている。大学生くらいまでは「背骨と骨盤がおかしいことになっているね」と月に一度くらいは矯正してもらっていたのだが、最近は「そこまでおかしいことになっていないね」と、ふた月に一度メンテナンスに行く程度に収まってきた。ようやく少しずつ身体がうまく使えるようになったのかもしれない。大学時代までに比べれば健康面でもかなり良くなってきているので、成長にともなって少しずつ体力がついてきたのだろう。
とはいえ身体の緊張は昔からあまり変わらないので、夏期講習や受験などの大きなイベントごとの前後にはよく世話になる。自然と会話もそういった話になり、勉強や受験のこと、そして大学のことなどの話題が施術中にのぼるようになる。塾にいると感覚がわからなくなることも多いが、「受験」というものの必要性をさほど感じない人も世の中にはもちろんいて、先生がそういう人だった。
「大学でやったことって仕事に生きてるん?」
その折によく問われることなのだが、いつもどう答えたものかと考える。私個人としては「じゅうぶんに生きている」のだが、それが世間一般的だとは思わない。
私は文学部の、特に日本文学の専攻だった。リベラルアーツとして他の基礎の講義も受講はしたものの、やはりメインは日本文学研究である。一般的な仕事ではたして生きるだろうか。私からすると、そんなことはないと思う。文学史や文士の人生が、そのままビジネスに使える気はしない。エッセンスとして生き様を取り上げたり、格言を座右の銘にしたり、歴史の中に活路を見出したりはできるだろうが、直接的なものではないだろう。
そう思うと、私の場合はかなり特殊だ。国語の塾講師。研究職を除けば、これほど専門的に文学のことが役立つこともあまりないだろう。なのでいつも、「私の場合は役に立っているけど、他はそうでもないんじゃないかな」というやんわりとした答えになっている。
世間話としてはそこで終わってもいいのだろう。しかし、例えば大学受験前の生徒に同じことを問われたときにも、同様の答えで終わらせていいのだろうか。特に文系の分野においては、よく、仕事から逆算して学部を選ばないようにと伝えている。就職先のグラフなどを見ていると、とてもではないが直結しているとはいえない学部の方が多いからだ。私の数少ない同学科の友達を見ても、冠婚葬祭業界や食品業界、あるいはゲーム業界への就職と、なかなか多岐にわたっている。ただ、逆に言えば「文学を研究していても、そういった職に就ける」のだ。あれだけさまざまに「なんの役に立つのか」と言われている文学でさえも。
そう考えると、「大学での学びは仕事に生きるのか」という問いの答えは、やっぱり「あんまり関係ないかもしれない」「生きてはこないかもしれない」、になるのだろう。でも、「大学での学びがその先の人生に生きるのか」という問いであれば、「いつかは生きることもあるし、生かしようもある」と答えられる。例え私はこの職についていなかったとしても、文学館を目的に遠方に足を運んでいただろうし、その時に受けた大学の講義に思いを馳せていただろう。あるいは論理学が壊滅的にできずに単位を落としたことが影を落として、やり直してみようと思い立っていただろう。世間話に講義の知識がのぼることも、もちろんあるだろう。
直接的に、まっすぐ、その先の人生に繋がることは少ないかもしれない。でも、それこそじっくりと時間をかけて、何かが芽を出す日が来るだろう。体がすぐに矯正されることがないように、思考が変わるにも、知識が根付くにも、きっと時間がかかるのだ。そんな長いスパンで人生を捉えられるのか。それは難しいけれど、短い捉え方だけになってしまわないようにしてあげたい。








